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週刊スモールトーク (第368話) 世界初の潜水艦(4)~タートル号の最期~

カテゴリ : 人物歴史科学

2017.07.30

世界初の潜水艦(4)~タートル号の最期~

■潜水艇ビジネス

「名選手、名監督にあらず」は言い古された言葉だ。

発明家も同じ。偉大な発明家が名経営者とはかぎらない。

デイビッド・ブッシュネルもそうだろう。潜水艦の発明者でありながら、貧乏のまま人知れずこの世を去ったのだから。

お金に興味がなかった?

とんでもない!

自分が発明した潜水艇「タートル号」で大儲けをもくろんだのだから。アメリカ独立戦争が始まると、植民地政府が海軍をもたないことに目をつけて、売り込もうとしたのだ。

ブッシュネルのタートル号は、水に潜り、敵艦に爆弾を仕掛けることができた。今でいう潜水艇である。だから、世界最強のイギリスの戦艦と渡りあえるというのだ(説得力はある)。

植民地政府はこれにのった。

有力な政治家ベンジャミン・フランクリンと、軍の最高司令官ジョージ・ワシントンが肩入れしたのだ。

さらに、コネチカット州の安全保障理事会は、タートル号の製作費を出すことを約束してくれた。ブッシュネルの開発拠点はコネチカット州セイブルックにあり、意気に感じたのだろう。

ところが、後々、この約束は反故にされる。口約束だったから。契約書ナシで請負仕事をするようなもの、気をつけましょう。

1775年秋、タートル号は実験に成功した。潜水し、廃船を木っ端みじんに吹き飛ばしたのである。ここまくれば、あとは実戦のみ。

ブッシュネルはソロバンをはじいた。

実戦で、イギリスの戦艦を吹き飛ばせば、植民地政府はタートル号を大量に購入してくれるだろう。そうなれば、一夜にして大富豪だ。

チャンスはすぐにやってきた。イギリス艦隊がボストン港を海上封鎖したのだ。

すわ、タートル号の出撃!

とはならなかった。植民地軍には別の手があったのである。

1776年3月3日、ジョージ・ワシントン将軍が率いるアメリカ軍は、ボストン港に大量の大砲をもちこんだ。港を見下ろすドーチェスターの丘に、59門の大砲を並べたのである。

イギリス艦隊は仰天した。

港のすべての戦艦がロックオンされたのだ。しかも、小高い丘から見下ろす形で。見晴らしは抜群、さえぎるものは何もない。

イギリス艦隊のシュルダム提督は、悩みに悩んだ。砲撃戦になればこちらが不利。でも、世界に冠たるイギリス艦隊が撤退したあっては、面目丸つぶれ。どうしよう・・・

1776年3月17日、シュルダム提督は「撤退」に決めた。体裁より実をとったのである。

イギリス艦隊がボストン港から退却すると、植民地は喜びに沸いた。一方、ブッシュネルは意気消沈。タートル号をアピールするチャンスが失われたから。

この戦いは、ブッシュネルの潜水艇ビジネスに不吉な影をなげかけた。

海上封鎖を解くのに海軍はいらない。陸から砲撃すれば事がすむ?

ところが、1776年夏、再びチャンスが訪れる。

リチャード・ロード・ハウ提督率いるイギリス艦隊が、ニューヨーク港に入ったのである。しかも、500隻の戦艦からなる大艦隊。ブッシュネルにしてみれば、カモネギ(鴨がネギ背負ってきた)。

■タートル号出撃ス

イギリス艦隊は、ニューヨーク港を埋めつくし、ハドソン川とイーストリバーを封鎖した。さらに、3万2000人のイギリス軍がスタテンアイランドに上陸。橋頭堡が確保されたのである。橋頭堡とは、敵地への前哨基地で、一旦確保されると、ここからゾクゾクと援軍が上陸する。

海上封鎖され、橋頭堡まで確保されたら、丘の上に大砲を並べたところで、何にもならない。ニューヨーク市、ロングアイランド、ニュージャージー、ハドソンバレーがイギリス軍の手に落ちるのは時間の問題だ。

一方、ブッシュネルにとっては天の恵み。タートル号をアピールするチャンスが再びやってきたのだ。

ブッシュネルと弟のエズラ(タートル号の操縦士)は、タートル号を帆船に載せ、ニューヨークの植民地軍と合流した。

司令官イズラエル・パトナム将軍は、ブッシュネル兄弟を暖かく迎えた。植民地軍は絶体絶命、ワラをもつかむ思いだったのだろう。

パトナム将軍はブッシュネル兄弟に最初のミッションを与えた。イギリス艦隊の戦艦「アジア」の撃沈である。

いざ出撃!

ところが、そのとき・・・弟のエズラが腸チフスに感染。タートル号のたった一人の操縦士なのに。

とはいえ、不運を嘆いているヒマはない。新しい操縦士を急造するしかない。ブッシュネルは、サミュエル・パーソンズ将軍に頼み込み、3人の操縦士候補を選出してもらった。

ブッシュネルは、3人の候補生を連れて開発拠点のコネチカット州セイブルックにもどった。それから猛特訓の毎日・・・

とはならなかった。

緊急の問題が発生したのである。

イギリス軍がブルックリンのジョージ・ワシントン将軍の軍を破ったというのだ。敗れたアメリカ軍はマンハッタンに退却。イギリス軍がマンハッタンに侵攻するのは時間の問題だった。

ブッシュネルは決断を迫られた。タートル号の操縦をマスターするには数ヶ月かかる(弟エズラがそうだった)。ニューヨークがそれまでもつとは思えない。ブッシュネルは、タートル号と3人の候補生を船に乗せて、マンハッタン島に向かった。

サウスフェリーに着岸し、パトナム将軍と打ち合わせする。標的は「イーグル号」と決まった。「イーグル号」は総司令官ロード・ハウ提督が乗るイギリス艦隊の旗艦である。タートル号を宣伝するにはうってつけだ。操縦士には、最も練度の高い27歳のエズラ・リーが選ばれた。

真夜中、リーはタートル号に乗りこんだ。タートル号は、2艘のホエールボートに曳航され、サウスフェリーを出航した。向かったのはマンハッタン南方8kmにあるスタテンアイランド。そこには、イギリス艦隊の主力がいた。

ホエールボートは、イーグル号が視界に入ると、タートル号を切り離し、帰還した。

これからはタートル号の単独行動だ。

リーは、スクリューを手動で回転させ、イーグル号に向かった。朝4時頃、タートル号はイーグル号のすぐ近くまで来た。甲板の船員たちの話し声が聞こえる。外はまだ暗く、タートル号に気づいていない。

リーは、緊張をおさえながら、作戦を開始した。イーグル号の船底まで潜り、ドリルをねじ込んで、水雷を仕掛けるのである。

バラストタンクのバルブを開けて水を取りこむ。水の重さで、タートル号はゆっくり沈降する。深度計を見ながら、慎重にタートル号を操縦する。船内は真っ暗で、見えるのは深度計とコンパスの微弱な燐光(りんこう)だけ。

上部にコツンと音がした。タートル号のハッチが戦艦イーグル号の船底に当たったのだ。

リーは、ハンドルを回転させ、船底にドリルをねじ込んだ。ところが手応えがない。何度試してもダメ。

イーグル号の船底は、金属でおおわれている?

もしそうなら、ドリルが入るわけがない。

時間だけが経過していく。夜が明ければ、すぐに発見されるだろう。そのときは、逃れる術はない。イギリス戦艦500隻の中に、1隻の潜水艇がプカプカ・・・水中の棺桶になるのは必定だ。

リーは作戦を断念した。

バラストタンクの水をポンプを汲み出して浮上。それから、水上を航行した。

水中ではなく、水上?

なぜ潜航しない?

目的地のサウスフェリーまで8kmある。タートル号の最大速度5km/hで航行したとしても、2時間弱かかる。ところが、船内の空気は30分しかもたないのだ。

リーは、必死でスクリューを回転させ、命からがらサウスフェリーに逃げ帰った。作戦は失敗に終わったのである。

リーは、ブッシュネルとパトナム将軍に結果を報告した。問題は、なぜドリルが船底に入らなかったのか?

リーは、イーグル号の船底は薄い銅板でおおわれていると主張した。だが、ブッシュネルは信じなかった。銅は軟らかいから、ドリルで貫通するはず。リーがヘマをやったに違いない・・・

その後、タートル号は2回出撃したが、いずれも失敗した。

そうこうしているうちに、イギリス軍がマンハッタン島に押し寄せた。ワシントン将軍の軍は、マンハッタン島北端に押し込まれ、防戦一方になった。

万事休す。

このままでは、タートル号はイギリス軍に破壊されるか、捕獲される。そこで、ブッシュネルはタートル号を帆船に積みこみ、サウスフェリーから脱出した。ところが、その途中、川岸のイギリス軍の砲撃を受け、帆船は沈没する。

それで?

この後の記録は一切残っていない。ブッシュネルが生き延びたことをのぞいて。

■なぜイギリスは負けたのか?

1783年9月3日、アメリカ独立戦争は終わった。アメリカ植民地が、本国イギリスに勝利したのである。

でも謎が一つ。

兵力に優るイギリス軍がなぜ負けたのか?

要因は2つ考えられる。

大局では、イギリス軍は本国と遠く離れていたこと。情報伝達、補給の点で、自国で戦うアメリカ軍にくらべ不利である。情報も物資も兵員も、帆船で大西洋を横断してくるのだから(この時代、通信機はない)。

小局では、戦法。

イギリス陸軍は、密集隊形で戦った。太鼓を叩いて、整然と進軍するナポレオン時代の戦法である。一方、アメリカ軍は散開戦法。バラバラに散開して、障害物に隠れ、個々の判断で狙撃する。地の利があることも、アメリカ軍に利した。いわゆるゲリラ戦である。

さらに、銃火器に優劣があったという説もある。

この頃、鉄砲といえば滑腔式のマスケット銃だった。滑腔式とは、銃身の内面がツルツルで、弾が通過しても回転しない。一方、ライフル銃は、銃身の内面にらせん状の溝が彫ってあるので、弾が通ると、らせんに沿って回転する。そのため、弾道が安定し、射程距離と貫通力が増すのである。

この戦争では、イギリス軍はマスケット銃、アメリカ軍はライフル銃を使用した。だから、銃器ではアメリカ軍が優位だったというのである。

事実、アメリカ軍には「ミニットマン」という民兵がいた。彼らは狩猟に長け、射程の長いライフル銃を使用した。民間人でありながら、狙撃兵の即戦力だったわけだ。障害物に身を隠し、マスケット銃の射程外から、狙撃する。イギリス軍に多大な損害を与えたことは想像に難くない。ただし、アメリカ軍が全面的にライフル銃を使用していたかはわからない。

というわけで、植民地軍が勝利したのは、補給が有利なこと、散開戦法(ライフル銃?)、そして優れた司令官ジョージ・ワシントンのおかげだろう。ちなみに、ワシントンはその後、アメリカ合衆国初代大統領に選ばれている。

■ブッシュネルその後

さて、その後、ブッシュネルはどうなったのか?

アメリカ独立戦争が終わると、ブッシュネルはコネティカット州議会に嘆願書を提出した。

タートル号の製作費を約束どおり払ってくれと。嘆願書には、489ポンドの請求書も添えられていた。

ところが、文書(証拠)はなく、当事者のコネチカット安全保障理事会はすでに解散していた(戦争が終わったので)。

ところが、議員たちはブッシュネルに負い目を感じていた。戦功はないが、アメリカ独立を願い、尽力してくれたことは確かだ。愛国心に報いないのは信義にもとると。

そこで、コネチカット州議会はブッシュネルに対価を支払うことにした。ただし、489ポンドではなく150ポンド。

70%の減額・・・ブッシュネルは落胆した。

潜水艇は完成したものの、実戦では失敗、大量受注はかなわなかった。あげく、潜水艇の製造費さえ回収できなかったのだ。丸損、大損、8年の努力が水泡に帰したのである。

1787年2月、ブッシュネルは失意のうちに、セイブルックを去った。そして、二度と故郷に帰らなかったのである。

ブッシュネルは、エール大学時代の友人に誘われて、ジョージア州ウオレントンに移り住んだ。そこで、「ブッシュ(ブッシュネルではなく)」と名乗り、教師と開業医として余生をおくった。

近所の人たちは、彼がアメリカ合衆国政府の要人も知る大発明家だとは、知る由もなかった。

1824年、「ブッシュ」は84歳でこの世を去った。葬儀の席で、近所の人たちは、彼の本名が「ブッシュネル」であることを初めて知った。

ジョージ・ワシントン(アメリカ合衆国初代大統領)はトーマス・ジェファーソン(アメリカ第3代大統領)に宛てた手紙の中で、タートル号に言及している。

「あのときも思ったし、今もそう思うのだが、あれは天才のなせる業だ」

しかし、ブッシュネルは富も名声も得られなかった。

とはいえ、「天才の不遇の人生」は歴史上枚挙にいとまがない。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト・・・8歳で、ヨーロッパの音楽界の頂点に立った天才。類まれな才能と演奏で観衆を魅了し、称賛をあびる日々・・・

だが、彼は気づいただろうか。

自分の人生は、8歳からずっと下り坂だったということを。

《完》

参考文献:
「戦争と科学者・世界を変えた25人の発明と生涯」著者トマス・J・クローウェル、訳者藤原多伽夫、原書

by R.B

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