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週刊スモールトーク (第196話) 中国共産党の歴史Ⅷ~蒋介石の幸運の女神~

カテゴリ : 戦争歴史

2013.03.03

中国共産党の歴史Ⅷ~蒋介石の幸運の女神~

■幸運の女神

現在の中国は、言わずと知れた中華人民共和国 ・・・ 中国共産党の一党独裁である。しかし、すんでのところで、「蒋介石の中国」が誕生するところだった。

実際、蒋介石は、
「中国を統一するのは、このわたしだ」
と確信した瞬間が、少なくとも2度あった。ところが、蒋介石はこの2度のチャンスを活かすことができなかった。

特に、2度目のチャンスは、蒋介石の勝ち目はフォーナイン(99.99%)。これでは、失敗する方が難しい。さしもの蒋介石も油断した?いや、むしろ、彼は「獅子はウサギを狩るにも全力を尽くす」のごとく、全神経を集中し、部下に何度も何度もハッパをかけたのである。結局、それが仇となって、中国の歴史が一変するのだが ・・・

では、なぜ、蒋介石ほどの実力者が、2度もチャンスを逃したのか?

幸運の女神の後ろ髪をつかもうとしたから(後ろ髪はない) ・・・ は、さておき、予期せぬ出来事が起こったから。

ありがちな話だが、「大事の前には小事が多発する」というし、後で精査すれば、「予兆」があったはず。それを見逃さないのが一流の人物では?
・・・・・・
というのは理屈の上での話で、およそ現実的ではない。そもそも、「後で精査」なんてインチキもいいとこ。結果はバレバレなのだから、見えて当たりまえ。

だから、毛沢東を讃え、蒋介石を責めるのは180度的外れ。特に2度目のチャンスを台無しにした「西安事件」は、予知能力がない限り、予測はムリ。あるかどうかもわからない予知能力を前提に、責められてはたまったものではない。

ということで、真実は一つ ・・・

蒋介石は幸運の女神をつかむことができなかった。

■北京政府から南京政府へ

では、蒋介石が逃した「幸運の女神」とは?

まずは、1度目のチャンスから見ていこう。

1928年6月15日、蒋介石率いる北伐軍は北京に入城し、北京政府は崩壊した。その11日前、北京政府の支配者、張作霖も爆殺されている。さらに、張作霖の奉天軍閥を継いだ息子の張学良も、その年の暮れに、蒋介石に帰順する。つまり、この時点で、最大の敵「北京政府」と「奉天軍閥」は無力化されたわけだ。

ここで、生き残った勢力を整理しよう。

まずは、蒋介石率いる「南京政府」。「中国国民党」右派が中心で、首都は南京におかれた。ただし、「中国国民党」左派の汪兆銘(おうちょうめい)も、この時期には南京政府に合流している。また、アメリカ合衆国の支援をうけているのも強みだ。この時点では最強の勢力である。

つぎに、「軍閥」。清朝時代に地方を支配した軍組織で、北洋軍閥をはじめ、複数の派閥が存在した。ただし、この頃、主だった軍閥は蒋介石の北伐軍に合流している。問題は、寄せ集めがゆえの不協和音。とはいえ、蒋介石のカリスマをもってすれば、たばねるのは難しくはない。だから、軍閥は味方(のはずだった)。

最後に、「中国共産党」。先の「国共合作」解体後、急速に弱体化していた。そのため、中国国民党や外国勢力の息のかかった都市部や沿岸部を避け、農村部や山岳部で拠点を築いていた。すでに、逃げに入っているわけで、脅威とはいえない。

つまり ・・・

この時点で、蒋介石に手強いライバルは存在しなかった。むしろ、中国統一に一番近い位置にいたのである。もし、蒋介石が旧軍閥をうまく取り込み、全力で中国共産党にあたっていたら、早々に中国統一がなっていただろう。

ところが ・・・

その旧軍閥が大反乱を起こす。

■中原大戦

蒋介石は、北伐が完了すると、子飼いの「国民革命軍」を優遇し、旧軍閥を追い出しにかかった。1929年1月、軍の再編成を断行し、旧軍閥派の将兵をリストラしたのである。旧軍閥派にしてみれば、利用するだけしておいて、事が済んだらポイ捨てかよ!と次々に反乱を起こした。この中で、最も大きな反乱が1930年の「中原大戦」である。

この大戦は2年も続いたが、反乱軍の中には、馮玉祥(ふうぎょくしょう)もいた。馮玉祥は、北京政変(首都革命)の首謀者で、張作霖政権を成立させた大功労者である。もっとも、その後は、失脚したり、あっちにくっついたり、こっちにくっついたり ・・・ こういうタイプは最後が気になるところだが ・・・ 中国国民党の党員なのに、親分の蒋介石にとことん嫌われ、船の火災に巻きこまれて死んだ。よくわからん最期だが、波瀾万丈の人生だったようだ。

この中原大戦で、蒋介石はたいそう苦労したが、1930年9月、奉天軍閥の張学良が「南京政府」を支持してくれたおかげで、なんとか勝利することができた。一方、張学良も、7年後にその恩恵をうける。軍法会議にかけられ、死刑はまぬがれなかったのに、蒋介石の温情で命拾いしたのである。

こうして、旧軍閥問題を解決した蒋介石は、いよいよ、「国共内戦」に腰を入れる。「国共」とは、「民党」と「産党」の合成語で、中国国民党と中国共産党の最終決戦を意味する。

■国共内戦

中国共産党は、「国共合作」崩壊後、行き場を失い、農村部と山岳部に支配地区を築いた。これを「ソビエト区」という。とはいえ、自給自足なので半農半兵。それを反映してか、中国共産党の正規軍は「中国工農紅軍」、通称「紅軍」と呼ばれた。兵力はおよそ10万である。

1930年12月から1933年1月にかけて、蒋介石は4度、この「ソビエト区」を攻撃した。これを「囲剿戦」とよんでいる。「囲剿(いそう)」とは、悪者を囲いこんで滅ぼすという意味。普通に考えれば、兵数も装備も優る蒋介石の「(南京)政府軍」が負けるはずがない。ところが、予想に反し、敗北したのは政府軍だった。敗因は、
・ 蒋介石が紅軍をあなどったこと。
・ 装備の優劣が効かない山岳部のゲリラ戦に引き込まれたこと。
・ 兵を小出しにしたこと。

そこで、蒋介石は作戦を変えて、1934年4月から9月にかけて、5度目の「囲剿戦」を仕掛けた。じつは、その2年前の1931年、危機感をおぼえた中国共産党は、勢力を瑞金(ずいきん)に結集し、「中華ソビエト共和国政府」を樹立していた。そこに、蒋介石は100万の大軍を投入したのである。

この猛攻に、紅軍は耐えられなかった。1934年11月、紅軍は江西省・瑞金を放棄して、「長征」を開始する。

長征とは、1934年から1936年にかけて紅軍(共産党)が、政府軍(国民党)と交戦しながら、江西省・瑞金から陝西省・延安まで退却したことをいう。西に向かったので「大西遷」ともよばれる。距離にして1万2500km、東京-大阪間の22倍で、この長大な道のりを徒歩で移動したのである。一方、中国国民党はこれを「大流竄(だいりゅうざん)」とよんだ。「逃げ隠れしながらの大敗走」という意味である。

この敗走は過酷なものだった。食うにも事欠く有様で、コミンテルンの資金援助がなかったら早々に崩壊していただろう。にもかかわらず、
「農民からは針一本、糸一すじも取らない」
という略奪厳禁が徹底された。一見、つじつまがあわないが、人民裁判による地主の処刑と資産没収、農民からの「革命税」徴収によってまかなっていたのである。人民裁判とは、強制力を持つ者が「法によらず私的に断罪する」ことをいう。

結局、紅軍(共産党)が延安に着いたときは、10万人の正規軍が数千人にまで激減していた。ほぼ壊滅である。ところが、ここで、中国共産党は息を吹き返す。

なぜか?

日本の関東軍が蒋介石を攻めたてたから。

この時期、蒋介石は日本よりも中国共産党を危険な敵とみなしていた(その認識は正しかった)。そこで、両面作戦を避け、日本と宥和しながら、まず、中国共産党を討ち、その後に、日本を討とうと考えていたのである。つまり、国内を安定させてから外敵を討つ。これを「安内壌外(あんないじょうがい)」という。

蒋介石はアメリカの支援もあり、兵数も装備も紅軍を凌駕していた。だから、政府軍が紅軍を殲滅するのは時間の問題だった。つまり、南京政府が中国の統一政権になる!

ところが ・・・

1936年12月12日、中国の歴史を一変させる事件が起きる。西安事件である。

西安事件は、蒋介石政権に対する無血クーデターで、中国国民党の方針を一変させた。「反共」から「 抗日」へ、つまり、「安内壌外」が放棄されたのである。結果、中国国民党と中国共産党は一致団結(国共合作)して、日本を中国から駆逐することができた。だから、西安事件は中国の歴史を大きく変えた ・・・ というのは、半分正解、半分的外れ。なぜなら、変えたのは確かだが、変えられた内容が違うから。

じつは、日本が中国から駆逐されたのは、中国国民党と中国共産党が連携したからではない。日本がアメリカとの戦争に負けたから。国共合作が成ろうが成るまいが、日本は中国から撤退していたのである。それに、日本の撤退は中国の歴史にとってさほど重要ではない。

では、何が重要なのか?

「蒋介石が勝利する世界」が「毛沢東が勝利する世界」に差し替えられたこと ・・・

そんな大それた事をやったのはどこの誰?

奉天軍閥の張学良。

■張学良

張作霖爆殺事件で、張作霖が殺害され、息子の張学良が奉天軍閥と満州を引き継いだ。ところが、その直後、蒋介石率いる北伐軍が北京を制圧する。ここで、北京の蒋介石と奉天の張学良の間で緊張が走ったが ・・・ まともに戦っては、張学良に勝ち目はない。

そこで、張学良は蒋介石と取引した。満州に介入しないことを条件に、南京政府に服属したのである。それを聞いて仰天したのが日本だった。満州全土の制圧をもくろんでいるのに、満州の権益(関東州と満鉄)さえ失いかねない。そこで、張学良に日本側につくよう必死にくどいたが、キッパリ断られた。父親を日本軍に爆殺され、恨み骨髄、それを紛らわすために後にアヘン中毒になったくらいだから、当然だろう。

その後、南京政府の内戦「中原大戦」のドサクサに紛れ、張学良は満州西方の河北省を制圧した。河北省は、北京を包含する重要な地域である。こうして、張学良は、中国北部の広大な地域を手に入れた。これ以降、張学良の「奉天軍閥」は「東北軍閥」にグレードアップした。

ここで、この時点(1936年)の「中国勢力ベスト3」をあげると、
・ 第1位:中国国民党(蒋介石)
・ 第2位:東北軍閥(張学良)
・ 第3位:中国共産党(毛沢東)
※毛沢東は長征中の1935年1月に開かれた「遵義会議」で、主導権を握っている。

第1位と第3位は知名度抜群だが、第2位は日本ではなじみがない。とはいえ、第2位なのだから、張学良(東北軍閥)は毛沢東(中国共産党)より有望だったことになる。少なくともこの時点では。では、そんな有望な人物がどんな経緯で歴史からフェードアウトしたのだろう。

1934年、ヨーロッパ遊学から帰国した張学良は、蒋介石に紅軍討伐を命じられた。ポストは河南省・湖北省・安徽省の方面軍副司令官である。このとき、張学良が率いたのは「東北軍」だった。東北軍は、南京政府に所属する政府軍だが、「東北軍閥」が中心なのでこうよばれた。ちなみに、南京政府の主力は「中央軍」で、蒋介石が鍛え上げた「国民革命軍」で編成されていた。

張学良は陰謀や寝技はお手のものだったが、戦さの方はサッパリだった。紅軍に連戦連敗、悲しいほど勝てない。その後、西安に進軍したが、師団長が捕虜になるという大失態をしでかす。そんなこんなで、張学良は紅軍と戦うのが嫌になっていた。

一方、西北軍閥出身の楊虎城(ようこじょう)も、政府軍(西北軍)を率いていたが、紅軍と戦うことに疑問を感じていた。中国人同士で戦ってどうする、本当の敵は、日本ではないか?つまり、反共より抗日!

そこでこの2人は共謀して、驚くべき陰謀を企てる。中国の歴史を一変させた西安事件である。

《つづく》

by R.B

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