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週刊スモールトーク (第395話) 火刑の歴史(4)~宗教改革者ヤン・フスの悲劇~

カテゴリ : 人物思想歴史社会

2018.05.20

火刑の歴史(4)~宗教改革者ヤン・フスの悲劇~

■異端で火あぶり

「異端で火刑(火あぶり)」はあんまりだ。

どんな大罪も、火あぶりに見合わないし、そもそも「異端」ってなんの罪?

異端は、人の命や財を奪ったり、社会に害をおよぼすわけではない。しかも、合理性も客観性もない。しょせんは価値観やイデオロギーのたぐい。行き着くところは、正統派に合うか合わないか?それで「火あぶり」にされてはたまらない。

ところが、そんな理不尽な火刑が、歴史上枚挙にいとまがない。

まずは、チェコの宗教改革者ヤン・フス。

歴史上、「宗教改革」といえばドイツのマルチン・ルターだが、フスは100年も先行していた。

1517年、ルターは「95ヶ条の論題」をカトリック教会へ突きつけた。中でも有名なのが「免罪符」だ。

カトリック教会は、サン・ピエトロ大聖堂改築の費用を調達するため、免罪符を販売していた。ドイツの販売を担当したのが、ドミニコ会士ヨハン・テッツェルである。そのセールストークがふるっていた・・・

「小箱に小銭が飛び込むと、ただちに魂が煉獄から飛び出る」

「煉獄」とは天国と地獄のはざま、有罪か無罪か、いわば執行猶予の世界だ。ところが、免罪符を買った瞬間、「チャリン」という音がして天国へ直行・・・

仏教徒にはウィットに富んだジョークだが、真面目なキリスト教徒は笑えない。事実、ルターはこれでキレた。

ここから、歴史上有名な「宗教改革」が始まった。結果、何がおきたのか?

カトリック(旧教)Vs.プロテスタント(新教)」の血みどろの戦い・・・「宗教改革」というより「宗教戦争」に近い。とくに、1618年~1648年の「三十年戦争」は凄惨だった。ドイツ全土が破壊され、総人口が1/3に激減。さらに、諸侯が群雄割拠し、国の統一が100年も遅れたのである。

免罪符、恐るべし。

ところが、その100年も前に「免罪符」を批判した人物がいた。ボヘミアの宗教改革者「ヤン・フス」である。

■ボヘミアン

「ボヘミアン」・・・一ヶ所に定住せず、ヨーロッパ各地を遍歴する民。いわば「一所不在」だが、遊牧民とは違う。

遊牧民は「旅の人生」と言っていいだろう。

たとえば、カザフ諸族のアダイ族。年間、2500kmも移動するのだ。しかも、ただ移動するだけではない。目的に着いたら、ラクダから荷物を降ろし、ユルタ(移動式住居)を組み立て、宿営する。出発するときは、ユルタを解体し、再び荷物をラクダに積みこむ。これを、年間120回以上繰り返すのだ。平均すると、3日に1回移動・・・人生の1/3を旅しているわけだ。

ただし、遊牧民は自由気ままに移動しているわけではない。まず、トラブルを防ぐため、氏族ごとにルートや放牧地が決められている。移動時期も自然にあわせ、計画的だ。

一方、ボヘミアンに、移動のルールはない。しかも、移住先では、土地の伝統や習慣にしばられず、自由気ままに生きる。他人がどう思うが知っちゃいねぇ~、の民なのだ。

今どきのライフスタイルで、日本では「自由な発想=クリエイティブ」の意味にも使われるが、本来は「根無し草」、決して良い意味ではない。

「ボヘミアン」は「ボヘミア」に由来する。「ボヘミア」はチェコの西半分を占める地域だが、なぜ「根無し草」と結びついたのか?

15世紀、ボヘミアからフランスに流入した一団があった。彼らは、定住せず(荷馬車暮らし)、定職にもつかなかった。だから、「根無し草」なのである。しかも、土地の伝統や習慣にしたがわず、自由奔放に暮らした。土地の人にしてみれば「貧乏なよそ者」だったわけだ。そのため、激しい人種差別をうけた。このような、ヨーロッパの移動型民族を「ジプシー(ロマ)」とよんでいる。ボヘミアンはその一派である。

ヤン・フスは、ボヘミア出身だっだ。ただし、ボヘミアンではない。ボヘミアのプラハ大学で神学を教える教授だった。

■教会大分裂(シスマ)

フスが、大人しく神学を教えていれば、もっと長生きできたかもしれない。ところが、生来の正義感が災いし、寿命を縮めた。

1400年代初頭、フスはキリスト教会を激しく批判していた。教会の心臓をえぐるほど・・・

教会は神に仕える身なのに、なぜセッセと蓄財に励むのか?

聖職者は、なぜ職権乱用に余念がないのか?

免罪符を買えば、天国に行ける?アタマ大丈夫?(日本では「地獄の沙汰もカネ次第」)

1411年、フスはカトリック教会から破門された。ところが、それですまなかった。異端審問にかけられたのである。サイアクは「火刑(火あぶり)という、あの悪名高い宗教裁判だ。

ではなぜ、カトリック教会はそれほどムキになったのか?

イエス・キリストは罪人さえ、ゆるしたではないか。

この頃、カトリック教会の権威は失墜寸前だった。原因は「教会大分裂(シスマ)」。読んで字のごとく、ローマ教皇が複数(3人)いたのである。

まず、ヨハネス23世。おもにドイツで支持を得ていた。さらに、スコットランド、シチリア、アラゴン、カスティリャが支持するアヴィニョンの教皇ベネディクトゥス13世。最後にローマのグレゴリウス12世。この3人が、自派の枢機卿、教皇庁、支持者を抱え、自分がローマ教皇だと譲らなかったのである。

この「教会分裂(シスマ)」は1378年から40年間続いた。本来「1人」の教皇が「3人」いたのだから、教皇のありがたみも1/3?

というわけで、教皇の権威はボロボロだった。そんなとき、フスが声高に教会を批判したのである。しかも、フスはどこぞの怪しいクレーマーではない。名門プラハ大学の学長まで登りつめた大学者なのだ。事実、フスの主張は民衆にうけていた。キリスト教会にとって、ただならぬ事態である。フスはキリスト教会の傷口に塩を塗っていたのだ・・・破門ですむはずがない。

■コンスタンツ公会議

この前代未聞の醜聞「教会分裂(シスマ)」に、世俗の王が立ち上がった。

神聖ローマ皇帝ジギスムント・フォン・ルクセンブルクである。もちろん、善意からではない(「世俗」の権化なので)。キリスト教会のみっともないトラブルを、皇帝が解決しました・・・つまり、皇帝の権威と力をアピールするため。

というのも、この時代、世俗界の王と、宗教界の教皇は激しく争っていた。その象徴が「カノッサの屈辱」事件だろう。

皇帝ジギスムントは、ヨハネス23世に圧力をかけ、ドイツのコンスタンツで公会議を開催させた。「公会議」とは、教義や教会規則を審議決定するキリスト教の最高会議のこと。

会議は、1414年11月にはじまった。まず、相争う3人の教皇を退位させ、その後に新しい教皇を選出する。ところが、3人の教皇は激しく抵抗した(それはそうだろう)。

翌1415年3月、ヨハネス23世がコンスタンツから逃亡した。さらに、同年7月、グレゴリウス12世は、3人以外ならという条件で、退位を受け入れた。ところが、ベネディクトゥス13世が難題だった。退位勧告を断固拒否したのである。そこで、強制廃位すると、故郷のスペインのペニスコラ城に引きこもった。

1417年11月11日、イタリア人のオットーネ・コロンナが教皇に選出された。教皇名は、この日の守護聖人の名にちなんで「マルティヌス5世」と命名された。3年間の討議を経て、やっと、新教皇が決まったのである。

一方、元ベネディクトゥス13世は、最期まで自分が教皇だと譲らなかった。そして、1423年、95歳でその生涯を閉じた。

じつは、このコンスタンツ公会議にはもう一つ議題があった。

フスの異端審問・・・キリスト教会が、フスを異端で告発したのである。

フスは、公会議に召還された。

当初、皇帝ジギスムントは、フスの身の安全を保証していた。ところが、1414年11月、フスがコンスタンツに着くと、すぐに逮捕された。1415年6月、フスの異端審問がはじまった。フスは、告発は偽りの証言にもとづくものだと反論したが、有罪を宣告された。キリスト教会の筋書きどおりだった。1415年7月6日、フスは火刑に処せられ、遺灰はライン川に無造作に捨てられた。

「福音書の真実のもとに、私は今日喜んで命を終えよう」

ヤン・フスの最後の言葉である。

《つづく》

参考文献:
・週刊朝日百科世界の歴史52、朝日新聞社出版
・世界の歴史を変えた日1001、ピーターファータド(編集),荒井理子(翻訳),中村安子(翻訳),真田由美子(翻訳),藤村奈緒美(翻訳)出版社ゆまに書房

by R.B

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