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週刊スモールトーク (第406話) ガリヴァー旅行記(3)~プラトンの理想郷~

カテゴリ : 娯楽科学

2018.10.21

ガリヴァー旅行記(3)~プラトンの理想郷~

■世俗を超越したラピュタ人

ガリヴァー旅行記に登場する「ラピュタ」は異世界だ。

見た目は現実と同じなのに「中身」は別モノ、という意味で。

まず住人、世俗を超越している。

ただし・・・仙人のように霞(かすみ)を食って生きるとか、修道僧のように人生を神に捧げるとかではない。日がな一日、「思索」にふけっている。そもそも、ラピュタ人には信仰心というものがない。それを表すコトバさえないのだ。ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」のような「神が死んだ」世界。

もっとも、ニーチェの哲理の核心は「世俗の超越」ではなく「超人」にある。

ただし・・・弾丸を跳ね返すとか、鋼鉄をひん曲げるとか「フィジカルな超人」ではない。何事にも束縛されない自由と、自己実現のための鋼(はがね)の意志を持つ「ココロの超人」である

では、ラピュタの住人はココロの超人?

さにあらず。

「世俗の欲」はないが、「自由」も「自己実現」にも興味はない。「思索」がすべてなのだ。それも、問題を解決するとか、何かを成し遂げるとか、目標があるわけではない。思索そのものが目的になっている。だから、御婦人方は浮気や駆け落ちに精を出すのだ。亭主が思索にうつつを抜かしているスキに。

■歩きスマホと歩き思索

とはいえ、「考える」ことはいいことだ。ただし、一つ問題が・・・

ラピュタのお金持ちは、どこに行くにも召使いを同伴させる。カバン持ちではなく、ご主人様を叩くため。そのための「膀胱袋付き叩き棒」まで持ち歩いている。

なんで、そんなメンドーなことを?

ラピュタ人はいつでもどこでも、考え中・・・だから叩いて目を覚まさせないと、何も始まらないのだ。

ガリヴァーが、初めてラピュタ王に謁見したときのこと・・・

王は思索にふけっていて、ガリヴァーに気づかない。そこで、横にひかえる侍童が「叩き棒」で王を叩く。すると、王は思索から覚め、ガリヴァーとの会話が始まる。今度は、侍従がガリヴァーを「膀胱袋付き叩き棒」で叩きはじめる。驚いたガリヴァーは「そんな必要ないですよ」とゼスチャーで伝ると、それが間違いだった。

その後、王宮で「ガリヴァーは大バカ」というウワサが広まったのだ。「叩く必要がない=考えない人」というわけだ。

そもそも、「歩き思索」は「歩きスマホ」と同じで、危険極まりない。何かにぶつかったり、ドブに落ちたらどうするのだ?

ということで、「歩きスマホ」の人は、召使いを同伴させてくださいね。「膀胱袋付き叩き棒」もお忘れなく。

■数学と音楽と天文学

ラピュタ人の思索好き、はいいとして、一体何を考えているのだろう。

数学と音楽と天文学。

ガリヴァーが、初めて王と謁見したときのことだ。

玉座の前に、大きなテーブルがあり、その上に地球儀や天象儀や数学機械類が所せましとならんでいる。さらに、王の台所には、様々な数学器械や楽器類が。

何のために?

器械の形をなぞって、肉を切るため!

はぁ?

一方、数学・音楽・天文学以外は全くダメらしい。言ってることはハチャチャで、筋が通らない。どうやら、想像や空想や創意が一切働かないらしい(数学・音楽・天文学をのぞく)。

でも、数学はすべての基本だから、何か役に立つのでは?

ゼンゼン。

ラピュタでは、数学を「利用する」ことは悪とされているのだ。家の建て付けをみれば明らか。壁はゆがみ、部屋の隅も「直角」は一つもない。幾何学を使って製図すればカンタンなのに。つまり、ラピュタ人は「応用数学」を賤しい職人の業と蔑んでいるのだ。

これって、プラトン主義(プラトニズム)!?

■プラトンの理想郷

プラトン主義は、一部のマニアの間で「知」のカリスマになっている。その哲理の核心は「イデア」だ。

イデアとは、純粋な論理(数学)からなる唯一無二の真実。グチャグチャした「内部構造」をもたない素粒子みたいなもの。シンプルかつピュアで完全という意味で言っているので、無粋なツッコミはナシ!

現実のモノ・コトはイデアを実体化したものにすぎない。つまり、イデアは世界の「型紙」なのだ。「実体」は劣化し消滅するが、「イデア」は永遠に存在し続ける。純粋なロジックで、時間軸がなく、変化しないから。

だから、「純粋数学(イデア)>>応用数学(実体)」なのである。

というわけで、ラピュタはプラトン主義者の理想郷!?

作者のスフィフトは、それを意識しているフシもあるし。

ところが、ラピュタ人の「思索」は一筋縄ではいかない。純粋にみえて、けっこう俗っぽいのだ。

ラピュタでは、挨拶がわりに「天文学」が話題になる。たとえば・・・

「太陽のぐあいはどうでしょう。今日の日の入り、日の出はどうでしたか?」

「今度の彗星の衝突は逃れられるでしょうか?」

さらに・・・

地球は、つねに太陽に向っているから、いずれのみこまれるのでは?

彗星が太陽に近づけば、とてつもない高温になるから、地球に接近したとき地球が燃えて灰になるのでは?

太陽は外からの補給がないから、いずれ消滅し、地球もいっしょに滅びる!

テーマはたしかに天文学だが、「我が身の安全」しか考えていない。「思考」というよりは「煩悩」では?

というわけで、ニーチェの「ココロの超人」にほど遠く、プラトン主義者とも言えない。

ひょっとして・・・ラピュタ人の正体は、ニーチェがいうところの「ルサンチマン」か「末人」なのかもしれない。

《つづく》

参考文献:
(※)ガリヴァ旅行記(新潮文庫)スウィフト(著),中野好夫(翻訳)

by R.B

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