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週刊スモールトーク (第326話) 明の太祖・朱元璋7~結婚と出世~

カテゴリ : 人物歴史

2016.05.14

明の太祖・朱元璋7~結婚と出世~

■入隊

1352年3月、朱重八(朱元璋)は濠州に到着した。紅巾軍に身を投じようというのである。

この頃、濠州は・・・

紅巾軍が濠州城に立てこもり、それを元軍が包囲していた。ところが、元軍は攻めるわけでも退くわけでもない。一方の紅巾軍は濠州城にひきこもり。兵糧がつきたら、食糧確保に近場の農村に出撃、そこで、元軍と遭遇したら、やおら戦闘が始まる・・・

そんなヌルい状況だから、重八は難なく濠州城に入ることができた。

重八は紅巾軍の一兵卒からスタートしたが、すぐに頭角を現した。体が大きく、膂力(りょりょく)があり、記憶力も抜群だったから。

さらに・・・

重八は、謀(はかりごと)に長け、決断力があり、臨機応変の才もあった。くわえて、沈着冷静で、態度に落ち着きがある。そのため、仲間からの信頼は絶大だった。それは戦果にもあらわれた。出撃すれば必ず手がらを立て、仲間の損失が少ないのである。

一兵卒として優秀だが、リーダーとしてはもっと優秀。これで出世しないわけがない。

そもそも、戦場は命の取り合い。殺すか、殺されるか、究極の弱肉強食世界なのだ。人柄とか道徳とか、あいつ空気読めないよね、とか言ってる場合ではない。つまり、

人間の価値=弱肉強食度

もちろん、重八の弱肉強食度は最大なので、隊長に一目置かれるようになった。

そんなおり、重八の運命を決定づける出来事がおきる。郭子興(かくしこう)が巡視にきたのである。郭子興は、濠州の紅巾軍の指導者の一人だった。

郭子興は、元帥とよばれていたが、オーソライズ(公認)されていたわけではない。濠州の紅巾軍には、他に4人の元帥がいたが、全員が”自称”元帥。紅巾軍本隊の頭目、小明王から任命されたわけでも、国から任命されたわけでもない。そもそも、素性の知れない連中が集まった反乱軍なのだから、オーソライズもへったくれもない。

とはいえ、この時代、中国はおおむねこんなものだった。オンリーワンの王でさえ・・・

1.国号「天完」:湖北で布売り商人の徐寿輝が皇帝を名乗る。

2.国号「大周」:蘇州で塩の密売人の張士誠が誠王を名乗る。

3.国号「宋」:亳州で明教の教主の韓林児が小明王を名乗る。

4.国号「元」:唯一オーソライズされた大都の順帝(トゴン・テムル)。

こちらが勢力図↓

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こりゃもう、言うたモン勝ちですね。

それに、元帥というのは大将の上で、軍を率いれば10万人はくだらないのに、濠州の紅巾軍の場合、5000~2万人。元帥というより隊長だろう。

■出世

ところで、郭子興の巡視が、重八の運命をどう変えたのか?

重八の身分を、極貧からセレブへ引きあげてくれたのである。

郭子興が到着すると、紅巾軍の全兵卒が整列した。観閲が始まると、ひときわ目立つ兵士がいた。重八である。隊列から頭一つ飛び出している(背が高い)。しかも、体もがっしりしていて、顔つきも精悍だ。

こいつはものになるかも・・・

郭子興は隊長を呼びつけ、重八のことをネホリハホリ聞いた。すると、隊長は重八をホメちぎり、千に一つの逸材と言い切った。喜んだ郭子興は重八を親衛隊の九夫長(9人の兵卒の長)に抜擢した。

食うや食わずの生活から、1年足らずで、元帥の親衛隊員に昇進したのである。日々の精励が実を結んだわけだ。チャンスは誰にでも降ってくるわけではない、天は自ら助くる者を助く、ですね。

出世の第一歩を踏み出した重八だったが、その後も評価は上がり続けた。悪魔のように細心に、天使のように大胆に、どんな難しいミッションもやりとげるのだ。

しかも、才能にあぐらをかくことなく、何ごとも真摯に取り組み、一切の手抜きをしない。

戦場では、つねに士卒の先頭に立ち、命を惜しまなかった。

戦利品を得ると、すべて親分の郭子興に差し出した。

恩賞が与えられると、すべて戦友たちと分かち合った。

ひょっとして、聖人君子!?

ではなく・・・すべて欲得ずく。

正体は、問題解決しか頭にない史上最強のリアリスト。もっとも、それが露見するのは明朝が成立する後だが。そのとき、何がおこったか?

用無しになった幼友達や功労者や重臣が皆殺しにされたのである。コワイコワイ!

もし、身近に、絶望的な状況においても、眉一つ動かさず、問題解決に集中する人がいたら、要注意。憧れてもいいけど、ついて行ってはいけませんよ。最後はトンデモない目にあわされるから。

事実、この時期の重八は、最高の部下、最高の上司にみえたのである。

こうして、数ヶ月経つと、重八の評価は高値安定した。頭脳明晰で、勇敢で、決断力にとみ、信義に厚い、非のうちどころのない人物だ。

郭子興は鼻高々だったが、喜んでばかりもいられない。

こんな有能な男が、敵側に回ったら、どーするのだ?

褒美を与えても、昇進させても、しょせんは、赤の他人、もっと良い条件の方に寝返るかもしれない。時代は乱世、適者生存、弱肉強食なのだ。

じゃあ、どうすればいい?

敵に寝返る前に殺す・・・という身もフタもない方もあるが、もっと穏便にすます方法がある。身内にすればいいのだ。

■結婚

かつて、郭子興に、馬公という友人がいた。郭子興が挙兵したとき、呼応して兵をおこしたのだが、運悪く落命した。哀れに思った郭子興は、馬公の娘を養女として育てていた。

この養女を重八に嫁がせたら・・・

重八は郭子興の女婿になり、晴れて郭家のファミリーになる。

我ながら名案と思い、張夫人に相談したところ、彼女は一も二もなく賛成した。

張夫人は、重八が優秀なことを知っていたのである。重八のような身内がいてくれたら、キレやすい郭子興の抑止になり、他の4人の元帥とうまくいくかもしれない。

こうして、重八は郭子興の養女と結婚した。のちの馬皇后である。

馬皇后・・・中国史上最高の「良妻」として知られる。重八の天下取りにどれだけ貢献したかわからない。

日本でいうなら、山内一豊の妻?

山内一豊は戦国時代の武将だが、知名度は低い。ところが、山内一豊の「妻」は内助の功で有名だ。2006年のNHKの大河ドラマ「功名が辻~山内一豊の妻~」で知名度はさらにアップした。ただし、山内一豊の方は今でも地味なまま。

山内一豊の妻は、夫を助ける良き妻の鏡とされ、数々のエピソードが残っている。一豊を立身出世させるため、ヘソクリで名馬を買い与えたとか、夫の手柄のため手紙をしたためたとか。

ところが、馬皇后は次元が違った。

内助の功というより「参謀」だったのである。重八はメモ魔だったが、ただ書き散らかすだけ。それを整理して頭に刷り込んだのが馬皇后だった。そのため、重八から、あれはどうなった、これはどうなった、と何を聞かれても即答できたという。

馬皇后は軍事にはかかわらなかったが、人事できわだった功績がある。重八は、罪を犯した者を厳罰に処す傾向があった。厳格なルールを定め、縁戚だろうが友人だろうが、容赦しない。それが強い組織をつくる唯一の方法と考えたのである。

とはいえ、しゃくし定規にやれば、部下が減るだけだし、冤罪なら目も当てられない。ことは、人財(人材ではなく)なのだ。そこで、絶妙のバランスで調整し、具申したのが馬皇后だった。そのため、重臣たちの馬皇后への信頼は絶大だった。

もっとも、馬皇后を一番信頼していたのは、他ならぬ重八だった。馬皇后が病死したとき、重八の取り乱しようは尋常ではなかった。人目もはばからず号泣し、その後、二度と皇后を立てなかったのだから。

こうして、朱重八は極貧から身を起こし、元帥一族に名を連ねた。そして、これを機に「朱元璋」と名を改めたのである。

ところが、その後、朱元璋は郭子興に疎(うと)まれるようになった。朱元璋の評判が良すぎて、郭子興が嫉妬したのである。一方、郭子興と敵対する4人の元帥は、郭子興の女婿の朱元璋を目の敵にした。つまり、四面楚歌。

なんという不条理。

朱元璋が一体何をしたというのだ?

じつは、このときの苦労が、朱元璋に深刻な人間不信を植えつけた。ところが、朱元璋はそれを表にださなかった。善良で信義に厚い人間を演じ続けたのである。事が成就するまでは・・・

そして、1368年、事が成就した。明朝が成立し、朱元璋は皇帝に即位したのである。

そのとき、積もり積もった人間不信が炸裂した。功労者、重臣、幼友達を次々と殺して回ったのである。

《つづく》

参考文献:
「超巨人 朱元璋 運命をも変えた万能の指導者」 原作:呉晗 堺屋太一 志村嗣生、志村三喜子 講談社

by R.B

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