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週刊スモールトーク (第429話) 生まれ変わりと最後の審判

カテゴリ : 思想歴史終末

2019.08.25

生まれ変わりと最後の審判

■輪廻転生

「生まれ変わり」の歴史は古い。それが本当かどうかはさておき。

生まれ変わりは「不老不死」を実現する方法だ。人間は、死ぬと魂が新しい肉体にのりうつり、別の人生を歩む。そして、死んだら、また新しい肉体と人生へ・・・それが延々と続く。一つの魂と無数の人生。ただし、人生は連続していない。

生まれ変わりの概念は、西洋と東洋で独自に生まれた。3世紀頃、地中海世界で、新プラトン主義、ヘルメス主義、グノーシス主義が成立した。そこに「生まれ変わり」が出てくるのだ。扱いは「添え物」だが。

一方、生まれ変わりを哲理の中心にすえる体系もある。古代インドのウパニシャッド哲学だ。ウパニシャッド哲学は、紀元前5世紀頃、インドで成立した。形式化・儀礼化したバラモン教を批判する運動として。

「ウパニシャッド」は、サンスクリット語で「奥義書」を意味するが、文字どおり奥が深い。「宇宙の原理」を追求する原理主義、古代インドの宗教革命といってもいいだろう。

ウパニシャッド哲学の生まれ変わりは、輪廻転生(りんねてんしょう)といった方がわかりやすい。「転生」とは、命あるものが人や動物に生まれ変わること。「輪廻」は転生が廻転するように繰り返すこと。ただし、永遠に続くわけではない。「梵我一如(ぼんがいちにょ)」に至ると、輪廻転生は終わる。

梵我一如?

宇宙の原理「ブラフマン(梵)」と個の原理「アートマン(我)」が同じであることを知ること。この境地に達した時、人間はブラフマンと一体化し、輪廻転生のループから離脱する。

つまりこういうこと。

人間は、本来、ブラフマンと同じなのに、それに気づいていない。そのため、下等な生物として、輪廻転生を繰り返す。そのループから抜け出すには「真実=梵我一如」を知るしかない。仏教でいう「悟り=涅槃(ねはん)」だ。

では、ブラフマンは不老不死で人間より格上?

そうでもない。「インドラの物語」にこんな話が出てくるのだ。

ブラフマンは、この世界の創造主で、蓮の花の上にすわり、蓮はビシュヌのへそからでている。ビシュヌは眠れる神で、ビシュヌの見る夢が宇宙そのものなのだ。ブラフマンが目を開けると世界が生まれ、ブラフマンが目を閉じると世界は消える。これが繰り返されるが、ブラフマンの命は43万2000年で終わる。すると蓮がしぼみ、新しい蓮と新しいブラフマンが生まれる。この宇宙には無数の銀河があり、その星の1つ1つで、蓮の上にブラフマンがすわっている。たとえ、海にある水滴の数や、浜辺の砂の数は数えられても、ブラフマンの数は数えられない。

要するに、創造主ブラフマンも輪廻転生中?

■生まれ変わりを信じる科学者

ウパニシャッド哲学は、哲学を称するから、本来は人文科学なのだが、どこか宗教っぽい。抽象的な概念をこえて、リアル世界にまで踏み込んでいる。物質世界を論じるなら、疑う、合理性、根拠が欠かせなのに、そんな気配は微塵もない。これでは、「疑う」が仕事の科学者は信じないだろう。

ところが、生まれ変わりを信じる科学者もいる。たとえば、アラン・チューリング。第二次世界大戦、ドイツのエニグマ暗号を解読し、イギリスに勝利をもたらした。コンピュータ・サイエンスのノーベル賞「チューリング賞」も彼の名にちなむ。それほどの科学者が、なぜ生まれ変わりを信じたのだろう。

チューリングにはモルコムという親友がいた。チューリングはゲイだったから、恋人だったのかもしれない。二人が大学に入学してすぐに、マルコムが死ぬ。傷ついたチューリングはマルコムの母に「魂の本質」という文を送っている。

「身体は魂を引きつけ、つかまえるが、死によって身体がそのメカニズムを失うと、魂は飛び去り、すぐに別の身体を見つけるのだろう」(※)

生まれ変わりを直感し、実在を暗示している。

チューリングはまぎれもない天才だ。彼が発案した「チューリングマシン」がそれを示唆する。チューリングマシンは、現在主流のノイマンマシンと同じデジタルコンピュータだが、構造が大きく異なる。プログラム可能なデジタルコンピュータを作るとしたら、ふつうはノイマンマシンに行き着く。間違っても、チューリングマシンにはならない。一体どうやったら、あんな発想ができるのだろう。人間ワザとは思えない。

とはいえ、チューリングマシンでプログラムを書くのは大変だ。本質的に難しいのではなく、なんか面倒くさいのだ。ノイマンマシンでカンタンに書けるプログラムも、チューリングマシンなら、脳みそが汗をかく。

もっとも、チューリングマシンは実在しない。そこで、PC(ノイマンマシン)上でチューリングマシンを作る方法がある。それが「エミュレータ」で、PCでファミコンのゲームをプレイできるのもこれ。とはいえ、チューリングマシンのエミュレータなら、設計に3ヶ月、コーディングに6ヶ月?そこまでして、使いたいとは思いません。

ではなぜ、チューリングはこんな難儀なコンピュータを提唱したのか?

チューリングは、論理的思考力が並外れて強く、思考の連鎖が長大だから。チューリングマシンの面倒くささが、苦にならないのだ。凡人がプログラムを書くことなど一顧だにせず、最初に閃いた方法で、チャチャッと完成させる。チューリングマシンには、そんな唯我独尊的気高さが感じられる。褒めているのか、けなしているのか・・・

本題にもどろう。

なぜ、チューリングのような尖った論理的思考者が「生まれ変わり」を信じたのだろう。

親友(恋人?)マルコムの死が受け入れられなかったから?

得意の数学で「生まれ変わり」をすでに証明していた?

それとも、信仰する宗教の教え?

それはない。

キリスト教の教義に「生まれ変わり」はないから。

■キリスト教の輪廻転生

世界の半数を占めるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の教義には「生まれ変わり」がない(一部分派を除く)。その代わり、「最後の審判」がある。世界の終わりに、すべての人間は審判を受け、善人は天国、悪人は地獄へ。

生まれ変わりは、やり直すチャンスがあるのに、最後の審判はワンチャンス?

じつは、キリスト教には救済処置がある。たとえば、免罪符。お金を払って免罪符を買えば、天国に行けるのだ。ただし、全員ではない。天国と地獄の間の中立地帯「煉獄」にいる人だけ(極悪非道はムリ)。

つまりこういういうこと。

「小箱に小銭が飛び込むと、ただちに、魂が煉獄から飛び出る」

ウケを狙っているわけではない。16世紀、ドイツで免罪符を売り歩いたドミニコ会士ヨハン・テッツェルの決めセリフだ。真面目に言っているのか、ブラックユーモアかは不明だが、歴史に残る名言だろう(皮肉ではなく)。

もっとも、「小銭で御利益を買う」はキリスト教国に限った話ではない。正月になると、われもわれもと神社におしかけ、小銭を投げて、無病息災、家内安全、商売繁盛を願う・・・どこの国?

ただし、お金で幸福や天国行きのプラチナチケットが手に入る保証はない。ところが、実入りが保証されている人もいる。それは誰か?冷静に考えてみる必要があるだろう。

一方、「生まれ変わり」を信じるキリスト教徒もいる。10世紀、南フランスで広まったカタリ派だ。権威主義的な聖職者を批判する民衆運動から始まったが、行き着いたのはグノーシス主義・・・正統派キリスト教会がもっとも怖れた大異端。

カタリ派は、この世を苦しみに満ちた不完全な世界とさげすむ。そんな劣悪な世界で、人間は生まれ変わりを繰り返すのだと。そして、正統派が説く「審判の日」はない。

これだけでも、十分異端なのだが(正統派にとって)、もっと強烈な異端がある。

正統派によれば、この世界を創造したのは全知全能の唯一神。ところが、カタリ派は、世界の創造主は唯一絶対神ではないとする。全知全能どころか、無知で傲慢な劣位の神。全能の神が、こんな災いに満ちた不完全な世界をつくるわけがない、というわけだ。正統派が放置するはがない。

13世紀、ついに、正統派キリスト教の宗主、ローマ教皇が動く。カタリ派討伐を決意したのだ。とはいえ、カタリ派の信者は多く、生半可な方法では根絶できない。そこで、目をつけたのが十字軍だった。

■アルビジョア十字軍

11世紀初頭、聖地エルサレムは、イスラム教国セルジューク朝に占領されていた。それを奪還するために編成されたのが十字軍だった。ローマ教皇ウルバヌス2世の熱のこもった演説にそそのかされ、ヨーロッパのキリスト教徒が多数参加した。十字軍は、対イスラムのキリスト教国連合軍だったのである。

十字軍は、1096年から1272年まで、9回派遣されたが、最終的にイスラム側が勝利した。エルサレムはイスラムの領土となり、それが20世紀まで続く。

というわけで、十字軍は「キリスト教Vsイスラム教」の象徴だが、毛色の違う十字軍もあった。アルビジョア十字軍である。

1209年7月、アルビジョア十字軍が、フランス南部の町ベジエを包囲した。指示命令したのはローマ教皇インケンティウス3世。ところが、ベジエはイスラム教徒ではなく、カトリック教徒の町だったのだ。

カトリックの宗主・ローマ教皇が、カトリック教徒を手にかける?

一体何がおきたのか?

ベジエのカトリック教徒が、異端のカタリ派をかくまっていたのである。それだけでの理由で、町ごと包囲殲滅?

ローマ教皇インケンティウス3世の「カタリ派根絶」の執念がうかがえる。ちなみに、「アルビジョア十字軍」は南フランスのカタリ派「アルビジョア」にちなむ。

アルビジョア十字軍の指揮官シモン・ド・モンフォールは、ベジエにカタリ派を引き渡すよう迫った。ところが、町のカトリック教徒たちは拒否。結果、凄惨な殺戮が行われた。十字軍が町に突入し、住民が皆殺しにされたのだ。死者は1万人を超えたが、そのうち、カタリ派はわずか200人だった。つまり、ローマ教会と十字軍は、同根・同類のブラザーを皆殺しにしたのである。本末転倒、皮肉な結末だが、宗教がらみではよくある話。

その後、カタリ派への迫害は加速した。十字軍による殺戮にくわえ、異端審問と火刑(火あぶり)が追加されたのだ。結果、1321年までにカタリ派は根絶された。災難だったのはカタリ派だけではない。南フランス全土が荒廃し、歴史と文化も破壊されたのである。

正統派キリスト教によれば、終末に「最後の審判」がくだされるという。

そのとき、アルビジョア十字軍や異端審問にかかわった聖職者たちは、どうなるのだろう。

「チャリン」という音(免罪符)とともに、天国に行けるのだろうか。

《つづく》

参考文献:
・世界の歴史を変えた日1001 ピーター ファータド (編集),‎ 荒井 理子 (翻訳),‎ 中村 安子 (翻訳),‎ 真田 由美子 (翻訳),‎ 藤村 奈緒美 (翻訳)  出版社: ゆまに書房

by R.B

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