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週刊スモールトーク (第248話) 神は妄想か?~ID論Vs.進化論~

カテゴリ : 思想科学

2014.03.16

神は妄想か?~ID論Vs.進化論~

■ID論Vs進化論

21世紀に入っても、進化論と創造論の熱いバトルはつづく。この間、創造論は「ID論(インテリジェントデザイン)」に進化し、科学と戦うべく理論武装した。両者の違いは「偶然」と「必然」という根源的なもので、歩みよる余地はない。進化論によれば、人間は突然変異と自然淘汰によって原始細胞から進化したという。つまり、自然が造りだした「偶然」の産物というわけだ。一方、ID論によれば、人間のような高度な生物が「偶然」に生まれるはずがない。偉大な知性によって設計された「必然」の産物だという。早い話が「偶然」か「必然」か?

そして・・・この論争に決着をつけるべく、ID論者が放った銀の弾丸が「究極のボーイング747」だった。いわく・・・偶然が重なって、原始細胞から人間が生まれたって?あんた、アタマ大丈夫か?台風がガラクタ置き場をかき回したら、運良くボーイング747が組み上がったと言ってるようなものだぞ。たしかに、銀の弾丸だ(不死身の狼男を倒す唯一の武器)・・・でも、この論法は根本が間違っている。「原始細胞が人間に進化する確率」と「風が吹いてボーイング747が組み上がる確率」を比べること自体がおかしいから。なぜなら、前者は十分起こりうるが、後者は起こる確率は「ゼロ」。起こって当然のものと、絶対に起こらないものを比較してどうするのだ?

■確率1億分の1とゼロとの違い

まず、台風でボーイング747が組み上がる確率がゼロの理由。これはあたりまえ、組み上がる仕掛けがないから。具体的には・・・航空機の部品は風力によってくっつくものではない。溶接、ボルト締め、ハンダ付け、さらに、化学薬品によるエッチングが必要になる。さらに、半導体チップはレーザーのような自然界に存在しない光も必要になる。つまり、台風で747を組み上げるのは、難しいのではなく、物理的に不可能なのだ。たとえて言うなら、コップを落としたら、万に一つは浮き上がるかも、と期待しているようなもの。地球とコップに働く力は引力と決まっていて、たまに反発力に変わるという仕掛けはない。だから、137億年(宇宙の年齢)待っても、コップが浮き上がることはないのだ。

つぎに、「原始細胞→人間」がふつうに起こりうる理由。たしかに、「1日」で原始細胞が人間に化けたら、仰天ものだ。ところが、実際は45億年かかっている。何が言いたいのか?発生確率が45億分の1でも、45億回繰り返せば、ふつうに起こりうる。つまり、ID論者は「時間(回数)」を忘れているのだ。

たとえば、隕石衝突。広大な宇宙空間に点在する米粒のような惑星に、さらに米粒ような隕石が衝突するのは奇跡としか思えない。実際、統計学的な確率は極めて低い。たとえば、直径500mクラスの隕石が地球に衝突する確率は6000年に1回、直径100mなら、数百年に1回と想定されている。これなら、自分が生きている間は大丈夫そうだ。

ところが・・・100年前の1908年6月30日、ロシアのツングースに直径100mの隕石が地球に衝突した。落下地点が森林だったからよかったものの、都市なら大惨事だっただろう。放出されたエネルギーは広島に投下された原子爆弾の1000倍というのだから。とはいえ、森林の鹿が犠牲になったという報告もある。

さらに・・・2013年2月15日、同じロシアのチェリャビンスク州に隕石が落下した。このときは、爆発の衝撃波で、家の窓ガラスが砕け散り、ドアが吹き飛んだという。じつは、ツングースとチェリャビンスクに落下した隕石は、地上に到達していない。直径が100m未満と小さかったため、大気との摩擦熱で空中爆発したのである。

というわけで、小さな隕石なら「数百年に1度」はあてにならない。あくまで、統計学的確率なので、いつ起こっても不思議はないのだ。そして、ここが肝心なのだが、隕石衝突が起こる「仕掛け」ははっきりしている。17世紀の偉大な奇人変人天才ニュートンによって、科学的に証明されているのだ。仕掛けがある以上、いつ起こっても不思議はない。問題はそれがいつかだ。同様に、進化が起こる「仕掛け」も解明されている。突然変異で、様々の生物種や個体が生まれ、自然淘汰(自然選択)によって、環境に適応したものが生き残る。この仕掛けは「改良への片道切符」を意味するので、「進化」は必然なのである。

つまり、隕石衝突にしろ、生物進化にしろ、この世界で起こる事象は、仕掛けさえあれば、たとえ「統計学的にありえない」ものであっても、「ありえないほどの時間(回数)」をかければ、ふつうに起こりうる。というわけで、ID論者が放った「銀の弾丸」は、じつは、「鉛の弾丸」だった。これでは、不死身の狼男「進化論」は倒せない。

■偉大な知性

ところで、ID論者が執着する「偉大な知性」とは?ほんとうは、ID論者は「偉大な知性」ではなく「神」と言いたかったのだ。ところが、神が登場したとたんに、無神論者はそっぽを向く。そこで、「神」ではなく「偉大な知性」と言い替えたのである。ところで、なぜ、「偉大な」がつくのか?世界の創造者たるもの、すべてを超越していなければならない。なぜなら、下等なものが高等なものを造れるはずがないから。

たとえば・・・「刀工」をつくっている「刀」にお目にかかったことはありますか?なるほど・・・ところが、これに噛みついたのが、生物学者のリチャードドーキンスだ。彼は筋金入りの「無神論者」で、神と宗教への批判に余念がない。実際、ドーキンスは挑発的な「神は妄想である」を著して、ID論を一刀両断にしている。以下、ドーキンス版「銀の弾丸」・・・地球の生命のプールで原始細胞が誕生し、それが、「偶然」起こる突然変異と自然淘汰で人間にまで進化したというのは、たしかに、「台風とボーイング747」童話を彷彿させるかもしれない。

しかし・・・進化は「地質学的尺度」で作用するものである。長大な時間をかけて、気の遠くなるような試行錯誤を繰り返せば、驚くべきものが生まれる。人間は、自分のたちの寿命でしか想像力が働かない。だから、真に長大な時間という異次元の機能を理解できないのだ。そして、こう締めくくっている・・・統計的にありえないからといって、「神(設計者)」を引っ張り出してきて説明しようとすること自体が、どれほど統計学的にありえないことか。神(設計者)こそ究極のボーイング747なのである。おみごと!

ところが・・・このドーキンス版「銀の弾丸」は、半分は銀、半分は鉛なのである。これでは、不死身の狼男「ID論」は倒せない。では、ドーキンスのロジックのどこがおかしいのか?「神こそ統計学的にありえない」という部分。仮に、神が実在し、この宇宙を創造したとしよう。その場合、神は惑星や生命だけでなく、自然界の法則、たとえば、「統計学の仕掛け」もつくったことになる。であれば、神を統計学で論ずるのはおかしい。創造者が創造物で計れるはずがないから。つまり、神(設計者)を統計学で論じることそのものが間違っているのだ。

さらに、ドーキンスは、「統計学的にありえないなら設計、と決めつけるのは間違っている」と主張するが、ココもおかしい。統計学的にありえない、つまり、「偶然」に起こりえないなら、「必然」しかないではないか。なぜなら、必然か偶然かは排反事象だから。コインを投げれば、表が出れば裏はでない、裏がでれば表は出ない、そして、表か裏のどちらかが必ずでる。これが排反事象だ。ということで、統計学的にありえないなら、必然、つまり、意図的につくられたのである。

さらに・・・ドーキンスは、人間は突然変異と自然淘汰によって「偶然」に生まれたというが、突然変異と自然淘汰はどうやって生まれたのだ?ドーキンス説の不備はここにある。つまり、成果物(人間)を生む仕掛けは説明しているが、その仕掛け(突然変異と自然淘汰)を創りだした仕掛けを説明していない。仕掛けの仕掛け?これじゃ、きりがない。仕掛けは初めから存在したんじゃないの?その場合、神(設計者)の存在を認める必要がある。なぜなら、仕掛け(法則)は、人間のように、「地質学的時間」をかけていられないから。宇宙誕生と同時に、仕掛けが出現しないと、何ひとつ生まれないのだ。つまり、成果物を生み出す仕掛け(法則)は一撃で創る必要がある。

では、一体誰が創ったのだ?というわけで、この世界の成果物は偶然(突然変異と自然淘汰)で説明できるが、その偶然(突然変異と自然淘汰)がどうやってできたかは、「必然(ID)」でしか説明できない。でも、他に方法があるのでは?ない!前述したように、偶然と必然は排反事象だから。つまり、偶然がないなら、必然しかない。そして、必然は「決定論的」なものであり、決定者が必要不可欠なのだ。もちろん、ここでいう決定者とは、宇宙の設計者である(宗教上の神とは言っていない)。

■還元不可能な複雑さ

ところで、ID論の、「進化によって、人間のような高度なものが生まれるはずがない」には、別の攻め口もある。1996年、生化学者のマイケル・ベーエは「還元不可能な複雑さ」という概念をうちだした。「還元不可能な複雑さ」とは、構成する部品がひとつでも取り去られると、全体が機能しなくなるものをいう。つまり、すべての部品が同時に完成しないと、用をなさないわけだ。そんな「せっかち」なものを、進化でつくりだすことができる?

というのは、進化はのんびりだから。進化は、突然変異と自然淘汰を繰り返しながら、ゆっくりと、段階的に進む。早い話が試行錯誤。たとえば、5億年前にカンブリア大爆発が起こり、多種多様な生物種が出現したが、ほとんどが「珍種」や「奇形」のたぐいで、それから人間が生まれるまでに5億年もかかっている。こんな悠長な方法で、すべての部品を同時に完成させられる?ムリ。同時に完成しないと、初めから機能しないのだから、自然淘汰もなにもあったもんじゃない。だから、生物のような「還元不可能な複雑さ」が進化で生まれるはずがない。誰かが意図的に設計したのだ。

そして、ここで「偉大な知性」が登場する。ところが・・・ドーキンスはこれに噛みついた。彼の2発目の銀の弾丸「不可能の山に登る」によれば(※)・・・山の一方の側は、切り立った崖で登ることはできない。ところが、その反対側は頂上までなだらかな斜面がつづいている。山頂には、眼や翼のような複雑な仕組みがおかれている。そのような複雑性が、突発的に、自分で組み立てられるという馬鹿げた考え方は、崖の麓から、一回の跳躍で頂上まで飛び上がるようなものだ。つまり、ありえない。

それに対して、進化は、その反対側のゆるやかな斜面を、頂上まで這い登っていくようなものだ。その裏道には、中途半端な眼や翼が並んでいる。つまり、段階をへて、完全な眼や翼を獲得するわけだ。でも、ID論者は、不完全な眼や翼は何の役にも立たないと言っているけど。ドーキンスはこれも一刀両断にする・・・眼はものを見るか、見ないかのどちらか。翼は、飛ぶか、飛ばないかのどちらか。その中間段階のものが役に立つことはないと、ID論者は決めつける。

だが、これは断じて間違っている。

現実に役に立つ中間型はいっぱいある。たとえば・・・木に衝突したり、崖から落ちたりしなくてすむ程度に見えるも眼も、十分役に立つ。実際、オウムガイの「ピンボール・カメラ」眼は、人間の眼と比較すれば、ぼやけて不鮮明な像だが、それでも、まったく見えないよりはマシだろう。また、半分しかない翼でも、木から落ちたときに墜落速度を和らげることで命を救うことができるだろう。

それに・・・分子遺伝学や、地理的分布などの他の資料から考えて、進化が事実である証拠は枚挙にいとまがない。一方で、もし、不都合な地層からしかるべき化石が一個でもみつかれば、進化論は打ち倒されてしまうだろうが。たとえば、先カンブリア時代のウサギの化石とか(先カンブリア時代の生物といえばバクテリア)。

さて、ここで一度整理しよう。「原始細胞から人間」は、進化論で十分説明できる。なぜなら、仕掛けの「突然変異&自然淘汰」は改良への一本道だから。時間さえかければたいていのものは造れるのである。つまり、物の創造にかぎれば、ドーキンスの説はあっている。一方、突然変異と自然淘汰のような「仕掛け(法則)」は、進化論のような漸進的な方法では説明がつかない。

ということで、結論。惑星や人間のような成果物は、仕掛け(法則)によって、偶然に段階的につくられた(進化論)。一方、「仕掛け(法則)」は、宇宙の誕生と同時に、必然的、決定論的につくられた(ID論)。つまり、創造主は初めに仕掛けをつくり、仕掛けが世界を創造するのを見て楽しんでいるのだ。じゃあ、この世界は見世物小屋?モチベーション下がるなあ。

■神は死んだ

ドーキンスが凄いのは、「神は妄想である」と言い切ったことである。ガリレオが生きた時代なら、火あぶりは間違いないだろう。コワイコワイ。もっとも、クリスマスはキリスト教、正月は神道、盆は仏教で、それ以外は無神論者の日本人にしてみれば、「あー、言ちゃったよ」ですまされる話。ところが、一神教の国ならタダではすまない。実際、ドーキンスのもとには嫌がらせや脅しのメッセージが届いたという。しかし・・・神を否定したのはドーキンスが初めてではない。「神は妄想である」が色あせてみえるほど過激な発言をした人物がいる。20世紀が生んだ偉大な哲学者ニーチェだ。彼は著書「ツァラトゥストラはかく語りき」の中でこう言い切った。

神は死んだ

《完》

参考文献
(※)「神は妄想である―宗教との決別」リチャード・ドーキンス(著),垂水雄二(翻訳)出版社:早川書房

by R.B

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