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週刊スモールトーク (第336話) 明の太祖・朱元璋(17)~陳友諒の最期~

カテゴリ : 人物歴史

2016.10.23

明の太祖・朱元璋(17)~陳友諒の最期~

■小明王、絶体絶命

1362年の暮、元朝と朱元璋の和平がなった。

この頃、元軍は小明王を圧倒していた。その小明王の家来が朱元璋なのに、なぜ元軍は朱元璋と和平する必要があったのか?

地図で理由を確認しよう。

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元朝が小明王を東南に圧迫している。小明王は風前の灯火だ。ところが、元軍も戦術が限られていた。まず、益都を落とし、その後、安豊を落とすしかない。先に安豊を落とすと、益都の小明王と応天の朱元璋に挟撃されるから。そのため、元軍は益都を落とすまで、朱元璋と和平したのである。

一方、朱元璋にしてみれば、元朝と和平すれば、天敵の陳友諒に兵力を集中できる。朱元璋も元朝も「二正面作戦」を回避できるから、Win-Win。

で、現実はどうなったのか?

先のシミュレーションどおりに展開した。

1362年、元軍が益都を攻めた。総大将はグユクティムール、名将チャハンティムールの養子である。グユクティムールはチャハンティムールが失脚した後、元軍を引き継いでいた。

一方、小明王の主力は安豊にいた。小明王は「宋国」を自称していたが、実権を握っていたのは劉福通。小明王はお飾りにすぎず、「宋」の命運は劉福通にかかっていた。

ところが・・・

劉福通は勇ましく声もがデカいが、グランドデザインが描けない(頭が弱い?)。しかも、人望がなく、統率力もないので、軍はバラバラ。そのため、一度負けると連戦連敗、とめどがなかった。

事実、益都が元軍に包囲されたとき、劉福通は救援にむかったが、大敗。算を乱して遁走する有様だった。主家の面目、丸つぶれである。

ここで、弱り目にたたり目、さらなる災いが降りかかる。

■張士誠の攻勢

ひきこもりの張士誠である。1363年2月、張士誠の武将・呂珍(りょちん)が安豊を包囲したのである。このとき、益都は元軍に包囲され、陥落は時間の問題だった。もし、安豊も落ちれば一大事。小明王の「宋」は完全に消滅する。

そこで、劉福通は主家のプライドを捨てて、朱元璋に助けを求めた。一方、朱元璋も無視はできない。「宋」が消滅すれば、対元軍の防波堤が決壊するのだ。そこで、朱元璋は安豊に援軍を出すことにした。

ところが、軍師の劉基が猛反対する。

「陳友諒が、すきに乗じて攻め込んだらどうするのです。手薄になった守備隊では守りきれません。応天(都)が落ちたら、安豊に派遣した主力軍は進むことも退くこともできません。そもそも、宋の皇帝である小明王を救出して、待遇をどうするのですか?そのまま、皇帝にするのですか、それとも殺すのですか。もし、前者なら、われわれは主導権を失い、利がありません。後者なら、そもそも小明王を救出する意味がありません」

水も漏らさぬ完璧な論理である。ところが、朱元璋は自ら軍を率いて安豊にむかった。安豊が落ちれば、朱元璋の都・応天が危険にさらされる。安豊は呉越同舟と考えたのである。

ところが・・・

それを見計らったように、陳友諒が侵攻する。60万の大軍で洪都を包囲したのである。地図をみると、張士誠と陳友諒が朱元璋の領土を挟撃する形になっている。

劉基の予測が的中したわけだ。

安豊に手こずっていると、陳友諒は洪都を落とし、都の応天に攻め上る。そうなれば、朱元璋の領国は崩壊する。一刻も早く、安豊のかたをつけなくては・・・

ところが、朱元璋軍が安豊に到着すると、劉福通はすでに死んでいた。そこで、呂珍軍を追い払い、小明王を救い出した。

ところで、その後、小明王はどうなったのか?

劉基が懸念した、皇帝にするのか、殺すのか、である。

どちらでもなかった。

徐州に宮殿をつくり、住まわせたのである。

皇帝扱い?

そうでもない、実態は幽閉だった。宮殿の文官、世話係、すべて朱元璋の息のかかった者だったから。

敗軍の皇帝なんだから、それで満足するべきでは?

ノー!

小明王は完全に隠居するべきだった。哀れで悲惨な末路を避けるためにも。

■ハ陽湖の決戦

話を陳友諒にもどそう。

陳友諒は、朱塗りの巨艦、数百隻に分乗し、60万の大軍で攻め込んだ。ところが、洪都はなかなか落ちない。洪都の守将・朱文正(朱元璋の甥)の頑張りもあったが、強力な火器があったのである。「火銃をもちいて洪都を死守した(※)」と記述があるのだ。

とはいえ、史上初の火銃「火縄銃」が発明されるのは、100年後のヨーロッパ。つまり、ここに登場する「火銃」は火縄銃ではない。具体的には、銃身があって、火薬の爆発力で、弾丸を発射する鉄砲ではない。

おそらく・・・

元寇で元軍が使用した「てつはう」のたぐいではないか。容器に火薬を詰め込んで、火をつけて投げつける手榴弾。爆発音で、人馬を驚かすもので、弾丸を貫通させたり、爆発片で殺傷する兵器ではない。

結局、守将・朱文正の巧みな采配、強力な火銃、鍛え抜かれた将兵のおかげで、洪都は85日間も持ちこたえた。

一方、朱元璋も洪都の奮闘にむくいた。安豊の呂珍軍を撃退すると、きびすを返し、洪都に直行したのである。朱元璋は、1363年7月に到着したが、陳友諒軍の姿はなかった。じつは、朱元璋が出撃したと聞いて、ハ陽湖(はようこ)まで撤退したのである。

こうして、間一髪、洪都は救われた。

ところで・・・

このときの朱元璋軍20万、陳友諒軍60万。数の上で圧倒する陳友諒が、なぜ撤退したのか?

朱元璋軍と洪都の守備隊に挟み撃ちにされるのを恐れたのである。

さらに、陳友諒軍は、85日におよぶ包囲戦で疲れ果てていた。一方、朱元璋軍は連戦連勝で、士気が高い。

じつは、このとき、朱元璋はある決意をしていた。陳友諒を撃退するのではなく、息の根をとめる・・・

朱元璋は、決戦の前に、ハ陽湖から長江への出口を封鎖した。陳友諒の退路を断ったのである(袋のネズミ)。

ハ陽湖の決戦が始まると、朱元璋は新兵器を投入した。没奈何(ぼつなか)・・・「いかんともしがたい」という意味で、威力のほどがわかるというものだ。周囲150cm、長さ210cmのヨシ(イネ科の多年草)で編んだ容れ物の中に、火薬と導火線をいれ、サオで敵の舟に投げ込むのである。

火球が舟の中で炸裂するわけで、効果は絶大。舟が炎上したら、逃げ場がないから。

それでも、ハ陽湖の戦いは激戦だった。水は血で赤く染まり、なかなか決着がつかなかった。

ところが・・・

開戦から36日後、陳友諒軍は糧食が尽きはじめた。「ハ陽湖から長江への出口の封鎖」が効いたのである。理由はカンタン、糧食を長江からハ陽湖に持ち込めないから。

撤退か、餓死か?

もちろん、陳友諒は撤退を選んだ。ところが、退路が封印されている。凄惨な撤退戦がはじまった。陳友諒は戦死、息子の陳理は命からがら武昌に逃げ帰った。

■朱元璋が王に即位

1364年1月、朱元璋は「呉王」を名乗った。李善長を右相国、徐達を左相国に任じ、長男の朱標を世継ぎとさだめた。

くわえて、軍の装備も強化した。

矢尻を銅製から鉄製に変更し、火銃、石砲も装備した。さらに、城攻め用のズボンも考案した。敵の矢が貫通しないように肉厚で長いズボンである。朱元璋はアイデアマンでもあったわけだ。そして、兵数も数十万に達した。名実ともに一国の王になったのである。

準備万端整った朱元璋は、武昌に侵攻した。1364年2月、陳友諒の息子・陳理は投降、「大漢」は滅んだ。

結局、朱元璋は安豊を救い、陳友諒も滅ぼしたのである。メデタシ、メデタシ、結果よければすべて良し。

ところが、朱元璋はそうは思わなかった。朱元璋はのちに劉基にこう語ったという。

「おまえが言ったように、安豊に行くべきではなかった。もし、陳友諒が直接、応天(都)を突いていたら、退路を絶たれ、軍は壊滅していた。たまたま、陳友諒は洪都を囲み、守備隊が3ヶ月間もちこたえてくれたから良かったのだ」

この頃の朱元璋は、天使のように大胆に、しかし、悪魔のように細心だったのである。

■陳友諒滅亡後の勢力図

天敵「大漢(陳友諒)」が滅んだ後、勢力図はどうなったのか?

まずは、政府軍(元軍)。

1.ボロティムール(河北)

2.グユクティムール(河南)

の2大派閥があった。他に、関中に漢人将軍の李思斉(りしさい)と張良弼(ちょうりょうひつ)がいたが、オマケ。

戦力をみると・・・

数ではボロティムールが優勢だが、精強さではグユクティムールが優る。一方、李思斉と張良弼は論じるまでもない(端数)。

そして、ここが肝心なのだが、ボロティムールとグユクティムールは、元朝の内部抗争に巻き込まれていた。つまり、反乱軍と対峙する余裕はない。

さらに、李思斉と張良弼の関中は道が不便で、兵站に問題があった(長期間戦えない)。

つまり、当面は・・・

政府軍(元軍)は朱元璋の脅威にはならない。

つぎに、反乱軍だが、紅巾軍系と非紅巾軍系があった。

紅巾軍系は、1351年にはじまった紅巾の乱の主力である。明教・白蓮教の信徒が中心で、貧しい農民・小手工業者・流民で編成されていた。支配階級から搾取される最下層の階級である。そのため、彼らは元朝のモンゴル人や漢人地主に深い恨みをいだいていた。根が「ねたみ・ひがみ・うらみ」なので、一切の妥協はない。体制を倒すまでとことん戦うのである。

ちなみに、この時期残っていた紅巾軍系は、朱元璋(呉)だけだった。

一方、非紅巾軍系は、塩の密売人、中小地主、小作民(貧農ではなく)で、紅巾軍系より少し上の階級。彼らも搾取される側だが、生きるか死ぬかの貧乏ではなく、もっと贅沢したいという欲。だから、「ねたみ・ひがみ・うらみ」まではいかないわけだ。

というわけで、非紅巾軍系は「打倒!元朝」に執着がなかった。

事実、非紅巾軍系の指導者たちは、民族闘争(反モンゴル)、階級闘争(反体制)を掲げることもなく、勝手に国号を名乗って、王族よろしくヘドニズム(享楽主義)に浸っていた。だから、雲行きがあやしくなると、さっさと元軍に投降した。中には、方国珍のように、元朝に反抗したり、投降して官位をもらったり・・・それを繰り返して、丞相(地方の知事)まで出世する強者もいた。

ちなみに、この時期、非紅巾軍系で残っていたのは、

1.張士誠(大周の皇帝)

2.方国珍(浙東の頭領)

方国珍は、領土が狭く、兵も弱かった。そのため、とことん「ひきこもり」で、朱元璋に対しても平身低頭だった(表面的に)。だから、朱元璋の脅威にはなりえない。

一方、張士誠は海賊業と塩の密売で儲けた資金があり、兵も精強だった。

というわけで、朱元璋にとって、当面の敵は張士誠!

この頃、張士誠は「東呉」、朱元璋は「西呉」とよばれていた。つまり、反乱勢力の2強。事実、「朱元璋vs張士誠」の戦いは10年も続いたのである。

《つづく》

参考文献:
(※)「超巨人朱元璋・運命をも変えた万能の指導者」原作:呉晗、堺屋太一、志村嗣生、志村三喜子、講談社

by R.B

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