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週刊スモールトーク (第272話) 日露戦争の真実~大バクチと奇跡~

カテゴリ : 戦争歴史

2014.11.15

日露戦争の真実~大バクチと奇跡~

■日露戦争とお金

どう考えても、「日露戦争」は地味な戦争だ。当事国の日本でさえ、400年前の関ヶ原の合戦より知名度が低いし、ロシアにいたっては、学校の授業で教えていないのだから。

ところが、「日露戦争」が歴史に与えた影響はとてつもないものだった・・・

1.極小国家が極大国家に勝利した(国力差10~15倍の逆転勝利)。

2.歴史上まれにみる一方的な勝利(日本海海戦)。

3.大航海時代以降、初めて、有色人種が白人国家に勝利した。

4.東アジア(中国・満州・朝鮮・台湾・日本)に究極の安定がもたらされた。

5.アメリカ合衆国が日本をライバル視するようになり、太平洋戦争の遠因になった。

6.歴史上初のイデオロギー人工国家「ソ連」が誕生した(ロシア革命)。

いずれも、歴史上初、もしくは、歴史上まれな事件である。しかし、何にもまして「まれ」は、日本がロシアに勝ったことだろう。

「日露戦争」は、文字どおり、日本とロシアが戦った戦争である。ただし、このときのロシアは、現在のロシア(旧ソ連)ではない。ロマノフ王朝が支配した帝政ロシアである。

日露戦争の原因は一見複雑だが、煮詰めれば、ロシアの南下政策に行き着く。早い話、ロシアが「満州と朝鮮」の征服をもくろんだから。もし、満州と朝鮮がロシア領になれば、日本は日本海をはさんで、ロシアとにらめっこ。ロシアが日本本土に攻め込むのは時間の問題だ。つまり、日本の安全保障は完全に崩壊する。そこで、日本は最終手段「戦争」に賭けるしかなかったのである。

しかし・・・

賭けは賭けでも、日露戦争は「大バクチ」だった。

ロシアは、人口で日本の3倍、歳入額で10倍、兵力で15倍。しかも、兵器と装備は西洋式で、日本よりハイテク(但し、海軍は同レベルだった)。これほど総合力に差があれば、ロシア軍の指揮官たちが並外れたヘマをやらかさない限り、日本に勝ち目はない。事実、世界の国々、当事国の日本でさえ、ロシアに勝てると思っていなかったのだ。

20世紀の戦争は総力戦である。最終的な勝ち負けは、局地戦の勝敗ではなく、ヒト・モノ・カネの資源で決まる。この点で、日本は大きなハンディを背負っていた。中でも、致命的だったのはお金。カネがなくては戦(いくさ)はできないのである。

ちなみに、日露戦争でかかった戦費は19億円。当時の日本の国家予算は4億円だから、その5倍である。

いかに、無謀な戦争だったかがわかる。

しかも、これで負けたら目も当てられない。戦費にくわえて、莫大な損害賠償が課せられるから、国家財政が破綻するのは目に見えている。もっとも、国が滅んで、財政もへったくれもないのだが。

というわけで、カネがなくては戦(いくさ)はできないのである。

では、日本は戦費「19億円」をどうやって調達したのか?

9億円を増税と国内債で、残り10億円をイギリスとアメリカで外債を発行したのである。

ここでいう「外債」とは、”国を担保”にした債権で、外国市場で発行するもの。

たとえば、ロンドンで1000万ポンドの外債を発行するとする。この場合、引き受け手は、イギリスの銀行団である。最低10年間据え置きで、年金利5%という具合だ。外債は元本保証だが、”日本が担保”なので、戦争で負けて国が滅んだら、利息どころか、元本も返らない(かも)。だから、アブナイ国の外債など誰も買わないわけだ。

でも、今でも、アブナイ国の外債が売られているけど、なんで?

利息(金利)が高いから。

災害、戦争、内乱で借金まみれの国の外債・・・そんな物騒なもの誰も買いませんよ!

でも、利息(金利)が12.5%だったら?

買うかも・・・2014年日本の銀行利息は0.025%なので。

つまり、500倍の利息に目がくらんで、伸るか反るかで買う人もいるわけだ。ただし、為替差損で元本が値下がりすれば、利息などカンタンに吹き飛ぶ。

だから、アブナイ国の外債を買うにはそれなりの勇気と覚悟が必要だ。

そして・・・

このときの日本は正真正銘「アブナイ国」だった。大国ロシアと戦争しようというのだから。どう考えても、日本に勝ち目はないし、日本全土が占領される可能性だってある。その場合、地図の上から「日本(Japan)」は消える。

つまり、元「日本」は、

1.大日本帝国憲法→ロシア憲法(帝政ロシアに憲法あったっけ?)

2.日本語→ロシア語

3.円→ルーブル

もちろん、発行済みの日本の外債はチャラ。

というわけで、このとき、日本は外債の発行に大変苦労した。日本全権の高橋是清は、ロンドンで1000万ポンドの外債を発行しようとしたが、引き受けてくれた銀行はゼロ。日本が戦争に負けて資金が回収できなくなると判断したのである。

そこで、当初予定していた金利5.0%を6.0%に引きあげ、さらに、外債の価格も値下げした。たとえば、額面100ポンドの外債を、90ポンドで売るのである。買い手にしてみれば、90ポンドで買った債券が、10年後に100ポンドで償還されるので、10ポンド丸儲け。

年利6%の利息にくわえて、10%のプレミアがつくわけだ。悪くない投資である。

こうして、500万ポンドはなんとかさばくことができた。ところが、残りの500万ポンドがどうにもならない。金利は予定の上限を超えているし、元本もすでに値引き済み。つまり、お手上げ・・・

ところが、高橋是清はしぶとかった。わずかな人脈を頼りに、バンカーに総当たり攻撃をかけたのである。結果、アメリカの銀行家ジェイコブ・シフの知遇を得ることができた。

シフは、ユダヤ人を迫害する帝政ロシアに敵愾心を燃やしていた。彼自身ユダヤ人だったからである。シフは、天敵ロシアと戦う日本を神の杖と考えて、高橋是清の申し出を受け入れた。この利害の一致は、日本にとっては天佑だった。シフのあっせんで、ニューヨークの銀行団が残り500万ポンドを引き受けてくれたのである。こうして、第一回目の戦時国債1000万ポンドを完売することができた。

その後、日露戦争で日本の快進撃が始まると、日本の外債の金利は4.5%に安定し、発行が容易になった。こうして、日本は最終的に、イギリス・アメリカの金融市場で、10億円を調達することができた。メデタシ、メデタシ・・・

でも・・・

もし、シフが短命だったら・・・

もし、この時、シフがロンドンではなくアメリカにいたら・・・

もし、シフが高橋是清に好感を持たなかったら・・・

日本は戦費を確保できず、初戦で勝利しても、途中で息切れしていただろう。

日露戦争でロシアが勝利した世界・・・

皇帝ニコライ2世の威厳は高まり、ロシア革命が起こる可能性は低くなる。さらに、満州・朝鮮・日本を征服したロシアは、ユーラシア大陸最大最強の帝国となり、東ヨーロッパも併呑するだろう(実史のソ連のように)。

地政学の父ハルフォード・マッキンダーによれば・・・

「東ヨーロッパを支配するものがハートランドを支配し、ハートランドを支配するものがユーラシア大陸を支配し、ユーラシア大陸を支配するものが世界を支配する」

つまり、帝政ロシアが世界征服する世界。

だから、ジェイコブ・シフが歴史に与えた影響は計り知れないのである。

そして、この話には後談がある。

ジェイコブ・シフが頭取を務めたクーン・ローブ商会は、1977年に、リーマン・ブラザーズに合併された。そう、あの、リーマンショックを引き起こしたリーマン・ブラザーズである。

リーマン・ブラザーズは、破綻する前トリプルAの最高評価をうけ、100年前には、一国(日本)を滅亡の危機から救うほどの力があった。そんな金融界の巨人が、いかがわしい「サブプライムローン」製のインチキ証券で破綻したのである。栄枯盛衰は世の常人の常、これが歴史というものだろう。

■日本海戦の真相

日露戦争はまれな戦争だったが、「戦闘」もまれだった。日本とロシアの戦争なのに、戦場がロシアでも日本でもなく「満州」だったこと。さらに、血で血を洗う凄まじい消耗戦だったこと。

1904年2月8日、日露戦争は海戦で始まった。

日本の駆逐艦隊が、旅順港にいたロシアの旅順艦隊を攻撃したのである。ところが、戦果があがらず、陸上からの攻撃に切りかえられた。旅順要塞の山頂からは、旅順港が一望できるので、そこから旅順艦隊を砲撃しようというのである。

ところが、旅順要塞は難攻不落だった。それでも、日本軍は甚大な犠牲を出しながらも攻撃を続けた。そして、1904年12月4日、ついに、203高地を占領する。203高地は、海抜203mの高地にあり、旅順港を砲撃するにはうってつけだった。結果、旅順艦隊は無力化されたのである。

つぎに、日本陸軍は満州の「奉天」に総攻撃をかけた。当時、「奉天」は満州におけるロシアの一大拠点だった。当然、ロシア軍の守りは固く、日本軍は何度も崩壊寸前に追い込まれた。ところが、日本軍は練度と士気においては世界一、「ガンガン行く」を貫き通したのである。

1905年3月10日、大激戦のすえ、日本軍は奉天を占領した。しかし、ロシア軍を追走し、殲滅する力は残っていなかった。そもそも、殲滅には敵を完全包囲する大兵力が必須で、消耗した日本軍にはムリ。もちろん、敗走したロシア軍も反撃はムリ。こうして、「陸上戦」は膠着したのである。

そこで、両国は「海戦」に賭けた。

当時、ロシア海軍は、東アジアに「太平洋艦隊」に配備していた。「太平洋艦隊」は、旅順を母港とする「旅順艦隊」と、ウラジオストクを母港とする「ウラジオストク艦隊」で構成されていた。ところが、この二つ合わせても、日本の連合艦隊におよばない。そこで、ロシアはバルチック艦隊を派遣し、太平洋艦隊と協同して、日本の連合艦隊を粉砕しようとしたのである。

203高地が陥落する2ヶ月前、バルチック艦隊はバルト海のリバウ港を出航した。その後、7ヶ月の大航海をへて、日本近海に到達、1905年5月27日に対馬沖で、日本の連合艦隊と激突した。これが、歴史上有名な「日本海海戦」である。

この戦いは、「一方的な勝利」という意味で、歴史上、まれな海戦である。数字で比較してみよう。

海戦前・・・

【日本の連合艦隊】

・戦艦クラス:4隻

・巡洋艦クラス:23隻

【ロシアのバルチック艦隊】

・戦艦クラス:11隻

・巡洋艦クラス:9隻

と主力艦はほぼ同じ。

ところが、海戦結果は・・・

【日本の連合艦隊】

・損害:ほぼゼロ(小型の水雷艇3隻のみ)

・戦死者:117名

【ロシアのバルチック艦隊】

・損害:ほぼ壊滅(ウラジオストク港に逃げ込めたのは3隻のみ)

・戦死者:4830名

・捕虜:6106名

凄まじい差・・・

一体、何が起こったのか?

日本の連合艦隊は、「月月火水木金金(土日返上という意味)」の猛訓練を行ったから。結果、砲撃の命中精度は飛躍的に向上し、バルチック艦隊を大きく上回った。砲撃による艦隊戦で、これに優る勝因はないだろう。

くわえて、バルチック艦隊には大きなハンディがあった。

日本側は、戦場が日本近海なので、陸上で休めるし、補給の心配もない。ところが、バルチック艦隊は半年もかけて、地球を半周してくるのである。

さらに・・・

バルチック艦隊の航海は困難をきわめた。というのも、「バルト海→日本海」の航路で、ロシア艦隊が寄港できる港が少なかったのである。とくに、インド洋はロシアの宿敵イギリスの支配地域で、寄港地はほぼゼロ。同盟国のフランスもバルチック艦隊の寄港には消極的だった。

そのため、補給は海上に限られ、兵員は上陸することもできず、ストレスはたまるばかりだった。心身ともに疲弊し、航海中に死亡する者もいた。しかも、たまに寄港すると、脱走兵がでる有様だった。

そして・・・

厭戦気分がピークで、士気がどん底になったところで、日本海海戦・・・最悪。

一方の連合艦隊は、みっちり訓練して、休息も補給も十分、あとはバルチック艦隊を待つばかり。そして、バルチック艦隊が対馬沖に現れると、

皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ・・・

こんな歴史に残る訓令のもと、いざ出陣!

これだけハンディがあれば、勝敗は明らかだろう。ところが、当初はロシア側にも勝算があった。太平洋艦隊にバルチック艦隊が加われば、数で連合艦隊を圧倒するからである。

ところが、日本海海戦の前に、旅順艦隊は粉砕され、ウラジオストク艦隊は大損害をうけ、バルチック艦隊単独で戦わざるをえなくなった。結果、数において差がなくなったのである。

一方、練度と士気では、連合艦隊はバルチック艦隊を圧倒した。だから、日本の勝利は必然だったのである。

とはいえ、このような大艦隊がロクな補給も受けず、地球を半周し、決戦におよんだことは賞賛に値する。

バルチック艦隊司令長官ロジェストヴェンスキーは、戦後、敗戦の罪を問われ軍法会議にかけられた。無罪になったものの、愚将の烙印をおされ、不遇のうちに60歳でこの世を去っている。しかし、ロジェストヴェンスキー中将は、初めから、この海戦に勝ち目がないことを確信していたという。少なくとも、状況は正確に把握していたわけだ。だから、ちまたで流布されるような愚将とは思えないのである。

一方、連合艦隊司令長官の東郷平八郎は、日本海海戦によって神格化された。86歳という長寿に恵まれ、死後、国葬が営まれた。国葬には各国海軍の儀礼艦が訪日し、日本艦隊と共に横浜港で半旗を掲げ、弔砲を発射したという。

海戦前、二人とも国を代表する偉大な司令官、戦後は、軍神と軍法会議・・・まさに、光と影、渡辺淳一の小説「光と影」を彷彿させる。

■血の日曜日事件

総力戦において、一度の海戦が戦況を決定することはまれである。ところが、「日本海海戦」は日露戦争のターニングポイントとなった。日本とロシアが和平のテーブルについたからである。

強気の両国がなぜ?

まず、勝った側の日本の事情。

日本は連戦連勝していたが、19億円の戦費を使い切り、100万人を超える兵力を動員していた。ところが、日本の常備兵力は20万人。つまり、実力の5倍の兵力を動員していたのである。ムリに徴兵すれば、そのぶん労働者が減り、生産高が低下し、経済も低迷する。つまり、日本は戦闘で勝利して、国を疲弊させていたのである。だから、これ以上戦争を続けるのはムリ。

つぎに、負けた側のロシアの事情。

ロシアは連戦連敗だったが、とどめを刺されたわけではない。日本軍は敵を殲滅する力はなかったし、ロシアは本国に予備兵力をキープしていた。そこで、ロシアは海戦に望みをつないだのである。

海戦で陸戦の劣勢を挽回(ばんかい)できる?

この場合はイエス!

もし、バルチック艦隊が連合艦隊を殲滅すれば、日本海の制海権はロシアが握る。そうなれば、「日本本国→満州」の補給路が断たれ、満州に展開する日本軍が干上がる。つまり、ロシアが陸戦で逆転する可能性もあるわけだ。ところが、頼みのバルチック艦隊が壊滅し、ロシアの最後の望みは絶たれてしまった。

これに拍車をかけたのが、ロシアの国内問題である。

この時代、ロシアの民衆は貧困と圧政にあえいでいた。そこへ、日露戦争の相次ぐ敗戦で、厭戦気分が蔓延し、民衆の不満は増すばかりだった。そんな中、ロシアの未来を一変させる事件が起きる。

1905年1月22日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで、労働者のデモ行進が始まろうとしていた。主導するのは、ロシア正教会の司祭ガポン神父である。

神父が指導者なら、穏健なデモ?

イエス!

デモというよりは、ロシア皇帝ニコライ2世に対する「請願」に近かった。内容は、労働者の人権を認めて欲しい、日露戦争は止めて欲しい・・・皇帝に対する誹謗中傷は見当たらない。

というのは・・・

ロシアの民衆はロシア正教会によって「王権神授」を信じ込まされていたのである。王権は神が皇帝に授けた権利、神聖にして犯すべからざるものというわけだ。だから、「請願」行進で、皇帝に直訴すれば、願いは届くと信じていたのである。

一方、ロシア当局は軍隊を派遣したが、デモをつぶすつもりはなかった。軍が命じられたのは、デモ隊を中心街に入れないこと、それだけだった。つまり、デモが始まる前は、当局もデモ隊も、ぬる~く考えていたのである。

ところが・・・

人がたくさん集まると、何が起こるか分からない。

まず、デモ隊の数が想定外に多く、兵士が怖じ気ついた。結果、デモ隊が中心街に入るのを阻止することができなかった。そこで、兵士がパニックにおちいり、民衆に向けて銃を乱射したのである。結果、1000人以上の民衆が殺された。これが「血の日曜日事件」の顛末である。

神の代理である皇帝が、無抵抗の民衆を射殺した・・・

民衆が受けた衝撃は計り知れなかった。

やがて、この騒動はモスクワに飛び火し、請願デモは暴動と略奪に変わった。

デモがこじれて、兵士が民衆に発砲して、1000人以上が死んだが、時代を考えれば、よくある話・・・ではすまなかった。

民衆に刷り込まれた「王権神授説」は完全に崩壊し、民衆の皇帝崇拝も消滅したのである。

そして・・・

その結末は恐ろしいものだった。12年後のロシア革命で、皇帝一族が皆殺しにされたのである。

■ポーツマス条約

話を日露戦争にもどそう。

日本もロシアも消耗が激しく、敵を殲滅する力は残っていなかった。勝敗も結末も見えず、兵士が死んでいくだけ・・・まさに不毛の戦いである。だから、日本とロシアは和平するしかなかったのである。

1905年8月10日、アメリカのポーツマスで、日本とロシアの講和会議がはじまった。

アメリカのポーツマス?

仲介者が、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトだったから。9月5日、日本とロシアの間でポーツマス条約が締結された。その結果、日本は賠償金はとれなかったものの、ロシアの権益を受け継ぐことになった。

その中で最も重要だったのが、満州の長春と旅順を結ぶ「東清鉄道」である。これが後の「満州鉄道」で、日本の満州経営の要(かなめ)となった。

一方で、日本はロシアを恐れていた。日露戦争で勝利したとはいえ、たまたま勝っただけ。国内が安定すれば、ロシアは報復してくるに違いない・・・

ところが、それは杞憂に終わった。

ロシアは日本との共存共栄を選んだのである。ポーツマス条約締結後、計4回の日露協約が締結され、東アジアにおける日本とロシアの勢力範囲が決められた。こうして、日本とロシアの蜜月時代が始まり、東アジアに究極の安定がもたらされたのである。

ところが・・・

1917年のロシア革命がすべてを変えた。

帝政ロシアを倒したボリシェヴィキは、ソ連を建設し、日露協約を反故にした。さらに、中国を共産主義化し、反日プロパガンダを展開し、中国民衆に反日を刷り込んだ。中国を日本の「防波堤」にするためである。

この反日洗脳を実行したのは、共産主義による世界革命をもくろむ国際組織「コミンテルン」だった。

こうして、東アジアの安定は崩壊し、日中戦争、太平洋戦争へとひた走るのである。

参考文献:
真実の満州史、宮脇淳子【監修】岡田英弘、ビジネス社

by R.B

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