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週刊スモールトーク (第46話) リンドバーグ(2)~誘拐事件~

カテゴリ : 人物

2006.05.12

リンドバーグ(2)~誘拐事件~

■栄光

チャールズ・リンドバーグは、大西洋単独無着陸飛行により、歴史にその名を刻んだ。その偉業は人類の歴史がつづくかぎり、語り継がれるだろう。ところが、この時がリンドバーグの人生の頂点だった。その後、彼には栄光と同じほどの苦しみが待ち受けていたのである。

1927年5月21日、リンドバーグがパリのル・ブルジェ空港に降り立ったとき、15万人もの市民が出迎えた。小さな都市の人口に匹敵する観衆である。さらに、1927年6月11日、アメリカ大統領クーリッジは、この偉大な英雄をニューヨークまで運ぶために軍艦を送り込んだ。

帰国後、ニューヨークで行われた祝賀パレードでは、天をおおいつくすほどの紙吹雪が舞った。さらに、リンドバーグは予備役少尉から一気に大佐に昇進。その後、世界中の国々が彼を招待し、その功績を讃えた。1931年8月26日には、日本の霞ヶ浦にも立ち寄っている。リンドバーグは20世紀最大の英雄に上りつめたのである。

天は二物を与える、リンドバーグもその1人だった。憂いのある上品な顔立ち、190cmを超える長身、謙虚で真摯な立ち振る舞い。人々は、この完璧な青年に異常な関心をよせた。リンドバーグの関連グッズは飛ぶように売れ、彼が行くところ、新聞記者や民衆の人だかりとなった。リンドバーグがレストランで食べ残した残飯があさられたというエピソードもある。この時代は、やがて始まる世界大恐慌の前夜で、バブル経済の絶頂にあったが、そんな時代背景も一因になったのかもしれない。

■困惑

当時、マスメディアの中心は新聞で、各新聞社は激しい報道合戦を繰り広げていた。中でも新聞王ウイリアム・ハーストは、その恥知らずな手法で悪名をとどろかせていた。ゴシップやでっちあげ、いわゆる「イエロージャーナリズム」のはしりである。ハーストは、40もの新聞社を所有し、やりたい放題だった。もちろん、他の新聞社も負けてはいない。大衆が飛びつきそうな面白いネタを求め、法律スレスレ、ときには破って、取材に奔走した。

そんな中、チャールズ・リンドバーグは新聞社の格好のネタになった。リンドバーグの家におしかけ、のぞき、侵入、ゴミ箱漁り、盗聴、なんでもあり。ジャーナリズム先進国を標榜するアメリカも、かつてはこんなものだった。

ジャーナリズムに限らず、事の始まりは「混乱」から。議会制民主主義の鏡とされるイギリスでさえ、昔はひどいものだった。選挙の前日には、候補者をかつぎ上げた群衆がロンドンの町をねり歩き、候補者同士が遭遇しようものなら、取っ組み合いのケンカが始まった。新しい仕組みに混乱はつきものだが、長い年月を経て、徐々に洗練されていくのである。

さて、欲に駆られたハーストは、さらなる金儲けをもくろむ。リンドバーグに50万ドルを積み上げ、映画出演を申し込んだのである。ところが、リンドバーグは破廉恥なハーストが大嫌いだった。結局、この話は破談になったが、ハーストの攻勢はさらに続く。ある時、リンドバーグとハーストに思いもよらぬ接点が生まれた。ハーストのなりふり構わぬ報道がメキシコ政府が怒らせ、アメリカ政府とメキシコ政府は一触即発の状態に陥った。

そこで、リンドバーグはメキシコを訪問、この偉大な英雄のおかげで、メキシコ政府の怒りもおさまり、事なきをえた。リンドバーグはハーストの尻ぬぐいをしたのである。リンドバーグは私生活まで大衆とマスコミにさらされたが、悪い事ばかりではなかった。

1929年、世界は未曾有の大恐慌に突入したが、不況がリンドバーグに及ぶことはなかった。複数の会社からの顧問料に加え、講演料まで入ったからである。それもこれも有名人だから。またこの年、リンドバーグはアン・モローと結婚したが、アンはパイロットとしての技術を身につけ、リンドバーグとともに空を飛んだ。騒々しい記者たちも、空までは追ってこれない。大空は2人にとって、唯一の安らぎの時空だった。

■誘拐

1932年3月1日、リンドバーグ家に突然不幸が襲う。1才の息子チャーリーが誘拐されたのである。5万ドルの身代金が要求されたが、その脅迫状に初歩的なスペルミスが見つかった。このことから、犯人が英語に不慣れな移民と推定された。その後、犯人との交渉は、ニューヨークアメリカン新聞が行ったが、70日後、自宅から5km離れた林で、息子チャーリーの死体が発見された。最悪の結末だった。

こうして、貪欲な新聞社と大衆にとって、新たなネタが生まれた。あろうことか、リンドバーグと妻アンの悲しみを謡ったレコードまで発売された。ハーストの新聞も負けていない。息子チャーリーの腐乱した死体を撮影し、リンドバーグの怒りをかった。この一連の社会現象は、資本主義のいびつな正体を暴露している。悲惨な誘拐事件も金儲けのネタにしかならず、またそれを許すのが資本主義なのである。

1934年9月19日、誘拐事件は新たな展開をみせる。ブルーノ・ハウプトマンというドイツ系アメリカ人が、身代金の番号と一致したお札をガソリンスタンドで使ったのである(身代金の番号はすべて控えられていた)。ハウプトマンはすぐに逮捕されたが、彼はその金は死んだ友人からもらったと弁明した。信憑性も説得力もなく、彼の状況は日に日に悪化していった。さらに、ハウプトマンは不法入国者であり、犯罪歴もあった。1935年1月2日、裁判が始まったが、ハウプトマンの有罪は初めから決まっていた

なぜか?

アメリカ中がそれを望んでいたからである。この誘拐事件を裁く裁判で、ハーストの新聞は恐ろしい陰謀を企てた。被告人ハウプトマンの妻アンナに弁護士費用を出すみかえりに、独占取材を申し出たのである。そして、ハーストが雇ったのは、およそ勝つ見込みのないアル中の弁護士だった。ハウプトマンを確実に有罪にもちこみ、大衆を喜ばせるためである。

1935年2月13日、裁判は結審する。誰もが期待し、予想したとおり、ハウプトマンは第一級殺人で有罪、翌年には死刑が執行された。こうして、リンドバーグジュニア誘拐事件は一件落着したかのようにみえた。ところがその後、妙なウワサが流れた。ハウプトマン冤罪説である。冤罪を主張する本も多数出版され、中には父親のリンドバーグ犯人説まである。事の真相はともかく、この誘拐事件は思わぬ副産物を生んだ。複数州にまたがる誘拐犯行は連邦犯罪とする、いわゆる「リンドバーグ法」が成立したのである。

とはいえ、リンドバーグ夫妻にしてみればもう終わったこと。それに、アメリカ中どこを捜しても、二人の居場所はなかった。大衆からあびせられる好奇の視線、言動は金儲けのネタにしかならない。こうして、リンドバーグと妻アンはアメリカを去ることにした。

■移住

1935年12月、リンドバーグとアンはロンドンの郊外に居を構える。彼らは次男とともに、かつてない安らぎを得た。ところが、それも長くは続かなかった。人は皆、生まれながらに背負った運命(ほし)がある。リンドバーグのそれは、波瀾万丈だった。

ある日、ドイツのアメリカ大使館からリンドバーグに、ドイツ空軍を視察するよう連絡が入ったのである。当時ドイツは、すでにヒトラー政権下にあったが、この国でもリンドバーグは英雄だった。1936年7月22日、リンドバーグは、ベルリンのドイツ政府を訪問する。出迎えたのは、ドイツのナンバー2のヘルマン・ゲーリングである。

彼は、第一次世界大戦中、「鉄人ヘルマン」の異名を取る名パイロットだった。そのゲーリングが自らリンドバーグを出迎えたのである。こうして、リンドバーグはドイツ空軍を見聞する機会を得た。リンドバーグの目を引いたのは「メッサーシュミットBF109」だった。ドイツが誇る名戦闘機で、歴史上初の全金属製である。

じつは、それまでの飛行機は軽量化のため、木材、布も使われた。日本では第二次世界大戦中、松下電器(現パナソニック)が木製飛行機を試作している。ウソのような話だが本当だ。全金属製のメリットは、防御力ではなく、じつは攻撃力にある。機体の剛性が高いため、高速飛行に耐えられるからだ。

「メッサーシュミットBF109」は1100馬力のダイムラーベンツ製エンジンを搭載し、時速570kmという世界屈指のスピードを誇った。メッサーシュミットのパイロットたちは、敵を発見すると全速力で接近し、一撃、ただちに離脱する戦法を得意とした。加速が良いので、敵機はこの攻撃に対応できない。さらに、離脱するメッサーシュミットに追いつくこともできない。実際、イギリスが誇る名機スピットファイアーでさえ、全速離脱するメッサーシュミットに追いつくことはできなかった。これは、撃墜する確率が高く、撃墜される確率が低いという、理想の戦闘機を意味する。

第二次世界大戦が始まると、メッサーシュミットBF109の優秀さは、数字となってあらわれた。撃墜王ランキングをドイツ空軍パイロットが独占したのである。ナンバーワンは、エーリッヒ・ハルトマンで、撃墜数は352機。他国の撃墜王と比べても、1桁多い。というか、化け物である。そして、このハルトマンの愛機こそメッサーシュミットBF109だった。

ハルトマンは、宙返りを繰り返すいわゆる空中戦(ドッグファイト)はやらなかった。彼の戦法は、発見される前に敵を発見し、エンジン全開で衝突寸前まで接近、一撃を浴びせ、全速力で離脱する。彼の傑出は、いち早く敵機を発見できること、敵機に触れるほど接近できることにあった。その分、命中率は劇的に向上する。

フライトシミュレータの体験からすると、敵機との距離が100mぐらいで、機銃を撃ってしまう。だが、この距離ではなかなか命中しない。敵機も動いているのだ。もっとも、ハルトマン戦法にも欠点があった。敵機に近づきすぎて、破壊された敵機の破片で自機も破損したのである。実際、ハルトマン機の損害のほとんどがこれで、そのたびに、パラシュートで脱出しなければならなかった。

話をもどそう。

リンドバーグはドイツ空軍をつぶさに視察した。そして、ドイツの航空技術と航空産業は2、3年のうちに、大人になると予言したのである。また、リンドバーグを感激させたのは、空軍ばかりではなかった。首都ベルリンは第一次世界大戦の傷跡から復興すべく、町は活気であふれていた。リンドバーグはこう語っている。「ヒトラーは偉大だ。彼には狂信的な面もあるが、狂信的なことがないと、これほどの偉業はなしとげられない」もちろん、この発言は後にリンドバーグの大きな汚点となる。

■戦争

やがて、第二次世界大戦がはじまったが、ドイツの優勢はあきらかだった。

ヨーロッパ諸国が次々とドイツに占領されていく。アメリカ大統領ルーズベルトは、イギリスを救うためにも参戦したかった。ところが、アメリカ国民にとっては、ヨーロッパの戦争は他人の戦争。実際、国民の80%が参戦に反対だった。ルーズベルトは、参戦がムリなら、せめて軍需物資ぐらいイギリスに供与したいと考えた。ところが、アメリカには武器供与の中立法があり、それもできない。それでもルーズベルトは苦心惨憺し、イギリスに中古の駆逐艦をはじめ軍需物資を供与した。

一方、リンドバーグは、アメリカが第二次世界大戦に参戦することに反対だった。反戦派の広告塔になっていたほどである。そして、参戦派のルーズベルトを公然と非難した。怒ったルーズベルトはこう吐き捨てたと言う。「あの男の翼をもいでやる」リンドバーグは、次期大統領候補のうわさが立つほどになったが、ひょんなことから、運命は逆回転を始める。

ドイツにいた頃、政権ナンバー2のゲーリングから勲章をもらったことで、非難をあびたのである。さらに、リンドバーグはユダヤ人も非難した。「映画界をはじめ、どの世界でもユダヤ人が支配している」この発言は致命的だった。アメリカ中から大きなブーイングで応えられ、リンドバーグの人気は失墜した。図書館からリンドバーグの本は消え、リンドバーグの名を冠した町は次々と改名された。

1945年4月11日、アメリカ大統領ルーズベルトが死に、その18日後、ヒトラーも自決した。こうして、リンドバーグゆかりの人物が次々とこの世を去っていった。

■晩年

リンドバーグは科学を愛し、その象徴である飛行機を駆って、あの歴史的偉業をなし遂げた。ところが、晩年、リンドバーグは文明を避けるようになった。野生動物の保護に執念を燃やしたのである。特に、フィリピンに生息する水牛タマラオの保護に大きな貢献をしている。あのマルコス大統領を動かして、特別保護区を設定し、タマラオを絶滅から救ったのである。

その後、リンドバーグは、ほとんどの時間をフィリピンで過ごした。電気もガスもない原始的な生活。その頃、撮影された写真が残っている。リンドバーグは裸の現地人といっしょに写っているのだが、周囲に驚くほどとけ込んでいる。しかも、その笑顔が美しい。素晴らしい写真である。

1973年、リンドバーグは悪性のリンパ腫におかされた。翌年、ニューヨークの病院に入院するが、その後、ハワイのマウイ島に移り住んだ。そこで、リンドバーグは最後の4年間を過すことになる。死を悟ったリンドバーグは最後の仕事にとりかかった。自分の棺桶と墓のサイズを決めたのである。さらに、葬儀に歌う賛美歌まで指示した。かつて「大西洋単独無着陸飛行」をなし遂げた緻密な性質は最後まで失せることはなかった。

1974年8月26日、チャールズ・リンドバーグ、72歳で永眠。葬儀の参列者はわずか14人だったという。リンドバーグは、最期が迫ったとき、娘にこんな言葉を残している。「わたしは死とケンカをしているわけじゃない。死は最後の冒険だ」リンドバーグらしい言葉であった。

《完》

by R.B

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