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週刊スモールトーク (第281話) アーリア人植民地計画(1)~人種の純化~

カテゴリ : 思想歴史

2015.03.07

アーリア人植民地計画(1)~人種の純化~

■「人種の純化」計画

男が熱く語り、女が大げさに相づちをうつ。愛を語り合う恋人同士ではない。女は、目が大きく、愛くるしい顔立ちで、名をエリーザベトといった。かの大哲学者ニーチェの妹である。男は、ハンサムで背が高く、名をフェルスターといった。この二人は夫婦で、よからぬ話題で盛り上がっていたのである。

その話題というのが・・・南米パラグアイで、ドイツ人のドイツ人によるドイツ人のための植民地を建設する。「ドイツ人」を「アーリア人」に読みかえれば、ナチスの「人種の純化」計画そのもの。人の道に外れた危険な計画である。

この計画を最初に思いついたのは夫のフェルスターだった。フェルスターは狂信的な反ユダヤ主義者で、ユダヤ人に汚染されたドイツを捨てて、地球の裏側でドイツ人植民地を建設すると、触れ回っていた。「南アメリカなら我々の新しいドイツが見つけられる。そこでは、ドイツ人が純粋なドイツ精神を育むことができるのだ。パラグアイの未開の地の真ん中に築かれる『新ゲルマニア』は、いつの日か、大陸全体をおおい尽くす、誉れ高き新しい祖国の核となるであろう」(※1)

抽象的で雲をつかむような話だが、意味するところは重大である。われわれは、南アメリカで「新ゲルマニア」を建設する。そこは、純粋なドイツ精神が宿る心臓である。その精神は、やがて南アメリカ全土をおおい尽くし、ドイツの第二の祖国となるだろう・・・と言っているのだから。

不吉なことに、「新ゲルマニア」は50年後に成立するドイツ第三帝国の世界首都「ゲルマニア」を暗示していた。そして、皮肉なことに、どちらも見果てぬ夢で終わったのである。とはいえ、「南アメリカ移住」は、この時代、珍しいことではなかった。1880年代前半までに、すでに、数十万人のドイツ人が南アメリカに渡っていたからである。ただし、彼らの動機は「人種の鈍化」のような高邁なイデオロギーではなかった。単に食い詰めていたのである。

1871年、ドイツ帝国(帝政ドイツ)が成立し、ドイツが統一された後も、ひどい不況が続いていた。何千、何万というドイツ人が貧困にあえぎ、移住に望みをつないだのである。さまざまな移民協会が設立され、多くのドイツ人が南アメリカに渡った。行き先は、たいてい、ブラジルかアルゼンチンだった。すでに、多くのドイツ人が住んでいたからである。ところが、フェルスター夫妻が目指したのは、実績のないパラグアイ。なんで、よりよってそんな所に?変わり者だから?たしかに。でも、それだけではない。じつは、「パラグアイ」がとりわけ突飛というわけではなかったのだ。フェルスターの前にパラグアイに入ったヨーロッパ人がいたのである。

■南アメリカ探検

大航海時代、多くのヨーロッパ人が、一山当てようと、新大陸に押しかけた。ポルトガル人アレヒオ・ガルシアもその一人だった。彼はアメリゴ・ベスプッチの探検の後を継いで、漁夫の利を得ようとしていた。ベスプッチは「アメリカ大陸の第一発見者」の名誉を巡って、コロンブスと争ったイタリアの航海者である。コロンブスが上陸したのはアメリカ大陸ではなく、周辺海域の小島だった・・・それに最初に気づいたのがベスプッチだった。

彼は、「ヨーロッパ人で初めて北アメリカに到達したのはこの私だ」と主張して譲らなかった。結果、新大陸はアメリゴ・ベスプッチの名をとって「アメリカ」と命名された。コロンブスの名を冠した「コロンビア」とはならなかったのである。その後、ベスプッチは、ブラジルの海岸沿いに南下して、のちにラプラタ川と呼ばれる川を発見した。ベスプッチは、この川のどこかを抜ければ、南アメリカ大陸の反対側に出て(太平洋側)、スパイスアイランドに行けると考えた。ところが、ベスプッチは探検を途中で中止してしまった。そこに目をつけたのが、アレヒオ・ガルシアである。ベスプッチの探検を継承し、手柄を横取りにしようとしたのである。

もし、成功すれば、「ヨーロッパ→南アメリカ→(太平洋)→スパイスアイランド」の新航路を独占し、莫大な富が得られる。ガルシアは、スペイン人の水先案内人ファン・ディアス・デ・ソリスを雇い、意気揚々、船出した。1515年の夏、探検隊はラプラタ川の河口に到着した。ベスプッチが探索を中止したあたりである。ガルシアはそこから調査を開始した。ガルシア隊がマルティン・ガルシア島につくと、チャルア・インディアンの一団がいかにも親切そうに身振り手振りで水先案内人を差し招いた。ファン・ディアス・デ・ソリスは浜にあがった。そして、かわいそうにたちまち食べられてしまった。先導者を失った一行は逃げ去った(※1)。

こうして、ガルシアの目論見は頓挫した。ところが、その後、原住民から、耳寄りの話を聞いた。南米の山奥に財宝ザクザクの帝国があるというのだ。それを奪う方が、新航路を発見して貿易でチマチマ稼ぐより、よほど手っ取り早い。そう考えたガルシアは、早速、行動を開始した。ところで、この財宝ザクザクの帝国だが、かの「インカ帝国」である。1524年頃、ガルシア隊は、現在のパラグアイの首都アスンシオンに入った。そこで、ガルシアは2000人のインディアン(チルグアノ族)を仲間に引き入れた。その後、川をさかのぼって、インカ帝国のはずれに到着した。そこで、住民を殺して回って、莫大な財宝を手に入れた。こうして、ガルシアは征服に必要な兵力と資金を手に入れたのである。あとは、インカ帝国を征服するのみ。

ところが・・・1525年の暮れのこと、突然、ガルシアに災難が降りかかった。ガルシア隊のインディアンが裏切って、ヨーロッパ人を一人残らず殺したのである。その後、インディアンは遺された財宝を山分けして、何が気に入ったのか、その場所に住みついた。アンスシオン(現在のパラグアイの首都)の北方、150マイルのあたりである。その360年後、ここに、新ゲルマニアが建設がされるのである。こうして、インカ帝国征服の手柄は、1533年、スペイン人の征服者フランシスコ・ピサロに転がり込んだのである。歴史は、いや、人生は何が起こるかわからない。

ということで、パラグアイに入った最初のヨーロッパ人は、アレヒオ・ガルシア。フェルスターではなかったのである。ところで、ガルシア隊が全滅したのに、なぜ、最期の状況が分かるのか?ガルシア隊の消息を追った人物がいたから。名をセバスチャン・カボットというスペイン人航海者である。なんと物好きな?ノー、ノー!お目当てはガルシアが略奪した金銀財宝。1526年、カボットは4隻の船と600人の部下を引き連れて、パラグアイを北上した。その後、アスンシオンの北方、150マイルあたりで、川岸に住むグアラニー部族と遭遇した。未開の部族で、暮らしぶりも貧乏なのに、どういうわけか、大量の銀を貯えている。これは怪しい、ガルシアの財宝に違いないと、にらんだカボットは、無慈悲にも財宝を取り上げてしまった。それがよほど嬉しかったのか、記念に、その川をラプラタ川(スペイン語で「銀の川」)と命名した。

ではその後、パラグアイはどうなったのか?

200年間のスペイン植民地をへて、1811年に共和国として独立を宣言した。ところが、その後、歴史上もっとも凄惨な戦争に巻き込まれるのである。

■史上最悪の三国同盟戦争

戦争は、いつの時代も凄惨だ。史上初の世界戦争、第一次世界大戦では1000万人が戦死した。つづく、第二次世界戦では7000万が犠牲になった。そのうち3000万人が、ドイツとロシアが戦った東部戦線である。しかも、半数が民間人というから、独ソ戦の凄まじさがわかるというものだ。この戦いは、英雄も、超兵器も、胸のすくような戦術もなく、肉切り包丁で斬り合う消耗戦だったのである。第二次世界大戦は、空爆の被害も突出している。

たとえば、1945年8月6日、広島に投下された原子爆弾は、広島市の92%の建物を破壊し、20万人の命を奪った。さらに、ドイツの都市ドレスデンへの無差別爆撃も凄まじい。1945年2月13日から15日にかけて、イギリスとアメリカの重爆撃機1000機以上が出撃し、街の85%を破壊した。さらに、ドレスデン市民数万人が即死し、最終的に20万人が死んだ。ドレスデン生まれの作家エーリヒ・ケストナーはこう書いている。「あの都市美を創造するのに300年以上の歳月を要したのに、それを荒れ地と化すのには数時間でこと足りた」驚くべき残虐行為だが、戦争は勝てば官軍、どんな残虐行為も正当化されるのだ。それが最も顕著だったのが第一次、第二次世界大戦だろう。

ただし、”凄惨さ”において、これを凌駕する戦争がある。1864年~1870年、アルゼンチン・ブラジル・ウルグアイの三国同盟とパラグアイが戦った「三国同盟戦争」である。この戦争の何が凄惨なのか?負けた側のパラグアイの死亡率・・・全人口の50%。戦争で国民の半分が死んだ?!

イエス。

パラグアイの人口の推移をみれば明らかだ。戦前は52万なのに、戦後は21万人。ラテンアメリカ、いや、世界史上もっとも凄惨な戦争といっていいだろう。この戦争は5年で終了したが、その後もゲリラ戦が続き、捕虜はサン・パウロの奴隷市場で売り飛ばされた。さらに、パラグアイの領土は戦前の3/4にまで減らされ、イギリスの支配下に組み込まれ、国体も失った。ところが、さらに深刻な問題があった。軍が壊滅的な損失をこうむり、成人男子のほとんどがいなくなったのである。国や組織を支えるのは、ヒト・モノ・カネ、中でも重要なのは「ヒト」である。パラグアイはそこが欠落していた。これでは、国家再建は難しい。

■未開のパラグアイ

そんな荒廃したパラグアイに人生を賭けたのがフェルスターだった。一体、なぜ?未開の土地と住民は、真っ白なホワイトボードのようなもの。人の道に外れた人種差別だろうが、独りよがりのイデオロギーだろうが、はた迷惑な植民地だろうが、思う存分描けるから。

フェルスターは「反ユダヤ」の妄想に取り憑かれていた・・・ユダヤ人どもは、ドイツの芸術や道徳を堕落させ、その悪意にみちた陰謀の一環として、出版界まで支配しつつある。自分が書いた本が売れないのも、そのせいだと。さらに、フェルスターは、宗教改革の創始者マルティン・ルターの言葉を座右の銘にしていた。

「キリスト教徒よ、おぼえておくのだ。悪魔を除けば、本物のユダヤ人ほど残酷で悪辣で暴力的な敵はいないことを」(※1)

つまり、フェルスターは、生死に関わる生活の困難さや不便さよりも、イデオロギーを選んだのである。しかし・・・どう考えても、パラグアイは間違いだった。パラグアイの暑さは殺人的で、土地は痩せ、穀物も育たない。インフラは皆無で、鉄道はもちろん、道らしい道もない。水道もなく、井戸を掘ってもすぐに枯れ、飲み水にも事欠く。こんな不毛の土地で、文明化されたドイツ人が生きていけるはずがないではないか。

ところが、そんな劣悪な環境でも、鉄の心臓と小型原子炉をもつ超人エリーザベトは平気だった。しかし、夫のフェルスターはそうはいかない。勇ましいのは反ユダヤ主義だけで、あとは”並”だったから。人間は、身の丈を超えて、大言壮語を吐くのは危険である。行動に移すのはさらに危険である。ヘタをすると命を落とすから。そして、フェルスターもご多分に漏れずそうなった。勇ましい演説とは裏腹に、哀れな最期をとげたのである。

《つづく》

参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」ベンマッキンタイアー(著),Ben Macintyre(原著),藤川芳朗(翻訳)

by R.B

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