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週刊スモールトーク (第310話) 歴史上の一番出世(2)~朱元璋の君子豹変~

カテゴリ : 人物歴史

2015.11.28

歴史上の一番出世(2)~朱元璋の君子豹変~

■中国三千年の歴史

日本の一番出世は、言わずと知れた「豊臣秀吉」。

ところが、中国三千年の歴史・・・この国にはもっと凄いのがいる。明王朝の創始者「朱元璋」だ。

一般論として、

出世度=人生の幅=「人生のゴール」-「人生のスタート」

この方程式にしたがえば、朱元璋の出世度は超弩級+史上最強。

というのも・・・

朱元璋の「スタート」は極貧以下だった。15歳で、親兄弟姉妹をなくして天涯孤独。その後、近くの寺に預けられたが、50日で追い出され、食うや食わずの毎日。

つまり・・・朱元璋の「人生のスタート」=ゼロ(これより下は「死」)

ところが、「人生のゴール」はブッチギリの極大値。

中国を統一し、明王朝を打ち立てた「天下人」なのだから。しかも、この「天下人」にはボーナスが付く。朱元璋が倒した中国「元朝」はモンゴル族の征服王朝だった。つまり、朱元璋はモンゴル族から中国を取りもどした漢族の救世主なのだ。

だから、

朱元璋の出世度=ゴール(極大値)ースタート(ゼロ)=最大値!

ところが、そんな巨人なのに中国での人気はサッパリ(日本でも)。

一体、どういうわけだ?

さては、極悪非道、冷酷無比、自己中・・・下克上でのし上がった嫌われ者?

ノー!

下克上の真逆の人物・・・

朱元璋は、最初、賊軍の指揮官「郭子興(かくしこう)」の配下に入ったが、これが仕えづらい上司だった。郭子興は賊軍ではインテリの部類だったが、嫉妬深く、カンシャク持ちで、器が小さかった。それでも、朱元璋は誠心誠意仕えた。ところが、嫉妬されるわ、濡れ衣を着せられるわ、投獄されるわ・・・それでも、朱元璋は郭子興を一度も裏切らなかった。三国志でいえば関羽みたいな人(中国での人気は関羽>諸葛孔明)。

さらに・・・

朱元璋は、仲間や部下を大切にし、民には温情をもって接した。しかも、道理と正義を重んじ、むやみに人を殺さなかった。誰からも尊敬される理想的なリーダーだったのである。

それを象徴するエピソードものこっている。朱元璋の軍が和州(現在の安徽省和県)の城主になった頃の話・・・

ある日、朱元璋が城外にでると、小さな女の子が泣いている。わけを聞くと、両親は城内にいるが、兄妹と呼び合っているという。朱元璋の軍が和州を占領したとき、将兵が母を掠奪したのである。そのため、この少女は両親のもとに行けないでいるという。

朱元璋は少女を哀れに思ったが、それより、軍の紀律が乱れていることが気になった。

翌日・・・

朱元璋は、城内の男女を集合させ、男を大通りの両側に並ばせた。それから、婦女子を大通りを歩かせ、夫に名乗りを上げさせる。こうして、多くの家族が再会をはたすことができた。和州の民はよろこび、朱元璋の株は大いに上がった。

さらに、朱元璋は将兵に対し、今後城を落としても、夫のある夫人は奪ってはならない、と命じた。

素晴らしい、非の打ちどころのないリーダーではないか。

それで、なんで人気がないのだ?

朱元璋は複雑怪奇な人間だから。

民衆から愛されるのは、わかりやすい人、愛すべきおばかさんと相場は決まっている。三国志でいうと、蜀の劉備元徳、関羽、張飛みたいな人・・・劉備元徳はお人好しで、関羽は忠義に厚く、張飛は良きにつけ悪しきにつけ熱い漢(オトコ)だった。

さらに、意外なことに、極悪非道の呂布(りょふ)も人気がある。義父を殺し、主(あるじ)を殺し、下克上と裏切りの人生だったのに。ただし、呂布は中国史上、項羽とならぶ国士無双というアドバンテージがある。最強の武将にして、一番の裏切り者・・・わかりやすい。

要は、善悪をこえて、わかりやすい人間が民衆に愛されるのである。

逆に、人気がないのが、計算高く、狡猾(こうかつ)なタイプ。たとえば、三国志の魏の曹操、司馬懿仲達、明の朱元璋。

彼らは、些末なことにとらわれず、問題解決に集中する。しかも、目的のためには手段を選ばず、アメとムチを使い分ける小技ももっている。カメレオンのように変幻自在で、つかみどころがないのだ。だから、ハタ目には複雑な人間にみえる。本当は「目的=自分の利益」のために、見さかいなくやっているだけなのだが。

じつは、民衆はそんな魂胆が見抜けなくても、「複雑さ」の中にうさん臭さを感じとる。だから、人気がないのである。

とはいえ、古今東西、成功するのはこのタイプ。これに、「リアリスト」が加われば最強だ。

■成功する性格

第二次世界大戦、宿命のライバルといえば、ドイツ第三帝国のヒトラーとソ連のスターリン。この二人に共通するのは、揺るぎない信念、明晰な頭脳、圧倒的な決断力と行動力・・・ところが、最終的に勝利したのはスターリンだった。

勝因はアメリカ合衆国がソ連についたから、が定説になっている。たしかに、アメリカがイギリスとソ連に加担しなかったら、連合国は敗北していただろう。

だが、アメリカがソ連に加担しようが、ドイツがソ連に勝利する可能性はあった。

たとえば、ドイツがロシア国内の反スターリン、反共産主義の国民を味方にしていれば、形勢は逆転していただろう。事実、ロシア戦線で、反スターリン派の将軍を中心にドイツ同盟軍を編成し、成功をおさめている。ところが、これが拡大することはなかった。ヒトラーが許さなかったのである。

なぜか?

ヒトラーはスラヴ人を見下していたから。ヒトラーが目指したのはゲルマン民族を頂点とするピラミッド世界だった。このような人種偏見が、ヒトラーから勝利を奪ったのである。

ヒトラーは偏屈なイデオロギーに執着するロマンティスト、スターリンは完全無欠のリアリスト、この差が命運をわけたのだ。

ヒトラーもスターリンも複雑な人間だった。だから、複雑な状況に対応し、めざましい成功をおさめることができた。ところが、決定打となったのは「リアリズム(現実主義)」だったのである。

では、日本の織田信長は?

秀吉ほどではないが、けっこう人気がある。冷酷さと優しさが共存する複雑怪奇な人間なのに。

たとえば・・・

比叡山延暦寺を焼き討ちにし、僧侶もふくめ、数千人のクビをはねた。さらに、討ち取った敵の頭蓋骨で酒杯をこしらえ、酒宴を盛り上げた。背筋が凍るほどの残虐さ、冷酷さである。

ところが、一方で、他の大名にはない「優しさ」を示すこともあった。たとえば、信長公記に登場する「山中の猿」のエピソード・・・

美濃の国と近江の国の境に、山中というところがあった。その道のかたわらで、不具者が雨にうたれて、こじきをしていた。信長はこれを京への上り下りのたびに見て哀れに思った。そこで、土地の者に尋ねた。

「だいたい、こじきというものは、その住所が定まらず流れて行くものなのに、この者だけはいつも変わらずこの地にいる。どのような事情があるのか」

土地の者は答えた。

「この山中で、その昔、常磐御前(源義経の母)を殺した者がおります。その因果によって、子孫に代々不具者が出て、あのようにこじきをしているのです」

哀れに思った信長は、木綿20反を土地の者に与え、こじきに衣食住を与えるよう依頼した。こじきの猿はもちろん、土地の者もありがたさに涙を流し、お供の者ももらい泣きしたという。

延暦寺のホロコースト、頭蓋骨の酒杯、こじきへの情け・・・このような矛盾する性質が一つの個性に同居しているのだ。

では、複雑な人間はなぜ成功しやすいのか?

環境に適応でき、行動が読まれにくいから。状況が変化しても対応できず、敵から行動がお見通しなら、勝ち目はないだろう。

じつは、明の太祖「朱元璋」もそのお仲間だった。

ではなぜ、信長は人気があり、朱元璋は人気がないのか?

信長は、複雑な人間と思われていないから。

というのも、「叡山焼き討ち」と「頭蓋骨の酒杯」は衆知だが、「山中の猿」はほとんど知られていないから。「信長公記」をガチで読まないかぎり知りようがないのだ。

一方、明の朱元璋の複雑な性質は広く知られている。史実として残っているのだから、隠しようがない。

では、朱元璋の恐るべき「複雑怪奇」をみていこう。

■君子豹変す

朱元璋は貧農に生まれ、極貧の中で育った。そのため、旗揚げ当初、彼の地盤は貧民層だった。ところが、ある時を境に、大地主・知識人の封建的支配層に乗り換えたのである。

順をおってみていこう。

朱元璋は、毎日が貧乏だったので、生きるためになんでもやった。牛飼いをしていた頃、友達とつるんで、牛を殺して食べたこともあった。事が発覚して、主人に半殺しにされたが。

成人して、朱元璋は「紅軍」に身を投じたが、軍と名ばかりの農民兵団だった。事実、同じ漢族の大地主や知識人から「賊軍」とよばれていたのだから。とはいえ、下層階級出身の朱元璋は「賊軍=紅軍」に身を置くしかなかった。

ここで、元朝末期の中国を俯瞰(ふかん)してみよう。

この頃、中国の王朝は「元朝」、かのチンギス・ハーンが建国したモンゴル帝国の後継国である。少数のモンゴル族が、大多数の漢族を支配するいびつな社会だった。たとえば、中央政府の政治・軍事の要職はすべてモンゴル人。さらに、地方も、行政長官はモンゴル人、次席は色目人と決められていた。ここで、色目人とは、西域出身のトルコ系、ペルシャ系、さらにヨーロッパ人をさす。つまり、中国ネイティブの漢族は最下層だったわけだ。

さらに、地方は、漢族の大地主・知識人が支配し、元朝側にたって、農民から搾取していた。農民にしてみれば、同じ漢族から搾取されるわけで、恨み骨髄。

そこで、貧しい農民が、打倒「元朝&大地主の支配」を目指して蜂起した。これが「紅軍」である。赤い布で頭を包んだので「紅軍」とよばれたが、早い話が「賊軍」。

紅軍の他にも、蜂起した一派があった。

塩の密売や漁業を生業にしていた中流層である(非紅軍派)。彼らは、貧民からみればマシだったが、やはり、搾取される側だった。そこで、紅軍派と非紅軍派が連携して元朝にあたったかというと、そうはならなかった。

なぜか?

非紅軍派は、紅軍を盗賊、山賊のたぐいと蔑(さげす)んでいたから。

さらに、非紅軍派は無節操な二股外交に徹していた。紅軍との戦いが不利になると、元朝から官位をうけて、体制側に寝返る。元朝の力が弱まると、再び、群雄として独立する。こんな恥も外聞もない寝返りを繰り返していたのである。

ここで、地方の勢力を一度整理しよう。

まず、最下層の農民がおこした「紅軍」、中流層の商工業者がおこした「非紅軍」、そして、元朝側の地方軍である。

元朝側の地方軍とは、地方官や大地主が集めた民兵のこと。なぜ、民兵なのかというと、元朝の正規軍が弱体化し、地方まで手が回らなかったのである。

そこで、地方官・大地主(地方の体制派)は、自腹で町のゴロツキや塩の密売人を雇い、軍を編成した。紅軍に命や財産を奪われてはたまらないから。つまり、お国のためではなく、自分のため。このような民兵を「義軍」または「郷軍」とよんだ。彼らは元朝の定めた青服青帽の制服をきていたので、「青軍」ともよばれた。

ということで、地方では3つの戦いがあった。

1.紅軍Vs.青軍

2.非紅軍Vs.青軍

3.紅軍Vs.非紅軍

さらに、元朝の主力軍は、元の首都「順天府(北京)」を中心に展開していたが、地方に進出し、紅軍や非紅軍と戦うこともあった。

つまり、この時代、中国は内戦状態だったのである。

このようにコロコロ変わる環境では、複雑怪奇な人間しか生き残れない。善悪もへったくれもない、環境に適応してナンボ、まさにダーウィンの進化論である。

というわけで・・・

朱元璋は、善良なリーダーから、冷酷なリーダーに変身したのである。これこそ、君子豹変!

■リストラされない方法

朱元璋が、紅軍の中でいっぱしになった頃、紅軍の総大将は「明王」だった。このとき、明王を擁する紅軍主力は元朝の主力と戦っていた。狡猾な朱元璋は、これを利用した。元朝と事を構えず、明王を紅軍の盟主としてたてまつり、2者を戦わせ、そのスキに勢力を増大させたのである。紅軍の末端組織でありながら、明王を助けなかったわけだ。

そして・・・

明王の紅軍主力が元朝軍に敗北すると、朱元璋は明王を見すてた。逃げ延びてきた明王を小舟に乗せ、舟底に穴を開けて沈めたのである。下克上を嫌い、上司を裏切らない朱元璋が。

さらに・・・

朱元璋は「紅軍」も切り捨てた。

紅軍が目指したのは「貧民の貧民よる貧民のための体制」。下層階級出身の朱元璋がここまで来れたのも「紅軍」のおかげだった。ところが、朱元璋は明王とともに、紅軍も捨てたのである。代わりに、敵だった地方の大地主、知識人を囲い込み、彼らを優遇した。

つまり・・・

元朝を頂点とする封建体制転覆をスローガンにしていた革命集団が、封建体制に鞍替(くらが)えしたのである。このような豹変は、民衆は受け入れがたいだろう。人気がなくてあたり前田のクラッカー?

さらに・・・

中国統一がなり、明王朝が成立すると、朱元璋の「君子豹変」は加速した。王朝の創設に功のあった家臣を次々殺したのである。

その犠牲者の中には、古くから、朱元璋を支えた大功労者もいた。文官のトップ「李善長(りぜんちょう)」と、武官のトップ「徐達(じょたつ」である。

李善長は、早くから、文官のトップして朱元璋をささえてきた。功績も大きく、韓国公に任じられたほどである。ところが、あるとき、星座が変わったから、大臣を殺してその災いを除くという訳の分からない理由で殺された。一族も道連れにされ、犠牲者の数は70名にのぼったという。

徐達は、朱元璋軍の最高司令官で開国の第一の功労者だった。ところが、朱元璋から贈られたガチョウを食べて、まもなく死んだ。

重臣の双璧が殺されたのだから、他の家臣、将軍の末路はおしてしるべし。哀れな犠牲者が後を絶たなかった。ところが、家臣の中で天寿を全うした者がいた。

朱元璋の親友の湯和(とうわ)である。湯和は、朱元璋と牛飼いをしていた頃からの幼なじみで、一番の古株。

では、湯和は、なぜ難を逃れられたのか?

徐達が死んだ後、朱元璋は諸将に与えた兵権を取り上げたかった。とはいえ、功労者なので、さすがに言い出せない。そこに、湯和が老いを理由に隠居を申し出たのである。朱元璋は大喜びだった。彼のために立派な屋敷を建ててやり、厚く遇した。湯和は幼なじみだったので、朱元璋の性格を知りつくしていたのだろう。

この話は、春秋時代の越国の范蠡(はんれい)を彷彿させる。

今から2500年前、春秋の覇者をめぐって、呉と越が激しく戦った。この戦いは「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」や「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」など多くの格言を生んだ。

最終的に勝利したのは越の勾践(こうせん)だが、彼をささえたのが重臣「范蠡(はんれい)」だった。彼なくして、越の勝利はなかっただろう。

ところが、越の勾践が、宿敵の呉をやぶり、春秋の覇者となるや、范蠡は一族をつれて越を去った。

その後、范蠡は海をわたって斉に移り、交易で数千万の富を築いた。ところが、范蠡はその富を惜しみなく村人に分け与え、つぎに陶にむかった。陶は天下の物資の集散地として栄えていた。そこで、范蠡は「陶朱公(とうしゅこう)」と名をあらため、商品投機で巨万の富を築いた。これが、故事「陶朱の富」の語源で、「陶朱公」は大商人の代名詞となった。

范蠡は、政治、軍事、経済、投機に長けた万能の天才だったのである。さらに、未来を見通す力までもっていた。

つまり、范蠡は湯和の道を選択し、生き延び、第二、第三の人生も成功させたのである。

では、呉越の戦いで、李善長、徐達のような哀しい末路をたどった人はいる?

いる。

范蠡と並ぶ越の重臣「文種」だ。范蠡は、越を去ったあと、文種に書状を送っている。

「越王は、苦はともにできるが、楽をともにすることはできない。あなたは、なぜ越王のもとを去らないのか」

それを読んだ文種は、心あたりがあったので、病と称して家に引きこもった。すると、「文種は謀反をたくらんでいる」と越王に讒言する者がいた。越王は文種に剣を送り、文種はその剣で自ら首をはねた。やはり、長居は無用だったのである。

なんとも深い話ではないか。有能な人材でも、家臣はしょせん家臣、引き際が大切ということ。

とはいえ、事が成ったからと、功労者を殺して回るのは、いかがなものか?

民衆に人気がなくて当然だろう。

というわけで・・・

明の朱元璋が、奇跡の「大出世」をなしとげ、モンゴル族から中国をとりもどしたのに、サッパリ人気がないのは「君子豹変」のせい。しかも、悪い方に豹変したのだから、フォローのしようがない・・・

参考文献:
・太田牛一著、榊山潤訳「信長公記」富士出版
・「超巨人・朱元璋運命をも変えた万能の指導者」原作:呉晗、堺屋太一、志村嗣生、志村三喜子、講談社
・後藤基巳、駒田信二、常石茂他著、新十八史略、天の巻、河出書房新社

by R.B

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