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週刊スモールトーク (第322話) 明の太祖・朱元璋(3)~明教と白蓮教~

カテゴリ : 人物歴史

2016.04.09

明の太祖・朱元璋(3)~明教と白蓮教~

■明教

中国・明朝の創始者、朱元璋の人生は、「生きるか死ぬか」から始まった。

その後も、これでもかと不幸は続くが、後になって思えば、どれもこれも明朝成立には欠かせない。これが運命というものだろう。

重八(朱元璋の幼名)は、17歳で親兄弟を失い、寺に預けられたが、その寺も食うや食わずで、1ヶ月余りで托鉢行脚(たくはつあんぎゃ)に出された。托鉢行脚とは仏僧の修行の一つだが、家々を回ってお経を上げ、食べ物を恵んでもらうのである。修行というよりは乞食に近い。

とはいえ、この乞食旅のおかげで、重八は運命は大きく開く。中国・元朝を滅ぼす引き金となった「明教」と出会ったのである。

重八が乞食旅をしたのは、黄河、揚子江につぐ中国第三の大河「淮河」流域である。この頃、この一帯で、彭瑩玉(ほうえいぎょく)という男が布教活動をしていた。湧き水で病を治すというから、いかにも怪しい。事実、彼は元朝当局から追わる重罪人だった。罪状は国家反逆罪。

事の発端は、6年前の1338年6月・・・

袁州で、周子旺という男が「周王」を名乗って起義(蜂起)した。ところが、ロクに訓練もしていないクワとカマの農民軍だったので、すぐに鎮圧された。

じつは、この起義の首謀者、周子旺は彭瑩玉の弟子だったのである。周子旺は殺されたが、彭瑩玉は首尾良く脱出し、淮河流域に逃れた。そこで、怪しい治療を行いながら、明教を広めていたのである。

明教・・・明るい宗教?

ノー、暗い宗教!

「明教」の起源は、7世紀の唐の時代までさかのぼる。とはいえ、中国土着の宗教ではない。

教義は・・・

世界は暗黒パワーでおおわれ、やがて、光明の化身「明王」が現れ、闘争の末に「明王」が勝利する。

つまり、

「光明Vs.暗黒」の二元論。

どこかで聞いたような・・・

そう、世界最古の一神教ゾロアスター教ソックリなのだ。

■ゾロアスター教

ゾロアスター教は、古代ペルシャでゾロアスターが創始した宗教である。「善悪二元論」と「終末論」を柱とし、ユダヤ教とキリスト教に大きな影響を与えた。

ゾロアスター教の経典「アヴェスター」によれば・・・

世界は、光明神(アフラ・マズダ)と暗黒神(アンラ・マンユ)の闘争の場であり、最終的に、アフラ・マズダが勝利する。

つまり、

「光明神Vs.暗黒神」の二元論。

ちなみに、「ゾロアスター」はドイツ語読みでツァラトゥストラ。大哲学者ニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りきに」はココからきている。この書の中で、主人公のツァラトゥストラは、

神は死んだ

という名セリフを吐いて、ユダヤ教徒やキリスト教徒のひんしゅくを買ったが、

神は妄想である

にくらべればまだマシだろう。

このバチあたりな文言はリチャード・ドーキンスの著書のタイトル(原題:The God Delusion)を飾って世間を騒がせた。

明教に話をもどそう。

じつは、ゾロアスター教は明教の間接的な先祖なのである。だから、教義が似ていてあたりまえ。

では、直接の先祖は?

3世紀、ササン朝ペルシャで起こったマニ教。

創始者はそのままマニで、教義は、ゾロアスター教、仏教、キリスト教、ユダヤ教のいいとこ取り。ここだけみると、ハイブリッドなのだが、神は一つなので一神教。

そして、教義のかなめは・・・

「光Vs.闇」の善悪二元論。

つまり、ゾロアスター教まんま。ちなみに、マニ教は、かつて、西はギリシャから東は中国まで広がった世界宗教だったが、今はほぼ消滅している。

じつは・・・

このマニ教が明教なのである。というのも、694年に、マニ教は中国に伝来し、その後、「明教」とよばれるようになったのだ。

当時、唐の都・長安は世界有数の国際都市だった。ヨーロッパやアジアの商人たちが来訪し、世界中の物珍しい商品があふれ、仏教、キリスト教、ゾロアスター教、マニ教が共存共栄していた。ところが、845年、武帝が宗教弾圧を始めると、外来宗教はすっかり廃れてしまった。

さて、彭瑩玉(ほうえいぎょく)だが・・・

イエスのように人々を救済しようとしていたわけではない。明教を利用して、革命をもくろんでいたのである。救済も革命も似たようなもの、イエス・キリストだって革命家だ、という雑な主張もあるが、根本が間違っている。

イエスが活動したのは、ローマ帝国の植民地ガリラヤに限れていた。もし、革命が目的ならローマ帝国領内(地中海世界)をくまなく布教していただろう。弟子のパウロのように。事実、キリスト教が世界宗教になったのは、パウロの伝道旅行のおかげ。そういう意味で、パウロこそが革命家だろう。

そもそも、イエスの教えは革命にはほど遠い。ユダヤ教は敵に回したが、世俗の王「ローマ帝国皇帝」と共存を望んでいたのだから。国家転覆を望まない革命などありえない。

ところが、明教の教えは革命にうってつけだった。

というのも・・・

「明教=マニ教」には他の一神教にない特徴があった。神秘主義と現世否定である。だから、体制批判にもってこい。

マニ教は、3世紀~4世紀にヘレニズム世界を席巻したグノーシス主義の影響を受けている。グノーシス主義はキリスト教の一派だが、キリスト教正当派(体制派)と鋭く対立し、目の敵(かたき)にされた。

その言い分がハンパない・・・

全能の神がこんな不完全な世界をつくるわけがない、と神を無能呼ばわりしたあげく、神を信じても、善行を積んでもムダ、真理を知ることによってのみ救済される!

と言い切ったのだから。

これだけみれば、論理的だが、どういうわけか、神秘主義的で禁欲主義的。さらに、現世を全否定している。たとえば・・・この物質世界は、我々を肉体に閉じこめておく邪悪な世界。ここから逃れて、天の家に還ろう、と言っているのだ。

つまり・・・

神秘主義と現世否定で政権を否定し、禁欲主義で王朝の贅沢を断罪できるのである。

というわけで、「明教=マニ教」は体制批判にうってつけ。彭瑩玉が明教を選んだのは必然だったのである。

さらに、彭瑩玉は、明教の「明王」にくわえ、弥勒教の「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」も信仰の対象にした。暗黒の化身「元朝」を打ち倒すには、「明王+弥勒菩薩」の方が勝ち目があると思ったか知るよしもないが、「反元朝」のためなら何でもオッケー・・・今の中国と韓国の「反日教育」と同じである。

つまり、彭瑩玉は、怪しい治療を行い、明教を広めて、民を救済するとみせかけて、革命を狙っていたのである。ところが、この時期、元朝転覆をもくろむのは彭瑩玉だけではなかった。白蓮教を率いる韓山童(かんさんどう)である。

■白蓮教

韓家は、河北省・趙州の欒城(らんじょう)で代々白蓮教の教主を出していた。

白蓮教は、12世紀、中国で生まれた宗教だが、世俗的という意味で、他の宗教と一線を画す。というのも、幹部も妻帯が許され、修行も男女仲良くいっしょに・・・男女平等はけっこうだが、宗教で男女混合?

さらに、白蓮教は呪術的で、これに弥勒信仰があわさり、現世を否定していた。つまり、明教同様、反体制、革命を正当化するにはうってつけだったのである。そのため、時の王朝からたびたび弾圧されたのだが。

韓山童が教主になると、自分は宋の徽宗皇帝の子孫だと宣言した。「宋」は元朝の前の中国王朝なので、元朝を倒して、宋を復興させ、皇帝になるのは自分というわけだ。

つまり、この時期・・・

彭瑩玉は「明教+弥勒教」で、韓山童は「白蓮教+弥勒教」で元朝打倒をもくろんでいたのである。似たもの同士、お仲間なので、両者をひとくくりにして「明教」また「紅軍」とよぶこともある。「紅軍」は、信徒たちが「紅」の頭巾をかぶっていたことに由来する。

彭瑩玉は南方を、韓山童は北方を拠点にしていたので、前者は「紅軍南派」、後者は「紅軍北派」とよばれた。彼らは、世の中が悪くなると、明王や弥勒菩薩が降臨し、世直ししてくれると信じていたのである。もっとも、血を流すのは、明王でも弥勒菩薩でもなく、信者なのだが。

こんな怪しい教えを、大多数が真に受ける?

それほど、民の不満がたまっていたのだ。原因は・・・凄まじいまでの格差。

■モンゴル人第一主義

この時代、中国を支配していたのは元朝。チンギス・ハーンが建国したモンゴル帝国の末裔である。大多数の中国人を、少数のモンゴル人が支配していたわけだ。結果、モンゴル至上主義、モンゴル人第一主義といわれる究極の格差社会が現出していた。しかも、モンゴル人Vs.中国人のような単純なものではない。

中国・元朝では、国民は4つに分けられ、差別されていた。

上から順番に、

1.モンゴル人(支配階級)

2.色目人(中央アジア・西アジアのペルシャ人、トルコ人、ヨーロッパの白人)

3.漢人(中国・華北出身の中国人)

4.南人(中国・江南出身の中国人)

ここで、漢人と南人は同じ中国人だが出身が違う。

かつて、金(満州の王朝)が支配した華北の民は漢人といわれ、華南(南宋)の漢人は南人と言われた。なぜ、南人が漢人の下なのかというと、華北は抵抗することなく元朝の支配下に入ったが、南宋は、最後まで抵抗したから。

元朝の差別は徹底していた。

モンゴル人は、金や宋を攻め滅ぼしたとき、兵士を捕虜にしたが、民も掠奪した。前者は奴隷、後者は駆口とよばれたが、どちらも自由を奪われた身分。ただし、奴隷は家庭がもてないが、駆口は家庭をもつことができた。

じつは、元朝は、奴隷や駆口が非常に多かった。そのぶん、農業従事者が減り、農業生産も低下する。これが元朝衰退の原因にもなった。元朝末期、深刻な穀物不足になり、そのため、元朝は反乱軍と妥協せざるをえなかったのだ。それが戦いのハンディとなり、元朝滅亡の一因になったのである。

差別は官職にもおよんだ。

まずは、中央政府。

長官はすべてモンゴル人で、漢人、南人はなれなかった。次席も多くはモンゴル人で、たまに色目人。ヴェネツィアの旅行家マルコ・ポーロも元朝のクビライに重用されたが、色目人扱いだったからである。

つぎに、地方政府。

行政長官はモンゴル人、次席は色目人と決められていた。

さらに、科挙の試験(日本の国家公務員一種試験)も、漢人、南人には大きなハンディがあった。しかも、任官後の地位や昇進も差別された。

くわえて、民法上の差別もあった。

たとえば、モンゴル人が漢人・南人を殺害した場合、葬式代を支払い、戦場に出るといえば許されたが、逆はタダではすまなかった。

軍はさらに徹底していた。指揮官はすべてモンゴル人で、漢人は軍人なっても、軍政に関する質問も許されなかった。

早い話、中国人(漢人・南人)は、租税をとられるだけの奴隷だったのである。

そんなこんなで、支配階級はやりたい放題だった。モンゴル人と色目人の貴族は中国人(漢人・南人)を残忍に扱った。もちろん、中国人は面白くない。そこで、中国人同士でも差別と迫害が行われた。漢人の官僚や地主が、農民を搾取し、イジメ倒したのである。

こうして、中国の下層民は、モンゴル人にくわえ、同族の中国の上層民からも差別・迫害をうけた。

とくに、モンゴル貴族の力は絶大で、そのぶん横暴だった。

モンゴル人の王妃や后妃、大臣たちは田畑や都市を私有し、数千戸、数万戸もの地域を支配していた。

都市では、領主が役人を任命し、農民を「五戸糸」という徴税組織に編成していた。五戸ごとに糸一斤をおさめさせるのでこの名がついたのだが、この酷税のせいで、農民は困窮し、地主から穀物を借りることもあった。それが返せないと、家財道具と農具が取り上げられ、地主の使用人や妾にされることもあった。

ヒドイ・・・

下層農民にしてみれば、モンゴル人にイジメられるわ、同族の中国人地主にも虐げられるわ、踏んだり蹴ったり、この憤懣(ふんまん)をどこにもっていったらいいのだ?

現体制!

というわけで、たいていの革命は「格差」が原因なのである。

そして・・・

21世紀の日本でも、格差の問題が深刻化している。格差の大きさもさることながら、拡大していることが問題なのだ。

格差を表す指標に「ジニ係数」がある。値の範囲は「0~1.0」で、値が大きいほど格差が大きい。たとえば、「0」なら格差はゼロ、「1.0」なら一人が富を独占する。

ジニ係数には「所得格差」版と「財産格差」版がある。より重要なのは財産格差だ。というのも、経済学者トマ・ピケティのベストセラー「21世紀の資本」によれば・・・

財産の増加率>給与所得の増加率

つまり、金持ちと貧乏人との格差はひろがるばかり。

ちなみに、日本の貯蓄のジニ係数の「財産格差」版は・・・

2001年:0.597

2013年:0.614

と増加している。騒乱の警戒ラインは「0.4」というから、日本は究極の格差社会に向かっている。とくに、女子の場合は深刻だ。貧困女子が風俗に走ることが珍しくなくなっているから。

女子学生や若いOLが風俗に走るのはケシカラン?

じゃあ、どうやって食べていくのだ!

好き好んでやっているとでも?

風俗を否定する前に、格差を減らすことが先だろう。

お上に逆らえない、従順で大人しい、日本人だから、こんな悠長なことを言っているのだ。

一方、中国はそうはいかない。この時代の中国のジニ係数は知るよしもないが、今の日本の「0.614」を凌駕することは確かだ。こんな状況で、誰かが旗をあげれば、中国人(漢人・南人)の農民大反乱は必定。そして、それが起きたのである。

■紅巾の乱

1343年、黄河が決壊した。翌年には長雨が続き、土手がぬかるみ、大洪水が発生した。

元朝の役人が現地を視察すると、決壊の規模が想定外に大きかった。修復するには数十万人の農民を動員する必要がある。そうなれば、大規模な反乱が避けられない。そこで、役人は修復は困難と報告した。

ところが・・・

報告をうけた元朝の宰相・脱脱(トクト)は修復工事を命じた。新たな河道をつくり、黄河を修復しようというのである。そこで、人夫15万、守備兵3万が集められた。

これを聞いた韓山童は喜んだ。巧妙な謀(はかりごと)を思いついたのである。

まず、新たな河道の筋道に、一つ目の石人を埋めておく。そして、

「石人の目は一つだけ、黄河移せば天下は背く」

という謡(うた)を流行させる。

さらに、明教信徒を工事人夫にまぎれこませ、明王はこの世に現れていると宣伝させた。

さて、そんなある日こと、一つ目の石人が掘り出されたから、上を下への大騒ぎ。さっそく、韓山童は天地を祭って、

「我こそ宋の徽宗八代目の子孫なり。中華の主たるべし!」

と宣言した。

部下の劉福通も、負けじと自分をアピールした。

「我こそ宋朝の大将軍・劉光世の子孫、旧主を補佐して起義し、天下を回復すべし」

時いたれり、1351年4月、韓山童は「明王」と称して挙兵しようと思ったら・・・その直前に事が発覚、韓山童は殺されてしまった。起義は大失敗、韓家の野望は露と消えたかにみえた。

ところが・・・

これがきっかけで、漢人・南人の積もり積もったマグマが噴き上げたのである。中国全土で明教信者、白蓮教信者が旗揚げし、農民大反乱が勃発したのだ。

つまり・・・

韓山童は起義には失敗したが、元朝を打倒する「紅巾の乱」の鐘を高らかに打ち鳴らしたのである。

《つづく》

参考文献:
「超巨人朱元璋・運命をも変えた万能の指導者」原作:呉晗、堺屋太一、志村嗣生、志村三喜子、講談社

by R.B

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