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週刊スモールトーク (第35話) 織田信長Ⅴ~長篠の戦いと鉄砲~

カテゴリ : 人物歴史

2006.02.13

織田信長Ⅴ~長篠の戦いと鉄砲~

■ハードパンチャー

ボクシングほど、勝者と敗者の見分けがつきやすいスポーツはない。勝者は、セコンドの肩から拳を振りかざし、敗者は血染めのリングに這いつくばる。そこにはスポーツにありがちな「自分との戦い」なんて悠長さはみじんもない。やるか、やられるかだ。実際、試合後に死亡したボクサーもいる。スポーツはある意味、疑似暴力である。そして、ボクシングの場合、勝敗を決するのは、防御力、攻撃力、スタミナ、そしてスピード。

動体視力に優れ、電光石火の反射神経で次の行動を決定し、瞬時に筋肉を駆動する。これが勝者の条件だ。ところが、まれに、異質の力を秘めたボクサーがいる。ハードパンチャーと呼ばれる種族だ。彼らが繰り出すパンチは、ぶ厚い筋肉を貫通し、内臓にまでたっする。命中した時の破壊力が違うのだ。一般に、「重いパンチ」と表現されるこの特質は、練習や努力では身につかない。生来の資質がすべてだ。たいていのKOは、タイミングの良い連続パンチで決まるが、ハードパンチャーの場合、唐突な一撃ですべて終わる。

戦国時代、武田信玄の後を継いだ武田勝頼はすぐれた部将だった。武田信玄でさえ落とせなかった難攻不落の高天神城も攻略している。歴史に流された心ない風聞とは違い、優秀な指揮官だったことは間違いない。ところが、たった1回の合戦が、武田勝頼の人生とその後の不名誉を決定づけた。長篠の戦い。この戦いで、武田勝頼を打ち砕いたのは、細心にして大胆不敵、異次元の破壊力をもつハードパンチャー織田信長である。

■長篠の戦いの謎

「長篠の戦い」が歴史上有名なのは、織田信長の「鉄砲の三段撃ち」による。当時の火縄銃は威力はあったが、発射するたびに、銃身内のゴミを掃除し、弾を込める必要があった。これでは、発射する前に、高速な騎馬隊に踏みつぶされてしまう。そこで、鉄砲隊を三段に分け、時間差攻撃すれば、連続発射が可能になる。これが、鉄砲の三段撃ちである。織田信長のアイデアとされ、映画やドラマ、小説とあらゆるメディアで披露される有名なエピソードだ。一方異論もある。信憑性が高いとされる「信長公記」にも「長篠の戦い」の記述はあるが、「鉄砲の三段撃ち」はどこにも書かれていない

とはいえ、戦国最強とうたわれた武田軍が、長篠の戦いで壊滅したことも事実。無敗の軍神 上杉謙信と互角に戦った武田軍にしてはあっけない。さらに、異常とも思えるのが、武田軍の死者の数。この時代、戦死者が半数を超えることはまずない。兵器の殺傷力が低いため、数パーセントの損失で遁走するからだ。

信長公記によると、長篠の戦いで、武田軍は1万5000を動員し、1万人が討ち死にしたという。戦死率70パーセント ・・・ 時代を考えるとありえない数字である。しかも、山県昌景、内藤昌豊、馬場信春、原昌胤ら、武田家の重臣の多くが戦死している。だが、「不自然」には必ず理由があるものだ。

信長公記によると、1575年5月21日、武田勝頼は、主力1万5000を率い、長篠に布陣した。一方、迎え撃つ織田信長の兵力は3万強。武田の家老衆は、総大将 武田勝頼に撤退するよう進言する。兵力差が大きい上、おびただしい数の鉄砲を確認したからである。武田家の家老衆は、上杉軍との死闘を生き抜いた歴戦の勇者である。ムダな戦さを強いる軽率さはない。ところが、総大将 武田勝頼は決戦を決めた。この決断は、後世、勝頼の資質に触れるほど不名誉なそしりを受けるのだが、それには理由がある。

■武田勝頼の事情

武田勝頼は、武田家の頭領だが、信玄の二代目的な立場にあった。つまり、実質的創業者 信玄との相対評価が、そのまま勝頼の絶対評価になっていた。偉大な心理学者、武田信玄は、強固な家臣団を築いたが、彼らはあくまで信玄の子分である。二代目にも従順だとは限らないのだ。実際、信玄亡きあと、離叛者が出ている。

さらに、武田勝頼は、信玄の側室の子であった。信玄には正妻の子がいたが、信玄と対立し、早い時期に粛正されている。つまり、武田勝頼は、繰り上げ当選だったのである。そのため、武田家では、頭領の勝頼より、勝頼の子の方が上に置かれた。武田勝頼の激しい気性を考えると、心の鬱屈は想像にあまりある。勝頼が、このような暗い現実を打破する方法は一つしかない ・・・ 信玄をしのぐ功績をあげること。高天神城1つぐらいでは、不十分だったのである。偉大な父をもつ二代目の苦悩は、時代を超えて存在する。

このような運命(ほし)を背負った武田勝頼にとって、織田信長は格好の標的だった。この頃の織田信長は「桶狭間の戦い」、「信長大包囲網」という大試練を乗り越え、日本最大の勢力にのし上がっていた。自軍を複数の方面軍にわけ、同時に戦争を仕掛けるほどだった。常時動員できる兵力は約 10万人。この時代、これほどの常備軍を有する君主は世界でも数えるほどしかない。

長篠の戦いに臨んだ武田勝頼は、なんとしてでも、織田信長の首を取る必要があった。信長を倒せば、寝返った家臣たちも還ってくるかもしれない。逆に、織田の大軍に怖れをなして逃げ帰ろうものなら、離叛者はさらに増えるだろう。実際、長篠の戦いで敗れた後、武田家では離叛者が続出している。後世、「いのしし武者」とさげすまれた武田勝頼には、そうせざるをえない理由があったのだ。スクリーンに映し出された血気盛んな体育系「武田勝頼」を見るにつけ、この人物の運命を深く考えさせられる。歴史とは、不公平なものだ。

■鉄砲の三段撃ち

このような複雑な因果の結末が、長篠の戦いだったのである。信長公記は、この戦いを詳しく伝えているが、先に述べたように、鉄砲の三段撃ちは登場しない。それでも、織田軍がおびただしい数の鉄砲を持ち込んだことは確認できる。
「佐々成政、前田利家らに鉄砲1000挺持たせ、布陣させた」
とあるからだ。また、長篠の戦いで、織田軍は鉄砲隊を武田騎馬から守るため、馬防柵を張り巡らせたという。信長公記にもそれらしき記述がある。ただし、注意深く読むと、ただの柵ではなく、要害に近いものだったことが分かる。

長篠の戦いの緒戦、武田軍は、家老 山県昌景を一番手とし、織田陣営を攻め立てた。信長公記には、この間、織田の足軽は、身を隠したまま、ひたすら鉄砲を撃ちまくり、だれ一人前に出なかったと記されている。山県隊は、さんざん鉄砲で撃ちまくられ、ほうほうの体で退却する。それでも武田側は、二番手、三番手と次々と新手を繰り出す。しかし、その度に、過半数が鉄砲で撃ちとられていく。信長公記にはさらに恐ろしい記述もある。武田騎馬隊が押し寄せたとき、鉄砲の一斉射撃で、
あっという間に軍兵がいなくなった
とある。凄まじい鉄砲の打撃力である。

この時代、地球上のどこをさがしても、鉄砲1000挺の軍団などいなかった。だから、そんなハイテク軍団など想定外だったのである。長篠の戦いに臨んだ武田軍もしかり。だから、何度失敗しても、しゃにむに突撃するしかなかったのだ。1回の攻撃部隊が1000名~2000名として、1000個の銃弾が一斉に撃ち出される。
「一斉射撃で、軍兵がいなくなった」
も誇張ではないだろう。

長篠の戦いの「鉄砲1000挺の一斉射撃」はまさに、瞬殺の技だった。危険を察知した瞬間に壊滅、恐ろしい世界である。これこそ、織田信長がハードパンチャーたるゆえんなのである。武田勝頼の判断が遅かったのではない。鉄砲1000挺による瞬殺、つまり、損耗のスピードが速すぎたのだ。戦死者70パーセントの理由はここにある。歴史上有名な長篠の戦いは、どんな名将でも逃れられない特殊な戦闘だったのである。

また、鉄砲1挺でも発射時の轟音は、戦場に響き渡る。鉄砲1000挺の轟音というのは想像を絶する。意を決して突撃する武田軍に対し、突如、1000挺もの鉄砲の轟音がとどろくのである。人間も馬も、パニックにならないほうがおかしい。このような、大劣勢の中、武田軍は戦った。結果、武田軍の戦死者は1万人に達したが、織田軍の損害も数千名におよんだという。さすがは武田の騎馬軍団。ハイテク兵器相手にこれだけ善戦したのである。

■戦いの後

長篠の戦いの後半、武田家の四天王の1人、馬場信春が五番手として突撃する。奮戦虚しく、撃ち倒されるばかりであった。午後2時頃には、武田軍はほぼ壊滅。残された兵は、武田勝頼の旗のもとに集結し、退却を始める。追う側は勝ちに乗じて意気盛ん、一方、追われる側はパニックで軍紀を保つのも難しい。背後から攻め立てられた武田軍は大混乱に陥り、先の武田の家老衆もここで討ち取られた。こうして史上空前の戦死率70パーセントが記録されたのである。

一方、織田信長はこの戦いの後、武田の本国 甲斐に一気に攻め入ることはなかった。機が熟すれば、柿は自然に落ちることを、信長は知っていたのである。それを証明するかのように、その後、武田家で離反者が続出した。その中には、武田家の重鎮で縁戚の穴山信君もいた。決戦はもはや必要ない。戦国最強の遺伝子をもった武田軍さえ、突然変異の織田信長にはかなわなかったのだ。その正体もまた、鉄砲の一斉射撃という突然変異の「重いパンチ」であった。

《つづく》

参考文献:
太田牛一著 榊山潤訳「信長公記」富士出版

by R.B

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