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週刊スモールトーク (第36話) 織田信長Ⅵ~天下統一~

カテゴリ : 歴史

2006.02.25

織田信長Ⅵ~天下統一~

■信長包囲網

1570年、織田信長は人生最大の災難に見舞われていた。天は、信長のような見どころのある人間に、好んで試練を与えるのだろう。尾張統一の時代では、さまざまな陰湿な謀略が信長を苦しめた。また、桶狭間の戦いでは、織田軍の20倍もの大軍が織田領に押し寄せた。しかし、信長はこの苦難をことごとく退け、天の期待に応えていたのである。ところが、今回の試練は次元が違った。

この時、織田信長が直面する敵は、点ではなく面であった。強大で、とらえどころのない暗黒大陸が、信長帝国を呑み込もうとしていたのである。黒幕はおそらく足利義昭で、それに組みするのは、一向宗総本山の本願寺、西の毛利、北の朝倉と浅井、南の松永と三好、東の武田信玄。つまり、信長は四面楚歌だった。

しかも、その中には武田信玄のように、単独で天下をうかがう実力者もいた。信長の味方と言えば三河の徳川家康のみ。戦況は絶望的だった。この反信長大連合は、歴史上、「信長包囲網」または「反信長同盟」ともよばれるが、その後10年も織田信長を苦しめることになる。

織田信長の人気はそれを想うときに湧く解放感による。織田信長がかかげた天下布武は、朝廷や宗教勢力を廃した武家による一元統治で、歴史上例がない。さらに、桶狭間の戦い、長篠の戦い、本能寺の変と、そのプロセスも劇的。しかし、信長の一番の見せ場はミーハーな「派手さ」にあるわけではない。陰湿な駆け引きと不毛の消耗戦、つまり「信長包囲網」。並の武将なら投げ出してしまうようなこの苦境を、信長は10年も耐えたのである。

■ルイス フロイス

織田信長が信長包囲網で苦しんでいた頃、地球の裏側から、一人の宣教師がやって来た。イエズス会のルイス フロイスである。イエズス会は、キリスト教の戦闘集団といわれるほど布教に熱心で、神デウスの教えを広めるためなら、地の果てまでかけた。日本で有名なフランシスコ ザビエルもこのイエズス会士である。

ルイス フロイスは織田信長と謁見する機会を得たが、その後も、この地にとどまり、熱心に報告書を書いた。それがルイス フロイスの「日本史」である。信長ものでは「信長公記」と並んで最も信憑性の高い書とされる。文体に品格があり、音楽を奏でるような美しい響きがある。そこに記された織田信長像とは ・・・

信長は睡眠が短く、酒は飲まず、食を節し、軍事的修練にいそしむ勤勉な王であった。また、非常な決断を秘し、戦術は老練であり、よく知られているように、性急であった ・・・ 彼は、戦運がおのれに背いても、心気高闊、忍耐強かった。彼は、善き理性と明晰な判断力を有し ・・・(※2)

鳴かぬなら殺してしまえホトトギス
織田信長の性質を表す歴史的な一句だが、史実をみると、そんな単純な性格ではなかったようだ。性急で、激昂(げきこう)しやすい反面、強靱な忍耐力も持ち合わせていたらしい。だから、胃がキリキリ痛むようなあの信長包囲網も突破できたのだろう。とにかく、織田信長の性格は複雑怪奇である。

■黒幕 足利義昭

ところで、織田信長に王手をかけた「信長包囲網」とは?まずは黒幕の足利義昭。足利義昭は、室町幕府の将軍家の男子だったが、兄 義輝が第13代将軍になったため、幼くして仏門に入り、覚慶(かくけい)と名乗った。らである。ところが、兄 義輝は、松永久秀と三好三人衆によって殺されてしまう。その時、義昭は奈良に幽閉されている。

この歴史に名高い「将軍殺し」は、室町幕府の黄昏(たそがれ)を象徴している。この頃、足利家はすでに往年の勢いはなく、松永久秀と三好三人衆の傀儡政権に過ぎなかった。松永久秀と三好三人衆は、近畿一帯の実力者であり、京の都に近い地の利を活かして、やりたい放題だった。

第13代将軍でありながら、兵力をもたない足利義輝は、松永、三好に頼らざるをえなかった。一方で、将軍の面目にかけても傀儡で終わるつもりはなかった。そんな義輝は、松永と三好にしてみれば目の上のたんこぶ。この事件は起こるべくして起こったのである。

1565年5月19日、松永久秀らは足利義輝の居所の二条城に乱入する。足利義輝は、歴史上よく見かける黄昏王朝の「バカ殿」ではなかった。かつて天下統一をなし遂げた王族の誇りをもち、修練を積んだ剣豪だったのである。足利義輝は、代々伝わる名刀を手に、多数の敵兵を斬り倒し、最後まで戦い抜いた。しかし、多勢に無勢、健闘空しく落命する。こうして将軍を殺した松永久秀らは、つぎの傀儡将軍、足利義栄を立て、さらなる悪だくみを練る。

一方、足利義輝の弟 足利義昭は、松永らの敵対勢力に助けられ、奈良を脱出する。その後、越前の朝倉家を頼り、あちこちを転々とする。貧乏公方(くぼう)と呼ばれ、大名家に助力を嘆願する毎日だったが、足利将軍家復活への執念は、兄 義輝に勝るとも劣らなかった。

足利義昭は、ドラマや小説の中では、陰険な小者として描かれるのが常だが、事実は逆である。気位が高く、名誉心もあるが、それに見合った力量を備えていた。明確なビジョン、現実的な思考、果敢な実行力を秘め、窮地に追い込まれても忍耐強かった。この点で織田信長と酷似している。このような資質が、大名家、宗教勢力を包含する壮大な信長包囲網をつくり上げたのである。

1568年、足利義昭は流浪の末、織田信長の後ろ盾を得て、第15大将軍に任じられた。足利義昭は信長の力で将軍の夢を叶え、信長は将軍家の権威を利用しようとしたのである。ところが、兄 義輝同様、傀儡を嫌った義昭は、信長と激しく対立する。これが、信長包囲網の動機となった。

足利義昭の傑出は、自ら兵を持たず、舌先三寸で大同盟を構築したことにある。それだけでも大したものだが、足利義昭にはもっと重大な嫌疑がかかっている。本能寺の変の主犯の疑いである。実力者ひしめく戦国時代にあって、天下統一にリーチをかけた天才信長を、ここまで追い込んだのである。足利義昭は、室町幕府のラストエンペラーにふさわしい傑物であった。

■一向宗 本願寺

信長包囲網の黒幕は足利義昭だが、その主戦力となったのは本願寺である(武田や上杉に非ず)。本願寺は、親鸞が創設した浄土真宗の総本山で、現在の大阪城跡にあった。歴史的な仏寺であり、本来、軍兵とは縁がない。ところが、本願寺の教えが全国に広まると、組織は巨大化し、大名家と対立するようになった。彼らは一向宗と呼ばれ、宗徒を抑圧する大名に、一揆で対抗したのである。これが一向一揆で、その後、一向宗による自治国家まで出現した。

もっとも、このような政教一致を、本願寺が目指していたわけではない。むしろ、初めは反対の立場をとっていた。世俗の王に従い、国の秩序を守ることが仏の道という理念である。ところが、こんな尊い理念も、戦国時代の過酷な現実の前に打ち砕かれれた。天下統一にひた走る阿修羅王、織田信長である。

織田信長が足利義昭を奉じて上洛した頃、本願寺の法主(ほっす) 顕如(けんにょ)は、信長に敵対する意志はなかった。織田信長が軍資金と称して、大金をせびったときも、顕如はこれに応じている。ところが、信長の横暴はこれでおさまらなかった。信長が目指すのは、武家による天下統一「天下布武」。武家以外のあらゆる勢力を根絶やしにすることにあった。本願寺を骨抜きにすることが、信長の真意であることに気づいた顕如は、
仏敵 信長を討て!
の檄文を全国に発したのである。

とはいえ、一向宗の大半は百姓である。クワやカマで、武士を倒せるとは思えない。ところが、当時の日本の人口の9割が農民であり、一向宗門徒の数はけた違いだった。加賀一向一揆では、守護の富樫(とがし)氏の居城を、20万人もの一向宗徒が包囲したという。現在の金沢市の人口の半分である。この戦いで、一向宗は、富樫氏を滅ぼし、以後100年にわたって、この地を支配した。殿様が百姓に政権を奪われたという様にならない話。

戦さは、数をたのんで押し寄せても勝てるものではない。だが、桁が違うと状況は一変する。さらに、「進むは極楽、退けば地獄」でマインドコントロールされた一向宗門徒は、死をも怖れぬ戦士だった。また、本願寺には、紀伊半島南部を根城とする雑賀衆(さいかしゅう)が味方していた。彼らは鉄砲を操る傭兵だった。つまり、本願寺の軍事力は武田、上杉に勝るとも劣らない。しかも、本願寺一向宗は全国ネットの組織で、面のパワー。点の大名とは、力の厚みが違う。本願寺がその気になれば、天下統一の勝者は本願寺だったかもしれない。政教一致で大帝国を築いたイスラム帝国のように。

■信長包囲網の始動

1570年8月26日、織田信長は、野田・福島を包囲した。野田・福島は、本願寺の本丸を守る拠点で、ここを落とせば、本願寺に王手がかかる。ところが、野田・福島の防備は強固だった。鉄砲傭兵の根来衆(ねごろしゅう)、雑賀衆(さいかしゅう)も本願寺に味方した。信長公記によれば、このとき、根来衆と雑賀衆が持ち込んだ鉄砲の数は3000挺。歴史上、鉄砲戦で名高い長篠の戦いでさえ1000挺である。こうして、昼夜をとわず、激しい鉄砲戦が繰り広げられた。こんな凄まじいハイテク戦は、この時代、世界を見渡しても、どこにも記録されていない。

1570年9月、本願寺法主 顕如は、突如、北方の朝倉・浅井、南方の三好三人衆と手を結び、全国の一向宗門徒に挙兵を命じた。反信長同盟が始動したのである。結果、織田信長は南北から挟撃されることになった。1570年9月16日、朝倉・浅井の軍勢3万が、南近江の宇佐山城に進出、9月19日には同城を陥れた。このとき、城を守っていた織田信長の弟 織田信治と、家臣の森可成が討ち死に。

このままでは、朝倉・浅井の大軍が京に攻め上る。危険を感じた信長は、9月23日には野田・福島の陣を引き払い、ただちに京に入る。それに気づいた朝倉・浅井も、比叡山の延暦寺に逃げ込む。まさに一日刻みの戦いであった。

織田信長は、ここで比叡山延暦寺に対し、次のような最後通牒を発した ・・・

もし、比叡山が自分に味方するなら、比叡山の領地を約束する。しかし、出家の道理で、一方にひいきできないというなら、どちらにも加担せずに見逃してほしい。もし、この二つのいずれにも従わぬと言うなら、一山丸ごと焼き払う

善意から出たとは言わないが、道理にかなった提案である。ところが、比叡山は沈黙を押し通す。朝倉・浅井に味方したのである。こうして、叡山は取り返しのつかない過ちを犯した。織田信長は約束を守る男。後に、一山丸ごと焼き払ったのである。

織田信長には時間がなかった。敵は複数で、しかも、面。一方の信長は孤軍奮闘、限られた手持ちの駒を、小刻みに動かすしかない。にらみ合いは命取りである。信長は、比叡山に引きこもった朝倉・浅井を挑発し、誘いだそうとするが、応じない。戦線はすっかり膠着した。

ところが、ここで、思いもよらぬ事件が起こる。伊勢長島一向宗が、尾張の小木江城(こきえ)を包囲したのである。尾張は織田信長の本領で、ただならぬ事態である。11月21日、孤立無援の小木江城は陥落。信長の弟で、城主の織田信興は切腹した。織田家本領で起こったこの事件は、織田軍を震撼させた。一刻の猶予もないが、朝倉・浅井と対峙した信長は、引くことも、攻めることもできない。絶体絶命であった。

■朝倉との和議

ところが、冬を迎え、朝倉は兵糧が尽き、故国 越前への退路が不安になってきた。越前(現在の福井県)は、今も昔も豪雪地帯である。このような状況下、12月13日、足利義昭の調停のもと、織田と朝倉の和議が成立する。信長公記には、この和議は朝倉の強い願いにより、足利義昭が動き、信長がしぶしぶ承諾したと記されている。ところが、この和議には、朝倉・浅井が高島郡に退くまでは、織田方より人質を出すという条件がついていた。実のところ、頼み込んだのは信長の方かもしれない。

この決着は信長に多く利したが、比叡山延暦寺にとっては最悪だった。翌年、1571年9月1日、織田信長は延暦寺との約束を果たす。大軍で比叡山を包囲し、延暦寺の根本中堂、山王21社、ことごとく焼き払ったのである。歴史上有名な叡山の焼き討ちである。

年が明け、1572年に入っても、信長の状況は相変わらずだった。なんとか、持ちこたえていたものの、敵はまだ健在。1572年5月、「将軍殺し」の松永久秀と三好三人衆は、しめしあわせ、信長に反旗を翻した。ついで、7月29日、朝倉が15000の兵を率い、浅井の小谷城に到着する。朝倉・浅井連合軍が、再び動き出したのである。状況は最悪だった。信長は、朝倉・浅井に備えるため、とりあえず、横山城に軍を進めた。次々と襲いかかる同時多発災難、信長にとって、世界のすべてが敵であった。徳川家康一人をのぞいて。

■武田信玄 始動

弱り目にたたり目、悪いことは重なるものである。11月下旬、信長包囲網の最後のカードが切られた。武田信玄が上洛を開始したのである。織田信長が最も怖れていたことが現実になった。しかも、最悪のタイミングで。この時代、武田と戦って勝ち目があるのは上杉ぐらい、というのは歴史の常識。上洛をめざす戦国最強の軍団は、遠江の二俣城を包囲した。武田信玄の狙いは上洛にあり、その通り道の織田領は、すべて消滅するはずだった。織田信長、絶体絶命。天下布武どころか、明日をも知れぬ身である。

織田信長にとって、頼みの綱は三河の徳川家康だが、武田軍2万5000にたいし、徳川軍8000。しかも、兵の精強さにおいても武田軍が圧倒。まるで勝ち目ナシだった。織田信長は、とりあえず佐久間信盛、平手汎秀を主将に3000の兵を徳川家康に送ったが、焼け石に水。とはいえ、四面楚歌の信長にとってこれが精一杯である。

12月22日、三方原にて、徳川・織田連合軍と武田軍が激突した。歴史上有名な三方原の合戦である。結果は予想どおり、徳川・織田連合軍が大敗した。野戦の名手、徳川家康は、果敢に武田軍に挑んだが、生涯忘れられない体験をする。信玄の用兵と武田軍の精強さは、家康の想像をはるかに超えていたのだ。織田の主将 平手汎秀は討ち死、総大将の徳川家康は、単騎で城に逃げこんだ。圧倒的実力者による一刀両断。勝利した武田軍は、ゆうゆうと京に向かった。武田軍が、織田信長の岐阜城を囲むのは時間の問題だった。万事休す。

■天運

ところが、翌1573年4月12日、事態は急変する。武田信玄が死んだのである。人心掌握と用兵の天才、武田信玄が満を持して仕掛けたわりに、あっけない最期だった。鉄砲で撃たれた、結核、肺ガン、諸説があるが、そんなことはどうでもいい。信長の天敵が、労せずして消えたことことが重要なのだ。桶狭間の危機を救ったのも、信玄上洛の危機を救ったのも、すべて天運。天は信長にさまざまな試練を与えるが、最後は必ず救いの手をさしのべる。信長の役目がまだ終わっていない証拠だった。

この直後から、織田信長の目の覚めるような大反撃がはじまる。「天下布武」を高々とかかげ、疾風怒濤の大攻勢が日本中を席巻するのである。それは、信長を想うときに湧き上がる、あの抜けるような解放感だった。

《つづく》

参考文献:
(※1)太田牛一著 榊山潤訳「信長公記」富士出版
(※2)松田毅一・川崎桃太 編訳「回想の織田信長」中公新書

by R.B

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