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週刊スモールトーク (第22話) オイディプス神話とコメディア デラルテ

カテゴリ : 娯楽

2005.11.13

オイディプス神話とコメディア デラルテ

■戯曲のカリスマ

オイディプス王」は戯曲のカリスマである。戯曲とは演劇の脚本のことで、役者のセリフや動き、演出などが細かく書かれている。いわば、演劇の設計図で、普通の人が読んでも面白くもなんともない。

戯曲「オイディプス王」は古代ギリシャの劇作家ソフォクレスによって書かれた。時代は紀元前5世紀頃。ギリシャ3大悲劇の一つとされるが、実のところ、頭抜けてナンバーワン、戯曲の最高傑作と言っていいだろう。

「オイディプス王」が戯曲のカリスマと言われるのは、本編より、ネタ本(批評、解釈)方が有名だから。例えば、心理学者フロイトは「オイディプス王」の物語から、息子が父を憎悪し、母を愛する「エディプス コンプレックス」を提唱した。あのフロイトまで加担すれば、カリスマは決まったようなものだ。

「オイディプス王」は今でもさかんに演じられている。ビッグネーム、蜷川幸雄&野村萬斎の「オイディプス王」のアテネ公演はDVDにもなった。こんなマイナーな世界では珍しい。演劇は、まだTVや映画のようなマス エンターテインメントにはなっていない。だからこそ、「オイディプス王」はカリスマなのである。もっとも、演劇に興味のない人にとって、演劇なんて気取った感じで、ハイソな感じで、敷居は高そうで、なんともイヤミ。

ところが ・・・

オイディプス王はとてつもなく面白い。お金払って、わざわざ舞台を観に行く必要はない。あらすじを読むだけで十分面白いのだ。センスのいいイラストをつけて、大人の絵本として売り出せば、ブレイク間違いなしと思うのだが。

ところで、そのストーリーとは ・・・

「オイディプス王」の舞台となるのは、古代ギリシャの都市テーバイ。歴史の古い町だ。同じギリシャのアテネとはライバル関係にあった。テーバイは神話にも登場するが、実在した都市で、紀元前335年には歴史的大事件が起こっている。

この事件は、テーバイを追放された反逆分子が国家転覆をもくろみ、テーバイに戻ったところからはじまる。その頃、テーバイはアレキサンダー大王の支配下にあった。ところが、帰国した反逆分子たちは、アレキサンダー大王がペルシャとの戦いで戦死したと吹聴し、マケドニアから独立すべく、民衆を扇動した。これに激怒したアレキサンダー大王は、テーバイを包囲し、町を徹底的に破壊した。さらに、市民を虐殺し、残った者すべてを奴隷として売り飛した。

■オイディプス王

「オイディプス王」の物語は、テーバイ王ライオスがアポロンの神託を得るところから始まる。もし、ライオスが妃イオカステとの間に男子をもうけたなら、ライオスはその子によって殺されるだろうという恐ろしい予言だった。ところが、ライオスは情欲に負けて、妃イオカステとの間に男子をもうける。

アポロンの神託をおそれたライオスは、生まれたばかりの赤子の両方のくるぶしにピンを刺しとおし、牧人に命じ、山中に捨てさせた。その後も、くるぶしの腫れがひかなかったので、「腫れた足」を意味する「オイディプス」と名づけられた。

ところが、牧人はその赤子を哀れに思い、コリントスにいた羊飼いにあずけることにした。その羊飼いは、コリントスの王ポリュポスに仕えていたので、このことを王に話した。こうして、赤子はコリントス王のもとで育てられた。子に恵まれなかったコリントス王ポリュポスと妃メロペは、その子を実の子のように慈しみ育てた。

オイディプスは、コリントス王の王子としてすくすく育つが、それを妬んだ友人に「偽りの子」とののしられる。自らの出生を怪しんだオイディプスは、アポロンの神託を受け、その真偽を問うた。しかし、その答は得られず、代わりに、彼が故郷に帰れば、父を殺し、母と交わるだろうと告げられた。オイディプスは親と信じるコリントス王とその妃を心から敬愛していたので、予言が成就されぬよう、コリントスに帰らず、テーバイに向かった。

旅の途中、狭い道で、オイディプスは戦車にのった老人の一行に出くわす。双方が道を譲らず争いになり、オイディプスはこの老人を殺してしまう。そしてこの老人こそ、オイディプスの実父テーバイ王ライオスであった。こうして、第1の予言は成就されたのである。

オイディプスがテーバイに着くと、町はスフィンクスの災難に悩まされていた。スフィンクスは、女の顔に、ライオンの身体、鷲の翼をもつ怪物で、テーバイの国境に居座り、市民に謎歌を歌い、解けないとそれを喰らうのであった。その謎とは、
「声は1つながら、4本足、2本足、3本足となるものは何か?」
オイディプスはその謎をみごとに解いた。
「それは人間である。生まれたときは4本足で、成人して2本足になり、老いると杖をついて3本足となる」
驚いたスフィンクスは、崖から転落して命をおとす。

テーバイを災難から救ったオイディプスは、新しい王として迎えられ、死んだライオス王の妃イオカステを娶り、2男2女をもうけた。つまり、実の母を妻とし、交わったのである。こうして第2の予言も成就された。しかし、その事実に誰も気づくこともなく、テーバイの町は平穏に過ぎていく。

あるとき、テーバイで疫病が発生した。大勢の人が死に、大地も家畜も人も、何も産まなくなった。オイディプス王は、アポロンの神託を得るため、妃の弟であるクレオンをデルフォイにつかわした。クレオンはそこで驚くべき神託を得る。
「テーバイで、ライオス王殺しの犯人がまだ罰せられずにいるから、災難がおきるのだ。地の汚れを払うため、ライオス王殺しの犯人を罰せよ

やがて、盲目の予言者ティレシアスが呼ばれ、彼はオイディプス王こそがその犯人であると告げる。オイディプス王は、これは王位を狙うクレオンの謀略だと考え、予言者ティレシアスを追い返す。

そのとき、コリントスから使者が到着した。この使者は、昔、テーバイの牧人から受け取ったオイディプスをコリントス王に預けた羊飼いだった。使者は、コリントス王が死んだので、帰国して王位に就くよう、オイディプス王に願い出る。しかし、オイディプス王は、先のアポロンの神託が気がかりだった。コリントス王は死に、父王を殺すことはないが、母と交わるという予言はまだ生きている。そのことを告げた上で、オイディプス王は帰国を断った。

それを聞いた羊飼いは、
「自分がテーバイの牧人からオイディプス王を渡され、コリントス王に預けたのだから、コリントス王妃はオイディプス王の実の母であるはずがない」
とうち明ける。その瞬間、オイディプスの母であり妻でもあるイオカステは自分とオイディプス王にかけられた恐ろしい呪いを知った。イオカステは、これ以上追求しないことを懇願するが、オイディプス王は追求をやめようとはしなかった。

やがて、殺されたライオス王の一行で逃げのびた男が帰ってきた。彼はライオス王にオイディプスを捨てるよう命じられた牧人であった。牧人は、オイディプス王こそ紛れもなくライオスの子であると告げる。期せずして次々と明らかになっていくオイディプス王の秘密。悲嘆したイオカステは寝室で首を吊って死んだ

すべてを知ったオイディプス王は、自らの手でおのれの両目を潰し、王位を退く。オイディプスはテーバイを追われ、娘のアンティゴネに手を引かれ、諸所をさまよい、アテネ郊外のコロノスで死ぬ。

オイディプスは父を殺し、母と交わったが、それは彼の罪ではない。父殺しは、相手を父と知らずに行った正当防衛であり、イオカステを妻としたのも母とは知らぬことであった。すべては、オイディプスの意志ではなく、神によって定められた運命なのだ。ギリシャ神話は善悪では計れない人の運命を巧みに描き出す。「イカロスの翼」が登場する有名なギリシャ神話「アリアドネの糸」も同じ思想が流れている。

このように、古代ギリシャの物語は深みがあって面白い。ところが、中世になると、テーマは運命的なものから宗教的なものへと変質していく。これは、中世ヨーロッパの文化に共通した点で、「暗黒の中世」と呼ばれるゆえんである。

■コメディア デラルテ

こうして、暗黒の中世、演劇は窮屈な宗教劇からはじまった。ところが、やがて、演劇の革命が起こる。主役は諸国を放浪する旅芸人。彼らは、町の広場や居酒屋で、喜劇や軽業(かるわざ)、楽器演奏を披露して、人々を楽しませた。高尚な古代ギリシャの演劇や、陰鬱な宗教劇とも違う、明るく庶民的なエンターテインメントだった。そして17世紀、歴史を刻む新しい演劇が登場する。「コメディア デラルテ」である。直訳すると「職業俳優による喜劇」。

「コメディア デラルテ」には2つの特徴があった。まず、台本がシンプルで、大筋しか書かれていない。そのため、劇の成り行きは役者の即興まかせ。もちろん、そのままではただのドタバタだ。ところが、経験を積むことで劇は洗練され、やがて、貴族のサロンで上演されるまでになった。

「コメディア デラルテ」のもう一つの特徴は、登場人物が類型化され、固定されていたこと。つまり、どの話も登場人物は同じ。では、話はすべて続編?いや、ストーリーは違うのだが、役柄が一目でわかる勧善懲悪の世界。話がマンネリ化するリスクもあるが、メリットもある。登場人物が類型化され、固定されているので、役者は「類型化されたキャラ」をマスターするだけでいい。あとは、どんなストーリーがこようが、役柄を熟知しているので、即興で対応できる。つまり、即興という名の「リアルタイム演劇」。

では、具体的にどのように類型化されていたのだろう。例えば「恋人たち」は、劇の中心的な役割。「アルレッキーノ」は召使いで、滑稽なセリフや動作で笑いをとり、「恋人たち」の恋が成就するよう振る舞う。愚直で人情に厚いピエロはこの「アルレッキーノ」から派生したと言われている。

また、「パンタローネ」は裕福で意地悪な老人で、恋人たちの邪魔をする。「カピターノ」はほら吹きで傲慢な司令官。「プルチネッラ」はドンキホーテのように、ユーモラスな愚か者。このように類型化されたキャラは決まった衣装を身につけ、仮面をかぶり、一目でわかるようになっていた。分かりやすく、洗練されて、ツボを得たフォーマットだ。そのため、現代のエンターテインメントにも大きな影響を与えている。

■人間の類型化

「コメディア デラルテ」は、ドイツの教育学者シュプランガーの「人間の類型化」を彷彿させる。シュプランガーは、パーソナリティを、個人がもつ価値観により、6つのパターンに類型化した(※)。
1.【理論型】何はさておき、真実。
2.【経済型】実用的なものしか興味がない。
3.【審美型】美こそすべて。
4.【宗教型】我々どこから来て、どこへ行くのか。
5.【権力型】人を支配してなんぼ。
6.【社会型】社会のお役にたちたい。

このような登場人物の類型化は、現代でも継承されている。「吉本新喜劇」もその一つだ。ストーリーはいろいろだが、登場人物はしっかり類型化されている。役者は十八番(おはこ)の芸をもっていて、ここぞという場面で披露する。たわいもない芸なのだが、観客はそれを待っていて、出た瞬間、喝采する。劇の価値が、物語や演技ではなく、役者の瞬間芸にあるのが面白い。

昔、NHKで放映された歴史人形劇「三国志」も興味深い。人形はハデな動きはムリだし、背景も限られる。表現に大きなハンディがあるわけだ。ところが、人形の表情に深みがあるし、セリフも良く練られ、紙芝居のような独特な世界観がある。映画に勝るとも劣らない。表現に制限があることが、逆にセリフや演出を極限まで高めたのだろう。また、映画やドラマのようにテンポが速いと、観客は味わう暇もない。一方、人形劇なら、観て、そしゃくして、ゆっくり堪能できる。こんなエンターテインメントもあってもいいのでは?

■演劇とインターネット

最近、IT企業によるテレビ局の買収が話題になっている。金にものをいわせて、と反感、反論もあるが、テレビ局のコンテンツを狙うのはIT企業の必然である。タダの金儲けではなく、生存をかけた戦いなのだ。世間体を気にしている余裕はない。

インターネットは、世界を分かつはずの距離も時間も消滅させた。地球は一体化し、昼夜をとわず、世界は動き続けている。その中心にいるのが IT 業界だ。IT 業界は今、過酷な生存競争にさらされている。Google、Yahoo、Mirosoft、Amazon、Disney、一見異業種に見えるこれらの企業も、実は同じ土俵に立っている。5年後も彼らが共存しているとは思えない

とはいえ、IT企業は今は旬。そこで一つ要望がある。演劇や人形劇のようなナノ コンテンツは、TV、映画、DVDのようなマス メディアでは成立しない。そこで、マイナーなコンテンツをインターネットで配信して欲しいのだ。低価格なら有料でもOKだ。それができるのは、マス メディアとナノ メディアの両面をもつインターネットしかない。

参考文献:
(※)真辺春蔵「心理学の基礎」朝倉書店

by R.B

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