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週刊スモールトーク (第432話) 歴史上の生まれ変わり(2)~乾隆帝と和珅~

カテゴリ : 人物歴史

2019.10.06

歴史上の生まれ変わり(2)~乾隆帝と和珅~

■史上最大の不正蓄財事件

18世紀、中国・清朝の和珅(わしん)は、前代未聞の「異業」を成し遂げた。一代で400兆円も貯め込んだのである(現代の貨幣価値で)。ただし、汗水垂らしてではなく、不正蓄財で。

不正蓄財といえば中国共産党の要人だが、10年間で摘発された額は数十兆円。日本の国家予算の半分という驚くべき額だが、和珅の足元におよばない。さすが、中国3000年の歴史!

だが、問題はそこではない。どうやったら、そんな大金を横領できるのか?

国が混乱期にあるなら、ドサクサ紛れに・・・もあるだろう。だが、事件の舞台は中国の清朝。古代ローマ帝国のパクス・ロマーナ(ローマの平和)に比肩するパクス・ダァチアーナ(大清の平和)なのだ。精緻な官僚制度が確立され、聡明で厳格な乾隆帝が統治していた。並大抵の悪事では、400兆円はムリ。

では、一体どうやったのか?

じつは、理由も原因もハッキリしている。和珅は、乾隆帝から異常な寵愛を受け、それを傘に着て、私利私欲の限りを尽くしたのである。その成果が400兆円ナリ。

さては、和珅は絶世の美女だった?

中国の歴史では、美女が皇帝から寵愛をうけて、やりたい放題、はよくある話。たとえば、世界三大美女の一人、楊貴妃。唐の玄宗皇帝から溺愛され、我が世の春を謳歌した。ところが、それが元で、悪いことがいろいろ重なり、王朝が傾いた。そのため「傾国の美女」とよばれている。

ところが、上には上がいる。春秋時代末期の美女、西施だ。なぜ「上」かというと、国が傾いたのではなく、国が滅んだから。国滅の美女・・・洒落にならないが、これを裏付ける証拠もある。じつは、西施は敵国を滅ぼすために送り込まれた人間兵器だったのだ。

■国滅の美女

紀元前5世紀、中国の春秋時代末期、下剋上がはじまった。周王朝は有名無実となり、中国封建制のカースト「王・諸侯・卿・大夫・士・庶人」が崩壊。家臣の卿・大夫が、主人の諸侯に取って代わることも珍しくなかった。一方、諸侯たちは中国の覇権を相争う。まさに、混乱の極み。中でもドラマチックなイベントが呉越戦争だ。

呉越戦争は、筋書きが波乱万丈で面白く、実史とは思えない。そのためか、多くの格言を生んだ。たとえば、呉越同舟(ごえつどうしゅう)。敵対する者同士(呉と越)が同じ舟に乗ったら助け合うこと。さらに、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)。薪の上で臥せたり(臥薪)、苦い胆(きも)を嘗めたり(嘗胆)、みずから苦しみを課して、復讐心を忘れないこと。

呉越戦争は、最終的に越が勝利したが、絶世の美女、西施の力が大きかった。西施は、越王の勾践(こうせん)が、呉王の夫差(ふさ)に献上した秘密兵器だったのだ。ただし、黒幕は越の天才軍師、范蠡(はんれい)。范蠡は、政治家、大商人、投機家の3つの人生で大成功したゲームの達人だった。中国で「陶朱公」は大商人の代名詞だが、じつは范蠡にちなむ。范蠡が投機家のとき「陶朱公」と名乗ったからだ。

西施の美しさは恐るべきものだった。一時病んで、故郷の村に帰ったときのこと。痛む胸を手でおさえ、眉をひそめて歩くと、それがえもいわれぬ色香があると、村人たちは噂しあった。その西施に、呉王夫差は骨抜きにされたのである。

この時期、呉は越を破り、越王勾践の命は呉王夫差の手中にあった。それでも、夫差は殺さなかった。西施に夢中で、勾践など眼中になかったのだ。一方、勾践は范蠡の教えを忠実に守り、国力を盛り返し、最終的に呉に勝利した。夫差は自害し、呉は滅んだのである。

というわけで、美女の力は絶大だ。国を傾けたり、国を滅ぼすのだから、400兆円の横領なんかチョロイもん?

ところが、和珅は男だった。乾隆帝が同性愛者だったという記録もない。さらに、和珅は乾隆帝の実子でもない。そして、ここが肝心、乾隆帝は和珅の不正を認識していたのだ。つまり、確信犯的に罪を許していたのある。パクス・ダァチアーナ(大清の平和)の最後を飾る名君が、なぜ?

■異例の大出世

論より証拠、まずは、和珅の不可解な出世ぶりをみてみよう。

和珅は、姓を鈕祜禄(におふる)、字(あざな)を致斎(ちさい)といった。家が貧しかったのか、生年ははっきりしない。

1769年、世襲職の三等軽車都尉を継いだ。1772年には二等侍衛に昇進し、宮廷勤めとなった。侍衛(じえい)とは、貴人の護衛である。その頃、乾隆帝の目に止まったようで、以後、大出世がはじまる。

①1775年11月、御前侍衛(侍衛の最高位)に昇進。

②1776年3月、軍事行政上の最高機関である軍機処の軍機大臣。

③1776年4月、内務府(宮廷事務)の長官の総管内務府大臣。

④1776年11月、実録編纂に従事する国史館の副総裁。

⑤1776年12月、総管内務府三旗官兵事務。

⑥1777年10月、満州八旗の警察権と裁判権を掌握。

「満州八旗」とは、清朝を支配する満州人の母体組織。護衛からたった2年で、支配民族の生殺与奪権を握ったわけだ。

羽の生えたような超高速出世で、並の寵愛ではムリ。

さらに謎がある。和珅は、罪が暴かれても、塀の内側に落ちない。塀の外で出世を続けたのだ。しかも、そのたびに、位が上がっていく。そのありえない「七転び八起き」ぶりをみていこう。

1778年、和珅の悪事が発覚し、2級降格された。ところが、どういうわけか、北京の税関の税務監督に就く。さらに、1779年に御前大臣、1780年に戸部尚書、議政大臣、10月に四庫館正総裁と次々と昇進、理藩院尚書をも兼任する。こうして、和珅は、宮廷に入ってわずか8年で、大臣にまでのぼりつめたのである。その間、罪を得たにもかかわらず。

さらに・・・

1781年4月、甘粛で謀反事件が発生した。和珅は欽差大臣として遠征したが、そのとき、再び罪に問われる。領侍衛大臣・海蘭察(ハイランチャ)らの戦功を詐称したのだ。ところが、3級降格になったにもかかわらず、職は留任。しかも、すぐに北京に戻され、11月には兵部尚書を兼ね、12月には戸部三庫事務の管理を任された。一体どうなっている?

さらに、さらに・・

1786年6月、御史の曹錫宝(そうしほう)が、奢侈を理由に和珅を弾劾した。証拠も十分だったのに、乾隆帝の鶴の一声で、和珅は許された。しかも、あろうことか、告発した曹錫宝の方が罷免されたのである。同年、和珅は文華殿大学士に昇進、吏部、戸部の事務をも兼ね、その権勢はさらに増大した。「えこひいき」どころではない。

そして、和珅はついに頂点に登りつめる。1780年5月、乾隆帝は、娘の公主・固倫和孝(こりんわこう)を、和珅の子に娶らせたのである。和珅親子は皇族の縁戚になったわけだ。

まるで、中国ドラマだが、すべてノンフィクション(史実)である。寵愛の火力が常軌を逸していて、説明がつかない。前例のない出世もさることながら、罪が帳消しになるのも理解できない。降格されているので、乾隆帝も和珅の罪を認めていたのだろう。乾隆帝が情に厚かったわけではない。父の雍正帝より、はるかに家臣に厳しかった。厳格で知られた父の雍正帝さえ、死を免じた曾静(そうせい)と張熙(ちょう き)を、一族もろとも処刑したのだから。

つまりこういうこと。

和珅の大出世は、すべて帝の引きによる。とすれば、帝が愚者か、情にもろいか。ところが、乾隆帝はどちらもでない。パクス・ダァチアーナ(大清の平和)の最後を飾る名君なのだ。だから、説明がつかないのである。

■和珅が許された理由

とはいえ、不自然なものには理由がある。この世界は精緻きわまる因果律で編まれている。だから、原因のない結果などないのだ。

では、乾隆帝の異常な寵愛は?

史書に、その理由をほのめかす逸話が残されている(※)。

乾隆帝が即位する前のことだ。帝は、父の妃が部屋で髪をとかしているのを見かけた。そのとき、イタズラ心がわき、後ろから両手で妃の目をおおった。驚いた妃は、クシで背後をはらい、帝の額を傷つけてしまう。

翌日、母后は帝の傷に気づき、理由を問いただした。帝は妃をかばおうとしたが、母后の剣幕におじけづき、事実を話してしまった。結果、妃は死をたまわった。自分のイタズラが、妃を死に追いやったのだ。帝は悔やんでも悔やみきれなかった。気がついたら、妃の亡骸の前に立っていた。帝は、自分の指を赤く染め、妃の首に印をつけ、こう念じた。

「わたしがなんじを殺したのだ。20年後に、再びわたしの前に現れますように」

それから数十年経って、乾隆帝の前に現れたのが和珅だった。風貌は亡き妃にそっくりで、首には赤い印があった。数十年前、帝がつけた赤い指痕である。帝は、和珅こそが亡き妃の生まれ変わりだと信じ、異常な寵愛を注いだというのだ。

「生まれ変わり」の真偽はともかく、乾隆帝がそう信じたとすれば、筋が通る。

ではなぜ、乾隆帝は「生まれ変わり」を信じたのか?

乾隆帝は儒教を信奉し、仏教を信じなかった。「生まれ変わり」は仏教の教義である。肉体が滅んでも、魂は不滅と考える。一方、儒教に「生まれ変わり」はない。そのかわり、血族や親族、つまり「血」のつながりを重んじる。肉体が滅んでも、血は不滅というわけだ。だから、乾隆帝が、初めから「生まれ変わり」を信じていたと思えない。「妃の死」が原因と考えるのが自然だろう。

ところで、その後、和珅はどうなったのか?

栄枯盛衰は世の習い、人の常、哀れな最期をとげる。

1795年、乾隆帝は、子の永琰(えいえん)に生前譲位した。嘉慶(かけい)帝である。新帝は、かねてより和珅の専横を苦々しく思っていた。ところが、乾隆帝の庇護があったので、手が出せなかった。

1799年正月、乾隆帝は崩御した。嘉慶帝はただちに、和珅を捕らえ、罪状を調査させた。罪状は20を超え、凌遅刑(りょうちけい)と決まった。凌遅刑は、中国と朝鮮半島で、古くから行われた公開死刑である。肉体を少しずつ切り落としながら、長い時間をかけて、死に至らしむ。罪人を辱め、最大の苦痛を与える、恐ろしい極刑である。しかし、乾隆帝の喪中であったため、刑は軽減された。

1799年2月22日、和珅は自害して果てた。財産はすべて没収、400兆円は国庫にもどったのである。

参考文献:
(※)週刊朝日百科 世界の歴史 98 朝日新聞社出版

by R.B

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