BeneDict 地球歴史館

BeneDict 地球歴史館
menu

週刊スモールトーク (第193話) 中国共産党の歴史(5)~五四運動と北京政変~

カテゴリ : 戦争歴史

2013.02.10

中国共産党の歴史(5)~五四運動と北京政変~

■ヴェルサイユ条約

1918年11月、4年4ヶ月の年月と2000万人の命を呑み込んだ第一次世界大戦が終わった。翌年1月、戦後処理を決めるため、パリ講和会議が開かれ、6月28日、ヴェルサイユ条約が調印された。

敗戦国のドイツは会議にはよばれず、結果だけが伝えられたが、その内容は驚くべきものだった・・・ドイツは、領土を削られ、軍備は制限され、払える見込みのない巨額の損害賠償金まで請求された。度を超す制裁に、連合国側のイギリスでさえ躊躇したが、ドイツに復讐を誓うフランスはいきりたっていた。

その結果・・・歴史的なハイパーインフレと、30%を超える大量失業がドイツを襲った。薄暗い町の片隅で人肉缶詰が売買され、あてにしていた年金が紙切れになった老人が次々と自殺した。夢も希望もない、いや今日も生きられない・・・そんな極限状況で登場したのがアドルフ・ヒトラーだった。

ヒトラーは、ヴェルサイユ条約を破棄し、失業をゼロにすると宣言した。さらに、裕福な暮らしをするユダヤ人をドイツ国民の敵とあおり、民族主義を鼓舞した。1934年、目の上のたんこぶのヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは首相と大統領を独り占めにし、「総統(フューラー)」と名乗った。そして、その翌年、国民との約束を果たす。ヴェルサイユ条約の軍備制限条項を破棄し、再軍備宣言したのである。あとは戦争をふっかけるだけ。

そして・・・1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻した。第二次世界大戦が始まったのである。戦車と航空機を連携させた画期的な戦術「電撃戦」で、ドイツ軍はヨーロッパに文字通り「電撃」をくらわせた。

1940年、東方と北方の憂いを払拭したドイツ軍は西方に侵攻する。軍を3つに分け、西方全域に同時侵攻するのである。A軍集団はアルデンヌの森へ、B軍集団はベルギーとオランダへ、C軍集団は難攻不落のフランスのマジノ要塞へ。この中で、最も重要な任務を負ったのはA軍集団だった。A軍集団は、全軍の70%が機甲師団で編成されていた。機甲師団とは、戦車を中心に、歩兵も装甲車両で機械化された「高速&大打撃力」部隊である。じつは、アルデンヌの森は戦車が通過できないと考えられていた。そのため、フランス軍が手薄だったのである。

1940年5月10日、ドイツ軍は西部戦線に大攻勢をかけた。A軍集団はアルデンヌの森を難なく突破し、マジノ要塞を迂回し、フランス軍を大混乱に陥れた。6月14日、ドイツ軍はパリに無血入城し、その1週間後、フランスは降伏した。つまり、こういうこと。フランスの憎悪が、新たにドイツの憎悪を生み出し、それが何倍にも増幅され、フランスに降りかかったのである。

我々は、憎悪の連鎖が第二次世界大戦の原因になったことを学ぶべきである。この大戦で数千万人、つまり、1億人の半分が死んだことも。ところが・・・世界には、昔の恨みを昨日のことのように思い返し、忘れない、許さないと復唱する人達がいる。言ってみれば、アメリカが真珠湾攻撃を、日本が広島・長崎の原爆投下を憎み続けるようなもの。もちろん今は、日本人もアメリカ人もそんなことはとうに忘れ、それなりに仲良くやっている。だから・・・どんな腹立たしい過去、辛い過去があっても、現在と未来を共に生きるため、歩み寄る・・・難しいことは何もない、思い一つなのに。

ところが、政府みずから憎悪をあおる国まである。それも一つや二つの国ではない。ほんとうにバカだよ、人間は。このままじゃ、いつか核戦争をやらかす。

■五四運動

ところで、第一次世界大戦はヨーロッパの戦争だったが、ヴェルサイユ条約は遠くアジアにまで影響をおよぼした。戦勝国となった日本が敗戦国のドイツから山東省の権益を引き継いだからである。ところが、地図をみれば明らかだが、元々、山東省は中国の領土である。

ということで、1919年5月4日、北京で反日デモが発生した。その後、デモ隊は暴徒化し、おきまりの襲撃、放火、暴行へ。時の中国政府「北京政府」は事態を収拾しようと、暴徒の逮捕に乗り出したが、火に油を注ぐようなもの。暴動は全国に拡大し、手がつけられなくなった。結局、北京政府は、「ヴェルサイユ条約の調印を拒否する」と発表せざるをえなかった。ちなみに、このデモは5月4日に始まったので「五四運動」とよばれている。

この時代、中国の革命家に影響を与えた事件は2つあった。「五四運動」と「ロシア革命」である。五四運動は、帝国主義(侵略主義)、つまり、外圧に対し、民衆の力が有効であることを証明した。また、ロシア革命は政権奪取に民衆の力が有効であることを証明した。つまり、革命には「民衆の力」は欠かせない。でも、革命というのは、本来、「民衆」が主役なのでは?たしかにそうなのだが、この時代、中国でこの事実に気づいていたのは毛沢東だけだった。孫文は「インテリ」が民衆を導くのが革命の王道と信じていたし、蒋介石も革命を成功させるのは「強力な軍隊」だと考えていた。

しかし・・・五四運動で孫文は目が覚めた。当時、孫文は「中華革命党」を率いていたが、知識エリートの政治同好会のようなものだった。しかも、俺たちが指導してやるぞ、的な上から目線。だから、何をやっても鳴かず飛ばずで、「革命いまだ成らず」が延々と続いていた。ところが、五四運動で、民衆パワーが政府を屈服させた。孫文にとっては大衝撃で、初めて「革命の主役は民衆」だと気づいたのである。

では、民衆が主役として、何をどうすればいいのか?孫文が注目したのはレーニン率いる「ボリシェヴィキ」だった。ボリシェヴィキは、ロシア社会民主労働党から分派した左派で、暴力と中央集権で、ロシア革命(十月革命)を成功させていた。それゆえ、孫文には「革命成功の方程式」にみえたのである。ところが、孫文の広東政府は「暴力=軍事」が脆弱だった。そこで、地方軍閥の雲南派と広西派を抱き込んだまではいいが、逆にこの2派に振り回されていた。

とくに、広西派の首領・陸栄廷(りくえいてい)は、権力欲が強く、広東政府の軍事代表という要職にあった。陸栄廷は生まれが貧しく、長らく盗賊で食いつないでいたが、清朝の兵卒を経て、広西派の頭領にのしあがった。張作霖同様、たたき上げの苦労人で、込み入ったイデオロギーに興味はない。「弱肉強食」一辺倒の体育会系である。そもそも、袁世凱が存命中は、孫文と敵対していたのだから、変わり身の早さも天下一品!そんな陸栄廷が広東政府についたのは、もちろん、孫文の革命思想に感服したわけではない。陸栄廷の広西派が北京政府と対立していたから。敵の敵は味方というわけだ。

一方、孫文も、陸栄廷を軍事の穴埋めぐらいにしか考えていなかった。だから、破局は時間の問題。ところが、孫文直下にはロクな軍人がいない。孫文に絶対忠誠を誓った陳其美(ちんきび)も、3年前に、北洋軍閥が放った刺客に暗殺されている。そこで、孫文は陳其美からもらった書簡を思い出した。そこにはこう書かれていた。「私の後継者は蒋介石しかいない」陳其美は早くから、蒋介石の軍人としての資質を見抜いていた。

一方、蒋介石も陳其美を心から尊敬し、二人は義兄弟のちぎりまでかわしていたのである。1918年3月、孫文は蒋介石を招へいし、広東軍の作戦参謀主任に抜擢した。その時、蒋介石31歳。まだ海の物とも山の物ともつかない若者だった。ところがその後、蒋介石は北京政府軍と戦い、みごとな采配を見せた。陳其美の予言は的中したのである。

1919年10月10日、孫文は「中華革命党」を「中国国民党」に改組した。これが現在の台湾政府の「中国国民党」である。後に台湾政府を創設する蒋介石もこのとき党員になっている。さらに、孫文はロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にならって「国民革命軍」を創設し、指揮官を養成する軍官学校も設立した。いよいよ、自前の軍隊を養成しようというのである。

そして・・・2年後の1921年7月、「中国国民党」の宿命のライバル「中国共産党」が結成された。じつは、この「中国共産党」を指導したのもコミンテルンである。ちなみに、コミンテルンとは、「世界中に共産主義を普及させよう!」を後押しする国際組織である。つまり、後に国共内戦を戦う「中国国民党」と「中国共産党」は、元を正せば同じ「共産主義」だったのである。ところが、中国共産党が結成されると、中国国民党は「反共産主義」を宣言し、中国共産党と一線を引いた。中国国民党が第一にかかげるのは「民族主義」で、主体は「民族」にある。ところが、共産主義は何はさておき「イデオロギー」。だから、相容れないのである。

■北洋軍閥の戦争

ここで、この頃の中国の勢力図をおさらいしよう。まず、中国共産党だが、毛沢東はまだ実権を握っておらず、組織も脆弱で、政権から最も遠かった。一方、孫文率いる中国国民党は、広州に広東政府をかまえ、軍備もすすみ、有力な勢力になりつつあった。とはいえ、この時点で、最も有力だったのは北京政府である。

ところが、北京政府を牛耳る北洋軍閥は、安徽派と直隷派に分裂し、主導権争いにあけくれていた。1920年、安直戦争が起こり、安徽派は直隷派に敗れ、安徽派の頭領の段祺瑞は失脚した。ただし、死んだわけではない。下野して、チャンスをうかがっていたのである。

1922年4月、段祺瑞は奉天派の張作霖と同盟し、直隷派にリベンジする。これが、第一次奉直戦争である。ところが、段祺瑞は再び敗北し、野に下った。2連勝した直隷派は気をよくして、これを機に、北京政府の主導権を完全に握ろうとした。というのも、この時の大総統は無派閥の徐世昌(じょせいしょう)だったから。目ざわりな安徽派を放逐した今、大総統も直隷派から出せば、北京政府は名実ともに直隷派のものになる。

この頃、直隷派の頭領は曹コンだったが、実権はやり手の「呉佩孚(ごはいふ)」に移っていた。1923年10月、呉佩孚は徐世昌を大総統から引きずり下ろし、空席となった大総統職を曹コンが強奪した。というのも、一応選挙はしたものの、ワイロと脅迫で決まったようなものだったから。こうして、直隷派は北京政府を完全に支配した(はずだった)。一方、敗れた奉天派の張作霖は、満州にもどって、「東三省(満州)」の独立を宣言した。そして、日本の機嫌をとって、時間を稼ぎ、軍備増強に精を出した。その間、外国人も分けへだてなく採用し、人種偏見のない太っ腹のところをみせた。さすがは、張作霖、転んでもただでは起きない。

ところで・・・ここで、奇妙な事実に気づかないだろうか?

何度戦争をやっても、決着がつかないこと。たぶん、戦争が不徹底なのだ。たとえば、安直戦争や第一次奉直戦争の期間は10日前後。戦争というにはあまりに短い。一戦して勝敗がついたら、おしまい、「殲滅」という概念がないのだ。だから、段祺瑞のように何度負けても、はい上がってくる。

というわけで、1924年9月、第二次奉直戦争が勃発した。第一次奉直戦争同様、安徽派と奉天派が同盟し、直隷派と戦った。まず、奉天派の張作霖が15万の大軍を召集し、直隷派の都、北京を目指した。一方、直隷派も呉佩孚が総司令官となり、20万の大軍を率いて応戦した。あいもかわらず、不毛の戦争・・・ところが、ここでサプライズ。なんと、首都の北京でクーデターが起こったのである。首謀者は、直隷派の馮玉祥(ふうぎょくしょう)。

■北京政変(首都革命)

馮玉祥は親がアヘン中毒で、小さい頃は苦労したが、軍に入って頭角を現した。この頃、すでに一軍を率いる将軍で、大総統の曹コンに命じられ、奉天軍を討つべく北京を出発するのだが・・・途中で軍を引き返し、北京に戻り、北京政府を制圧し、大総統の曹コンを監禁したのである。さらに、馮玉祥は国民軍を創設し、自ら最高司令官になり、「西北派」を名乗った。地方軍閥がまた一つ増えたわけだ。このクーデターは、「北京政変」、または「首都革命」とよばれている。

これと良く似た事件が日本にもある。言わずとしれた本能寺の変である。羽柴秀吉の後詰めを命じられた明智光秀が、行くふりをして、途中できびすを返し、京で信長を討ったクーデターだ。もっとも、馮玉祥は光秀よりずっと長生きしたのだが。ところで、なぜこんなクーデターが起こったのか?じつは、馮玉祥は自分が属する直隷派に嫌気がさしていた。先の第一次奉直戦争で、馮玉祥は河南省の制圧に成功し、河南督軍に任ぜられた。ところが、呉佩孚の横やりで罷免されたのである。だから、馮玉祥は呉佩孚が憎くてたまらない。

さらに・・・第一次奉直戦争の後、直隷派の首領の曹コンがワイロと脅迫で大総統になったことも気に入らなかった。ワイロで大総統なんてサイテーと思ったのか、ワイロはいいけど曹コンは許せん、と思ったかはわからないが、とにかく、直隷派が大嫌い。というわけで、馮玉祥は、直隷派の天敵「奉天派&安徽派」と密約を交わしていたのである。

その密約というのが・・・「奉天派&安徽派」軍が挙兵し、それを討つべく直隷軍が出払ったところで、馮玉祥が北京を制圧する・・・うまくいかないはずがない。クーデターが成功すると、馮玉祥は広東政府の孫文を北京に招へいした。革命派の象徴「孫文」を立てて、革命を成功させようというのである。ところが、孫文は北京に入った後、1925年3月12日、病死する。最後の言葉は、「革命いまだ成ならず」それはそうなのだが、なんともベタな・・・ところが、後に歴史的名言になるのだから、世の中わからないものだ。

孫文は知名度は高いが、あっち行ったり、こっち行ったり、いろいろやっているのに、「成し遂げた」感がない。実際、蒋介石や毛沢東のような目に見える実績がない。鉄の意志と冷酷さがないから、最後の一手が詰めないのだ。もちろん、軍人でないことも大きなハンディだっただろう。革命の首謀者は「大佐」と相場は決まっているのだから。ところで、20万の直隷派軍を率いた呉佩孚はどうしたのだろう?張作霖の奉天軍と馮玉祥の国民軍に挟撃され敗北、長江に逃亡した。

■張作霖の天下

こうして、北京政府の実権は奉天派の張作霖が掌握した。張作霖と馮玉祥は、キレ者の段祺瑞を「臨時執政」に就かせ、新政権を樹立する。臨時執政とは、大総統と総理を兼ねる大権である。ところが、張作霖と馮玉祥の蜜月も長く続かなかった。そこに目を付けたのが長江に逃げた呉佩孚である。張作霖としめしあわせ、馮玉祥を討つべく、北京に進軍を開始する。馮玉祥あやうし。ところが・・・この頃、もう一つの政府「広東政府」に異変が起こっていた。孫文の意思を継いだ蒋介石が実権を握ったのである。

生前、孫文は「北伐」を夢見ていた。大軍団を編成し、地方軍閥を蹴散らしながら、北上し、最終的に北京政府を打倒する。そして、中国国民党による中国統一を成し遂げる・・・これが「北伐」で、その意志を継いだのが蒋介石だった。蒋介石は、「国民革命軍」の総司令官となり、1926年7月1日、北伐を開始した。動員された兵力は10万、しかも、蒋介石みずから訓練した精鋭である。呉佩孚の軍は、たちまち粉砕された。呉佩孚にしてみれば青天の霹靂、思いもよらぬ結末だった。

一方、馮玉祥は呉佩孚が消えてくれたので、これを機に奉天派の張作霖を討つことにした。まず、奉天派内で張作霖と対立する「郭松齢(かくしょうれい)」を味方につけた。つぎに、郭松齢がエリート文官「林長民(りんちょうみん)」を招へいし、内政をかためる。最後に、張作霖を挟撃するというわけだ。張作霖あやうし・・・ところが、ここで、新手が現れる。大日本帝国の関東軍である。関東軍は林長民の背後に、ソ連と中国共産党がいることを見抜き、張作霖の支援を決めたのである。関東軍の強力な支援をうけた張作霖は、郭松齢と林長民を蹴散らし、1926年12月、北京に入城する。そして、大元帥に就任し、「自分こそが中華民国の主権者である」と高らかに宣言した。ドンデン返しにつぐ、大ドンデン返し。馬賊上がりの張作霖が、敵と味方をとっかえひっかえ、北洋軍閥の宿敵を次々となぎ倒し、とうとう、中華民国のトップに躍り出たのである。このままいけば、中国を大統一するのは張作霖?

ところが・・・その4年後、張作霖は暗殺される。首謀者はなんと関東軍。一寸先は闇の歴史が、まだまだつづく・・・

《つづく》

by R.B

関連情報