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週刊スモールトーク (第25話) 太平洋戦争の真実Ⅰ~ミッドウェー海戦~

カテゴリ : 戦争

2005.12.04

太平洋戦争の真実Ⅰ~ミッドウェー海戦~

■夏の記憶

今年も短い夏が終わった。夏といえば、夏休み。夏休みとくれば、ヘルマン ヘッセの「車輪の下」 ・・・

夏休みはこうなくてはならない。山々の上にはリンドウ色に青い空があった。幾週間もまぶしく暑い日が続いた。ただときおり激しい短い雷雨が来るだけだった。川はたくさんの砂岩やモミの木かげや狭い谷のあいだを流れていたが、水があたたかくなっていたので、夕方おそくなってもまだ水浴びができた。小さい町のまわりには、干し草や二番刈りの草のにおいがただよっていた。細長い麦畑は黄色く金褐色になった。あちこちの小川のほとりには、白い花の咲くドクゼリのような草が、人の背ほども高く茂っていた ・・・ (※1)

少年時代の夏休みを、鮮やかに思い出させてくれる一節だ。ヘルマン ヘッセが書いたこの有名な短編は、ヘッセ自身の少年時代を題材にしたといわれる。町一番の秀才ハンスは、神学校に進学するものの、勉強一筋の人生に疑問をもちはじめる。悩み抜いたハンスは、自殺とも事故死ともとれる死をとげる。思春期特有の不安がさまよう世界だが、この一節だけは、真夏の日のようにまぶしく輝いている。夏は、なぜか特別の季節。それは誰もが想う、小学校のあの開放的な夏休みのせいかもしれない。だから、8月は夏ではなく、夏休みなのである。

1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下され、8月15日、長かった戦争は終わった。この戦争は、地球規模の大戦「第二次世界大戦」の東アジア及び東南アジア戦域を指している。一般には、太平洋戦争(Pacific War)、年配者には「大東亜戦争」のほうがなじみが深いだろう。「大東亜」は、日本を盟主とする東アジア・東南アジアの共存光栄帝国「大東亜共栄圏」からきている。

終戦を迎えたあの日はギラギラと灼けつくような暑かった。ここに登場する5人は、歴史とはおよそ無縁だったが、あの日、忘れられない夏の記憶を刻む。いずれも実在の人物で、その物語もまた真実である。

■T氏の記憶

T氏は、太平洋戦争中、日本海軍の巡洋艦「長良(ながら)」の機関士であった。いわゆる「缶焚き(かまたき)」である。機関士の任務は動力機関の世話だが、機関室は船底なので、艦が沈めば真っ先に死ぬ。巡洋艦「長良」は、太平洋戦争中、最も有名な海戦「ミッドウェー海戦」にも参加している。当時、海戦の主役は空母だったが、長良は、ある偶然から、ささやかではあったが、歴史に名を刻むことになる。

ミッドウェー海戦は、日本軍が太平洋戦争緒戦の優勢から一転、劣勢に転じた歴史的な海戦である。日本軍は開戦直後の真珠湾攻撃で大きな戦果をあげたが、アメリカ空母をうちもらしていた。この頃、海戦の主力は戦艦から空母に移っていたので、アメリカ空母を殲滅する必要があった。でないと、石油資源を南方から日本に輸送するシーレーン(海上交通路)が脅かされるのだ。

ミッドウェー海戦の日本海軍の作戦は単純明快だった。ミッドウェー島のアメリカ基地を攻撃し、アメリカ空母部隊をおびきだし、殲滅する。後世の軍事評論家は、
「日本軍は兵力を逐次投入し、各個撃破される」
と非難するが、少なくともこの作戦は違う。南雲中将率いる第1機動部隊を中心に、空母6隻、航空機1000機が投入されたが、これは日本の連合艦隊のほぼ全戦力といっていい。これほど思いっきりのいい作戦は、歴史を見渡してもあまりない。

第二次世界大戦中、ドイツがロシアにしかけたバルバロッサ作戦もその一つ。1941年6月22日、ヒトラーの気合いの入った演説とともに、ドイツ陸軍がロシア領内になだれ込んだ。総兵数300万人、航空機1830機、戦車3580両、火砲7184門、途方もない大軍だが、じつは、ドイツ陸軍の80%にあたる。迎え撃つロシア軍も300万人。600万の兵が激突する史上最大の陸上戦であった。

話をミッドウェー海戦にもどそう。日本軍は大艦隊を投入したが、むかえ撃つアメリカ太平洋艦隊は、わずか空母3隻。数の上で日本がアメリカを圧倒し、航空兵の練度もまたアメリカ軍を圧倒したのである。勝敗は火を見るより明らかだった。

この頃、ハワイの地下室には、アメリカの暗号解読班が配備されていた。ロシュフォート中佐をリーダーに、数学の才能がずば抜けた者が集められていた。この世界有数の暗号解読班は、日本の暗号「パープル」を解読し、日本艦隊のミッドウェー侵攻作戦も察知していた。この情報はミッドウェー島のアメリカ軍基地にも報告され、アメリカ軍は準備万端待ち受けていた。

1942年6月4日午前3時15分、アメリカ軍の哨戒機(しょうかいき)が、侵攻する日本空母部隊を発見する。連絡を受けたミッドウェー島のアメリカ軍基地は、ただちにB17爆撃機9機を発進させた。ところが、B17は重爆撃機で、高々度から爆弾を投下する。地上にある静止標的ならいざしらず、艦船のように、動くものは、まずあたらない。実際この爆撃では1発の命中弾もなかった。

6月5日午前4時30分、今度は日本空母部隊がミッドウェー島を攻撃する。日本の攻撃機100機が、ミッドウェー上空に着くと、すでにアメリカ軍の迎撃機26機が待ち受けていた。ところが、アメリカ迎撃機は日本のゼロ戦にことごとく撃墜される。一方、日本軍は空中戦ではアメリカを圧倒したものの、肝心の地上攻撃の戦果はいまいちだった。そこで、攻撃部隊は再攻撃の必要ありと、母艦に打電した。

この無線を受信した南雲中将は、ミッドウェー島の再攻撃を決断する。ところがその時、空母の甲板で待機する攻撃機には、艦船攻撃用の爆弾が積まれていた。地上攻撃をするには、地上攻撃用の爆弾に変えなければならない。午前7時15分、爆弾を転換する命令がくだされる。こうして、ありえない敗北へ歯車が回り始めた。

ミッドウェー島から飛び立ったアメリカ軍哨戒機は、午前5時30分、日本の空母部隊を発見する。この報告を受け、ミッドウェー基地のすべての攻撃機が発進した。午前7時10分、アメリカ攻撃機は、日本の空母部隊の攻撃を開始。ところが、日本空母の上空には、直衛のゼロ戦隊が待ち受けていた。アメリカ攻撃機10機は、このゼロ戦隊に1機のこらず撃墜される。

午前7時40分、アメリカのドーントレス急降下爆撃機16機が攻撃を開始するが、一発も命中せず、ゼロ戦隊に8機まで撃墜される。こうして、この海戦は、当初の予測どおり日本優勢で進む。暗号解読に成功し、情報戦に勝利しても、アメリカ攻撃機は、空母直衛のゼロ戦に手も足も出なかったのである。

ところが、午前8時30分、日本の哨戒機から日本空母部隊に驚くべき情報が入る。近くに、アメリカ空母部隊がいるというのだ。甲板では爆弾を地上攻撃用に転換する作業の真っ最中である。今度は、地上攻撃をとりやめ、艦船攻撃の爆弾に変更しなければならない。日本空母部隊は大混乱に陥った。

午前5時34分、アメリカ空母部隊の司令官スプルーアンス少将は日本空母発見の連絡を受け、午前7時に攻撃部隊116機を出撃させた。ホーネット雷撃隊は、午前9時18分、日本空母部隊に雷撃を敢行したが、直衛のゼロ戦隊に全機撃墜される。雷撃とは、魚雷を海に落として艦船を攻撃することで、爆弾を直接艦船に落とすのではない。午前9時49分、今度はアメリカ空母エンタープライズの雷撃機14機が攻撃したが、ゼロ戦隊に10機が撃墜される。午前10時15分、次にヨークタウンの攻撃隊29機が襲いかかるが、やはりゼロ戦隊の餌食となった。

日本が世界に誇るゼロ戦は、歴史的名機と言われる。航続距離が長大で、強力な機銃を装備し、旋回性能は抜群で、ドッグファイトでは無敵だった。一方、操縦が難しいという証言もあるが、パイロットたちの猛訓練でクリアされていた。

太平洋戦争中、特攻隊予備兵だった父は、その目撃談をよく話してくれた。上空から、きりもみ状態で落下するのを見て、墜落だ!とみんなが叫ぶと、あっという間に機体を立て直す。ほぼ、直角に急降下し、激突する!と思った瞬間、上昇に転ずる。そのとき、練習機の後輪がわずかに大地をかすめるのだという。神業としか言いようがない。このような魔術師に操られたゼロ戦は、大空では「神の子」であった。

ところがその直後、奇跡が起こる。無敵のゼロ戦隊は、おもしろいようにアメリカ機を追いつめ、それにつられ、低空におりてきた。上空ががら空きになったのである。午前10時過ぎ、エンタープライズの急降下爆撃30機とヨークタウンの攻撃機17機が、日本の空母部隊を発見する。上空にいるはずのゼロ戦隊がいない!アメリカ攻撃機は、猛然と攻撃を開始した。日本空母部隊の旗艦「赤城」には500キロ爆弾2発が命中し、空母「加賀」に4発、「蒼龍」に3発が直撃した。

問題は、そのときの日本空母の甲板の状況である。爆弾を満載した攻撃機が並び、格納庫には、交換のため、はずされたばかりの爆弾もあった。甲板で爆発したエネルギーは格納庫にまで飛び火し、誘爆をくりかえし、手のつけられない状態になった。日本艦隊は、ほぼ一瞬にして3隻の空母を失ったのである。結局、この海戦で日本側は4隻の空母を失ったが、アメリカ側の損害は空母1隻と駆逐艦1隻にすぎなかった。日本海軍の信じられないような大敗北であった。

ここまでは、歴史に記された正史「ミッドウェー海戦」。さてここで、先のT氏が登場する。旗艦「赤城」が沈没すると、艦隊司令官の南雲中将が乗り移ったのが、巡洋艦「長良」だった。つまり、T氏が乗る船が日本艦隊の「旗艦」に!この瞬間、平凡な機関士T氏も、歴史に参加したわけである(何をしたというわけではないが)。

そういうこともあって、T氏は戦後も海軍一筋であった。といっても、海上自衛隊に入隊したわけではない。T氏は、戦後、故郷で土建業を営んだが、商才のある人で、商売は繁盛した。ところが、儲けのほとんどを「海軍」の付き合いにつぎ込んだという。もちろん、家族の猛烈な反対にあったが、それでひるむような人ではなかった。「海軍魂」ここにあり、である。

T氏は75歳まで生き、病でこの世を去ったが、その葬儀は誰もが仰天した。元海軍の仲間も参列したのだが、その一人が、60年前の海軍の軍服姿で現れたのである。紺色を基調にしてシックな、あのまぎれもない帝国海軍の正装だ。腰には短剣まで下げている。終戦時は海軍大佐だったという。終戦と同時に、みな2階級特進したから、戦争末期は少佐だったはずだ。もちろん、海軍兵学校出のエリートである。

その海軍大佐を中心に20人ほどの戦友が集まり、その場所だけ異様な空気に包まれていた。あの時空だけはまだ戦争が終わっていなかったのだ。T氏は、酒と海軍をこよなく愛した人だった。1945年、終戦のあの夏の日は、T氏にとって終わりではなく、もう一つの「海軍人生」への始まりだったのだ。

■O氏の記憶

次に登場するO氏は、太平洋戦争中、陸軍の工兵隊員として戦った。工兵隊とは、橋をかけるなど戦場での土木工事を担当する部隊である。もちろん、兵士であるから、いざとなれば、手榴弾を握りしめ突撃もする。O氏の家に遊びに行くと、決まって戦争の話を聞かされた。その話は、中国戦線での武勇伝だったが、意外にも起承転結がしっかりしていた。何十人、何百人と話し聞かせるうちに、自然に洗練されていったのだろう。O氏は、地元の名士だったから、話し聞かせる相手に事欠かなかっただろう。実際、O氏はだれかれ構わず、つかまえては話し込んでいた。もちろん、相手は嫌な顔ひとつせず、神妙に聞き入った。それが本心かどうかは、別として。

O氏の武勇伝は、決まって砲撃の自慢話から始まった。O氏には不思議な能力があり、砲弾の着弾点が瞬時に分かったという。そのため、彼の部下たちは、敵の砲撃が始まると、決まってO氏の後を追いかけたという。話はこの第1幕から始まり、1時間ほどしてクライマックスへとむかう。

ある日、O氏の部隊が久しぶりに建物の中で睡眠をとることになった。O氏は、その晩、敵の夜襲があることを直感し、屋根裏で寝るよう上官に進言する。ところが、根拠がないという理由で、あっさりと却下。そこで、O氏は自分の部下だけ連れて、屋根裏で寝ることにした。そして、O氏の予言は的中する。その晩、激しい夜襲をうけ、部隊が全滅したのである。生き残ったのは、屋根裏で一夜を過ごしたO氏とその部下だけ。その後、O氏は部下から絶大な信頼を得るようになった。

そして、1945年8月、終戦。O氏は、自分を崇拝する部下とともに帰国し、生まれ故郷で建築会社を創業した。空手で鍛えた強靱な肉体と、死地をくぐり抜けた不屈の精神力、なによりも、そのカリスマによって、O氏は故郷の大名士となったのである。O氏にとって、死と隣り合わせの世界は、世間話か自慢話のネタに過ぎず、あの夏の日は、より実りのある人生への通過点だったのである。

《つづく》

参考文献:
(※1)ヘルマン ヘッセ 「車輪の下」高橋健二/訳 新潮社
(※2)福田誠/牧啓夫「太平洋戦争 海戦ガイド」新紀元社

by R.B

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