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週刊スモールトーク (第282話) アーリア人植民地計画Ⅱ~ヴァーグナー神話~

カテゴリ : 人物思想歴史

2015.03.21

アーリア人植民地計画Ⅱ~ヴァーグナー神話~

■優生学の時代

アーリア人の神話は強力である。

最強の人種にして、文明を担う者、そして、地球の支配者、それがアーリア人 ・・・ だったはずなのに、今では、カスピ海周辺からイランやインドに流れ着いた集団、で落ち着いている。

ではなぜ、それが神話にまで登り詰めたのか?

ことの発端は、19世紀、フランスで出版された書「人種の不平等論」までさかのぼる。この中で、著者アルテュール・ゴビノーは、白人が最も優秀で、とりわけアーリア人が一番で、「支配人種」とまで持ち上げたのである。

さらに、ゴビノーは恐るべき警告を発している。

「黒、黄、白の肌の色の違いは、自然が設定した人種の『壁』、だから温血は禁じるべきである。混血で人種の『壁』が崩壊し、文明が退化するから」

混血で、なぜ文明が退化するかわからないが、「黒、黄」側にしてみれば、心穏やかではない。ところが、これを正当化したのが「優生学」だった。

「優生学」は、19世紀、フランシス・ゴルトンを起源とする気味の悪い学問である。一言でいうと「人間の品種改良」。

本来なら、倫理的な非難をあびてしかるべきなのだが、当時、世を騒がせていた「ダーウィンの進化論」に後押しされた。結果、20世紀初頭に大きな成功をおさめるのである。

というのも ・・・

ダーウィンの進化論のキモは「自然淘汰と適者生存」 ・・・ 弱者が滅び、強者が生き残る、つまり、自然による生物改良。

一方、優生学のキモは「生殖による人間改良」 ・・・ 優秀な人間同士が結婚し、優秀な子孫を残す。つまり、人為的な人間改良。

というわけで、優生学の「人間改良」は進化論の「生物改良」によって理論付けされたのである。こうして、優生学はヨーロッパで広く認知されていく。ところが、その結末は恐ろしいものだった。ナチスドイツが、優生学を盾に、ゲルマン人至上主義、ジェノサイド(民族絶滅)を正当化し、歴史上最大のユダヤ人迫害を引き起こしたのである。

ところが、それも長く続くかなかった。

第二次世界大戦後、アウシュヴィッツをはじめナチスの強制収容所の蛮行が明らかになると、世界は震撼した。結果、優生学はナチスのお仲間にされ、「疑似科学」の烙印までおされたのである。

しかし ・・・

遺伝子とDNAが解明された今、優生学は疑似科学とは言えない。そもそも、優生学のキモ「生殖による人間の品種改良」は古くから行われてきた。支配者や成功者が、自分の娘に頭の良い婿を迎え、優秀な子孫をのこそうとしたのは、その一例である。

実際、IQの高い両親からは、80%の確率で、IQの高い子供が生まれるというデータもある。身長はもっとわかりやすい。突出して背の高い両親からは、ほぼ間違いなく背の高い子供がうまれる。この相関関係は統計学で、因果関係は遺伝学で説明できるので、真実といっていいだろう。

というわけで、人間も生物なのだから、「農作物の品種改良」がアリなら、「人間の品種改良」もアリ ・・・ 倫理的な問題はさておいて。

ただし、優生学が成立したからといって、「ユダヤ人が劣等で、アーリア人が優等」とは限らない。この二つは別の話だから。それどころか、ノーベル賞受賞者とお金持ちにユダヤ人が多いのだから、「ユダヤ人が優等」かもですよ。

ところが、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、優生学と反ユダヤ主義はいっしょくたにされた。それを真に受けたのが、哲学者ニーチェの妹エリーザベトと夫のフェルスターである。この二人は極めつけの反ユダヤ主義者で、ドイツ本国がユダヤ人に汚染されたと考えて、南米パラグアイで植民地「新ゲルマニア」の建設をもくろんだのである。

■ヴァーグナーの世界

 そもそも、エリーザベトとフェルスターを結びつけたのは、他ならぬ「反ユダヤ主義」だった。しかも、その仲介者というのが、大哲学者ニーチェと大音楽ヴァーグナーというから驚きだ。しかし、断じて言うが、ニーチェは人種差別主義者ではない。

では、ヴァーグナーは?

夫婦そろって反ユダヤ主義者(フェルスターほどではないが)。

リヒャルト・ヴァーグナーは、19世紀ドイツの大音楽家で、ロマン派歌劇の王様である。「トリスタンとイゾルデ」や「ニーベルングの指輪」などの作品で知られるが、輝かしい名声の裏側に、アーリア人至上主義、国粋主義者という闇の部分がある。とはいえ、自ら、台本を書き、作曲、歌劇の構成、指揮まで手がけるのだから、万能型の天才だったのだろう。

さらに、ヴァーグナーには尋常ならざるカリスマがあった。この頃、ヴァーグナーはスイスのルツェルン湖畔にあるトリプシェンを拠点にしていたが、そこに、ヴァーグナー信奉者がおしかけたのである。トリプシェンの邸宅は、さながら「ヴァーグナー・ワールド」のメッカだった。

そのヴァーグナーの取り巻きの一人が、若き日のフリードリヒ・ニーチェだった。彼は、自著「この人を見よ」のなかで、こう書いている。

「ほかの人間関係ならば全部安く売り払ってもいい。しかし、あのトリプシェンの日々だけはたとえどんなに積まれても、私の人生から引き離して手放すつもりはない。信頼と解決と崇高な偶然の日々、深遠な瞬間に満たされた日々だった」(※1)

さらに、ニーチェは著書「悲劇の誕生」の中で、公然とヴァーグナーと賛美した。その卑屈な論調に、大きな批判が巻き起こった。一方、ヴァーグナーは大喜びで、「こんな美しい書物は読んだことがない」と絶賛した(あたりまえですね)。

そんなこんなで、ニーチェのヴァーグナーへの入れ込みようはハンパではなかった。1870年7月には、妹のエリーザベトまでトリプシェンの邸宅に引き入れている。しかも、ヴァーグナー家の子供達のベビーシッターとして。なんと、卑屈な!

ところが、エリーザベトは、たちまち、ヴァーグナー・ワールドのとりこになった。

一方、ニーチェのヴァーグナー熱はだんだん冷めていく。その時期、ニーチェは不眠症、頭痛、嘔吐感に悩まされたが、それが原因だったかはわからない。

ではなぜ、ニーチェはヴァーグナーに失望したのか?

エリザーベトは、トリプシェンの邸宅の様子をこう書いている。

「大広間をのぞいてみると、そこには少なくとも40人ほどの楽長、若い音楽家、文筆家たちがヴァーグナーとの面会を待っていた。年配の人たちは低く抑えたような声で語り、若い人々は美しい畏敬の表情で耳を傾けていた」(※1)

卑屈な追従者に囲まれ、それにご満悦のヴァーグナー ・・・ そんな世界が、ニーチェには安っぽく見えたのである。彼はこう書いている。

「まさに身の毛もよだつ人間たちの集まりだ。出来そこないは一人とて欠けてはいない。反ユダヤ主義者さえもだ。哀れなヴァーグナー、なんという境遇に陥ってしまったことか!豚に囲まれている方がまだましだ!」(※1)

一方、エリザーベトはこの安っぽい世界がお気に入りだった。

それにしても、ヴァーグナーのカリスマには驚くばかりだ。音楽を解さない者まで虜にするのだから。じつは、そんな門外漢の取り巻きがもう一人いた。のちにエリザーベトと結婚するベルンハルト・フェルスターである。

■フェルスターの企て

フェルスターは、この頃、ベルリンの学校教師をしていたが、トリプシェンのヴァーグナー・ワールドに入り浸りだった。

ヴァーグナーに取り入って、反ユダヤの援助をとりつけようとしていたのである。ところが、ゼンゼン相手にされない。そこで、ヴァーグナーお気に入りのニーチェ兄妹の妹エリーザベトに近づいたのである。

フェルスターはエリーザベトに「反ユダヤ主義とドイツ人の魂の復活」を熱く語った。彼女はすぐに賛同した。似た者夫婦だったのだろう。ところが、兄ニーチェはそれが気に入らなかった。フェルスターが信奉する人種差別と国粋主義を嫌悪していたから。

ニーチェは、人種と国家を超えた個人主義を尊んだ。なかでも、健全な欲望を実現しようとする人間を「超人(オーヴァーマン)」とよんで讃えた。これがニーチェの超人思想である。

フェルスターはエリーザベトという同志を得て、ますます自信を深めた。そして、反ユダヤ主義を加速させていく。

1880年11月8日、フェルスターは、ベルリンで事件を起こした。仲間たちと「反ユダヤ」で盛り上がったあと、ユダヤ人と乱闘騒ぎをおこしたのである。フェルスターは逮捕され、90マルクの罰金を払ったが、人種差別主義者たちの間で、大いに株を上げた。

フェルスターの主張は単純だった。

「ユダヤ人はあこぎな商売をして、ドイツ文化を破壊しようとしている」

そして、東ゴート族の法典の一節を付けくわえるのだった。

「祖国を裏切った者は、みな裸の木に吊されるのだ」

フェルスターは、ユダヤ人をおとしめるのに労を惜しまなかった。学校教師をしながら、時間をどうやりくりしたのかわからないが、「反ユダヤ」署名を26万7000もかき集め、嘆願書を添えて首相官邸に持ち込んだのである。

ところが、反応はゼロ。というのも、このとき、ドイツ帝国の首相は名宰相ビスマルク。彼のような合理主義者・現実主義者が、浮ついたイデオロギーに賛同するはずがない。というわけで、フェルスターの努力はムダに終わった。

一方、ニーチェの方は、病状が悪化し、バーゼル大学を辞職せざるをえなくなった。その後、ヨーロッパを放浪しながら、在野の哲学者として活動を続けた。

しかし、ニーチェの哲学は自らを破滅に追い込んだ。彼の哲理は、粗野で暴力的で、神をも怖れない、しかも、水も漏らさぬ論理で、一寸のスキもなくたたみ込んでいく。一瞬の安らぎも許さないのだ。

このような救いのない哲理は、ニーチェの女性観にも反映されている。37歳のとき、彼はこう書いている。

「真の男が求めるものは2つある。危険と遊びだ。それで真の男は女性を求めるのだ、もっとも危険な遊びとして」

ニーチェは街の女と遊んで梅毒に感染したが、もちろん、それを言っているのではない。とすれば、皮肉な話ではないか。

また、このような女性観はニーチェの感情的未熟さをあらわしている。万華鏡のような女性の多様性、多面性を見ようともしないのだから。

話をフェルスターにもどそう。

乱闘騒ぎを起こした2年後の1882年、フェルスターは度を超した人種差別主義が祟って学校を追放される。一方、エリーザベトとの関係は良好だった。人の道に外れた反ユダヤ主義で盛り上がったのだろう。

そして、1880年、フェルスター夫妻にとって決定的な出来事が起こる。二人が信奉するヴァーグナーが「宗教と芸術」のなかで、もってまわった言い方で、こう主張したのである。

「高貴な人種と高貴ならざる人種との混合が、人類最高の特質を損ないつつある。アーリア人種の純粋さを保つことによってのみ、人種の復活は成し遂げられる ・・・ 食糧を供給するのに十分肥沃な『南アメリカ大陸』に人々を移住させることを阻むものは一つもない」(※1)

フェルスターはこれに飛びついた。あのヴァーグナーが南アメリカ大陸移住を正当化してくれたのだ。そもそも、「南アメリカ移住」はフェルスターにとって一石三鳥だった。第一に、ヴァーグナーの忠実な信奉者であることをアピールできる。第二に、ユダヤ人に汚染されたドイツから脱出できる。そして、なにより、フェルスターは失業中だった。

■新ゲルマニア

フェルスター夫妻の南アメリカ移住の目的は恐るべきものだった。アーリア人共和国「新ゲルマニア」の建設、つまり、「人種の純化」にあったのだから。

1883年、フェルスターは南アメリカに旅立った。新ゲルマニアを建設する場所を探すために。出発する前、彼はエリーザベトに2つの約束をした。ドイツに帰ったら結婚すること、栄えある第一次開拓団の共同指導者となって、南アメリカに渡ること。ドラマチックで芝居がかったことが大好きだったエリーザベトは大喜びだった。

一方、 ヴァーグナーは自分のアイデア「南アメリカ移住」を実践するフェルスターに気を許したのか、励ましの電報を打っている。

「ヴァーグナーより一言挨拶を。君の夢に祝辞を贈る。よい旅を」

フェルスターにとって幸先のよいのスタートだった。

その後、フェルスターは2年かけて、南アメリカ大陸中央部を調査した。そして、ついに、「新ゲルマニア」にふさわしい国を見つけた。パラグアイである。理由は、三国同盟戦争で人口が半減していたこと、ユダヤ人に汚されていない未開の地であること。また、パラグアイの移民局も有利な条件で土地を譲渡してくれそうだった。

この間、エリーザベトは、夫にせっせと手紙を書き送っている。

「やがてあなたの旗のもとに、開拓者たちが群がり集まることでしょう。この計画はきっと成功します」

内助の功というか、なんというか、NHKの大河ドラマ「功名が辻」の山内一豊の妻を彷彿させる。エリーザベトもまた夫をその気にさせる天才だったのだろう(この時まだ結婚していなかったが)。

フェルスターの留守中も、彼女は精力的に働いた。人種差別を鼓舞するパンフレットを配り、「新ゲルマニア」建設の資金と同志を集めたのである。

このような人種差別主義は、ベルリンのような都市部では眉をひそめられたが(表向きは)、ドイツ南部の田舎では受け容れられた。ビアホールで一席ぶつと、泡立つビールを前に、テーブルを叩いて賛同してくれる者がいたのである。彼らはドイツの経済的困窮はユダヤ人のせいで、自分たちを父祖伝来の土地から追い出したのもユダヤ人だと信じていた。

1885年3月、フェルスターはドイツに帰国し、エリーザベトと結婚した。ところが、兄ニーチェは結婚式に出席しなかった。憎むべきフェルスターが、最愛の妹を奪う結婚式を、なぜ祝わなければならないのか!

その後、エリーザベトとフェルスターは国中をまわり、ヴァーグナー協会で、移民協会で、ビアホールで、「新ゲルマニア」を熱く語った。その甲斐あって、移住希望者が100名ほど集まった。それが多いか少ないかはビミョーだが、人気のブラジルやアルゼンチンならいざ知らず、ロクな実績もない未開のパラグアイに、なぜ移住する気になったのか?

人間は千差万別、だから、こんな物騒な話にのる者がいるのである。

たとえば、
1.熱烈な反ユダヤ主義者。
2.食いっぱぐれて後がない者。
3.天国の下僕より、地獄の帝王を望む者。
4.単にだまされやすい人たち。

こんな一癖も二癖もある開拓団が、三癖も四癖もあるフェルスター夫妻に率いられ、パラグアイに移住したのである。もちろん、結末は惨憺たるものだった。

《つづく》

参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)

by R.B

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