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週刊スモールトーク (第287話) エリーザベト伝説(3)~ヒトラー内閣誕生の謎~

カテゴリ : 人物歴史

2015.05.16

エリーザベト伝説(3)~ヒトラー内閣誕生の謎~

■世界大恐慌とナチス

ナチ党(ナチス)が政権をとって、ヒトラー内閣が誕生する・・・などというのは荒唐無稽のSF小説のようなものだった。少なくとも、1932年までは。

1928年5月20日、第4回国会総選挙の結果を見ると、

1.社会民主党(153):穏健な左派

2.国家人民党(78):保守的な右派

3.中央党(61):カトリック系の中道派

4.共産党(54):過激な左派(ナチ党と社会民主党の天敵)

5.人民党(45):リベラルな右派

6.民主党(25):リベラルな左派

7.ナチ党(12):国家社会主義(民族主義×全体主義×侵略主義)

※()内は議席数。

ナチ党は第7位で議席数は「12」、第一党の社会民主党は「153」。これで、どうやって政権をとるのというだ?

このまま、世界が推移していれば、ナチ党は過激な発言で世間を騒がすゴロツキ政党で終わっていただろう。その場合、「ヒトラー内閣」は誕生しないので、第二次世界大戦が勃発する確率は激減する。

ところが、1929年の世界大恐慌がすべてを台無しにした。

この頃、ドイツは第一次世界大戦の敗戦で、莫大な賠償金を課せられ、マルクが暴落し、輸入物価は暴騰していた。しかも、深刻な物不足でハイパーインフレが発生し、コーヒーを注文して飲み終わると値段が2倍!というウソのような世界だった。

さらに、10年続いた大不況で、企業や農場が次々に閉鎖され、国中に失業者があふれていた。

そこへ、世界大恐慌が直撃したのである。インフレに持ちこたえていた唯一の金融資産「株」が暴落し、経済は完全に破綻した。異次元の大不況が発生し、1928年に「130万人」だった失業者は、1932年末には「600万人」に膨れ上がった。このときの失業率は「40%」、労働者の半分が失業したのである。

ところが、政府の失業対策は雀の涙のようなものだった。失業手当がもらえるのは、申請者の10人に1人、それもわずか6週間だった。それが過ぎると、福祉団体のスープ配給所に行くよう指示されたのである。この頃、ドイツの国民食は「塩漬けのニシンに家庭菜園のジャガイモ」というつつましいものだった。

そんな中、ナチ党が掲げたのが「ヴェルサイユ条約の破棄」だったのである。ところが、初めから、ドイツ国民が諸手を挙げて賛同したわけではない。

「ヴェルサイユ条約」は、ドイツの植民地をすべて取り上げ、莫大な賠償金を課し、軍備まで制限していた。屈辱的だが、条約を破棄すれば、連合国との協調が壊れ、国際的に孤立する。それを怖れたのである。

とはいえ・・・

2人に1人が失業しているのに、協調や孤立やら悠長なことを言っていられない。こうして、ドイツ全体が「ヴェルサイユ条約の破棄」に傾いていく。もちろん、それはナチ党の躍進を意味していた。

それに拍車をかけたのが、ヒトラーの巧みな演説だった。彼の演説は独善的で教条的だが、カンタンで分かりやすい。しかも、核心を突く。

たとえば・・・

1935年5月1日、テンペルホーフ飛行場でのヒトラーの演説・・・

「我々は一体何をもっているか?一平方キロに137人の人口がある。しかも、植民地はまったくない。原料もない。外国為替も資本もない。あるものといえば、過重な負担、犠牲、課税、そして低賃金ではないか。我々は何をもっているか?ただ一つのものしかもっていないのである。それは我が国民である」(※2)

ヴェルサイユ条約が我々を破滅に追い込んでいる。だが、私にはドイツ国民がいる・・・国民がどう思うかは明らかだ。

そもそも・・

ドイツ国民は、「第一次世界大戦の全責任はドイツにある」というヴェルサイユ条約の前提に反発していた。しかも、この条約で、ドイツ陸軍は10万人に制限され、飛行機も戦車も持てないのだ。警察に毛が生えた程度の兵団では、敵軍に攻め込まれたらひとたまりもない。デモ隊ぐらいならなんとかなるだろうが。

だから、「ヴェルサイユ条約破棄」が国民に支持されるのはあたえりまえ。

さらに、ヒトラーは、国民が最も望んでいることも約束した。失業をなくすこと。実際、ヒトラーは「失業ゼロ」を最大の公約にしていた。

1929年9月28日、国家人民党のフーゲンベルクは、「解放案」を政府に提出した。国家人民党は保守派の代表格で、社会民主党に次ぐ大政党である。

ところが、内容は小野党のように過激で挑発的だった。

1.ヴェルサイユ条約の戦争責任および一切の賠償金支払い義務を撤廃すること。

2.ドイツの披占領地区から、連合軍は即時撤退すること。

3.諸条約に署名したドイツ政府の大臣もしくは代表者を、反逆罪で処罰すること。

ナチ党が言い出しそうなことではないか!

ところが・・・

この案を起草したのはナチ党のヴィルヘルム・フリックだった。というのも、国家人民党は反リベラル、反社会主義という点でナチ党のお仲間だったのだ。ちなみに、国家人民党は後にナチ党に吸収されている(国家人民党首フーゲンベルクはためらっていたが)。

こうして、1929年の世界大恐慌を境に、ナチ党の支持者が急増していく。この年の12月末には、ナチ党員は17万6426人、ナチ党の私兵「SA(突撃隊)」は10万人に達した。

ナチ党の私兵?SA(突撃隊)?

SA(突撃隊)は、ナチ党の政治集会を警備する目的で創設されたが、実質は党の軍隊だった。

それが、10万人?

ここで、先のヴェルサイユ条約を思いだそう。ドイツに許された陸軍は10万人。つまり、ナチ党の私兵団はドイツ陸軍と同数だったのである(装備は国軍が上だったが)。さすがはナチス、政府やライバル政党に無言の圧力をかけるため、武力まで用意していた?

そうではない。

当時のドイツは、政党が私兵団をもつのは”普通”だったのである。

たとえば、

・ナチ党:SA(突撃隊)

・国家人民党:鉄兜団

・社会民主党:国旗団

・共産党:赤色戦線闘争団

ちなみに、SA(ナチ党)と赤色戦線闘争団(共産党)の路上の乱闘騒ぎも”普通”だった。

■ナチス12議席から第一党へ

1929年の世界大恐慌に始まり、1931年のドイツの金融恐慌を経て、1932年末の「失業率40%」で、失業者はこぞってナチ党の支持に回った。

ところが、ナチ党に加担したのは失業者だけではなかった。大企業の社員や公務員までがナチスに票を入れたのである。彼らは職を得ていたが、至る所で「失業」と「貧窮」を目にしていた。そこで、明日は我が身かも・・・と不安に駆られたのである。その漠然とした不安がナチ党の躍進を後押ししていた。

ヒトラーは、それを見逃さなかった。

彼は、国難にあって、無為無策の共和国政府、ドイツの富を奪い、名誉を踏みにじった冷酷な連合国、この二つの忌まわしい災厄を、一刀両断にしたのである。彼はいつでもどこでも、国民の側に立っていた。上から目線ではなく国民の目線で訴えたのである。彼は、高みに立つ皇帝でも大統領でもない、国民と同じ場所に立つ頼れる護民官なのだ。

そして、その護民官が目指したのは「大ドイツ帝国」の復興だった。ドイツ国民はそれに賭けたのである。

その結果・・・

ナチ党は、1928年の「12議席」から、4年後に「230議席」を獲得し、第一党に上りつめた。そして、翌年には、ヒトラー内閣が誕生したのである。

2015年の日本に当てはめると、4年後に、社民党や共産党が政権をとるようなもの。もちろん、このようなイベントが、歴史の方程式に従って、理路整然と生まれたわけではない。

では、どうやって生まれたのか?

これまで、歴史学では、歴史はいかにして作られるかが論じられてきた。原因と結果の因果律が作るという「決定論」。そして、「個人と偶然」が作るという「偶然論」である。本来、この二つは異質なロジックなので、どっちが正しいか論じることは不毛。とはいえ、歴史学では「決定論」が優勢である。たとえば、「歴史の必然性」を著したイギリスのアイザイア・パーリンは「決定論」を「個人の力」で変えることはできないと言い切っている。

とはいえ、「ヒトラー内閣」のようなレアなイベントは、「個人と偶然」で説明するのが手っ取り早い。実際、この歴史は、超がつくほど個性的なキーマンの産物だった。あのヒトラーでさえ影が薄くなるような・・・

ニーチェの言う「超人」?

ノー、俗物。

ではさっそく、その俗物キーマンを紹介しよう。

第一のキーマンは、ドイツのヒンデンブルク大統領。ドイツ(ヴァイマル共和国)の国政の最高責任者は首相だが、首相の任命権は大統領にあった。しかも、大統領は、閣僚の任命権、国会の解散の決定権を有し、内乱などの非常時には国民的諸権利を停止し、軍を動員することができた。

帝政とどこが違うのだ?

皇帝がいないこと。

もっとも、大統領は疑似皇帝のようなものだが。

じつは、ヒンデンブルクは生粋の政治家ではない。軍人出身で、第一次世界大戦でロシア軍を破った英雄である。しかも、生まれも育ちも貴族。であれば、ガチガチの保守主義者、権威主義者をイメージするが・・・ビンゴ。実際、ヒンデンブルクは、民主主義も平和主義も大嫌いだった。信じがたいことに、彼は国民も政治家も信用せず、軍だけを信頼していたのである。

第二のキーマンは、クルト・フォン・シュライヒャー。軍人出身だが、政治的陰謀が大好きで、「政治将軍」の異名をとった。ヒンデンブルク大統領の信任が厚いのをいいことに、やりたい放題。自分が出世することしか頭になく、ドイツの未来など二の次という超俗物だった。しかも、偏屈で、根に持つタイプで、やり方がエゲツなかった。そのため、支持者といえるのはヒンデンブルクと軍人時代の部下ぐらいだった。

第三のキーマンは、フランツ・フォン・パーペン。彼も軍人出身だが、特技は乗馬だけという、何の取り柄もない男だった。じつは、特技以前に、知能の低さが取り沙汰されるほどだった。しかも、不誠実で野心家というから、極めつけの俗物である。

ではなぜ、こんな男が、混乱の時代にキーマンになれたのか?

貴族出身で、金持ちの娘と結婚したから。それに、ヒンデンブルク大統領の覚えもめでたかった。では、英雄ヒンデンブルクが、なぜ、こんな小者をひいきにしたのか?

パーペンが仲間を裏切って、ヒンデンブルクについたから。

パーペンは、中央党に属していたが、1925年の大統領選挙で、中央党の候補マルクスではなく、ヒンデンブルクを支持したのである。あまりの無節操さに、中央党から除名されそうになったが、カネにものいわせて、難をまぬがれていた。

ここで、ヒトラーもキーマンに入れるべきなのだが・・・入れていいものやら。というのも、この物語の主役はシュライヒャーとパーペンなのである。この二人の個性の強さはどん引きもので、ヒトラーの影が薄くなるほど。しかも、彼らは犬猿の仲、かつ天敵で、熾烈な権力闘争を繰り広げたのである。その結果・・・ひょうたんから駒、それが「ヒトラー内閣誕生」だった。

そこに至る歴史は、ドンデン返しに次ぐドンデン返し、まさに、真実は小説より奇なり。

では、その驚くべき歴史を紹介しよう。

■パーペン内閣

世界大恐慌が始まって、3年後・・・

ドイツ(ヴァイマル共和国)は混乱の極みにあった。経済システムは破壊され、国民生活は破綻し、政権は目まぐるしく交代した。

当時のドイツの有力な政党は、

1.社会民主党(左派)

2.国家人民党(右派)

3.中央党(中道)

の3党だったが、いずれも単独過半数にはとどかず、合従連衡をくりかえしていた。

1932年5月30日、中央党を核とするブリューニング内閣が瓦解した。世界大恐慌の対応に失敗したのである。じつは、ブリューニング内閣の仕掛人は第二のキーマン、シュライヒャーだった。彼は次期内閣も自分が取り仕切ろうと画策していた。首相の任命権はヒンデンブルク大統領が握っていたが、シュライヒャーはその側近中の側近だったのである。

ブリューニング内閣崩壊後、シュライヒャーが首相に推した人物は・・・なんと、パーペンだった。なぜ、犬猿の仲、天敵のパーペンなのか?

この頃、シュライヒャーは、パーペンは頭が弱いのでカンタンに操れると考えていたのだ。実際、シュライヒャーの周囲からはこんな声が上がった。

「パーペンは人の上に立つ器ではない。どうして、あんな者を推すのか?」

これに対し、シュライヒャーはこう答えたという。

「そんなことは百も承知だ。あいつに人の上に立たれては困るんだ。彼は帽子みたいなもんだからね」

こんな身もフタもない理由で、1932年6月1日、パーペン内閣が成立したのである。ただし、すべてシュライヒャーの力というわけではない。ヒンデンブルク大統領が個人的にパーペンを気に入っていたのである。保守主義、貴族主義、権威主義のお仲間だったから。

一方、黒幕のシュライヒャーは国防相に就任した。フィクサーとして、パーペン内閣を影から操ろうというのだ。ちなみに、この内閣は、閣僚9人のうち7人が貴族出身者だった。メディアからは「男爵内閣」と揶揄され、国民の人気も最低だった。口の悪いナチ党のゲッベルスに言わせれば、

「ブルジョア的な与太者内閣」

言い得て妙、さすがナチ党の宣伝担当。

さらに、他の政党からは、嫌われるか、バカにされるか、無視されるか、支持者は皆無で、世にも希な不人気内閣だった。

ところで、パーペンの所属する中央党はどうしたのだ?

じつは、数々の裏切り行為によって、パーペンは中央党から除名されていたのである。

ところが・・・

ヒトラー率いるナチ党だけは、内閣批判を控えていた(支持はしていない)。

なぜか?

ヒトラーとパーペンは裏取引をしていたのである。ナチ党はパーペン内閣を批判しない、そのかわり、パーペンはナチ党に2つの便宜を図る。

一つ目は、当時、ナチ党のSA(突撃隊)が数々の暴力沙汰で、禁止命令を受けていたが、それを解除する。二つ目は、国会を解散する。ヒトラーは、今、国会を解散し、総選挙に持ち込めば、第一党になれると踏んでいたのである。

とはいえ、ヒトラーはパーペンにベッタリというわけではなかった。彼はパーペンから入閣を要請されたが、拒否している。不人気なパーペン内閣に与し、ナチ党のイメージが悪化するのを怖れたのである。つまり、つかず離れず。一方、ナチ党のゲッベルスは、この「ブルジョア的な与太者内閣」と一刻も早く手を切るべきだと考えていた。

1932年6月2日、パーペンは、首相就任宣誓で国会解散を要求した。6月4日、ヒンデンブルク大統領は議会に解散を命じ、総選挙が決まった。さらに、SA(突撃隊)の禁止命令も解除された。パーペンはヒトラーとの約束を守ったのである。

1932年7月31日、総選挙の結果、ナチ党は第一党にのぼりつめた。改選前の107議席から230議席と急伸したのである。得票率は37.4%で、過半数にはおよばなかったものの、正真正銘の第一党。これで、ヒトラー内閣誕生!?

そうはならなかった。

首相を任命するヒンデンブルク大統領がヒトラーが嫌いだったから。

ヒンデンブルクは貴族主義と権威主義と保守主義の権化で、ヒトラーのような、出の悪い、学のない、成り上がり者を蔑んでいた。だから、初めから、ヒトラー内閣の芽はなかったのである。とはいえ、国民が選んだ第一党のナチス党から入閣させないと、国民が不満をもつ。

そこで、パーペンはナチ党に閣僚のポストを提供することにした。ところが、ヒトラーはこの申し出を断った。首相以外は受けない、と言い放ったのである。

1932年8月5日、今度は、シュライヒャーがヒトラーと面会し、副首相として入閣するよう求めた。しかし、結果は同じだった。そこで、シュライヒャーはヒトラーを首相にするようヒンデンブルクに提言したが拒否された。

8月13日、このドタバタに業を煮やしたヒンデンブルクは、ヒトラーと会談し、副首相になるよう求めた。ところが、ヒトラーは「首相以外は受けない」を繰り返すばかりだった。

そこで、パーペンは大きなニンジンをぶら下げた。もし、ヒトラーが副首相として入閣するなら、その後に首相の地位を譲ってもいい・・・ところが、それでもヒトラーは首を縦に振らなかった。

普通の政治家なら、乗ってしかるべき譲歩案なのに、ヒトラーはなぜ拒否したのか?

副首相という「ナンバー2」に甘んじたら最後、国民は、ナチ党を妥協的で日和見的とみなすだろう。だから、完全無欠の「ナンバー1」か、それとも、「ゼロ」かの二択。

芝居がかった美学を好むヒトラーの考えそうなことだ。

こうして、政府首脳とナチ党の会談は決裂した。

ところが、ここで、ナチ党内部で不満の声があがる。

ナチ党が第一党なのに、なぜ、ヒトラー内閣ではなく、パーペン内閣なのだ?

とくに、ナチ党のSA(突撃隊)の不満は大きく、武装蜂起を求める声まであがった。SAは、軍事訓練は受けていたが、ドイツ正規軍のような「しつけ」はされていない。しかも、隊員のほとんどは、20歳前後と若く、仕事にあぶれた、粗暴で無教養な集団なのだ。

ところが、狡猾なヒトラーはこれを利用した。

「荒くれどものSAが武装蜂起をたくらんでいる」という情報をそこら中に流し、パーペンにプレッシャーをかけたのである。パーペンは縮み上がり、ヒトラーを首相にすることも考えたが、ヒンデンブルクに拒否された。

1932年9月12日に国会が召集され、パーペンが所信表明演説をしようとしたとき、異変が起きる。共産党議員がパーペン内閣不信任の緊急動議を提出したのである。議会は大混乱に陥り、一旦、休会することになった。

パーペン内閣は貴族主義・保守主義の権化なので、共産党は天敵である。だから、共産党がこんな挙に出ても不思議ではない。とはいえ、共産党だけでこの動議を通すことはできない。

ところが・・・

共産党の天敵のナチ党がこの動議に賛成したのである。結果、不信任決議案は512対42の大差で可決された。

追い込まれたのがパーペンである。残された道は一つ、議会を解散するしかない。さっそく、ヒンデンブルク大統領に泣きつき、解散に持ち込んだのである。ところが、それを狙っていたのがヒトラーだった。「内閣不信任→議会解散→総選挙」で議席数をさらに伸ばす。たとえ、過半数はとれなくても、議席が増えれば、偏屈なヒンデンブルクもヒトラー内閣を認めざるをえないだろう。

ところが・・・

1932年11月6日、総選挙の結果、第一党のナチ党は前回の「230議席」から「196議席」へ大きく議席数を減らした。さらに、第二党の社会民主党も「121議席」に後退する。

では、どの党が増えたのか?

共産党。「100議席」を獲得し、第二党の社会民主党に肉薄したのである。

これを見て震え上がったのがパーペンだった。右派の権化のパーペンにとって、左派の権化、共産党は天敵だから。これで、ナチ党の協力が欠かせなくなった。

11月9日、パーペンは、ヒトラーに副首相就任を再度要請した。ナチ党も議席数を減らしたので、今度は乗ってくるかもしれないと考えたのだ。ところが、ヒトラーは強気だった。「首相以外は受けない」を繰り返したのである。

これに業を煮やしたのがシュライヒャーだった。

パーペンの体たらく、無能ぶりに腹を立て、パーペンに総辞職を求めたのである。ヒンデンブルクもこれに同意し、11月17日、パーペン内閣は総辞職した。

■シュライヒャー内閣

一方、ヒンデンブルクは、日替わり定食のような政権交代にウンザリしていた。彼の望みは、議会の第一党が過半数をとり、安定政権を樹立すること。但し、保守派に限られるのだが。

1932年12月1日、ヒンデンブルク大統領は、混乱した事態を収拾するため、パーペンとシュライヒャーを招集した。追い詰められたパーペンは、恐るべき提案をする。国軍を出動させて、議会を停止し、憲法を変えて、大統領権限を強化するというのだ。早い話が軍事クーデター。

ところが、シュライヒャーはこれに反対した。

国軍を使ってクーデターを起こすなんて、政治家としての信義にもとる、と考えたわけではない。これを機に、パーペンを失脚させ、自分が首相になろうとしたのだ。

シュライヒャーの提案は、「政治将軍」の名に恥じないものだった。頭のてっぺんから足のつま先まで陰謀、陰謀、陰謀。

その陰謀、いや、提案というのが・・・

まず、シュライヒャーが首相に就任し、その後、ナチ党の一部を取り込んで分裂させる。これで、ナチ党のリスクは軽減されるはずだ。さらに、シュライヒャーは閣僚にこう言って恫喝した。

「ぐずぐずしていると、ナチがSAを使って内乱を起こすかもしれない。そうなれば、国軍が鎮圧するのは不可能」

国の正規軍が、党の私兵に負ける?

その可能性はあった。ヴェルサイユ条約によって、ドイツ陸軍は「10万人」に制限されていた。しかも、戦車も航空機もない、警察予備隊のようなもの。一方、SAは私軍なので、ヴェルサイユ条約の効力がおよばない。実際、この時期、SAの兵数は国軍より多かった。しかも、2年後の1934年には、兵数「300万人」というからどっちが国軍かわからない。

というわけで、「SAの軍事クーデター」は閣僚を脅すには十分だった。結果、シュライヒャーを支持する声が大勢を占め、パーペンに退陣を求めたのである。パーペンはヒンデンブルク大統領に泣きついたが、事がここに及んでは是非もない。パーペンの泣き言は却下された。

12月2日、パーペン内閣は瓦解し、シュライヒャーが首相に就任した。

どんでん返しにつぐどんでん返し、恐ろしい権力闘争である。

首相に就任したシュライヒャーは、さっそく、ナチ党の分裂をはかった。彼が目を付けたのは、ナチ党の有力幹部グレゴール・シュトラッサーである。この頃、ナチ党内部には、首相に執着し、入閣を拒否するヒトラーに不満を抱く一派があった。このままでは、いつまでたっても野党のままだから。そして、この不満分子が、シュトラッサーの周辺に集結していたのである。

だから、シュトラッサーとヒトラー離反させれば、ナチ党は分裂し、脅威は半減する、とシュライヒャーは読んだわけだ。

ところが・・・

このシュライヒャーとシュトラッサーの接触を嗅ぎつけた人物がいた。パーペンである。パーペンは自分の内閣を崩壊させたシュライヒャーに恨み骨髄で、シュライヒャーの失脚を虎視眈々と狙っていた。

そんなとき、シュライヒャーとシュトラッサーが密談したというから、飛んで火に入る夏の虫、パーペンはさっそくヒトラーにちくった。

当然、ヒトラーは激怒した。党員が、党首をさしおいて首相と密会したのだから。シュトラッサーは党の役職を解任され、完全に影響力を失った。シュライヒャーの計画は失敗したのである。

これで、パーペンの腹の虫が治まったわけではない。シュライヒャーへの復讐はまだまだ続く。

1932年12月16日、紳士クラブの席上、パーペンはシュライヒャーの退陣とヒトラーの入閣を声高に説いた。その後も、ことあるごとに、シュライヒャーに噛みつくのだった。

こうして、慌ただしい1932年が終わろうとしていた。

年が明けて、元旦、風刺誌「ジンプリチシムス」1933年1月1日号に、こんな記事がのった。

「確かに言えることは一つだけ、俺たちはそれで万々歳さ、ヒトラーはおしまいだ、この総統の時代は過ぎた」(※3)

国内外のほとんどの新聞の年末年始のコメントも、この見解で一致していた。というのも、ナチ党は議席数を減らしつつあり、そもそも、第一党になっても組閣の見込みがないのだから。だから、ドイツの民主主義は守られた、ヒトラーはもうおしまいだ、と。

ところが、その真逆の予言をした者がいた。ベルリンの有名な占星術師ハヌンセンである。

1933年1月1日、ハヌンセンは、ヒトラーのオーバーザルツベルクの山荘に訪ねて、1月30日の首相就任を予言したのである。

さて、どっちが的中したのか?

現実は、不吉な方に向かっていた。

1933年1月4日、大銀行家クルト・フォン・シュレーダーの邸宅で、ヒトラーとパーペンの会談が行われた。

そこで、5つの合意が成立する。

1.シュライヒャー内閣を倒すこと。

2.ヒトラーとパーペンの対等の内閣を樹立すること。

3.ヒトラーが首相に就任すること。

4.社会民主党、共産党、ユダヤ人を国家中枢から追放すること。

5.ナチ党の債務を解消すること(銀行家シュレーダーが莫大な資金援助を約束)。

この会談は、ヒトラーとパーペンにとって実りのあるものだった。ヒトラーにしてみれば、党の深刻な資金難が解消され、首相への足掛かりができる。一方、パーペンは宿敵シュライヒャーを首相の座から引きずり下ろせる。メデタシ、メデタシ・・・

これを聞き知ったシュライヒャーは激怒した。さっそく、ヒンデンブルクのもとに飛んで行って、自分が同席しない限りパーペンと会わないようクギを刺したのである。ところが、この時すでに、ヒンデンブルクの腹は決まっていた。シュライヒャーに替えて、パーペンを首相にしようと・・・その前は、パーペンに替えてシュライヒャーを首相にすえたのにね。

1933年1月22日、ナチスの幹部リッベントロップの自宅で、重大な会談が行われた。出席者は、ヒトラーとパーペン、さらに、ヒンデンブルク大統領の息子オスカー・フォン・ヒンデンブルク。オスカーはヒンデンブルクの息子で、大統領の信任が厚かった。

この会談の6日後、1月28日、パーペンとオスカーは、口をそろえて、ヒンデンブルクにこう進言した。

「ヒトラーを首相に指名しても、何の問題ありません」

これで、ヒンデンブルクの腹は決まった。ヒトラーは気に入らないが、この政治的難局を乗り切るには、第一党の党首を首相にするしかない。それにお気に入りのパーペンと息子のオスカーも問題ないと言っていることだし。

仰天したのがシュライヒャーである。劣勢を挽回するには、ヒトラーを寝返らせるしかない。

そこで・・・

1月29日、シュライヒャーは、腹心の陸軍統帥部長クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルトをヒトラーの下へ送り込んだ。そして、パーペンの悪口を山ほど吹き込んだあげく、寝返るよう説得したのである。しかし、ヒトラーの気持ちは変わらなかった。首相の任命権はヒンデンブルク大統領にあり、その息子オスカーがパーペン側についている。なんでわざわざ、負け犬と手を組む必要があるのだ?

シュライヒャーの敗北は決定的だった。

そこで、シュライヒャーの腹心、陸軍統帥部長ハンマーシュタインは恐るべき提案をする。それは・・・起死回生の軍事クーデター。ハンマーシュタインは、そこまでして、ヒトラー内閣を阻止したかったのである。というのも、彼はヒトラーが大嫌いで、ヒンデンブルク大統領に、

「何があっても、ヒトラーを首相にしてはいけません」

と再三訴えていた。

ところが、肝心のシュライヒャーが、土壇場でクーデターに反対したのである。

なぜか?

クーデターを起こせば、ヒトラーとパーペンを抹殺し、恩あるヒンデンブルク大統領の顔に泥を塗ることになる。それに、万一失敗したら、ただではすまない。反逆者として銃殺されるだろう。そのプレッシャーに耐えられなかったのだ。こうして、シュライヒャー派の軍事クーデターは歴史年表から消えた。

ここで、歴史のIF・・・もし、このとき、国軍のクーデターが起こっていたら?

不意を突かれたヒトラーは落命していた可能性が高い。そうなれば、歴史は大きく変わっていただろう。その後のヒトラーの独裁もなく、第二次世界大戦も起こらないから(たぶん)。

■ヒトラー内閣誕生

1933年1月30日午前11時15分、アドルフ・ヒトラーが首相に任命された。ヒトラー内閣が誕生したのである。黒幕のパーペンはナンバー2として、副首相に就任した。

ここで、思い出し欲しい。

1933年1月1日、占星術師ハヌンセンが、1月30日ヒトラーの首相就任を予言したことを。怪しい八卦占いの類が、理論に基づく予想に勝ったのである。

意気消沈したシュライヒャーは、これを機に、政治の第一線から退いた。ところが、腹の虫が治まらなかったのか、その後、ヒトラー批判を始める。心配した友人は、控えるよう警告したが、シュライヒャーは止めなかった。偏屈で、根に持つ性格がそうさせたのである。

いつの世でも、このような性癖は災厄を招く。

翌1934年6月30日、ナチ党内部で大規模な粛清が行われた。「長いナイフの夜」事件である。ヒトラーに批判的だったSA(突撃隊)トップのエルンスト・レームが逮捕されたのである(後に銃殺)。ところが、同日、シュライヒャーが妻とともに、ゲシュタボに射殺された。シュライヒャーはSA(突撃隊)とは何の関係もなかったのに。つまり、シュライヒャー夫妻は”ついでに”殺されたのである。

冷静に考えれば、この事件は重大である。軍の最高幹部が夫婦で射殺されたのだから。しかも、誰がやったかも分かっている。

ところが、軍部はこれを一切追求しなかった。新しい指導者ヒトラーに遠慮したこともあるが、シュライヒャーの人望がなかったのも一因だろう。

「偏屈と恨み」は、時として身を滅ぼすことがある。

これは肝に銘じておくべきだろう。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶというが、このような経験からは学べない。後がないから・・・

《つづく》

参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」ベンマッキンタイアー(著),Ben Macintyre(原著),藤川芳朗(翻訳)
(※2)「ヒトラー全記録20645日の軌跡」阿部良男(著)出版社:柏書房
(※3)ヒトラー権力掌握の20ヵ月グイドクノップ(著),高木玲(翻訳)中央公論新社

by R.B

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