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週刊スモールトーク (第265話) 第二次世界大戦の原因~戦争の引き金~

カテゴリ : 戦争歴史

2014.08.23

第二次世界大戦の原因~戦争の引き金~

■歴史の方程式

歴史は偶然か必然か?

もし、歴史が必然なら、「歴史の方程式」が存在するはず・・・ぐずぐずしてはいられない。さっそく探し出さなくては。もし、発見できれば、アインシュタインと並ぶ名声が得られるかも。しかも、これさえあれば、未来はすべてお見通し・・・でも、現実の歴史は、偶然か必然かはっきりしない。結局、偶然か必然かは、確率で表すしかないのだろう。

とはいえ、統計学的には、「確率>85%」なら「偶然」ではない。たとえば、コインを投げて、表が出るか裏が出るかは偶然である。しかし、100回コインを投げて、表が85回を超えるなら、何か仕掛けがあるのだ。つまり、必然が潜んでいる。というわけで、「発生確率>85%」なら必然と考えていいだろう。

では、第二次世界大戦は偶然か必然か?まず、戦争を起こすにはエネルギーと引き金が必要だ。第二次世界大戦前夜、エネルギーは満タンで、はちきれんばかりだった。あとは引き金を引くだけ。実際、1929年の大恐慌から20年以内に戦争が起こる可能性は極めて高かった。計算するまでもなく、発生確率はほぼ100%。これを必然と言わずして、何が必然なのか。

実際、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、それを機に、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。ところが・・・第二次世界大戦は必然だが、このタイミングで世界戦争が始まる確率は低かった。というのも、ヒトラーはポーランドに侵攻するつもりはなかったのである。さらに、仮にドイツ軍がポーランドに侵攻しても、イギリスがドイツに宣戦布告するのは常識的にはありえない。つまり、この時期、世界戦争には二重のロックがかかっていたのである。

では、なぜ、1939年9月1日に第二次世界大戦が起こったのか?まず、第二次世界大戦の潜在的原因が山のようにあった。つまり、戦争のエネルギーが臨界点寸前だったのである。中でも、最強の潜在要因が「ドイツの恨み」だった。1918年11月、第一次世界大戦が終わり、翌年、ヴェルサイユ条約が締結された。連合国とドイツの講和条約である。ところが、実態は敗者(ドイツ)に対する勝者(連合国)の復讐だった。戦争の全責任をドイツに押しつけ、凄まじい罰をドイツに課したのである。

具体的には・・・ドイツの鉄鉱石の90%を産出するアルザス・ロレーヌ地方がフランスに割譲され、石炭と工業生産の中心地ザール地方が国際連盟の管理下におかれた。つまり、鉱工業の心臓を握りつぶされたのである。さらに、ベルギー、ポーランド、デンマークにも領土を取られ、ドイツは本土の13%を失った。さらに、海外の植民地もすべて奪われた。あげく、返せる見込みのない途方もない額の賠償金まで課せられたのである。

結果・・・ドイツは凄まじいモノ不足に陥った。そこで、ドイツ政府は、購買力を高めようと紙幣を大量に刷ったが、これが裏目にでた。「カネ>モノ」を加速したのである。結果、史上最悪のハイパーインフレに陥った。店でコーヒーを注文すると、飲み終わるまでに値段が2倍になるとか、給料が出たらすぐに店に行って、モノに変えないと紙くずになるとか、ネタとしか思えない事態が頻発した。さらに、年金が紙くずになり、絶望した老人の自殺が後を絶たなかった。食糧難も深刻で、闇市に人肉缶詰が売られているというウワサもあった。弱り目に祟り目、踏んだり蹴ったりだった。

ドイツ国民は、この惨状の原因がヴェルサイユ条約にあると信じて疑わなかった(真実なのだが)。そして、連合国を心から恨んだのである。さらに、民主主義と平和主義の象徴といわれたワイマール共和国政府(当時のドイツ政府)でさえ、国防軍に対し、「もはや、連合国と一戦交えるしかない。勝算はあるか?」と問いただす有様だった。もちろん、国防軍の回答は「勝ち目なし」だった。

ところが、一方で、ドイツ陸軍総司令官ハンス・フォン・ゼークトは、1923年1月31日、共和国政府に対し、「フランス占領にはドイツ再軍備で対抗を!」と進言している(この頃、ドイツの軍事力は警察なみに制限されていた)。第一次世界大戦が終わって、わずか4年後のことである。ドイツがいかに追い込まれていたかがわかる。

一方で、戦争を抑制する力も存在した。当時、ヨーロッパ諸国は、第一次世界大戦の戦傷から回復していなかった。戦争で、2000万人もの犠牲者をだし、膨大な資源を消耗したのである。そのため、強い厭戦気運がヨーロッパ全土をおおっていた。つまり、この時代、「ドイツの恨み」と「ヨーロッパの厭戦気運」が天秤の左右でバランスをとっていたのである。では、「恨み>厭戦」で、第二次世界大戦が勃発した?

ノー!

天秤が台座ごとひっくり返ったのである。それほど、この時代は混乱していた。「ありえない」、「想定外」が連発し、歴史の流れが寸断され、そこへ、「ドイツの恨み」というマグマが吹き上げた。結果、誰も望んでいない第二次世界大戦に突入したのである。では、天秤の台座をひっくり返したのは誰か?つまり、第二次世界大戦の引き金を引いたのは・・・ナチスドイツのヒトラー?ノー!

■ヒトラーの野望

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が始まった。ヒトラーは名うての侵略者だから、隣国のポーランドに侵攻するのは必然、さらに、フランス、ロシアにも侵攻したが、ヒトラーの目標は世界征服にあるのだから、これも必然。最後にドイツは降伏したが、最強国アメリカにかなうわけがないから、これも必然。つまり、全部、必然?

実際、欧米の歴史家の多くは、第二次世界大戦の始まりも結末も必然だとしている。もちろん、強気でならしたイギリスのチャーチルは、自らの回顧録で、開戦から勝利まですべて必然、と自画自賛。しかし、本当にそうだろうか?現実は複雑である。原因と結果がシームレスに、大河が流れるように連続しているわけではない。流れが急変したり、どんでん返しがあったり、「ありえない」不連続点が無数存在するのである。この現実世界も、無数あるシナリオの中で、最も発生確率が低いように思える。そのぶん、歴史の因果関係がぼやけ、原因と結果がうまくつながらない。だから、歴史の原因を見誤るのである。たとえば・・・現在、「第二次世界大戦の引き金を引いたのはヒトラー」は常識になっている。実際、ヨーロッパとロシアに侵攻しているし、動機はたぐいまれな「征服欲」というわけだ。

しかし・・・ヒトラーは世界征服はおろか、ヨーロッパ征服さえ望んでいなかった(少なくとも開戦前は)。それを証明する事実がある。ドイツ軍がポーランドに侵攻した2日後の9月3日午前9時のことである。イギリス政府はドイツに最後通牒を通達した。「午前11時までに、ドイツ軍がポーランドから撤退しない場合は、イギリスはドイツと戦争状態に入る」イギリスのドイツに対する事実上の宣戦布告である。

この最後通牒を受け取ったドイツ外務省の通訳官シュミットは、総統官邸に飛んで行き、ヒトラーと外務大臣のリッベントロプに報告した。そのときの様子がシュミットの日記に記されている・・・ヒトラーは執務室の机にすわり、リッベントロプは右脇の窓際に立っていた。シュミットが最後通牒を翻訳すると、ヒトラーは化石のように身じろぎもせず前方を凝視していた。机に座ったまま不動の姿勢をとりつづけた。やがて、ヒトラーは硬直して、窓際に立っているリッベントロプを振り返り、

「これはどういうことなんだ?」

と憤怒の光の目をして尋ねた。それはイギリスの出方について、彼にミスリードしたことへの釈明を求めるようだった(※2)。

つまり、ヒトラーは、イギリスとの戦争は想定外だったのである。実際、この時期、ヒトラーの望みで確実なのは・・・

1.オーストリア・チェコスロヴァキアの併合

2.ポーランド領のポーランド回廊とダンツィヒの返還

3.ロシア(ソ連)の征服

ぐらい。「1.オーストリア・チェコスロヴァキア」は、ドイツ人が多数住んでいたから、「2.ポーランド回廊とダンツィヒ」は元々ドイツ領だったからである。つまり、この2つに関しては、ヒトラーに「侵略」の意識はなかった。明確に侵略と意識していたのは「ロシア征服」である(かなり正当化されていたが)。

ではなぜ、ヒトラーは「ロシア征服」に執着したのか?定説によれば、ヒトラーの偏屈な思想のせい。具体的には・・・1.スラヴ人(ロシアの主要民族)は劣等民族である(ユダヤ人ほどではないが)。2.ボリシェヴィキ(レーニン式共産主義)は文明の破壊者である。3.そんな劣った民族・国家が、豊かな資源を有するロシアを独り占めにするのは許せない。上等なゲルマン民族に明け渡すべきである。いかにもありそうな話で、眉唾のような気もするが、ヒトラーの著書「わが闘争」そのままなので間違いない。ただし、もっとまともな?理由もあった。ヒトラーの政策の基本は、1937年11月の「ホスバッハ覚書」に記されている。

その一部を要約すると・・・人口が増大するドイツは、資源が不足し、とくに、食糧不足は深刻である。自給自足は望むべくもないが、外国から買うこともできない(ヴェルサイユ条約で課せられた賠償金で外貨が不足)。しかも、世界大恐慌で、「持てる国」はブロック経済を採っているので、貿易で外貨を稼ぐこともできない。ゆえに、生存圏の拡大が必要である。東ヨーロッパ(ロシアを含む)の人口希薄な地域に、農耕地を獲得するのである。それも、遅くとも、1945年までに。それ以後になると、過剰人口で食糧危機が切迫するからである。

その結果、生まれたのがヒトラーの究極の戦略「東方生存圏の拡大」だった。つまり、ヒトラーの「ロシア征服」は、アレクサンドロス大王の東方大遠征のような無邪気な冒険心や、チンギスハーンの西方大遠征のような燃えるような復讐心に起因するのではない。「国民を飢えさせない」ためだった。皮肉なことに、その結果、ドイツは地獄世界に落とされたのだが。

■チャーチルの野望

そもそも、ヒトラーはイギリスのチャーチルのような戦争屋ではなかった。たとえば、中立国のノルウェーを戦場にしたのは、ヒトラーではなく、チャーチルの方だった。当初、ヒトラーはノルウェーの中立を尊重し、侵攻するつもりはなかった。ところが、1939年9月19日、チャーチルは内閣に、ノルウェー領海内に機雷の敷設を許可するよう迫ったのである。ノルウェーの船舶がドイツにスウェーデン産の鉄鉱石を輸送するのを阻止するために。もちろん、イギリスの閣僚の多くは反対した。イギリスは紳士の国である。小国とはいえ、ノルウェーの中立を侵すことを嫌悪したのである。ところが、チャーチルはおかまいなしだった。これに危機感を覚えたヒトラーは、先手を打って、ノルウェーに侵攻したのである。鉄鉱石を止められてはたまらないから。

ところが・・・第二次世界大戦後のニュルンベルク裁判で、「ノルウェー侵攻」がドイツの罪状に加えられている。先攻したのはドイツではなくイギリスなのに、とんだ濡れ衣である。高名な軍事史研究者リーデル・ハートも、こう言っている。「ニュルンベルク裁判で、ドイツ軍の主要な罪名の中に、ノルウェーの侵略を加えているが、厚顔無恥な話である」(※1)ちなみに、リーデル・ハートはイギリス人である。それにしても、どうして、こんなメチャクチャがまかり通るのだろう?

じつは、ドイツを裁いたニュルンベルク裁判も、日本を裁いた極東軍事裁判も、戦争犯罪を裁いたわけではない。結果をみれば明々白々だが、勝者が敗者を裁いただけ。敗者が悪・・・正義の仮面をかぶった「勝者の復讐裁判」だったのである。そもそも、ヒトラーにノルウェーを攻める余裕はなかった。最終目標の「ロシア侵攻」に備え、兵力を温存する必要があったのだ。実際、オーストリア・チェコスロヴァキアはお得意の脅迫外交でもぎとっているし、ポーランド回廊・ダンツィヒも外交で片をつけるつもりだったのである。もちろん、ヒトラーには正当な?理由もあった。ポーランド回廊は、ドイツと東プロイセンを分断し、国土を飛び地にしていた(ドイツにとって不便)。さらに、ダンツィヒは重要な貿易港で、ドイツ人が多く住んでいた。それに、ポーランド回廊もダンツィヒも、元々ドイツ領だったのである。敵対するイギリスでさえ、この件ではドイツに同情的だった。

そこで、ヒトラーはポーランドに対し、”寛大な”申し出をした。ポーランド回廊とダンツィヒはドイツに返還してもらう。その代わり、ドイツはポーランドに侵攻しない(ポーランド回廊については、ドイツと東プロイセンを結ぶ治外法権的な鉄道・道路の建設を要求)。どこが”寛大”かはさておき・・・ポーランドの外相ヨゼフ・ベックはこの要求を拒否した。もちろん、ヒトラーは激怒した。なぜ、こんな”寛大な”申し出を拒否するのか?!それにしても、ポーランドはなぜこれほど強気になれたのか?ヒトラーの自己中的・唯我独尊の性格を考えれば、「要求拒否=武力侵攻」は見えているのに。その場合、ポーランドに勝ち目がないことは計算できただろう。

じつは、「ポーランドの強気」の原因はイギリスにあった。イギリス?1939年3月29日、世界が仰天する事件が起こった。ドイツに融和的だったイギリス首相チェンバレンが心変わりし、今後、ドイツには一切妥協しないと言い放ち、「ポーランドに対し安全保障」を約束したのである。イギリスがポーランドに安全保障?もし、ドイツがポーランドを攻撃すれば、イギリスはドイツを攻撃する・・・今日本で話題の集団的自衛権である。

そこで、フランスも”しぶしぶ”、ポーランドに対し安全保障を約束した。しぶしぶ?フランスは戦争に巻き込まれたくなかったのである。第一次世界大戦で、フランスは凄惨な塹壕戦を経験した。塹壕とは、敵の銃弾から身を隠すための不衛生な通路で、そこで、多くの兵士が病死した(戦闘ではなく)。その悲惨な戦闘はレマルクの小説「西部戦線異状なし」で忠実に描かれている。フランス人はこの小説を何度も読み返し、戦争は二度と御免だと思ったのである。とはいえ、フランスは、イギリスの助けなしではドイツに対抗できない。イギリスにへそを曲げられたら大変だ。そこで、”しぶしぶ”追随したのである。

■ポーランドの失敗

一方、ポーランドは、この安全保障で勢いづいた。イギリスとフランスが助けてくれるなら、ドイツ軍など恐れるに足らず。さらに、ポーランドを強気にさせた理由がもう一つあった・・・自国の軍隊に的はずれな自信。というのも、20年前、ポーランドは大国ロシア軍に勝利していたのである。

ところが・・・ポーランド軍は時代遅れだった。軍の首脳部は、第一次世界大戦ですでに無用の長物と判明した騎兵に頼り、悲壮な騎兵突撃を夢想していた。さらに、ポーランド騎兵が華々しくベルリンに入城することまで夢見ていたのである。一方、ドイツ軍の主力は、戦車と航空機だった。こうして、ポーランドは勇敢にも、ヒトラーの要求を拒否したのである。しかし・・・イギリスのポーランドに対する安全保障は「常識外れ」、「ありえない」だった。イギリスの国益に反するどころか、国を滅ぼす可能性さえあったのだ。事実、この時、イギリス元首相で下院議員のロイド・ジョージはこう警告している・・・「ソ連の援助を確認せずに、かかる重大な責任を引き受けるのは、自殺に等しい愚行である」

具体的に説明しよう。当時の陸軍力は、空軍支援力も考慮すると、ドイツ軍>フランス軍+イギリス大陸派遣軍(フランスに駐屯するイギリス軍)でも、フランス陸軍はヨーロッパ最強だったのでは?たしかに・・・実際、イギリス軍の参謀とチャーチルは、フランス陸軍はヨーロッパ最強と信じていた(数の上では正しい)。ところが、彼らが見落としていた点がある。

第一に、この時点でドイツがチェコスロバキアを併合していたこと。

チェコスロバキア軍は最新の装備を備え、しかも、精強だった(特に第35師団)。さらに、チェコスロバキアは、ヨーロッパ有数の軍備と軍事工場を有していた。ドイツはそのすべてを接収していたのである。実際、この接収で、ドイツ軍の大砲は2倍に増強されていた。

第二に、ドイツ軍が実用化した画期的な「電撃戦」。

これは、バターを針で突く戦法だった。戦車、自走砲、装甲車輌など高速移動が可能で、強大な打撃力をもつ装甲師団を、敵陣奥深く突進させ(縦深突撃)、敵の背後から回り込み、包囲殲滅する。ポイントは、足の遅い歩兵部隊を同伴しないこと、さらに、空軍との連携攻撃にあった。さらに、電撃戦を主導した名将ハインツ・グデーリアンの存在も大きい。彼は好機をとらえて、すかさずこれに乗じる天賦の才があった。たとえ、電撃戦が実用化されていても、グデーリアンがいなければ、フランス戦はあれほど成功しなかっただろう。ここに恐るべき事実がある。

フランス戦で、ドイツ軍は135師団を投入したが、連合軍(フランス軍+イギリス大陸派遣軍)を壊滅させたのは、装甲師団10個、空挺師団1個、空輸可能な歩兵師団1個の「12個師団」だった。つまり、全軍の90%を占める歩兵師団が参戦する前に、勝利は決していたのである。電撃戦恐るべし。だから、連合軍が兵数と戦車の数で上回っていても、大勢に影響はなかったのである。というわけで・・・連合軍がドイツ軍に挑んでも勝ち目は薄かった。仮に、何かの要因で勝利したにしても、何年もかかっただろう。その間、ポーランドが持ちこたえるはずがない。つまり、征服される。そうなれば、イギリスとフランスの面目は丸つぶれだ。さらに、連合軍が敗北したら?

フランスはドイツ軍に占領され、イギリス軍は大陸から追い落とされる。そうなれば、ポーランドの安全保障どころではない。自国が滅亡にさらされるのだ(これが現実となった)。だからこそ、ロイド・ジョージの言う「ソ連の援助」は「ポーランドに対する安全保障」の必須条件だったのである。逆に、「ソ連の援助」があれば、西方の連合軍と、東方の「ポーランド軍+ソ連軍」でドイツを挟み撃ちにできる。第一次世界大戦の相似である。これなら勝算はあっただろう。

■イギリスの失敗

ところが、現実は、さらなる「ありえない」が起こった。1939年8月23日、ソ連がドイツと不可侵条約を結んだのである。そもそも、ドイツとソ連は犬猿の仲だった。それに、この時、イギリス・フランスはソ連と相互援助条約の交渉中だったのである。これには、世界中が仰天した。さらに仰天したのは日本だった。当時、日本はドイツと日独防共協定を結んでいたが、これを軍事同盟にステップアップする交渉の最中だった。最大の仮想敵国ソ連に対抗するためである。ところが、そのソ連とドイツが手を組んだ?そんなドイツと日本が同盟すればどうなるのだ?

大混乱の中、8月25日、平沼内閣は総辞職した。平沼騏一郎首相の最後の言葉は、

「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ・・・」

ところが、ポーランドはそれどころではなかった。西方からドイツ軍、東方からソ連軍に攻め込まれ、国が丸ごと消滅したのである。ドイツがポーランドに侵攻するのは想定内として、なぜ、ソ連まで?

じつは、独ソ不可侵条約には秘密条項が付帯されていた・・・ドイツとソ連でポーランドを分割する、早い話が、山分け。メチャクチャな話だが、これが現実の外交なのである。この手の「外交」は、ドイツやソ連だけでなく、アメリカも含め世界中で行われている。「戦争ではなく外交で平和的に解決しましょう」がいかに馬鹿げた妄想かがわかる。「戦争は外交の一部」なのである。

1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻した。その2日後の9月3日、イギリス政府はドイツに宣戦布告した。その6時間後、フランス政府もためらいながらイギリスに従った。こうして、第二次世界大戦が始まったのである。ポーランドは、自慢の騎兵の奮戦もむなしく、たちまち粉砕された。ドイツ軍とロシア軍に挟み撃ちにされたのだから、ひとたまりもない。それでも、ポーランド軍は勇敢に戦った。ヨーロッパで最も勇猛で攻撃的と言われた民族の名に恥じないように。

ところが、連合軍の主力「フランス軍+イギリス大陸派遣軍」とドイツ軍の戦いは一向に始まらない(ドイツ・フランス国境で小競り合いはあったが)。そのため、「まやかしの戦争(PhoneyWar)」とよばれた。しかし、それこそが「まやかし」だったのである。イギリスはチャーチルを中心に、ドイツを先制攻撃する夢のような作戦を立てていた。一方、ヒトラーは、独ソ不可侵条約により、東方の憂いがなくなり、全軍をあげて、西方に侵攻しようとしていた。もはや、ヒトラーを妨げるのは天候だけだった。ヨーロッパの冬は天候が不安定で、航空機の活動が制限されるのである。そして・・・1940年5月10日、晴れ渡った青空の下、ドイツ軍はオランダ・ベルギー・フランスに侵攻した。わずか2週間で、連合国軍は壊滅、6月14日、ドイツ軍はパリに入城した。

一方、イギリス大陸派遣軍はダンケルクに追い詰められ、命からがらイギリス本土に逃げ帰った。つまり・・・第二次世界大戦の引き金を引いたのは、ヒトラーではなく、イギリス首相チェンバレンだったのである。彼の不用意な「ポーランドに対する安全保障」が、ドイツとポーランドの領土問題を戦争に発展させ、自らも参戦せざるをえなくなった。そして、単独ではドイツに勝てないとわかると、今度はアメリカを戦争に引きずり込もうと画策した。その結果、極東の日本まで巻き込む世界大戦争に発展したのである。

ここで、ロイド・ジョージの警告を思い出そう・・・

「ソ連の援助を確認せずに、かかる重大な責任を引き受けるのは、自殺に等しい愚行である」

たとえ、ロイド・ジョージがナチスドイツびいきでヒトラーびいきという人の道に外れたところがあっても、イギリスは彼の警告に耳を傾けるべきだったのである。運良く、アメリカが第二次世界大戦に参戦したから良かったものの、それがなければ、イギリスは最終的に敗北していたのだから。運良く、アメリカが第二次世界大戦に参戦?

もし、アメリカの大統領がルーズベルトでなかったら、アメリカは参戦していない。というか、参戦できなかったのである。その場合、太平洋戦争が起こる確率も半減する。

つまり・・・太平洋戦争の原因の半分は第二次世界大戦にあったのである。

参考文献:
(※1)第二次世界大戦(上・下)リデルハート(著),B.H.LiddellHart(原著),上村達雄(翻訳)
(※2)ヒトラー全記録20645日の軌跡阿部良男(著)出版社:柏書房
(※3)わが闘争民族主義的世界観(角川文庫)アドルフ・ヒトラー(著),平野一郎(翻訳),将積茂(翻訳)
(※4)「ヒトラーが勝利する世界~歴史家たちが検証する第二次大戦60の“IF”」ハロルド・C.ドィッチュ(編集)、,デニス・E.ショウォルター(編集),HaroldC.Deutsch(原著),DennisE.Showalter(原著),守屋純(翻訳)学習研究社
(※5)ヒトラーと国防軍ベイジル・ヘンリー・リデルハート(著),岡本らい輔(翻訳)原書房「The Other Side of the Hill.Germany’sGenerals.Their Riseand Fall,with the irown Account of Military Events1939-1945」

by R.B

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