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週刊スモールトーク (第239話) ダーウィンの進化論は嘘だった!?

カテゴリ : 人物科学

2014.01.12

ダーウィンの進化論は嘘だった!?

■ダーウィンの進化論

「ダーウィンの進化論」は科学界のカリスマである。ニュートンの万有引力の法則やアインシュタインの相対性理論に匹敵するほどの。

というのも、ダーウィンの進化論は科学界のみならず、精神世界にも大きな影響を与えたから。とくに、キリスト教に与えたインパクトはすさまじかった。教会内部で、信者の間で、嵐のような猛反発がおこったのである。それもそのはず、「神の子」だったはずの人間が猿と同類だというのだから。

実際・・・

1859年、チャールズ・ダーウィンの「種の起源」が発表されたとき、世界中が騒然となった。「種の起源」とは、ダーウィンの「自然淘汰説」を要約した啓蒙書で、世に言うダーウィンの進化論である。

この説によれば、ランダムにかつ無方向に発生する突然変異が、様々な生物種を生み出し、環境に適応したものだけが生き残る。その累積の結果、生物は進化するという。

具体的には、

1.生物のスペック(特質)は個体によって異なる。

2.スペックは親から子へと個体を介して継承される。

3.自然資源には限りがあるので、環境に適応した個体が優先的に生き残る。

4.結果、環境に適応したスペックが優先的に生き残る。

このメカニズムを自然淘汰、または、自然選択とよんでいる。

つまり、全ての生物種は共通の祖先から分岐したことになる。そのため、生物種の系統図は、大樹が幹から枝分かれしている様にたとえられる。

というわけで・・・

人間は元を正せば猿のお仲間。

だから、キリスト教派が猛反発したのである。キリスト教世界では、神が人間の祖先「アダム」を造りたもうたと2000年も信じられてきたのだから。いまさら、人間は猿のお仲間でしたと言われても、受け容れられるはずがない。こうして、ダーウィンの進化論は科学界と精神世界を大混乱に陥れたのである。

とはいえ、時はまだ19世紀、電気もない時代だから、しかたがない?

ところが・・・

21世紀の今になっても、この論争は収まる気配がない。現に、アメリカ合衆国では、宇宙や生命は偉大なる知性によって設計されたという「インテリジェント・デザイン(ID)」が盛んだ。進化論と対立する「創造論」の一派なのだが、創造者を「神」から「偉大なる知性」におきかえたところがミソ。つまり、「科学的」をPRしているわけだ。

というわけで、良きにつけ悪しきにつけ、チャールズ・ダーウィンの名声は歴史に燦然と輝いている。

■ダーウィン盗作説

ところが・・・

そんな科学界のカリスマ「ダーウィン」に盗作の疑惑があるのだ。

しかも、十八番の「自然淘汰説)で。

つまり、ダーウィンの進化論は嘘だった!?

出るくいは打たれるは世の常人の常、よくあるトンデモ説では?

ノー!

「ダーウィン盗作説」には物的証拠、状況証拠、動機の3つがそろっている。つまり、限りなく真実に近い。

でも、それが本当なら、なぜ今なのだ?

じつは、ダーウィンの盗作説は、いまに始まったわけではない。進化論が発表された19世紀にすでに火種はあった。まず、一部の学者が真実を歪曲(わいきょく)し、それが、年月とともに、既成事実化したのである。

では、真実をゆがめたのは誰か?

時間軸にそって、事実関係を精査していこう。

1835年12月、ダーウィンはイギリス海軍のビーグル号に乗船し、プリマス港を出航した。その後、5年間かけて世界を周航し、生物の生態を観察し、進化論へのヒントをつかんだ。ところが、帰国後20年も経っても、論文を完成させることができなかった。

ダーウィンは世界周航という決定的なチャンスに恵まれ、ひらめきもあったのに、最後の10%を詰め切れずにいたのである。

そんなある日、悩めるダーウィンに一通の手紙が届いた。日付は、1858年6月3日か、または、6月18日。

または?

じつは、この日付がはっきりしないのだ。もっとも、はっきりしていたら、ダーウィン盗作疑惑も決着がつくのだが。そこで、日付の話は後回しにして、まず手紙の内容からみていこう。

■ウォレスの手紙

この手紙が発信されたのは、ヨーロッパから遠く離れた「テルナテ島」だった。

テルナテ島?

インドネシアのモルッカ諸島の一つで、大航海時代、スパイスアイランド(香料諸島)として知られていた。この頃、スパイスはヨーロッパでは貴重な輸入品だった。中でも、「チョウジ(丁子)」は効用が高く、地球上で産するのは5つの島だけ。その一つがテルナテ島だったのである。

それにしても、スパイスの産地と進化論とどんな関係が?

何の関係もない。

この手紙の送り主は、アルフレッド・ラッセル・ウォレスといった。熱帯地方で珍しい昆虫を採集して、大学に売って生計を立てていた在野の研究者である。じつは、この「在野」という身分が、大きなハンディとなり、歴史的な発見をダーウィンに横取りされたのである。

ウォレスは、ダーウィンに手紙を送る3年前の1855年、ボルネオ島のサラワクで「新種の導入を規制してきた法則について」と題したレポートを書いた。それは学術誌に寄稿され、地名をとって「サラワク論文」とよばれた。この中で、ウォレスは生物種は樹が枝分かれするように系統化されると結論づけていた。後の「進化論」に直結する重要な部分である。ダーウィンもこのサラワク論文を読んでいたが、自分の論文を完成させることができなかった。

そして、その3年後の1858年6月、ダーウィンの元に一通の手紙が届く。送り主は先のウォレスである。その中に、論文が同封されており、それが後の「ダーウィンの進化論」に酷似しているというのだ。

さて、ここからダーウィン盗作疑惑が始まるのだが・・・まさに、現実は小説より奇なり。

■日付の謎

ダーウィンは、ウォレスの論文が届いたのと同じ1858年6月に、知り合いの植物学者ジョセフ・フッカー卿宛てに手紙を出している。内容は・・・

「自然界において、種がどのように分岐するかという長い間、頭を悩ませていた問題がついに解けた」

早い話が、自然淘汰説(進化論)を見つけたのである。

そして、その3週間後の7月1日、ロンドンで開催されたリンネ学会で、ダーウィンは「自然淘汰説(自然選択説)」を発表した。

なんとも不思議な話ではないか。

20年間、遅々として進まなかった論文が、突然、3週間で完成した?しかも、ウォレスの論文を受け取ったタイミングで。さらに、その論文は現在のダーウィンの進化論に酷似しているというではないか。

ところが、不可解はこれにとどまらない。

リンネ学会の最後に、ウォレスがダーウィンに送った論文も同時に発表されたという。では、ダーウィンも学界も、ウォレスの功績を認めた?

ノー!

なんと、脚光を浴びたのは、ウォレスではなく、ダーウィンの方だった。つまり、ウォレスはおまけ。

一体、どうなっているのだ?

じつは、前述したダーウィンの知人の生物学者フッカー卿と地質学者ライエル卿が講演で、ダーウィンの成果を過剰にたたえたのである。さらに、伝記作家に彼の業績を強調して書くよう指示したという。

つまり・・・

ウォレスが進化論を発見したことを隠蔽したわけではない。ちゃんと、認めていますよ。でも、本当の発見者はダーウィンです、というわけだ。

■証拠

では、なぜ、フッカー卿とライエル卿はこんな手の込んだことをしたのか?

隠蔽を悟られず、ダーウィンを擁護するため?

いや、正確には、イギリスの王立アカデミーの権威を守るため。

ダーウィンは、1837年、すでにイギリスで学者として認められていた。一方、ウォレスは昆虫の採集者で、いわゆる学者ではない。そもそも、ウォレスは生物学の専門教育さえ受けていない。小学校を出て測量士として働きはじめ、その後、昆虫採集に熱中したのである。そんな無学なエセ学者をまともな学者と同列に賞すれば、王立ロイヤル・アカデミーの名がすたる。そこで、「自然淘汰説」をダーウィンの手柄にしようとしたのである。

では、ダーウィンは本当にウォレスの論文を盗作したのだろうか?

ここで、鍵になるのが、ウォレスの手紙がダーウィンの元に届いた日付である。ダーウィンの言い分では、ウォレスの手紙(論文)を受け取ったのが「6月18日」で、フッカー卿にの手紙をだしたのは「6月8日」だという。つまり、ウォレスの論文を読む前に、ダーウィンは自然淘汰説を発見していたというわけだ。

もし、それが本当なら、ダーウィンの盗作説は成立しない。

では、手紙の消印を確認すれば?

それができないのだ。封筒が破棄されているから。

一方、ウォレス側には決定的な証拠がある。ウォレスがテルナテ島からダーウィンに宛てた手紙(論文)と同じものを、友人に送っていたのだ。その手紙の封筒には、ロンドンの消印が捺されており、日付は「6月3日」。

これは奇妙だ・・・

ダーウィンによれば、ダーウィンの元に手紙が届いたのは「6月18日」。ところが、ダーウィンが住んでいたダウンは、レスターよりロンドンに近い。ロンドンにより近いダウンへの配達が、より遠いレスターより2週間以上も遅れたって?

ありえない。

ということで、状況証拠と物的証拠から推定されるダーウィンの真実は・・・

6月3日:ウォレスの手紙を受け取り、「自然淘汰説」を思いつく。

6月8日:フッカー卿に「われ発見せり!」の手紙を送る。

~:「自然淘汰説」を書き上げる。

7月1日:ロンドンで開催されたリンネ学会で「自然淘汰説」を発表する。

しかし、これを認めれば、ダーウィンはウォレスの論文を盗用したことになる。そこで、ウォレスの手紙を受け取ったのが「6月3日」ではなく、「6月18日」と言い張ったのである。そこで、邪魔になるのが、「6月3日」の消印がある封筒だ。だから、封筒を破棄したのだろう。

■動機

さらに、ダーウィンには明確な動機がある。もちろん、自然淘汰説の功績を独り占めにするため。

というわけで・・・

進化論の始祖として名高いチャールズ・ダーウィンは、他人の論文を盗用した可能性が高い。

つまり・・・

「ダーウィンの進化論」は誤りで、本当は「ウォレスの進化論」だった!?

とはいえ、ダーウィンの論文とウォレスの論文は、リンネ学界で同時発表されている。どちらが先に発見したか別として、一応、ウォレスにも敬意は払われたわけだ。

実際、この頃、ウォレスはかなりの名声を得ていたらしい。自然淘汰説の共同発見として認められ、王立協会の会員にも名を連ねた。ところが今、「ウォレス」の名は知る者はいない。彼の死後、急速に忘れ去られたのである。それが意図的なものか、偶然かはわからない。一方、共同発見者のダーウィンの名声は、150年経った今も、燦然と輝いている。

では、なぜ、このような不条理な事が起こったのか?

ウォレスが、重要な論文を無警戒にライバルに送りつけたこと。ウォレスが学者ではなく、在野の研究者だったこと。ダーウィンと彼の仲間が仕組んだ巧妙な偽装が、スンナリ世に受け容れられたこと。それがいつの間にか既成事実化したこと。その一つでも欠けていたら、歴史年表から「ダーウィンの進化論」が消え、かわりに、「ウォレスの進化論」が記されていただろう。

■ウォレスとテスラ

この事件は、20世紀の発明王エジソンと、交流の発明者テスラの関係を彷彿させる。100年前、電気文明の黎明期、送電の方法で、直流と交流が争った。結局、交流が勝利し、今では交流方式がスタンダードとなっている。

このとき、直流をおしたのはエジソンで、交流をおしたのはテスラだった。直流は、オームの法則が基本なので、中学生でも理解できる。一方、交流は大学で学ぶ微分方程式が必須。なので、小学校を卒業していないエジソンに交流理論は理解できない。もっとも、電気工学科卒でもきちんと理解している人は少ないのだが。

そこで、エジソンは人格を疑われるような大人げない方法で、交流をこきおろした。そして、直流・交流戦争でやぶれると、テスラを目の敵にし、嫌がらせの限りをつくしたのである。エジソンとテスラでノーベル賞の共同授賞の話もあったのに、エジソンの嫌がらせでチャラになったというエピソードまである。もっとも、エジソンのこのような言動は、テスラだけに向けられたわけではなかったが。

結果、テスラはその功績に見合った扱いを受けることはなかった。しかも、その状況は現在もつづいている。エジソンの名を知らぬ者はいないのに、テスラの名は地に埋もれている。

というわけで・・・

ディテールは違うが、「ダーウィンVs.ウォレス」は「エジソンVs.テスラ」と構図が似ている。才能も功績もあるのに、宿敵に邪魔されて、歴史から抹殺されたという点で。

もっとも、ウォレスは歴史から完全に消されてしまったが、二コラ・テスラは、本業以外で名を残している。人工地震兵器、殺人光線、気象兵器、反重力装置・・・マニアが喜びそうなマッドサイエンティストのジャンルで。

というわけで、人生は何がおこるかわからない。

《完》

参考文献
(※1)「利己的な遺伝子増補改題『生物=生存機械論』」リチャード・ドーキンス(著),日高敏隆(翻訳),岸由二(翻訳),羽田節子(翻訳),垂水雄二(翻訳)出版社:紀伊國屋書店
(※2)歴史のミステリー改訂版27号[分冊百科]出版社:デアゴスティーニ・ジャパン;週刊版

by R.B

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