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週刊スモールトーク (第323話) 明の太祖・朱元璋4~元朝衰退の原因~

カテゴリ : 人物歴史

2016.04.16

明の太祖・朱元璋4~元朝衰退の原因~

■三国志と明の歴史

三国志には謎がある。

三国志の主役は、言わずと知れた蜀の諸葛孔明。この希有の大軍師が、蜀を連戦連勝に導いたのである。ところが、領土は・・・負けているはずの魏の1/5。一体どうなっているのだ?

じつは・・・

われわれが知る三国志は、厳密には「三国志演義」。実史・三国志をおもしろおかしく脚色したエンタメバージョンなのだ。だから、登場人物と結果は同じだが、プロセスはビミョーに違う。

明朝の歴史もしかり。

教科書的には・・・

14世紀、中国・元朝は宮廷内の権力闘争でズタボロで、そこへ紅巾の乱が勃発して、元朝はなすすべもなく敗退。最後に朱元璋が一刀両断で、明朝が成立した、というわけだ。

ところが、歴史年表に目をこらすと、違う歴史が見えてくる。

紅巾の乱は、1351年に始まり1366年に終息した。つまり、15年間も、元朝はもちこたえたのである。しかも、そこで元朝が滅んだわけではない。

その2年後の1368年、朱元璋は明朝を開いた。国号は「大明」、首都は応天府(南京)である。以後、元号をとって朱元璋は「洪武帝」とよばれた。

ところが・・・

明朝の領土は中国南部(江南)に限られ、中国北部(華北)は元朝が支配していた。

そこで、朱元璋は中国統一に乗り出す。北進して、元軍を討伐し、首都の大都(北京)と華北を征服するのである。明軍の兵数は20万、総司令官は徐達、朱元璋と牛泥棒をした悪ガキ3人組の一人だった。このように、中国では北方の敵を討つことを「北伐」とよんでいる。蒋介石が北洋軍閥の北京政府を討伐したのも「北伐」である。

ところで、迎え撃つ元朝軍は?

内紛の真っ最中!

そんなことやっている場合か?

なのだが、ココ・テムル率いる元朝の主力軍は、陝西で、同じ元朝の李思斉の軍と交戦中だった。つまり、元朝の首都・大都(北京)はガラ空き。20万の大軍が首都に迫っているというのに・・・

で、結果はどうなった?

元朝は、一戦もせずに大都を放棄。祖地のモンゴル高原に撤退したのである

それで元朝は滅亡?

そこがビミョーなのだ。

というのも、元朝の順帝も逃げ延びたので、王朝が滅んだわけではない。一方、中国は「元朝」から「明朝」にかわったのだから、「元朝」とよぶのもヘン。そこで、北方に撤退した「元朝」を「北元」とよんでいる。

明軍は1368年8月、大都に無血入城した。大都は北平府と改名され、中国は97年ぶりに漢人の国になった。

これだけみると、モンゴルもうダメじゃん・・・なのだが、どっこい、辺境の地で、引きこもっていたわけではない。

大都を奪還すべく、せっせと大軍を送り込んだのである。

順帝は1371年に死去したが、後を継いだアイユシユリダラは攻撃の手をゆるめなかった。将軍グユク・ティムールに命じ、明朝の北辺を荒らし回ったのである。

1374年、グユク・ティムールが死に、1379年にはアイユシユリダラも死んだ。これで、一息ついたと思いきや・・・

帝位を継いだトクススティムールは、中国の再征服をあきらなかった。結局、北元が滅んだのは1388年、朱元璋が明朝を開いてから20年後のことだった。

さすがチンギス ハーン(蒼き狼)の子孫、腐っても鯛(タイ)ですね。

というわけで、元朝から明朝へ王朝交代は、

紅巾の乱→朱元璋の北伐→明朝成立

なんて、カンタンな話ではないのだ。紅巾の乱が起こってから、元朝が滅ぶまでに37年もかかったのだから。

だから、明朝開闢(かいびゃく)の歴史は面白いのである。

ワクワクドキドキ・・・ではまず、紅巾の乱からみていこう。

紅巾の乱は、白蓮教の教主、韓山童の起義(反乱)から始まった。1351年4月、「明王」と称して挙兵・・・と、その直前に事が発覚、殺されてしまった。

ところが、それを機に、怪しい連中が一斉に蜂起した。白蓮教、明教、海賊、塩の密売人・・・ところが、どれもこれも賊軍のたぐいで、思想も戦略も作戦もない。あるのは、搾取された恨み、官吏や地主への復讐心、食糧と財産の掠奪。

恨み、復讐、掠奪・・・崇高な宗教の教えはどこへ行った?

こんな無秩序な破壊・掠奪が15年も続いたのだから、元朝の衰退、推して知るべし。

かつてのモンゴル帝国は強かった。

13世紀、ユーラシア大陸の西から東まで征服するところだったのだから。

地政学の父、ハルフォード・マッキンダーによれば ・・・

「東ヨーロッパを支配するものがハートランドを支配し、ハートランドを支配するものがユーラシア大陸を支配し、ユーラシア大陸を支配するものが世界を支配する」

つまり、「ユーラシア大帝国」が出現すれば、世界征服にリーチがかかる。なぜなら、一国ですべての国を敵に回せるから。もちろん、今はムリ、最強の米国でさえ、そんな力はない。

じつは、「ユーラシア大帝国」の最初で最後のチャンスがモンゴル帝国だったのだ。というのも、今後起こりうる最終戦争は、領土の取り合いではなく、全面核戦争だから。

では、モンゴル帝国の「ユーラシア大帝国」大作戦をみていこう。遠征は2度あった。

まずは、第1次遠征。

1219年9月、チンギスハーン率いる20万の大軍が出陣した。その後、わずか4年間で、中央アジア、ロシアを征服したのである。農民・流民・盗賊の反乱を15年かけても鎮圧できなかった子孫(元朝)とは大違い。

つぎに、第2次遠征。

1236年春、チンギスハーンの孫バトゥの大西征が始動した。モンゴル軍は向かうところ敵なしで、数年で、中央アジア、ロシア、東ヨーロッパを征服した。

そして・・・

1241年4月9日、歴史的合戦が行われた。ワールシュタット平原でドイツ、ポーランド、チュートン騎士団の連合軍とモンゴル軍が激突したのである。戦闘は凄惨を極めた。ヨーロッパの重騎兵がモンゴルの軽騎兵になぶり殺しにされたのである。

その後、モンゴル軍は、カルパティア山脈をこえて、ハンガリー平原に侵攻した。迎え撃ったハンガリー軍は全滅、西ヨーロッパは風前の灯火だった。

つまり・・・

このときのモンゴル軍は、数年で、ユーラシア大陸の東端から、西はハンガリーまで征服したのである。ところが、120年後のモンゴルの末裔(元朝)は、竹槍と鋤(すき)の農民軍を15年かけても鎮圧できなかった。

この差は一体何なのか?

大先祖チンギス ハーンが草葉の陰で泣いている、なんてシャレてる場合ではない。

■元朝が衰退した原因

モンゴル(元朝)が衰退した原因は4つある。

第一に、元朝の宮廷内の権力闘争。

重臣たちの出世争い・・・なんてなまやさしいものではなかった。皇帝も巻き込む殺し合いだったのである。反皇帝派の重臣が結託し、皇帝を暗殺し、あらたな皇帝を担ぎ、また殺される。宮廷の総力戦と言っていいだろう。

なんとも、凄まじい宮廷戦争だが、歴史上、これに匹敵するのがオスマン帝国だ。

オスマン帝国はかの東ローマ帝国を滅した大国である。このときオスマン帝国は「ウルバンの大砲」という超兵器を使用している。この巨砲は、時代を超越するハイテク兵器だった。難攻不落といわれた東ローマ帝国の帝都コンスタンティノープルの城壁を粉砕したのだから。

オスマン帝国は歴史上、最も成功した王朝の一つだが、皇位継承争いが凄まじかった。皇帝が死ぬと、まず息子たちの暗殺が始まる。これが予選で、決勝戦は、王族、重臣、軍を巻き込む総力戦だった。

モンゴル帝国もしかり。一枚岩だったのはチンギスハーンの息子の代までで、孫の代からは、皇位継承戦争が常態化していた。

とはいえ、これは今でもよくある話。

創業者の子供の代は、父の苦労と偉大さを目の当たりにしているので、家訓を守る。ところが、孫の代になると、祖父の偉業は伝聞にすぎず、実感がわかない。結果、一族の分裂と衰退が始まるわけだ。

じつは、モンゴル帝国の分国は、チンギス ハーンの存命中に始まっている。最終的に・・・

1.オゴデイ・ハン国(中央アジア:13世紀~14世紀)

2.チャガタイ・ハン国(中央アジア:13世紀~17世紀)

3.キプチャク・ハン国(黒海以東のステップ地帯:13世紀~16世紀)

4.イル・ハン国(イラン:13世紀~14世紀)

5.元朝(中国:1271年~1368年)

前述したように、元朝は1368年に、明の北伐によって、モンゴル高原に追い返された。これが北元である。その後も、北元は明を脅かしたが、1388年、天元帝が殺害され始祖クビライの皇統は断絶した。これをもって、「北元滅亡」としている。

ただし、「分国=骨肉の争い」というわけではない。事実、チンギス ハーンの息子の代は、分国後も兄弟仲が良かった。

ところが、その後、大ハーン争いは加速する。特に元朝で。

数字でみてみよう。

始祖クビライから順帝までの40年間で9人の皇帝が即位している。さらに、ラスト6年に限れば6人!

年に一人のペースで皇帝が殺されていたわけだ。

これでは、中央政府の威令などカエルの面にションベン、なんの効力もない。政府の求心力は低下し、地方の独立がすすみ、反乱勢力が勢いづいてあたりまえ。元朝衰退は必然だったのである。

ではなぜ、元朝の皇位継承はこれほど混乱したのか?

元朝の始祖クビライが、モンゴル帝国の皇位継承の掟(おきて)を破ったから。

モンゴル帝国の大ハーンはクリルタイで選出される、これはチンギス ハーンの代から続く大原則だった。クリルタイとはモンゴルの最高意志決定機関で、王族、部族の首長、重臣で構成される。クビライはこれをないがしろにしたのである。

1260年、クビライはクリルタイで大ハーンに選出された。

どこが、ないがしろ?

じつは、クリルタイの出席者が問題なのだ。全員クビライの支持者だったから。これではクビライが選ばれてあたりまえ。そこで、クビライの天敵アリクブケもこれにならった。結果、モンゴル帝国は二人の大ハーンが立ったのである。

すぐに内戦が始まった。大ハーン選出の決勝戦は実戦になったわけだ。クビライはこの戦いに勝利したのものの、これ以降、血で血を洗う皇位継承が常態化した。ルールは一度破られると、ルールではなくなるのだ。

元朝衰退の第二の原因は、おカネ。

元朝の財政危機は、100年前の始祖クビライの時代から始まっていた。

まずは戦争のやり過ぎ。

クビライは華北を征服して、元朝を開いたが、それで満足しなかった。1279年、南宋を征服し中国を統一したが、それでも満足しない。その後も侵略戦争は続いた。

・1282年:日本(元寇)、ビルマに派兵

・1284年:安南国(ベトナム)に派兵

・1292年:ジャワに派兵

これではお金がいくらあっても足りない。

元朝の出費は他にもあった。

クリルタイは有名無実になったが、そのかわり、大ハーンの選挙には巨額の賄賂が飛び交った。さらに、民衆をマインドコントロールするため、宗教を手厚く保護した。

たとえば、歴代皇帝は仏教を信仰し、宮廷の仏教行事は年500回を数えた。これでは、財政が破綻するのはあたりまえ。

その凄まじい破綻ぶりは、数字にも表れている。

歳入「400万錠」に対し、歳出は「2000万錠」。なんと5倍!

この圧倒的な大赤字をおぎなうために、塩の専売、臨時増税、賦役の増大が徹底された。もちろん、苦しむのは民衆である。

モンゴルは自給自足の騎馬民族だから、経済にうとかった?

そんなことはない。

モンゴル帝国は交易の重要性を十分に理解していた。事実、シルクロードを整備し、交易と商人を保護したのである。

さらに、史上初めて「紙幣」を本格採用したのも元朝。しかも、現在の米国や日本のように無節操に紙幣を刷りまくったわけではない。発行額を決めて、金との交換を保証した。いわゆる金本位性である。そのため、元の紙幣には高い信用力があった。

ところが、財政が悪化すると、耳元で悪魔がささやいた。

「おカネなんて、刷ればいくらでも作れるじゃん」

結果、

通貨量 >> 商品の量

凄まじいインフレがおこった。14世紀に入ると、荷車に紙幣を満載しても何も買えないほどだった。

元朝衰退の第三の原因は、政府内の汚職。

官位売買が横行し、地方官の汚職もひどかった。しかも、蒙古人、色目人の官僚は、漢人を見ると金品をせびるのだった。

「大官が小官を喰い、小官が民衆を喰う」

そのままである。

これでは、民衆は起義(農民反乱)しかない。

元朝衰退の第四の原因は、治安の悪化。

前述したように、民衆は虐げられ、不満がたまり、爆発寸前だった。そのため、小規模の起義が多発していた。

これにくわえ、1340年以降、盗賊・海賊の掠奪が横行した。大都に送られる官物が奪われるほどだった。ところが、元軍はこれを取り締まることができない。かつて、ユーラシア大陸を席巻したモンゴル軍が、盗賊に負ける?

どーゆーこと?

元朝の時代になると、モンゴル兵は、都会暮らしがつづき、平和に慣れていた。訓練も怠っているから、今さら戦えといわれても、やり方がわからない。さらに、将軍も将校も世襲なのでまるで緊張感がない。かつて、神の子といわれたモンゴル軍は骨抜きになっていたのである。

というわけで、元朝の衰退も、紅巾の乱がおこるのも必然だったのである。

《つづく》

参考文献:
「超巨人 朱元璋 運命をも変えた万能の指導者」 原作:呉晗 堺屋太一 志村嗣生、志村三喜子 講談社

by R.B

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