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週刊スモールトーク (第44話) V2ロケット(3)~ヴェルナー・フォン・ブラウンの夢〜

カテゴリ : 戦争科学

2006.04.28

V2ロケット(3)~ヴェルナー・フォン・ブラウンの夢〜

■一葉の写真

ここに一葉の写真がある。モノクロの古めかしい写真だ。いかめしい表情をした数人の男たちが写っている。写真中央の青年は、ひときわ若くハンサムだ。骨折したのだろう、左腕は包帯で巻かれている。

これはフォン・ブラウンらV2ロケット開発チームがアメリカ軍に投降した時の写真である。この写真は我々に歴史的メッセージを投げかける。歴史上初の大陸間弾道ミサイル、それを成功させたチームが、その後、アポロ計画で人間を月に送り込む。

この歴史的な写真を見るたびに、いつも複雑な思いにかられる。理由は、白い包帯と自信に満ちたフォン・ブラウンの表情だ。このとき、どうしてこんな表情ができたのか、いまだに理解できない。この後、フォン・ブラウンには輝かしい第2の人生が待っていた。彼が作ったサターンロケットは、歴史上初めて人間を月に送り込み、その偉業は歴史年表に刻まれた。

しかし・・・

ドイツの強制収容所からかり出され、V2ロケットの工場で死んだ数千人の労働者は、1945年のノルトハウゼン地下工場に置き去りにされたままだ。この犠牲者の数は、V2ロケットの直撃で死んだ犠牲者数をはるかに上回る。

■V2ロケットの終焉

1944年6月6日、歴史上有名な作戦が始まった。ノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)である。ノルマンディーに殺到した連合国軍は、ドイツの占領地を次々と奪還していった。ドイツの軍事ラインは内陸におしかえされ、V2ロケットの発射位置も後退、やがて、ロンドンはV2ロケットの射程距離外になった。ロンドン市民は、V2の恐怖から解放されたのである。

一方、ドイツはこの劣勢を挽回すべく、新たな計画をスタートさせる。V2ロケットを改良し、ロンドンを攻撃しようというのである。この新型V2ロケットは、「A-10」とよばれ、射程距離は300kmから500kmへ、ペイロード(弾頭)も1トンから4トンと大幅に増量された。

問題は、大きな推進力をどうやって得るか?射程距離300kmでさえ、気の遠くなるような失敗を繰り返したのである。だが、フォン・ブラウンらは画期的なアイデアを思いつく。現在でも使用されている多段ロケットである。ところがこのアイデアは机上の図面から飛翔することはなかった。

射程距離を伸ばすために、さらに大胆な方法も考案された。V2ロケットをドイツ潜水艦Uボートで運び、海中から発射するのである。この計画は1944年11月からスタートした。潜水可能な大きな筒の中にV2ロケットを格納し、Uボートで沿岸まで曳航する。発射地点に到着した後、この筒を垂直に持ち上げ、その頭部を海面上に出し、V2ロケットを発射する。現代のミサイル型原子力潜水艦そのままだが、完成する前に、連合国軍に基地を占領されてしまう。ドイツの敗戦はすぐそこまで来ていた。

■ドイツ人の光と影

この頃、フォン・ブラウンの関心事は第2の人生に移っていた。祖国を捨てて亡命しようというのである。敗戦でズタズタになったドイツにロケット開発の余裕はない。ロシアはドイツと血で血を洗う陸上戦を戦ったし、フランスはドイツに占領された。恨み骨髄だろう。残るはアメリカしかない。

一方、親衛隊は行方不明になったフォン・ブラウンらを捜し出し、殺害する命令を受けていた。一見非情にみえるが、国家の最高機密を他国に売り飛ばす方にも問題がある。私利私欲に走る売国奴、と言われてもしかたがないだろう。

1945年5月、フォン・ブラウンらは、盗んだ貨物車両にV2の資料を積み込み、アメリカ軍に投降する。自分の会社が倒産したとして、そのドサクサに紛れて、技術資料を持ち出し、かつてのライバル会社に売り渡すようなものだ。窃盗罪と国家反逆罪

一方、アメリカ軍はそれを承知の上で、フォン・ブラウンを徹底的に利用する。アメリカ軍はフォン・ブラウンから、V2ロケットの生産拠点ノルトハウゼン工場をつきとめ、大量のV2の部材を略奪することに成功する。アメリカ軍はV2ロケットの資材を列車につめこみ、オランダのアントワープまで輸送したが、その量は400トンにもなったという。

ちょうどその頃、ロシア軍もノルトハウゼンの工場に殺到したが、もぬけの空だった。わずかの時間の差が、その後の歴史を変えたのである。それでも、ロシア軍は残っていた生産技術者たちをロシアに連れ去った。その後、アメリカとソ連の間で、熾烈な宇宙開発競争が始まった。つまるところ、戦後の宇宙開発のDNAはV2ロケットだったのである。

アメリカ軍は、V2ロケットが未来のミサイル兵器につながることを見抜いていた。そのため、フォン・ブラウンら開発スタッフをアメリカに移住させることにした。この作戦はペーパークリップ作戦とよばれた。こうして、フォン・ブラウンは、念願の亡命を果たす。そして、このとき撮影されたのが冒頭の写真である。ギプスで固めた左腕を誇らしげに突きだすフォン・ブラウン。投降する時、こんな危険な目にあったというデモンストレーションなのか?この得意げなフォン・ブラウンの顔を見るたびに、V2ロケットの闇の歴史を思い出す。

フォン・ブラウンらが投降した後、ドイツ本国は地獄と化した。ベルリン市街戦で、多くのドイツ市民が命を落とし、多数の女性が陵辱された。ドイツの高官たちは次々と自決、あるいは殺され、絞首台でつるされた。多くの無実の人々が、ドイツ人というだけで、ドイツの罪を負わされたのである。ところが、フォン・ブラウンらはそんな罪に問われることもなく、その後もアメリカで大好きなロケット開発を続けることができた。芸は身を助ける、ということわざがあるが、フォン・ブラウンを思うとき、呪われた呪文のように聞こえる。

■その後のV2技術者たち

ドイツ国民が、戦後の辛酸をなめている頃、フォン・ブラウンらは豊富な物資に囲まれ、夢多き人生をおくっていた。1951年には、フォン・ブラウンは、アメリカのレッドストーン兵器廠に移され、戦術弾道ミサイル「レッドストーン」の開発に取りかかった。このミサイルは、4メガトンの核弾頭が搭載され、本格的な核ミサイル開発の幕開けとなった。フォン・ブラウンのV2ロケットは、歴史上最も呪われた核兵器の遺伝子となったのである。

その後も、フォン・ブラウンの頭上はいつも晴れわたっていた。フォン・ブラウンらは、レッドストーンを改良したジュピターCロケットを開発し、1958年1月31日には西側世界初の人工衛星エクスプローラー1号の打ち上げに成功する。さらに、1958年7月29日には、NASAが設立され、その2年後には、マーシャル宇宙飛行センターが新設された。フォン・ブラウンのチームはNASAに移籍し、フォン・ブラウン自身はマーシャル宇宙飛行センターの初代所長に抜擢された。まさに我が世の春。

マーシャル宇宙飛行センターのフォン・ブラウンの初仕事は、人間を月に送り込むこと。歴史上初の月旅行、フォン・ブラウンが長年追い続けた夢だった。1969年7月16日、ついに人類は月旅行に旅立つ。その打ち上げに使われたロケットこそ、フォン・ブラウンが設計したサターンV型ロケットだった。アポロ11号は打ち上げに成功し、月着陸船は無事月面に着陸し、歴史年表にその名を刻んだ。

1970年、フォン・ブラウンは、マーシャル宇宙飛行センターから、NASA本部の計画担当副長官補に任命された。ところが、唯我独尊、MyDream至上主義者のフォン・ブラウンはNASAとは相いれず、1972年6月に退職する。すぐに複数のオファーが舞いこんだ。彼が再就職先に選んだのは世界的な半導体メーカー、フェアチャイルド社だった。ポストは副社長。その後、米国宇宙協会を創設し、思いどおりの人生を生きた。

フォン・ブラウンは65歳でこの世を去ったが、技術者みょうりに尽きる人生だった。ドイツ、アメリカ、2つの大国を渡り歩き、自分の夢を叶えることができた。それも無尽蔵のヒト・モノ・カネを使って。フォン・ブラウンのV2ロケットは「殺戮と破壊」のため、サターンロケットは「国家の威信」のためにあり、世界人類の幸福のためにあるのではない。それでも、このようなチャンスが与えられたのだ。これが運命(ほし)というものなのだろう。歴史に「IF」はないが、あの時、フォン・ブラウンがドイツ親衛隊に殺されていたら、歴史はどうなっていだろう。

■フォン・ブラウン

フォン・ブラウンは、大量破壊兵器の開発に生き甲斐を感じるような人間ではなかった。晩年、米国宇宙協会を創立し、宇宙旅行への熱い夢を語ったが、パーフォーマンスでも偽善でもなかっただろう。一方、目的のためには手段を選ばない生き様は、さまざまの物議をよんだ。

ドイツ軍と手を結び、大量破壊兵器に手を染めた。V2ロケットの攻撃で、ロンドンやアントワープの多数の市民が犠牲になったが、その数倍もの強制労働者が、V2の生産工場で死んでいる。V2工場は、いわば形を変えた強制収容所だったのだ。もちろん、フォン・ブラウンはそれを知っていた。どうすることもできなかっただろうが。

また、第二次世界大戦末期、ドイツの敗戦が濃厚と見るや、祖国の国家機密を土産にアメリカに逃亡した。今度はアメリカで、宇宙ロケットの夢を追い続けたのである。技術者は作ることに責任があり、それが何に使われるかに責任を負わない。だから、フォン・ブラウンは無実。それを使った連中が悪いのだ?

そういえば、最近話題のWinnyの作者も同じようなことを言っていた。Winnyは悪くない、それを悪用するウィルスが悪いのだと。であれば、原子爆弾を作った連中が悪いのではなく、原爆を運んだパイロットやB29が悪いのだ?

じつは、第二次世界大戦中、V2ロケット開発に匹敵する国家プロジェクトがあった。広島と長崎に投下された原子爆弾を開発した「マンハッタン計画」である。原爆「リトルボーイ」は広島に投下され14万人が死亡、原爆「ファットマン」は長崎に投下され15万人が死亡した。たとえ戦争であろうが、どんな理由があろうが、一撃で都市の半分を破壊する行為が許されるはずがない。この問題は上空からではなく、広島・長崎の地上に立って考えるべきことだろう。そうすれば、真実が見えてくる。

この「マンハッタン計画」の技術責任者がオッペンハイマーだった。もちろん、彼も殺人罪に問われることはなかった。ここまでは、フォン・ブラウンと同じ。ところが、その後の二人の人生は真逆になる。

原子爆弾開発に成功したオッペンハイマーには、フォン・ブラウン同様の晴れがましい第2の人生が待っていた。ところが、彼はその人生を自らの意志で放棄する。広島、長崎の惨状を知った後、核開発に批判的になったのである。結果、すべての公職から追放された

一方、フォン・ブラウンは自らを恥じた形跡はない。常に自信に満ちあふれ、最後まで宇宙旅行の夢を追いつづけた。オッペンハイマーとフォン・ブラウンは同類であり、真逆でもある。この2人は同じ時代を生き、歴史に残る超兵器を開発した。ところが、その成功のあと、真逆の人生を歩むのである。

■兵器としてのV2ロケット

V2ロケットの飛行原理とテクノロジーは10年先を行っていた。プロペラ飛行機が時速500kmで地表をヨタヨタ飛んでいるとき、成層圏に達し、音速の3倍で飛行したのである。とはいえ、V2ロケットは兵器としては歴史的失敗作だった。そもそも、開発者のフォン・ブラウン自身、兵器には関心がなく、地球を脱出するロケットを作りたかっただけ。

V2ロケットは、現在の貨幣価値で2兆円の資金と、強制収容所の無尽蔵の労働者をのみこんだが、それに見合った兵器ではなかった。この壮大なプロジェクトは、物資の不足を深刻にしただけで、何も得るものはなかった。フォン・ブラウンの満足をのぞいて。

V2ロケットの兵器としての悪評の主因は破壊力。V2ロケットが、7ヶ月間かけて撃ち込んだ爆弾の量は、イギリス空軍の一晩の爆撃におよばなかった。さらに、V2ロケットの信頼性にも問題があった。V2は音速の3倍という超音速で大地に激突する。そのため、信管が作動する瞬間は、爆弾は深い土の中。地中深く潜ったあと爆発したのでは、タダの穴掘り爆弾?しかも、搭載された弾頭は、爆発力の低い60/40アマトール爆薬だった。ではなぜ、高性能爆薬を使わなかったのか?高性能爆薬は大気圏突入時の高熱に反応し、自爆するからである。

というわけで、兵器専門家のV2の評価は悪い。やはり、V2ロケットは無意味な兵器だったのだろうか?確かに、第二次世界大戦末期の連合国軍が、V2のような兵器を使うのは意味がない。爆撃機による空爆のほうが効率がいいからだ。ところが、ドイツの場合、この理屈は当てはまらない。戦争末期、ドイツは制空権を失い、ドイツ爆撃機が敵陣に到達することはなかったからだ。

V2ロケットは、マッハ3で超音速飛行するため迎撃は不可能だった。だから、トラブルがない限り、確実に着弾する。つまり、大砲よりも射程距離が長く、迎撃不可能という点で、V2ロケットは大砲と爆撃機を凌駕したのである。しかも、「迎撃不可能」はロンドン市民に多大な恐怖を与えた。V2ロケットは打撃力で問題はあったが、ドイツにとって他に選択の余地がなかったのだ。

■2つの超兵器プロジェクト

第二次世界大戦中、2つの歴史的兵器計画が存在した。マンハッタン計画とV2ロケット計画である。不思議なことに、この2つのプロジェクトには共通点がある。推進したのが、ドイツとアメリカという世界最強国であったこと。他国では実現不可能な超ハイテクだったこと。現在の貨幣価値で2兆円という途方もない予算を使い切ったこと。そして、人類の歴史を変えたこと。

そして、この2つのプロジェクトは第二次世界大戦後、最悪の形で融合する。マンハッタン計画の核爆弾が、V2ロケット計画のミサイルに搭載されたのである。こうして、「核ミサイル」という怪物が生まれた。いまや、核ミサイルは日用品のように世界中に散在している。しかも、人類を何度も絶滅させる破壊力を秘めて。我々は大量破壊兵器と寝食を共にし、全面核戦争の恐怖とともに暮らしている。だが、これもまた、人類の運命(ほし)なのだろう。

《完》

参考文献:
手島尚訳スティーヴン・ザロガ著「V-2弾道ミサイル1942-1952」大日本絵画

by R.B

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