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週刊スモールトーク (第324話) 明の太祖・朱元璋(5)~紅巾の乱~

カテゴリ : 人物歴史

2016.04.23

明の太祖・朱元璋(5)~紅巾の乱~

■方国珍の乱

1348年、浙江で、方国珍(ほうこくちん)が反乱をおこした。

紅巾賊のように、怪しい宗教で大衆を扇動し、穀物や金品を掠奪するとか、国家転覆をもくろむとか、そんな大それたことを考えていたわけではない。生きのびるために、しかたなくやったのである。

方国珍は、浙江で塩の海上輸送をいとなむ豪族だった。小心者だが、体はデカく、俊敏で飛ぶように歩いたという。顔は朝黒く精悍な面構えで、性質は親分肌。そのため、数千の部下が付き従っていた。

方国珍は、輸送業の片手間に塩の密売もやっていた。どっちが本業か副業かわからないが、塩の密売の方が儲かったことは確かだ。

というのも・・・

塩は、生命維持に欠かせない必需品なので、貴賤をとわず一定の需要がある。一方、中国は塩の生産量が少ない。だから、うまみのある商売なのだ。

そこで、中央政府が目をつけた。事実、中国の歴代王朝は、たびたび、塩を国の専売にしている。販売は塩商人に任せ、製塩業者に課税したのである。供給元をおさえるので、取りっぱぐれがない。しかも、財政が悪化したら、塩の価格を上げれば、即、増収になる。値上げしても、生きるためには買わざるをえないから。

つまり、

売上(増)=需要(不変)×価格(増)

というわけだ。

そこで、悪魔が耳元でささやく・・・

(政府の)専売塩より少し安く売るだけで完売できますよ。

もっとも、塩の密売人はたくさんいるから、独占販売とはいかないのだが。とはいえ、「濡れ手に粟」にかわりはない。これが塩の密売のカラクリなのだ。

さて、ここで、方国珍の人生を一変させる事件がおきる。

塩の密売が、当局にバレたのだ。さらに、海賊のお仲間の嫌疑もかかっているという。官憲に捕まったら最後、死罪はまぬがれない。そこで、伸るか反るか、反乱に打って出たのである。つまり、消去法で決断したわけだ。

この生き方は、方国珍の生涯をとおして変わらなかった。それが、長寿をもたらしたのだが。

方国珍は旗揚げした後、浙江、福建で大ぴらに海賊をはじめた。塩の密売より手っ取り早いから。

ここで、「海賊」について補足が必要だ。誤解があるといけないから。

日本で、海賊といえば・・・

ドクロ旗をかかげた不吉な海賊船がどこからともなく現れ、宝物を積んだ船を襲撃する・・・

だが、方国珍の海賊は違う。数千人の戦闘員がいるのだ。海賊船の数も100隻を超えるだろう。どうみても、海賊というより海軍である。

これには先例がある。

16世紀、大航海時代に活躍したイングランド(英国)の海賊フランシスドレイクである。頭が切れ、冷静で、勇敢で、でも彼が成功したは本当の理由は並外れた航海術・・・話はそこではなく、彼が襲ったのはスペイン王室の銀塊輸送船だったのだ。

相手が相手なので、率いた軍船(大砲を搭載していた)は数隻におよんだ。時代を考慮すると、海賊というより海軍である。さらに、数隻の軍船が大砲をぶちかますのだから、襲撃ではなく海戦。

その後、ドレイクは提督に出世し、イングランド艦隊を率いて、1588年、アルマダの海戦でスペイン無敵艦隊を壊滅させた。つまり、この時代、海賊も海軍も同じだったのである。

さらに・・・

17世紀に繁栄したカリブの海賊の町「ポートロイヤル」。この町は、数百隻の船が停泊できる港をそなえ、貨幣鋳造所まであったという。海賊の町とよばれたが、海賊の王国といった方がいいだろう(実際はイングランド国籍)。

方国珍に話をもどそう。

彼の海賊艦隊もドレイク船長同様、大物狙いだった。元朝の官物を載せた輸送船を襲撃したのである。元朝の首都・大都と華北は物資が乏しい。そのため、江南の物資を海路大都に輸送していたのである。それを方国珍が掠奪するからたまらない。大都はたちまち食糧不足におちいった。「首都が飢餓」ではシャレにならない。

さっそく、討伐軍が派遣されたが、敗戦につぐ敗戦。そもそも、元軍の十八番はモンゴル騎馬だが、海上を走る回るわけにはかない。海戦では何の役にも立たないのだ。そこで、元朝は考えをあらためて、奇策に打って出た。方国珍に官位を与えて懐柔したのである。

ところが・・・

これに味をしめた方国珍は、従順と謀反を繰り返し、官位をどんどんつり上げていった。そして、1366年には浙行省の丞相にまでのぼりつめたのである。

米国では、お金持ちと離婚すると莫大な慰謝料がもらえるが、これを離婚ビジネスという。では、こちらは謀反ビジネス?

その後も、方国珍はこの手で人生を乗り切った。明朝の創始者、朱元璋が台頭し、ライバルたちが次々と滅亡していく中、彼は最後まで生き残ったのである。

さらに、明朝成立後、今度は朱元璋の重臣たちが次々失脚していく中、方国珍は粛正をまぬがれた。そして、天寿を全うしたのである。

これは大いなる人生の教訓だ。

「強い者」が生き残るのはなく「環境に適応した者」が生き残るのである(ダーウィンの進化論)。

つまり、方国珍のやり方は・・・

勝てそうなら挑み、負けそうなら従順し、ムリをしない。命あっての物種なのだから。この戦略は現在の弱肉強食コンクリートジャングルでも有効だろう。

ということで、経験から学ぶのではなく、歴史から学ぶ・・・これが鉄則ですね。

■紅巾の乱

方国珍の反乱は、元朝の弱体ぶりを天下にさらすことになった。大軍を送り込んだのに鎮圧できず、官位を与えたのだから。負けたも同然である。これでは後に続く者が出てあたりまえ。

事実、3年後の1351年、紅巾の乱が勃発した。明教・白蓮教の信徒による歴史的起義(農民大反乱)である。

彼らは、短い着物を着て、紅巾で頭を包み、真紅の旗をかかげたので、紅巾軍(紅巾族)とよばれた。武器は竹槍や鋤(すき)とチープだったが、数と精神論で元朝軍を圧倒した。紅巾軍は、官吏を殺し、町を占拠し、蔵を壊し、穀物を分配し、牢を破って囚人を解放した。革命というよりは掠奪である。

紅巾軍には、大きく2つの派閥があった。

一つは、徐寿輝(じょじゅき)を頭目とする西系紅巾軍である。

徐寿輝は、1351年、湖北で皇帝を名乗り、国号を「天完」とした。もっとも、真の実力者は彭榮玉(ほうえいぎょく)だったのだが。彼は、見栄えのいい徐寿輝を教主に祭り上げ、自分はフィクサーに徹した。この勢力は、のちに、朱元璋の宿敵「陳友諒」に継承される。

もう一つは、小明王を頭目とする東系紅巾軍である。

小明王は、1351年、起義に失敗して殺された韓山童の息子、韓林児である。父が「明王」を名乗ったので、控え目に「小明王」を名乗ったのである。1355年、小明王は国号を「宋」と定めた。

ところが、この2つの紅巾軍は、連携することも、協力し合うこともなかった。それぞれの思惑で、バラバラに戦ったのである。

ただし、東系紅巾軍の拠点(亳州)は、大都に近かったため、元朝の主力軍と激しく戦った。それで、漁夫の利を得たのが朱元璋である。小明王が元朝と戦っているスキに勢力を伸ばすことができたから。

小明王が旗揚げしたとき、これに呼応したのが、安徽の郭子興(かくしこう)である。この軍は、小明王の末端部隊だったが、小明王の命に従ったわけではない。自分たちの私利私欲で行動したのである。

つまり、こういうこと。

紅巾軍は、徐寿輝の西系紅巾軍、小明王の東系紅巾軍、その末端部隊の郭子興と、同時多発軍だったのに、一致団結して戦うことは一度もなかった。もっとも、紅巾軍が一致団結していたら小明王が元朝を倒していたかもしれない。その場合、朱元璋は歴史年表から消える。

ちなみに、朱元璋が弟子入りしたのが郭子興である。そして、ここが重要なポイントだ。

郭子興の軍は、反乱軍の一派である「紅巾軍」のさらにその一派の「東系紅巾軍」の末端部隊にすぎなかった。しかも、郭子興はその末端部隊の5人の元帥の一人にすぎない。その元帥の子分が朱元璋というわけだ。しかも、元帥とは名ばかりで、「隊長」と言った方がいい。

こんな底辺から、一体どうやって、中国の皇帝まで上り詰めるのだ?

このような、見込みのないスタートは「尾張の大うつけ」を彷彿させる。織田家の家臣のせがれから、のしあがった織田信長である。

織田信長は大名の生まれではない。信長の父・織田信秀は、尾張国を支配する織田達勝の3奉行の1人だった。しかも、織田達勝は尾張国の領主ではない。尾張国の半分を支配していただけ。

つまり、こういうこと。

織田信長は尾張の半分を支配する人物の家来のせがれだったのである。

こんな底辺から、一体どうやって、天下布武までいくのだ?

と、まぁ、この二人の人生は酷似している。とはいえ、朱元璋のハンディは織田信長より大きい。朱元璋は末端部隊の一兵卒、織田信長は末端部隊の跡目だったのだから。

■負け続ける元朝軍

こうして、紅巾の乱がはじまったが、方国珍の乱と同じく、元朝軍は負け続けた。

まず、阿連を大将とする6000人の部隊が出撃したが、おびただしい数の紅巾軍を見て怖じ気ついた。そして、一戦もせず、逃げ帰ったのである。

一体、何しに行ったのだ?

元朝の宰相、脱脱(トクト)は事の重大さに気づいた。兵を小出しにして各個撃破されるのは愚策である。そこで、30万の大軍を汝寧に派遣した。ところが、のっけから、先鋒隊が全滅、それを見た本隊は戦意を喪失、退却の準備をはじめた。驚いた汝寧の地方官が、大将の馬を引き留めようとしたが、一刀両断にされた。

斬る相手、間違えてない?

それはさておき、30万の大軍は、無事に大都に帰還したのである。

おそまつ(さん)・・・腐女子の間で大人気ですね。

冗談はさておき、元軍にも同情すべきところはある。モンゴル兵は上から下まで、都会暮らしにドップリ浸かり、戦争のやり方も忘れていた。それが突然、出兵させられ、やる気がない、士気が低い、なんて言われてもねぇ。

それに、反乱軍は紅巾軍だけではなかった。海賊(方国珍)、塩の密売人(張士誠)などの非紅巾系の勢力も各地で乱立していた。元朝の兵力は分散され、戦力が低下してあたりまえ。

そんなわけで、地方を預かる官吏や地主は、中央軍をあてにできなかった。ヘタに期待すると、どこぞの地方官のように斬り捨てられるかもしれないから。いやはや・・・

とはいえ、中央政府の無能ぶりを責めたところで始まらない。ヒドイ目にあうのは自分たちなのだ(中央政府ではなく)。

そこで、地主と地方官は自腹で私兵を雇うことにした。町のゴロツキや流民や塩の密売人をかき集めたのである。これを民兵というが、義兵も加わった。義兵は銭で雇われた傭兵ではなく、紅巾軍に義憤を感じた知識階級である。

漢人の知識階級が、同族の紅巾軍を嫌う?

紅巾軍は明教や白蓮教の教えをかかげていたが、じつのところ、破壊と掠奪で憂さ晴らしする無頼の輩だった。方国珍のような、漢人の地主や知識階級は、民族的立場(反モンゴル)より階級的立場(封建社会)を重視した。そのため、秩序と財産が守られるなら、農民の起義より元朝支配を選んだのである。

つまり、漢人の知識階級は、元朝に反発すると同時に、紅巾軍も嫌悪していたのである。

民兵や義兵は、元朝の定めた青服青帽の制服を着ていたので、青軍とよばれた。ところが、青軍は地方ごとに編成されたので、相互の連携はなく、紅巾軍に各個撃破された。

こうして、元朝は未曾有の大混乱におちいった。

紅巾系と非紅巾系の反乱軍が中国全土で蜂起し、中央政府と地方政府は分断されたのである

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《つづく》

参考文献:
「超巨人朱元璋・運命をも変えた万能の指導者」原作:呉晗、堺屋太一、志村嗣生、志村三喜子、講談社

by R.B

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