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週刊スモールトーク (第328話) 明の太祖・朱元璋9~四面楚歌~

カテゴリ : 人物歴史

2016.07.09

明の太祖・朱元璋9~四面楚歌~

■四面楚歌

朱元璋の最大のライバルは、時の政権「元朝」ではなく・・・内輪もめ。

?!?

こんな不条理は時を超えて存在する。

14世紀、紅巾の乱で揺れる中国、朱元璋がいた濠州城では、2つの勢力が争っていた。

郭子興(かくしこう)が担ぐ彭大(ほうだい)と、孫徳崖(そんとくがい)が担ぐ趙均用(ちょうきんよう)である。しかも、彭大は「魯淮王」、趙均用は「永義王」を名乗り、どちらも王様気分なので、妥協の余地はない。

ちなみに、朱元璋が仕えていたのは郭子興だった。

リアリスト&問題解決至上主義者の朱元璋にしてみれば・・・やってられない。四方強敵に囲まれて四面楚歌なのに、内輪もめをやっている場合か!

とはいえ、家来なので口には出せない。

地図でみると四面楚歌は明々白々だ・・・

マップ中央の濠州城が朱元璋らの紅巾軍。その北方には現政府の元朝が陣取り、東方には塩の密売人上がりの張士誠、西方には布売り商人上がりの徐寿輝(後に陳友諒)、南方には水軍の頭目で「海の男」方国珍がいる。元朝以外すべて反乱軍なのだが、団結して元朝にあたることはなく、相争っていた。というわけで、四面楚歌・・・

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■幼友だち

朱元璋にとって、胃に穴があくような毎日だったが、ある日、良いことがあった。

幼友達の徐達(じょたつ)と周徳興(しゅうとくこう)が、朱元璋の元に、馳せ参じたのである。一番の幼友達の湯和(とうわ)はすでにいっしょだったので、幼なじみが全員そろったわけだ。

じつは、この3人は、子供の頃、朱元璋といっしょに牛泥棒した仲間だった(正確には牛を焼いて食べた)。

徐達は、朱元璋より3歳若く、ガタイがでかく、勇猛だった。

湯和は、朱元璋より3歳年上で、体は小さかったが、知謀に優れていた。そして、ここが肝心なのだが、朱元璋の本性を知り尽くしていた。さらに、朱元璋を心から尊敬していたので、後の大粛正をまぬがれることができた。

さらに、戦うサイボーグ(たとえです)、邵栄(しょうえい)も合流した。

このとき集結した仲間は、この後、朱元璋と生死をともにし、明朝創立の大功労者となる。

じつは、彼らには共通点があった。

朱元璋と同郷の淮西人。これが彼らの結束を強固なものにしていた。

徐達と周徳興が紅巾軍に投じたことが伝わると、続々と兵が集まってきた。10日で、700名が入隊したという。この功績で、朱元璋は地域の軍を統括する「鎮撫」に昇進した。さらに、1年後には、一軍を率いる「総官」にまでのしあがった。

出自を考えると大出世だが、朱元璋は気を緩めなかった。その後も、骨身を惜しまず働いたのである。

では、朱元璋は何を狙っていたのか?

中国の皇帝?

今となっては知る由もないが、この時点では、「生き延びる」に精一杯だったのではないか。この頃の朱元璋の行動をみると、石橋をたたいて渡る、未来を予見しつつ「目の前の問題」を優先する、そんな手堅さが見て取れる。ただし、何をするにも一生懸命だったが。

そして、このときの「目の前の問題」は四面楚歌での内輪もめ。彭大(魯淮王)や趙均用(永義王)にかかわっていたら、明日はない。

それに、彭大・趙均用の軍は、訓練不足で規律もよくなかった。だから、外敵に攻めこまれたらイチコロ。このままでは、元軍に押しつぶされるか、他の反乱軍に呑み込まれるか、内輪もめで自滅か・・・ロクな未来ではない。

そこで、朱元璋は一大決心する。濠洲の紅巾軍を見限って、独立しようというのだ。

■独立への道

朱元璋は、彭大、趙均用から預かっていた古兵をすべて返した。代わりに、新兵をもらい受ける許可を得たのである。その後、朱元璋は徐達ら24人と南の定遠に遠征した。人馬を集めるためである。

その時、朱元璋に千載一遇のチャンスが訪れる。

驢牌塞(ろはいさい)に、民兵3000人が孤立しているというのだ。しかも、兵糧は尽きかけ、援軍の見込みもないという。

もし、この軍を併呑(へいどん)すれば、3000人の兵が手に入る。3000といえば、現代の連隊に匹敵する。小さな作戦なら一任される戦力だ。

朱元璋は、驢牌塞に着くや、民兵の主将を説得した。

このままでは兵糧がつきて、のたれ死する。一刻も早く、我々と合流されたし。

ところが、主将はなかなか決断しない。そこで、朱元璋は詭計(きけい)をろうした。

まず、宴会と称して、主将を招いて拉致した。その後、主将の命令と偽って、民兵3000に横澗山(おうかんざん)を攻めたのである。

このとき、横澗山には、元朝側の民兵2万が立てこもっていた。

元朝側の民兵?

元朝の正規軍ではなく、地方の有力者が雇った傭兵や義勇兵である。この頃、元朝は弱体化し、地方に兵力を割く余裕はなかった。そこで、元朝は兵の調達を地方の地主や官吏に任せ、戦術士官を派遣していた(一人ですむ)。

横澗山に立てこもった民兵2万もこれだった。ところが、この軍は元朝に見捨てられていた。

この少し前・・・

元軍10万が濠州を包囲したとき、土地の地主が2万の兵をかき集め、旗揚げした。元軍と呼応して紅巾軍殲滅をはかったのである。

ところが、元軍は濠州を落とすことができなかった。あげく、総大将が死ぬと、さっさと撤退。2万の民兵はハシゴを外されたわけだ。孤立無援となった民兵は、横澗山に退いて守りを固めるしかなかった。

朱元璋は、花雲に命じて、横澗山を四方から攻めさせた。天地をゆるがす太鼓と歓声で、元軍の戦術士官は一人トンズラ。置いてけぼりを食らった兵2万は投降するしかなかった。

こうして、朱元璋は待望の大軍を得た。朱元璋は、この民兵を訓練し、精鋭2万をつくりあげた。

■人材集まる

占領した定遠には、馮国用(ふうこくよう)、馮国勝(ふうこくしょう)の兄弟がいた。この地で知られた秀才兄弟である。

馮国用は知略に長け、馮国勝は勇猛だった。馮国兄弟は、紅巾の乱が勃発すると、土地の地主らと民兵を編成した。はじめは元朝側だったわけだ。ところが、情勢をみると単独では生き残れない。どこかとくっつかなくては・・・

そんなおり、朱元璋の軍が規律が良いことを聞き、投降したのである。

朱元璋は馮国用に、基本戦略を尋ねた。すると、彼はこう答えた。

「まず、建康(現在の南京)を手に入れ、領土を拡大するのがよいでしょう。建康は豊かな土地で、大軍を養うことができます。つぎに、女性と財宝をもとめず、良い行いを心がけてください。そうすれば、おのずと民心が得られるでしょう」

感心した朱元璋は、馮国用を参謀に取り立てた。

また、徐州へ進行中に、李善長(りぜんちょう)が接見を求めてきた。

李善長は、この地で知られた大秀才である。あらゆる書に通じ、知略があり、法律にも精通していた。

朱元璋は、李善長に尋ねた。

いつになったら太平の世がくるのか?

李善長はこう答えた。

「漢の高祖(創始者)劉邦に見習うとよいでしょう。高祖は、平民の出身でしたが、度量が広く、よく人材を登用し、みだりに人を殺しませんでした。彼はたった5年で天下を平定したではありませんか。今、元朝は民心を得ていません。宮廷は内部抗争にあけくれ、中央と地方は和せず、崩壊寸前です。もし、劉邦を見習うなら、太平の世は目前です」

朱元璋は大いに喜んで、李善長を掌書記(秘書長)に任じた。

その後、朱元璋は漢の高祖・劉邦を手本にするようになった。朱元璋と同じ百姓の出身で、同郷だったからである。

李善長は、朱元璋と家臣の間をうまくとりもったので、組織運営が円滑に行われた。

このように、李善長は朱元璋には欠かせない人材だったが、欠点もあった。同郷意識が強過ぎたのである。明朝が成立すると、李善長は差別的な人事を行った。淮西人を最優先にしたのである。それがあまりに露骨だったので、深刻な内部対立を生んだ。

一方、朱元璋も同郷の淮西人を重用したが、李善長ほどではなかった。能力と実績が第一で、適材適所を心がけたのである。朱元璋と李善長は、天下取りにリーチがかかるまでは利害が一致し、信頼しあっていた。ところが、明朝が成ると、対立が表面化し、最終的に決裂したのである。

 《つづく》

参考文献:
「超巨人 朱元璋 運命をも変えた万能の指導者」 原作:呉晗 堺屋太一 志村嗣生、志村三喜子 講談社

by R.B

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