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週刊スモールトーク (第340話) 明の太祖・朱元璋21~恐怖政治~

カテゴリ : 人物歴史

2016.12.11

明の太祖・朱元璋21~恐怖政治~

■恐怖政治の始まり

1368年8月、朱元璋の北伐軍は大都に入城した。元朝は中国から撤退したのである。

漢族は、100年ぶりに中国を(モンゴル族から)取りもどしたわけだ。一方、朱元璋も感無量。極貧に生まれ、25才で紅巾軍に身を投じ、わずか15年で、中国の皇帝にのしあがったのだから。

朱元璋は明朝の太祖となり、洪武帝とよばれた。

馬夫人は馬皇后に、嫡男の朱標は皇太子になり、親族は諸侯に封じられた。一方、苦楽をともにした家臣も報われた。その筆頭が開国の大功労者、李善長と徐達である。李善長は第1位の左丞相に、徐達は第2位の右丞相に任じられた。メデタシ、メデタシ(この時は)。

朱元璋は幸運だった。

このとき、まだ40歳。さらに30年の寿命が与えられたのだから。統治体制をかためるには十分だっただろう。

洪武帝の政策は、徳川家康とよく似ている。

地味で、退屈で、面白みがない・・・ただし、違いもある。家康は家臣を「生かさず殺さず」だが、洪武帝は「皆殺し」。

家臣にとって迷惑な話だが、中国の王朝交代ではおなじみの慣例行事なのでしかたがない。

洪武帝の地味な政策は2つあった。

1.鎖国主義と非侵略主義(外交)

海外貿易に消極的で、領土拡大も行わない。

2.封建主義と恐怖政治(内政)

封建的階層社会を維持し、家臣を秘密警察に見張らせる。

これでは、退屈なイベントしか生まれない。面白い歴史も物語れない。

それもこれも、すべて統治者の生まれ育ちのせい。

洪武帝は郭子興という短気で気まぐれな上司に仕え、さんざん苦労した。一方、家康も信長という恐ろしい魔王に仕え、ピリピリの半生を送った。

あんなに苦労したのだから、せっかく手に入れた報酬をむざむざ手放したくない、と思っても不思議はない。早い話、自分の皇統が続くことがすべてなのだ。そのため、変化と革新の芽を摘むことに精を出す。だから、地味な社会になるのはあたりまえ。

家康は、大名の家族を人質にとり、参勤交代でカネを使わせて、謀反を起こさないようにした。

一方、朱元璋はさらに徹底していた。秘密警察を使って、あることないことでっちあげ、重臣を粛清したのである。実力者をすべて殺せば、王朝は安泰というわけだ。

■秘密警察

朱元璋の秘密警察は2つあった。

「検校(けんぎょう)」と「錦衣衛(きんいえい)」である。この2つは元々、役所の不正を摘発するための組織だったが、のちに変質する。重臣を監視し、告発する特務機関へと。告発されたら最後、「有罪→死刑」はまぬがれない。

まるで、18世フランス革命の恐怖政治ではないか。

犠牲者の数では、明朝の足元にもおよばないが。

1793年9月13日、フランス革命政府は恐るべき法を発布する。「反革命容疑者法(プレリアール22日法)」である。革命に反対する者を取り締まる法律だが、内容が凄まじい・・・

反革命が疑われる者は、証拠がどんなに不十分であろうと、あるいはまったくなかろうと、逮捕し、裁判にかけ、有罪にし、処刑できる(※2)。

タチの悪いジョーダンにみえるが、本当だ。

フランス革命の理想「自由・平等・友愛」はどこへいったのだ?

当時、フランス革命政府は、穏健なジロンド派と急進的なジャコバン派の確執があったが、この法案を通したのはジャコバン派のロベスピエールである。

これをみたジロンド派のロラン夫人はこう嘆いたという。

「パンを乞うたら、死体が返ってきた」

(フランス革命は民衆がパンを求めて行進したことに始まる)

じつは、当のロラン夫人も処刑されたのだが、そのとき、名言を吐いている。

「ああ自由よ、汝の名の下で、いかに多くの罪が犯されたことか!」

うまいこという。さすが、知性と教養で知られたインテリだ、などと言っている場合ではない。この法律のせいで、1793年、パリで3000人、地方で1万4000人が処刑されたのだ(※2)。

もっとも、言い出しっぺのロベスピエールも、最終的にギロチン台の露と消えたのだが。

告発した者が、つぎに告発される・・・明朝の恐怖政治と相似だ。

明朝の恐怖政治を生んだのは洪武帝の猜疑心だが、もう一つ原因があった。明朝の派閥抗争である。

■淮人派閥

明朝には「淮人」の派閥があった。

淮人とは、中国第三の大河「淮河」流域の出身者をさす。淮河は長江と黄河の間を東西に流れる大河で、春秋戦国時代は「楚」の地だった。そのため、淮人は「楚客」とよばれた(「客」は特別待遇を意味する)。

淮人は淮西集団を結成し、明朝の権力を独占した。そのため、「淮西派閥」ともよばれる。

ではなぜ、こんな横暴が許されたのか?

朱元璋をはじめ、重臣の李善長、徐達、湯和、周徳興、常遭春、すべて淮人だったから。

とくに、李善長の「淮人ひいき」は常軌を逸していた。それを朱元璋が容認したから、「派閥=格差」が生まれたのである。

たとえば、李善長と劉基。

ともに、開国の大功労者だが、待遇には天地の開きがあった。二人の功績は甲乙つけがたく、李善長は左丞相に任じられ、劉基も丞相の候補になっている。さらに、能力では劉基が上かもしれない。

というのも、劉基は天下の大秀才だった。元朝末期、漢族に大きなハンディがあったにもかかわらず、科挙(官僚登用試験)に合格しているのだ。しかも、文武両道で、三国時代の諸葛亮孔明と並び称せられた。

ところが、待遇は・・・

李善長は韓国公で「4000石」。一方、劉基は誠意伯で「240石」。功績も能力も変わらないのに、待遇は桁違い。

理由はカンタン、劉基は浙東出身だったから(淮人にあらず)。

淮人と非淮人でこれだけの格差があったのだ。

非淮人が面白くないのはあたりまえ。そこで、浙東の有力者たちは浙東集団を結成し、劉基を領袖にすえた。そして、淮西集団(淮人)と鋭く対立したのである。

さらに・・・

李善長は劉基が大嫌いだった(逆は真ならず)。

自分が、劉基より出世し、桁違いの待遇を受けているのに。これには理由があった。出身地以前に、性格が真逆だったのだ。

明朝が成立する前のことである。

朱元璋(洪武帝)がべん梁を攻めたとき、李善長と劉基は南京の留守をしていた。このとき、中書省(中央官庁)の李彬(りひん)が法を犯した。

李彬は淮人だったので、李善長は同郷のよしみで李彬を許すよう、劉基に依頼した。ところが、劉基はズルを許さない。朱元璋に真実を報告したのである。結果、李彬は処刑された。

李善長は激怒した。それから、劉基を深く恨むようになったのである。李善長はバランスがよく、優秀な文官だったが、ことが「同郷(淮人)」になると人が変わった。

そんなこんなで、淮西集団と浙東集団の対立は深まるばかりだった。

■劉基Vs李善長

明朝が成立すると、李善長の「淮人第一主義」は加速した。丞相をはじめ、要職を淮人で独占したのである。

たとえば、李善長が丞相を退任するとき、次の丞相を誰にするかで一悶着あった。

李善長は、同郷で姻戚関係にある胡惟庸を推した。一方、洪武帝は、李善長ほど淮人に執着はない。そこで、劉基に意見を求めた。

「楊憲、汪広洋、胡惟庸の中で、誰が丞相にふさわしいか?」

劉基は楊憲と仲が良かったが、えこひいきはしなかった。彼はこう答えた。

「楊憲は才能はありますが、器量に欠けます。汪広洋は軽薄な俗物で、才能も器量もありません」

そして、「胡惟庸は論外」とつけくわえた。

「論外」といわれ、ナットクする者はいない(たとえ自覚していたとしても)。人づてにそれを聞いた胡惟庸は、劉基を深く恨んだ。

というわけで、このときの丞相レースのオッズは・・・

実力なら「楊憲>汪広洋>胡惟庸」

コネなら「胡惟庸>汪広洋>楊憲」

なぜ、コネで楊憲が最低なのかというと、淮人ではなかったからだが、もう一つ理由があった。コネの親玉、李善長に恨まれていたのである。

楊憲は、秘密警察「検校」の出身だった。劉基が認めたように楊憲は有能だった。部下を使い、李善長の身辺調査を行い、

「李善長は無能、丞相の器にあらず」

と触れ回ったのである。李善長に恨まれてあたりまえ。その後、楊憲は、李善長の子分の胡惟庸に殺された。

ちなみに、このとき丞相になったのは、汪広洋である。

胡惟庸は劉基が認めないし、楊憲は李善長が認めない・・・そこで、消去法で汪広洋に決まったのである。

現代の人事でもよくある話。

「なんであんな奴が!?」には、似たような事情があるのだ。

その後、胡惟庸と李善長の「劉基いじめ」は加速した。

洪武帝に、劉基の讒言(ざんげん)の雨アラレ。ところが、猜疑心の強い洪武帝も、

「あいつ(劉基)が謀反する気があるなら、もうやっている」

と言ってとりあわなかった。それでも讒言は続いた。

1371年、劉基は、洪武帝に隠居を願い出た。

淮西集団が政権を支配し、自分をおとしめようとしている。これ以上政権にとどまってもいいことはないだろう・・・

■胡惟庸の栄光

1373年、胡惟庸は右丞相に任じられた。左丞相につぐ、明朝第2の高位である。

徐達ら重鎮は、この人事に反対したが、洪武帝は聞き入れなかった。徐達は淮人だが、劉基と似たところがあり、淮西集団への執着はなかったのである。

1375年、劉基は心労がたたって、病に伏した。すると、胡惟庸は劉基に医師を送り込んだ。治療のためと称して・・・ところが、劉基は医師が処方した薬を飲んで死んだ。

1379年、左丞相の汪広洋が失脚した。

劉基が看破したとおり、汪広洋は、政(まつりごと)に興味はなく、詩歌と酒を愛する俗物だった。その上、警戒心も慎重さもない。結果はみえていた。汪広洋は左遷されたあげく、殺されたのである。代わって左丞相に任命されたのが胡惟庸だった。

こうして、胡惟庸は念願の最高位にのぼりつめた。

ところが、胡惟庸は李善長のような用心深さ、慎重さはなかった。

巨大な権力にのめりこみ、我を忘れたのである。

明朝の初め、全国の政治を統括していたのは「中書省」である。現在の中央官庁にあたるが、裁決権は左丞相にある。しかも、中書省の官僚の任免権も左丞相が握っていた。左丞相は政治を思うままに操れるわけだ。

ブレーキをかけられるのは皇帝のみ。

ところが、胡惟庸は皇帝への上奏文を事前にチェックしていた。自分に都合の悪いことを握りつぶすために。まさに無敵・・・

ところが、洪武帝には秘密兵器があった。

「検校」と「錦衣衛」である。洪武帝は、胡惟庸のやりたい放題の報告をうけていた。皇帝はこう考えた。胡惟庸は始末するとして、他にも謀反人がいるのでは・・・

こうして、恐ろしい大粛清がはじまった。重臣たちが次々と殺されていくのである。

《つづく》

参考文献:
(※1)「超巨人 朱元璋 運命をも変えた万能の指導者」 原作:呉晗 堺屋太一 志村嗣生、志村三喜子 講談社
(※2)「世界の歴史を変えた日1001」ピーター ファータド (編集), 荒井 理子 (翻訳), 中村 安子 (翻訳), 真田 由美子 (翻訳), 藤村 奈緒美 (翻訳)  ゆまに書房

by R.B

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