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週刊スモールトーク (第32話) 織田信長Ⅱ~功名が辻と婆娑羅~

カテゴリ : 人物歴史

2006.01.15

織田信長Ⅱ~功名が辻と婆娑羅~

■功名が辻

NHKの大河ドラマ「功名が辻 ~山内一豊の妻~」がはじまった。人気の戦国時代もの、織田信長ものと言った方がいいかもしれない。原作は司馬遼太郎である。司馬遼太郎は、歴史上無名の人物を世に出す名人である。

「坂本龍馬」の名は日本中知らぬ者はいないが、かつて全く無名だった。歴史年表をみれば明らか、龍馬の出番はほとんどない。それを、司馬遼太郎の「龍馬がゆく」が歴史的な有名人にしたてたのである。「山内一豊」もしかり。もっとも、山内一豊の場合、本人より、妻の方が有名になってしまったが。

■女性主役の大河ドラマ

山内一豊の妻は、夫を助ける良き妻の鏡とされ、数々のエピソードが残っている。亭主一豊を立身出世させるため、叱咤激励し、自分の財産で名馬を買い与え、夫の手柄のため手紙もしたためた。彼女は、男をその気にさせ、地力を超えたパワーを引き出す天才だった。そのためか、山内一豊は生涯、妻に頭が上がらず、子は娘一人だったが、側室をおいていない。

戦国時代、同じような話に「秀吉とねね」、「利家とまつ」がある。いずれも、NHKの大河ドラマで高い視聴率を記録している。華やかな戦国時代を背景に、存在感抜群の織田信長をからませ、英雄の妻を主人公にすえる。歴史的偉業をなしとげた英雄も、じつは妻の内助の功があったからで、かくかくしかじか。これに有名な歴史イベントをからめれば、視聴者はついてくる。今回の「功名が辻」もまさにこれ。また、山内一豊役の上川隆也は覇気のある役者だし、妻役の仲間由紀恵も味のある役者だ。脚本さえ良ければ、成功間違いなし?

■主役になれない英雄たち

ところで、妻はさておき、山内一豊自身はどんな人生だったのだろう。山内一豊は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、最後は土佐24万石の大名になっている。妻のおかげで、というわりには、大した出世だ。にもかかわらず、知名度は低い。やはり、歴史を刻むような実績がないからだろう。

これは「利家とまつ」の前田利家にもいえる。前田利家は、織田信長の小姓から、加賀100万石の大名まで上りつめた武将で、最後は徳川家康と肩を並べるほどだった。大出世と言っていい。ところが、戦国ものでは、たまに顔を出す程度。前田利家は生涯をとおして、家来の人生であり、得意の槍で人生を切り開いた戦場の英雄であった。それが、大河ドラマ「利家とまつ」で、やっと戦国のヒノキ舞台に立てたのである。

余談だが、NHKの大河ドラマ「利家とまつ」のおかげで、加賀100万石の都、金沢は大いにうるおった。町は、おみやげ袋を手にした観光客であふれ、タクシーの運転手さんも、今年は景気がいいと、すこぶるご機嫌だった。このようにNHKの大河ドラマは、地方にとっては恵みの雨となる。しかも、それが1年も続く。県をあげての誘致合戦になるのは当然だ。

話をもどそう。どうやら、ドラマや映画の露出度は、出世のレベルとは関係がなさそうだ。やはり、歴史年表の露出度がものを言う。戦国時代の歴史年表の露出度ランキングでいけば、まずは織田信長。次いで、豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、上杉謙信。さらに歴史年表の登場は1回と少ないが、インパクトが超弩級の明智光秀。

一方、前田利家も山内一豊も、一般的な歴史年表にはまず登場しない。とはいえ、戦国時代の面白さは、歴史イベントだけにあるのではない。たとえば、戦国時代の息吹き

■かぶき者と婆娑羅(バサラ)

たとえば、前田利家はかぶき者で婆娑羅(バサラ)。これほど、「戦国時代の息吹き」をうまく表す言葉はないだろう。「かぶき者」は「傾奇者」とも書く。読んで字のごとく「傾いた性格」で、奇行が目立つ人物。異様な身なり、自由気ままで、予測不能な言動、とイメージすれば当たらずとも遠からずである。

「かぶき者」を手っ取り早く知るには、コミック「花の慶次」が一番だろう。フィクションだし、デフォルメも強烈だが、とにかく分わかりやすい。メリハリの効いた絵とストーリーは「かぶき」そのままだ。ところで、前田慶次は織田信長の思惑により、前田利家と跡目争いに敗れ、追放された人物である。

一方、「婆娑羅(バサラ)」は「かぶき者」をもっとゴージャスにした感じ。婆娑羅は、室町時代の南北朝期に生まれた風潮である。伝統・権威・常識など、古い価値観を否定し、自由奔放に生き、派手好みで、常軌を逸した様をさす。一方、風流にも理解を示すという具合で、説明するのもなかなか難しい。

とはいえ、異様で豪奢な衣装に身にまとい絢爛豪華なら、貧乏侍はムリ。そのため、対象は大名クラスにしぼられ、「婆娑羅大名」なる言葉も生まれた。婆娑羅大名の元祖は近江の守護 佐々木道誉(どうよ)と言われるが、戦国時代では、やはり、松永久秀だろう。

■松永久秀

松永久秀は一応大名なのだが、前田利家、山内一豊と同様、一般的な歴史年表には縁遠い。それでも、戦国ローカル年表に3回ほど登場する。第一に、室町幕府13代将軍・足利義輝(よしてる)を殺害したこと。この将軍殺しで、松永久秀の悪名は天下にとどろいた。

第二に、奈良の東大寺の大仏殿を焼いたこと。このとき、敵対する三好三人衆が東大寺に布陣したが、あろうことか、東大寺に夜襲をかけたのである。戦いは松永久秀が勝利したが、戦火は大仏殿に燃えうつり、大仏の首がころげおちたという。このバチあたりな悪業は、後世まで語り伝えられた。

第三に、久秀自身の超婆娑羅的最期。1568年、織田信長が足利義昭をともなって入京した時、、松永久秀は織田信長に降伏し、大和一国を任された。織田信長の成功を確信したのだろう。ところが、1572年、武田信玄が上洛を開始するや、織田信長に反旗をひるがえす。ところが、上洛の途中、武田信玄が死んだため、武田軍は帰国する。そこで、松永久秀は再び織田信長に降伏。この信玄の死は、戦国時代年表ではビッグイベントだが、松永久秀の降伏はおまけ。

さらに、1577年、今度は上杉謙信が上洛を開始すると、再び謀反。ところが、背後で北条氏の不穏な動きがあり、背後を突かれるのを怖れた上杉軍は急遽帰国した。またもや、松永久秀の読みがはずれたのである。たしかに、松永久秀は先が見通せるし、決断力にも富むが、不運というか、どうも結果がよろしくない。この点で、信長や秀吉とは大きく違う。頭は切れるのに、長尺の人生設計が描けない。いや、あえて描かなかったのかもしれない。それが婆娑羅?

こうして、婆娑羅大名・松永久秀に最期のときがきた。織田信長の嫡男 織田信忠の大軍が、松永久秀の居城 信貴山城を包囲したのである。絶望的な状況の中、久秀は城内でくつろいでいた。あろうことか、のんびり、お灸。さすがに、家臣がそれを問い詰めると、久秀はこう答えたという。
「養生というものは、死ぬまぎわまで怠ってはならぬ」

お灸が終わると、松永久秀は城に火を放ち、腹を切った。そして、爆薬で自分の身体を吹き飛したのである。あっぱれというか、どこか乾いた達観があって面白い。まさに、婆娑羅。

松永久秀は下克上ではい上がった人物である。だから、生まれも怪しい。死に様を見ても、いかにも婆娑羅。ところが、元々は政務官僚で頭角を現した人物である。優れた教養人、文化人でもあった。堺の豪商たちとも交流し、茶の湯をたしなみ、数々の名物も所有した。中でも、「つくもがみ」は天下無双の名器である。これを織田信長に贈り、かわりに大和一国をもらったほどである。ちなみに「つくもがみ」は茶の湯に使うタダの茶入れである。

このエピソードから、茶の道具が国一つに値すると言われるが、すこし大げさだろう。織田信長が、松永久秀に大和一国を任せたのは、久秀本人を気に入ってのこと。信長も婆娑羅、要はお仲間なのだ。とはいえ、名物つくもがみは、信長を喜ばせたに違いない。また、松永久秀が所有したもう一つの名器「平蜘蛛の釜」は、久秀最期のとき、みずからの手で叩き割っている。こちらも現存していれば、値がつかないだろう。

■前田利家の面白さ

NHK大河ドラマ「利家とまつ」はすでに放映を終了したが、前田利家のイメージは地味なままである。「まつ」という良妻に恵まれ、律儀者でとおし、加賀100万石をやっと手に入れた、というわけだ。冒頭の「功名が辻 ~山内一豊の妻~」と酷似している。

歴史年表を刻む偉業もなく、あんな実績で100万石とはけしからん、という過激な意見もあるが、前田利家は「かぶき者」で、決して地味なわけではない。それが広く認知されないのは、茶の間で放映できないからである。これは作り手の良心からきていて、怠慢なわけではない。

前田利家の人生は、織田信長の小姓から始まった。小姓とは、武将の雑務や取り次ぎを行う職名である。利家は血の気の多い若者で、ある日、同じく織田信長に仕えていた十阿弥を殺してしまう。当然、信長の逆鱗にふれ、追放される。このように、利家は若いころから、一風変わった「かぶき者」であった。追放された後も、利家は勝手に信長の戦いに参陣しては、敵の首をとりまくった。信長の合戦の多くは、歴史年表に登場するが、個々の手柄が年表に記されることはない。

命がけの努力のかいあって、やがて、利家は信長に許される。しかも、馬廻(うままわり)として。馬廻とは、戦場で大将を護衛する騎馬兵のことである。この馬廻から選抜されたエリートが、信長軍の赤母衣衆(あかほろしゅう)と黒母衣衆(くろほろしゅう)である。前田利家は赤母衣衆に抜擢された。

前田利家の活躍の場は戦場しかなかった。とはいえ、「槍が得意で100万石大名」はありえない。主君・織田信長は実力主義どころか、実績主義の権化(ごんげ)。並外れたパーフォーマンスが必要だ。前田利家の戦場での闘いぶりは、力強く、自由奔放で、華があった。1551年、利家は、尾張海津の戦いで初陣を飾るが、織田信長から「肝に毛が生えた」とその剛勇ぶりを称賛された。また、1556年、稲生の戦いでは、矢で右目下を射られたが、その矢をぬきもせず、敵を討ちとった。このエピソードは、マニアックな戦国年表には必ずのっている。

さらに、三国志で、単騎、大軍の中を駆け抜けた超雲に匹敵する武勇伝もある。石山本願寺との春日井堤の激戦で、織田軍は総崩れになったが、利家一人が断固踏み止まり、戦況を逆転させたのである。数百、数千人の兵士が入り乱れる戦場が、1人の英雄に凝縮される瞬間だ。戦国時代の息吹とは、このような瞬間を云うのだろう。このときの織田信長の誉めようは、並大抵ではなかったという。利家は「槍の又左衛門」とよばれたが、接近戦も得意だった。このような戦場の斬り合いを再現せずに、「戦国の息吹き」を伝えることはできない。

戦場の斬り合いは、現代の剣道に継承されている。ところが、今の剣道は「あて剣法」と言われ、「斬り倒す」のではなく、「竹刀を当てる」だけ。ただし、日本選手権ともなれば、スピードがハンパではない。小手(手)、面(頭)、胴(腹)に、目にもとまらぬ速さで竹刀が飛んでいく。経験者でないと、当たったかどうかも分からない。

この「あて剣法」に対し、一部批判もあるが、これはこれで完成された武道である。一足一刀の間合いをとりながら、1/100秒のスキをついて、打ち込むのである。一足一刀の間合いとは、一歩踏み込めば相手に打撃を与え、一歩退けば相手の打撃をかわせる間合いをいう。これほど、「緊張とスピード」に特化したスポーツも珍しい。

一方、戦場の斬り合いは、剣道とは違う。当てたところで、ほんのかすり傷。恐ろしい話だが、確実に斬り殺すところまでいかねばならない。当然、剣道のように間合いをとっているヒマはない。敵と50cmほどの距離で、刀を握りしめ、くんずほぐれず、もみあう。刺す、叩く、押し切りと、相手を絶命させない限り、生き残れないのだ。こんな恐ろしい「命の取り合い」が、斬り合いなのである。一家団らんの大河ドラマで、放映できるものではない。むちろん、歴史年表にも登場しない。

前田利家は、こんな修羅場をくぐり抜けた戦場の英雄であった。数十回いどみ、ことごとく勝利したという。膂力(りょりょく)、技術、度胸、運、すべてが備わっていないと生き残れない。およそ、歴史とは無縁だが、これも戦国時代の息吹き、語るに値する物語なのだ。前田利家や山内一豊はこのような世界の英雄であった。

■山内一豊と織田信長

山内一豊と織田信長の関係は意外に深い。山内一豊の父は盛豊といい、尾張の織田信安の家老であった。織田信安は尾張の上4郡を支配していた。一方、尾張の残り半分の下4郡を支配するのが織田達勝で、この織田達勝の3家老の1人が、信長の父織田信秀だった。つまり、山内一豊と織田信長は、尾張を2分する大名の家老を父に持ち、同じような立場にあった。

ところがその後、2人の人生は一変する。まず、織田信長の父信秀は、主家である織田達勝をしのぐようになり、それを織田信長が継承する。ついで、1559年、織田信長は先の織田信安を攻め滅ぼす。この前後の戦いで、山内一豊の父と兄は死亡したといわれる。浪人となった山内一豊は、尾張、近江など放浪したらしいが、詳しいことはわからない。

1570年頃、山内一豊は織田信長に仕えるようになり、羽柴秀吉の配下に入った。やがて、織田信長から豊臣秀吉へ、そして徳川家康へと、時代は移り変わっていく。その間、妻千代のおかげで、巧みに出世を重ね、土佐24万石の大名にまで出世したのである。織田信長と山内一豊は、同じような境遇に生まれながら、信長は歴史年表を刻み、一豊はつねに歴史の日陰者であった。しかし最後には、織田一族は崩壊し、山内家は命脈を保ったのである。

《つづく》 

参考文献:
太田牛一著 榊山潤訳「信長公記」富士出版

by R.B

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