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週刊スモールトーク (第192話) 中国共産党の歴史(4)~張作霖と北洋軍閥~

カテゴリ : 戦争歴史

2013.02.03

中国共産党の歴史(4)~張作霖と北洋軍閥~

■北洋軍閥大分裂

世の中、何が起こるかわかったもんじゃない。袁世凱亡き後の中華民国の跡目騒動である。次の大総統は有力派閥から出ると思いきや、どの派閥にも属さない、実力もない、実績もない、ないないづくしの「黎元洪(れいげんこう)」が選ばれたのだから。

しかも、その理由というのが ・・・ 派閥にシコリを残さないため。

どこかで聞いたような話だが、もちろん日本ではない。一方、黎元洪にしてみれば「棚からぼた餅」だが、こういうのは長く続かないもの。そもそも、当時の中国の統一政府「北京政府」を支配していたのは「北洋軍閥」で、黎元洪は「傀儡(お飾り)」にすぎないのだから。

ところが ・・・

黎元洪は分をわきまえず、実力者「段祺瑞(だんきずい)」と事を構えたものだから、話はややこしくなった。北京政府内で権力闘争が起こったのである。これを「府院の争い」とよんでいる。「府院」の「」は黎元洪が仕切る「大統領」、「」は段祺瑞が仕切る「国務」からきている。

とはいえ、黎元洪はないないづくしの凡人で、「大総統」以外とりえがない。そこで、「大総統」権限で、段祺瑞を一刀両断にしたものの(解任)、新手のクーデターが勃発、それを制圧するために、段祺瑞を復職させる始末。一体何をやっているんだか ・・・ さすがの黎元洪も自信喪失、1917年7月に総辞職した。

その後、段祺瑞が北京政府を掌握したかというと、そうでもない。それどころか、母体の北洋軍閥が大分裂したのである。以下、その主な派閥 ・・・

派閥 首領 支配地
①直隷派
(ちょくれいは)
馮国璋
(ふうこくしょう)
河北省
②安徽派
(あんきは)
段祺瑞
(だんきずい)
南東部
③奉天派
(ほうてんは)
張作霖
(ちょうさくりん)
東北部

その後、この3派閥が中心になり、地方軍閥も巻き込み、くんずほぐれつ、凄まじい内戦が始まった。

■2つの政府

一方、この混乱を見た孫文は、我が時を得たりと思ったのか、嫌気がさしたのか分からないが、北京政府から離脱して、広州に移った。そこで、1917年7月に「広東政府」を樹立する。

この頃、孫文は「中華革命党」を率いていたが、政治結社の域を出ず、軍事力は貧弱だった。そこで、孫文は、地方軍閥の雲南派と広西派を広東政府側に抱き込み、政府としての体裁を整えた。結果、中華民国(中国)は、北京政府と広東政府の2つの政府に分裂したのである。この争いを、護法戦争とよんでいる。

「護法」は、「法を護る(まもる)」からきているが、ここでいう法とは「中華民国臨時約法」のことである。「辛亥革命」のときに成立した法律で、キモは議会制民主主義。そこにこだわる広東政府と、こだわらない北京政府で戦争が起こったのである。

ところで、広東政府は政府なのに、自前の軍をもたない?一見、奇異にみえるが、じつは、北京政府も事情は同じ。北京政府の「北洋軍」は政府軍ではなく、北洋軍閥の私軍にすぎない。たまたま、北洋軍閥が北京政府を仕切っているから、「北洋軍=政府軍」にみえるだけ。

そして、これは現在の中国にもあてはまる。中国人民解放軍は中国の政府軍(国軍)ではない。中国共産党の私軍(党軍)にすぎない。たまたま、中国が一党独裁なので、「中国人民解放軍=政府軍(国軍)」にみえるだけ。

これを日本にあてはめるとどうなるか?自民党、民主党が、それぞれ自前の軍隊を保有し、各軍は党首の命令にだけ従う。つまり、国軍は存在しない。それでは、政策が対立するたびに内戦が起こるのでは?まぁ、清朝滅亡後の中国の歴史を見る限り、そうなるだろう。

ということで、その中国史に話をもどそう。

孫文は広東政府を立ち上げたが、統一政府を自認する北京政府にしてみればとんでもない話である。さっそく、北京政府内で広東政府の対応が検討されたが、内部分裂しているので話がまとまらない。

その頃、北京政府には2人の実力者がいた。

・ 大総統代理(国家元首):馮国璋(ふうこうくしょう)

・ 国務総理 (総理大臣):段祺瑞(だんきずい)

2人とも、北洋軍閥の実力者だが、簡単にプロフィールすると、

・ 馮国璋:直隷派の頭領。北洋軍閥ににらみをきかせる重鎮

・ 段祺瑞:安徽派の頭領。ヨーロッパ帰りのエリート軍政官

この2人が広東政府の扱いをめぐって対立したのである。具体的には、

・ 馮国璋:「まずは話し合おう」

・ 段祺瑞:「武力制圧あるのみ」

分かりやすい構図だが、力が均衡しているので、決着がつかない。そこで、段祺瑞が目をつけたのが、北洋軍閥・奉天派の張作霖だった。

■張作霖

張作霖は、良く言えば「出来物」、悪く言えば「くせ者」である。彼が生まれ育った「東三省(とうさんしょう)」は、そんな彼の才能を開花させるにはうってつけだった。

東三省は、現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省を包む地域で、中国東北部とよばれている。かつて、日本では「満州」とよばれていた。清朝を建国した女真族の発祥の地で、この時代、清朝から都督(地方長官)が派遣されていた。

ところが、張作霖が物心ついた頃には、清朝のおさえがきかなくなり、非合法的な組織が多数存在した。そんな不安な時代を、張作霖は水を得たよう魚のようにルンルン生き抜いた。馬賊の頭目になり、朝鮮人参とアヘンの密売で一儲けし、土地の顔役にのし上がったのである。

20世紀初頭、日本とロシアが朝鮮の覇権をめぐって対立し、1904年に日露戦争が勃発した。この戦争で、戦場になったのが東三省である。ふつうはここで落ち込むのだが、張作霖は違う。ロシアのスパイになり、地の利を生かして大活躍したのである。ところが、スパイ活動中に日本軍に捕まってしまう。

この時代、スパイが捕まれば死刑、と相場は決まっているのだが、何をどうしたのかわからないが、張作霖は助命されたあげく、今度は日本軍のスパイに転職する。変わり身の早さは天下一品!?でも、これだけでは説明がつかない。

張作霖の人生をみると、小難しいイデオロギーのたぐいは皆無で、健全な支配欲に支配されている。このあたりが、日本軍に助命された理由かもしれない。
「とんでもない奴だが、見どころがある。あとで役に立つかも ・・・」

1905年、日露戦争が終わると、危機感を覚えた清朝は、”ゆるゆる”の東三省をテコ入れすることにした。派遣されたのは、清朝のエリート階級「八旗」出身の趙爾巽(ちょうじそん)である。趙爾巽は切れ者だが、柔軟な思考ができる現実主義者だった。非合法組織の「馬賊」を力で抑えつけようとはせず、帰順すれば政府軍にすると約束したのである。

超現実主義者の張作霖はすぐこの話にのった。それどころか、他の馬賊にも帰順するよう働きかけた。そうすることで、清朝と馬賊の調停役を演じ、東三省の顔役になろうとしたのである。

1907年、清朝の軍機大臣に昇進した袁世凱は、東三省を私的に支配しようと目論んだ。まず、腹心の徐世昌(じょせいしょう)を都督として送り込み、北洋軍を常駐させたのである。腹黒い張作霖は、この時も従順に振る舞い、治安の維持に協力した。こうして、張作霖は清朝の信頼を勝ち得たが、腹の底では、北洋軍を自軍に組み入れ、東三省を丸ごと乗っ取るつもりだった。

1911年10月、辛亥革命が勃発する。このとき、東三省の都督はやり手の趙爾巽(ちょうじそん)に変わっていたが、それが清朝に幸いした。趙爾巽が革命派の鎮圧に成功したのである。もちろん、機を見るに敏な張作霖も、清朝側について、革命派をバンバン殺害した。翌年、清朝が滅び、中華民国が成立したが、東三省では、趙爾巽がそのまま都督に居座った。このときは、張作霖も功績が認められ、陸軍師団長に昇進している。

その後、孫文は中華民国を建国したが、その大総統職を譲られた袁世凱は側近の段芝貴(だんしき)を東三省の都督として派遣した。ところが、段芝貴は実力もないし、欲も覇気もない。それに、この地の出ではないので、土地のことがわからない。まさに、ないないづくし。一方の張作霖は、土地の事情に精通し、馬賊上がりの血の気の多い連中にもおさえがきく。張作霖が東三省を支配するのは時間の問題だった。

そんな張作霖を警戒したのが袁世凱である。袁世凱は私利私欲にひた走る日和見主義者で、清朝の総理大臣のとき、主(あるじ)の宣統帝を退位させた経歴をもつ。天下の逆臣ここにありだが、ある意味、張作霖のお仲間。というわけで、張作霖の腹の中はお見通しだった。

ところが、1916年、袁世凱は中華帝国の建国に失敗し、病死する。張作霖にしてみれば、目の上のたんこぶが死んだわけで、もう怖いものはない。さっそく、段芝貴を追い出し、奉天省(現在の遼寧省)を乗っ取った。

さて、これで張作霖の話はおしまい。北京政府の派閥抗争に話をもどそう。孫文が広州で広東政府を樹立したので、北京政府はどう対処するべきか?直隷派の馮国璋は「話し合いで」、安徽派の段祺瑞は「武力制圧せよ」、でもめた件である。

■安直戦争(安徽派Vs.直隷派)

先の”怪物”張作霖と組んだのが強硬派の段祺瑞(安徽派)だった。段祺瑞は張作霖の奉天軍の助けを得て、武力征伐を強行、さらに、1918年、国会の多数派工作に成功し、馮国璋(直隷派)を大総統から引きずりおろした。

つまり、この時点で、馬賊あがりの張作霖が北京政府に介入し、中国の歴史に影響を及ぼし始めていたのである。

ところで、次の大総統は勝った段祺瑞?

ノー、後を継いだのは徐世昌(じょせいしょう)である。

徐世昌は、袁世凱の旧知の友で、北洋軍閥の実力者だった。ところが、かつて清朝の重臣だったことに引け目を感じ、北京政府の表舞台に立つことを避けていた。北京政府は清朝を倒した革命政権だからである。実際、この時も、徐世昌は北京を離れ、政権とは一線を引いていた。無派閥で権力欲がなくて良い人 ・・・ 収拾困難な「権力闘争」の調整にはうってつけである。徐世昌が大総統に推された理由はこのあたりにあるのだろう。

とはいえ、この事件があってからは、安徽派と直隷派は鋭く対立するようになった。そんな中、1919年、直隷派の首領「馮国璋」が病死する。跡を継いだのは曹コンである。

曹コンは北洋軍閥の軍人で、徐世昌とは真逆で分かりやすい人物である。実力者の袁世凱が存命中は、袁世凱にヨイショで出世。さらに、北京政府の大総統選に出馬すると、なりふりかまわず議員を買収、それがダメなら脅迫した。そのかいあって当選したものの、「ワイロ総統」と大ぴらに陰口?をたたかれた。政治家とはいえ、あまりに節操がない。それがたたって、後に、クーデターをおこされ、失脚する。

中華民国の統一政府「北京政府」はおおむねこんなものだった。もちろん、張作霖がこのチャンスを見逃すはずがない。世間の目が北京政府にクギ付けになっているスキに、奉天省(現遼寧省)にくわえ、吉林省、黒竜江省にまで触手を伸ばしたのである。張作霖、恐るべし ・・・

こうして、張作霖は、1919年頃には東三省(満州)全土を支配下におき、事実上の「満州王」となった。彼の軍閥は、本拠地が奉天(現在の瀋陽)にあったので、「奉天派」とよばれた。

さて、直隷派を引き継いだ曹コンは、再び、安徽派と争った。口ゲンカで決着がつくはずもなく、1920年7月には、武力衝突に発展した。これが「安直戦争」である。結果、安徽派は大敗し、首領の段祺瑞は失脚した。節操のない方(曹コン)が勝利したのである。

それにしても、この時代の中国の歴史はせちがらい。

北京政府の派閥争い、それに乗じて満州で一大勢力を築いた張作霖。その”怪物”張作霖も、群雄割拠する軍閥も、北京政府も一網打尽にしようと目論む孫文・・・ ところが、ここで火に油を注ぐような勢力が登場する。大日本帝国である。こうして、内圧と外圧で爆発寸前の中国革命は、あらたな局面をむかえるのである。

《つづく》

by R.B

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