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週刊スモールトーク (第191話) 中国共産党の歴史(3)~中華民国3つの革命~

カテゴリ : 戦争歴史

2013.01.20

中国共産党の歴史(3)~中華民国3つの革命~

■袁世凱を継ぐ者

1916年3月22日、袁世凱が苦心の末でっちあげた「中華帝国」は、わずか三ヶ月で崩壊した。「ナポレオンの百日天下」ならぬ「袁世凱の90日天下」・・・あのナポレオンの記録を更新する大記録で、鼻高々と思いきや、袁世凱は意気消沈、三ヶ月後に病死してしまう。こうして、中国の統一政府は、「北京政府」に回帰した。

さて、問題は「北京政府」の大総統、つまり、誰が中国の支配者になるのか?

元々、北京政府の実権は「北洋軍閥」が握っていたので、
「北洋軍閥の実力者&袁世凱の側近」
なら丸くおさまるはず。そして、この条件を満たす候補は3人いた。

まず、袁世凱の旧知の友であり、袁世凱に次ぐ地位にあった「徐世昌(じょせいしょう)」。ところが、徐世昌は官吏出身の文官だった。北洋軍閥は地方軍とはいえ、れっきとした軍組織である。銃剣で切った張ったの軍人が、紙と鉛筆の文官に忠誠を誓うとは思えない。調整役のナンバー2、3がせいぜいだろう。

つぎに、「馮国璋(ふうこくしょう)」。馮国璋は袁世凱の側近で、軍の指揮官だった。それに、辛亥革命では、革命軍の鎮圧にそれなりの功績もある。3人の中では一番年長だし、消去法なら、一番の候補だ。

そして、最後が「段祺瑞(だんきずい)」。三人の中で、一番若く、ヨーロッパ留学の経験をもつエリート軍人である。しかも、袁世凱の側近中の側近。袁世凱が中華民国の大総統に就任したときは、陸軍総長を勤めた。くわえて、聡明で胆力もある。つまり、北洋軍閥随一の実力者。実際、その後の中国史にたびたび登場し、いいところまでいくのだが、最後はいつも大コケ。執着心に欠いて、ここ一番での踏ん張りが効かないからだろう。結局、孫文、蒋介石、毛沢東のように歴史に名を残すことはできなかった。

というわけで、次の大総統は、無難に馮国璋か、実力の段祺瑞か?

ところが、大総統に決まったのは・・・「黎元洪」だった。

黎元洪(れいげんこう)?

黎元洪は、一応軍人なのだが、北洋軍閥ではなく、袁世凱の側近でもない。しかも、軍歴が変わっている、というか、怪しい。元々、清朝の軍人なのに、敵対する革命軍に寝返っているのだ。ただ、あからさまな裏切りというわけではない。戦いで捕虜になり、説得されて、革命軍の大将になったのだという。よくわからん話だが、何か事情があったのだろう。この頃の革命軍は弱く、コロコロ負けているので、優秀な指揮官が欲しかったのかもしれない。

ここで、時間を少しさかのぼってみよう。黎元洪・大総統の煮え切らない人生と、キーマンの孫文の活動を確認するために。

■中華民国の革命3連発

革命軍にそそのかされ、渋々寝返った黎元洪だったが、軍を率いて、かけづりまわっているうちに、すっかりその気になった。「革命」にはまったのである。ノリにノッた黎元洪は、革命軍の人材不足も幸いし、革命軍の最高司令官にまで上りつめる。このままいけば、革命派の総帥、いや、中国の支配者も夢ではない。

ところが・・・

1912年1月1日、革命派が南京で中華民国(南京政府)を建国すると、臨時大総統に就任したのは、黎元洪ではなく、孫文だった。ちなみに、黎元洪は副大総統。黎元洪はこう思ったに違いない。

「革命軍を率いて、革命を戦ってきたのはこのオレだ。それを、舌先三寸、アメリカ帰りのチャラい孫文が大総統?納得できん!」

気持ちは分からないでもないが、この頃、革命派は分裂寸前で、混乱を収拾できるのは孫文しかいなかった。孫文は私心がなく人望が厚かったからである。それは歴史が証明している。孫文は、中華民国の臨時大総統になった3週間後、清朝の総理大臣・袁世凱にこんな提案をしている。

「(袁世凱が)清朝の皇帝を退位させてくれたら、大総統の地位を袁世凱に譲る」

大義のためなら、私欲を捨てる、正しいとわかっていても、誰かれできることではない。一方、私欲しかない袁世凱は、願ったりかなったり。結局、袁世凱と孫文の密約は成立し、1912年2月12日、宣統帝は退位した。清朝が滅んだのである。270年も中国を支配し、全盛期には古代ローマ帝国と比肩する大帝国にしては、あっけない最期だった。

こうして、袁世凱の北京政府(北洋軍閥)と、孫文の南京政府(旧・中華民国)が合体し、新しい「中華民国」が成立した。中国が再統一されたのである。そして、その頂点に立ったのが臨時大総統の袁世凱だった。これを、「第一革命」とよんでいる。

ところで、不満タラタラの黎元洪は?

副大総統、つまり、袁世凱に次ぐナンバー2をキープ。

袁世凱にしてみれば、たとえ弱兵でも、革命軍の親分(黎元洪)の機嫌を取っておいても損はないと考えたのだろう。

ところが・・・

新生「中華民国」はすぐに分裂を始める。「袁世凱(北京政府)Vs孫文(南京政府)」は想定内として、「孫文(南京政府)」まで2つに割れたのである。ただ、孫文ら革命派の分裂は今に始まったことではなかった。元々、孫文と対立する勢力があり、それが顕在化しただけである。

■第二革命

中国の現代史の決勝戦は、中国共産党(毛沢東)と中国国民党(蒋介石)による「国共内戦」である。もちろん、キーマンは毛沢東と蒋介石。とはいえ、国共内戦が始まるのは1927年で、1910年代の主役は袁世凱と孫文だった。ところが、この頃、もう一人主役がいた。宋教仁(そうきょうじん)である。

宋教仁?

聞いたことないけど・・・

31歳の若さで暗殺されたから。

じつは、袁世凱が最も恐れたのはライバルの「孫文」ではなく、「宋教仁」だった。もし、あの若さで暗殺されなかったら、宋教仁が孫文に代わって、革命派を率いていた可能性が高い。当然、中国の歴史も変わっていただろう。ただし、最終的には毛沢東にねじ伏せられただろうが。

中華民国が建国された後、1912年8月25日、孫文の中国同盟会が中心になって、「国民党」が結成された。党首は孫文で、ナンバー2は宋教仁である。ところが、実務を仕切ったのは宋教仁だった。

宋教仁は、中国で「士大夫」とよばれる科挙(官僚)、地主、文人の三者を兼ね備えたエリートである。ところが、革命で科挙が廃止されたため、革命家に転身した。宋教仁は、他の革命家同様、日本に亡命したことがあり、その時は法政大学で学んでいる。

宋教仁と孫文は、ともに高い志をもつ革命家だったが、方法論に大きな違いがあった。政治制度では、孫文は大総統制、宋教仁は議院内閣制。最終的なよりどころは、孫文は「軍事力」、宋教仁は「法律」である。一見、孫文は現実主義者、宋教仁は理想主義者にみえるが、そうでもない。単に手法が違うだけ。実際、宋教仁は恐るべき現実主義者だった。

1912年12月の中国初の国会選挙では、宋教仁は妥協しまくりで、徹底した多数派工作を展開した。結果、国民党を勝利に導いたのである。そのままいけば、中国初、いやアジア初の議院内閣制の民主国家が誕生するはずだった。

ところが・・・

1913年3月20日、宋教仁は上海駅で狙撃される。そして、2日後に死んだのである。まだ、31歳の若さだった。

では、暗殺の首謀者は誰か?

袁世凱。

動機は?

宋教仁が大総統制を廃止しようとしたから。もし、実現すれば、袁世凱は(臨時)大総統の地位を追われる、つまり、失業。これ以上の動機はないだろう。ところが、孫文にも暗殺の動機はあった。宋教仁が死んだおかげで、国民党の実権を取り戻せたのだから。皮肉な話だが、ライバルの袁世凱のおかげで、孫文は復権できたのである。

そして、1913年7月、孫文は独裁を強める袁世凱に対し、武装蜂起する。これが、「第二革命」である。ところが、革命軍は北洋軍閥の軍によって簡単に鎮圧される。とにかく、孫文が指導する革命軍は弱かった。

一方、鎮圧に成功した袁世凱も、心が休まるヒマがなかった。国民党が、いつまた武装蜂起するかもしれない。それに、地方の軍閥も信用できない。もし、離反して国民党とくっつけば、厄介なことになる。一刻も早く、統治体制を強化する必要があった。そのためには「独裁」しかない。

そこで、1913年11月、袁世凱は「臨時大総統」を廃し、「大総統」に就任した。その後、孫文の国民党を解散させ、国民党員の議員資格まで剥奪した。さらに、国会そのものも解散してしまう。この時点で、中華民国は共和制どころか、立憲君主制でもない、完全な独裁制に変質したのである。そこで、孫文は国民党を解体し、1914年7月8日、東京で「中華革命党」を結成した。もっとも、党といっても、国会が存在しないので、政治結社にすぎないのだが。

袁世凱は、孫文や宋教仁が夢見た民主制を踏みにじったわけだが、独裁に走ったのは袁世凱だけではなかった。孫文もしかり。実際、孫文が結成した中華革命党は「民主制」にはほど遠かった。孫文への個人崇拝を強いる独裁で、議会制さえ否定したのだから。

中華革命党は党首(総理)は孫文だったが、実務を取り仕切ったのは、陳其美(ちんきび)だった。陳其美は孫文の右腕で、親分の孫文に絶対的服従を誓っていた。

陳其美は、辛亥革命のとき、南京占領に成功している。そのおかげで、孫文が南京に入城し、中華民国(南京政府)を建国できた。陳其美は中華民国建国の大功労者だったのである。その陳其美を師と仰いでいたのが蒋介石だった。後に、毛沢東との国共内戦にやぶれ、台湾政府を樹立する人物である。一方、陳其美も、蒋介石の軍司令官としての才能を高く評価していた。この二人は全幅の信頼を寄せ合っており、それは生涯変わることがなかった。

孫文が東京で「中華革命党」を立ち上げた後、陳其美は帰国し、袁世凱討伐を画策した。そして、上海で挙兵するも失敗。ところが、これにビビッたのが袁世凱だった。何度鎮圧しても、反乱がおさまる気配はない。まるでモグラ叩きだ。こうなった以上、独裁体制を敷いて、反乱分子を根絶するしかない。

そこで、袁世凱は大勝負に出る。1915年12月12日、国号を「中華帝国」に改め、帝位に就いたのである(洪憲帝)。すべての権力を袁世凱一人に集中し、絶大な皇帝パワーで反乱分子を根絶やしにする・・・

ところが、この大バクチは完全に裏目に出る。というか、袁世凱にとって命取りになった。北京では学生デモが吹き荒れ、南方では、地方軍閥が次々と独立を宣言し、大混乱に陥ったのである。これが「第三革命」で、護国戦争ともよばれている。

■第三革命

南方の地方軍閥「雲南派」は、雲南省で独立を宣言したが、事はそれでおさまらなかった。袁世凱討伐軍を編成し(護国軍)、北京に進軍させたのである。

一方、袁世凱も手をこまねいていたわけではない。曹コンを総司令官とする10万の北洋軍を派遣したのである。ところが、四川省で護国軍に大敗。その余勢を駆って、貴州省と広西省の地方軍閥まで独立宣言した。さらに、袁世凱を支える北洋軍閥内部にも離反者がでる始末だった。

袁世凱、万事休す・・・

1916年3月22日、袁世凱は帝位を退き、大総統にもどった。ところが、地方軍閥はそれでも納得しなかった。袁世凱が完全に退くことを求めたのである。その後、広東省、浙江省の軍閥までが独立を宣言、袁世凱は「徹底抗戦」か「完全退陣」かを迫られた。ところが、1916年6月6日、袁世凱は第3の道を行く。病死したのである。

さて、ここで、冒頭の話にもどろう。袁世凱を継ぐ者、である。

北洋軍閥でも、袁世凱の側近でもなかった「黎元洪」がなぜ、大総統になれたのか?

歴史をみれば、およそ見当はつく・・・みんなで足の引っ張り合いをしたから。

「打倒!袁世凱」で利害が一致していた時でさえ、北洋軍閥、地方軍閥、革命派は一致団結することはなかった。結果として同じ方向(反袁世凱)に向いていただけである。ましてや、袁世凱が死んだ今、各勢力は主導権を握るために血眼で、利害が一致するわけがない。だから、北洋軍閥、地方軍閥、革命派、どの派閥から大総統が出ても、シコリが残るわけだ。

ところが・・・

黎元洪は、北洋軍閥でも、地方軍閥でも、孫文派でも、袁世凱の側近でもない。袁世凱が皇帝に即位する際、猛反対してほされたことも、今となればプラスポイントだ。さらに、才気煥発ではなく、ロクな実績もないので、妬み(ねたみ)、嫉み(そねみ)を買うこともない。こういう場合はうってつけだ。しかも、ここがミソなのだが、曲がりなりにも「副総統」。

つまり、関係者一同、
「ま、いいんじゃね」
の究極の落とし所が「黎元洪」だったのである。

ということで、「北京政府」の新体制が決まった。

大総統:黎元洪(傀儡)

副総統:馮国璋(北洋軍閥の長老)

国務総理:段祺瑞(北洋軍閥の実力者)

有名無実の傀儡を、長老と実力者がささえる苦肉の体制だったが、じつは、爆弾を抱えていた。国務総理の段祺瑞(だんきずい)である。ヨーロッパ帰りで、陸軍総長もつとめた実力者で、頭が切れ、野心もある。しかも、国務総理は、実際に政務を行う国務院のトップ、日本でいえば総理大臣である。そんなわけで、段祺瑞は、黎元洪など眼中になく、はなからバカにしていた。

黎元洪も、そんな空気を読んで、実務を段祺瑞に任せ、酒色に徹すれば良かったものを、欲をかいたので、話はややこしくなった。

黎元洪は(たぶん)こう考えた。
「オレは革命軍を指揮して、革命を成功に導いた大功労者だ。しかも、大総統。なんで、あんなクソッタレの若造の風下に立たねばならんのだ」

こうして、傀儡の黎元洪と、実力者の段祺瑞の間で、政治闘争が起こった。これを「府院の争い」とよんでいる。そのドタバタがなかなか面白いので紹介しよう。

■府院の争い

第一次世界大戦が始まった頃、中華民国(中国)は中立を守っていた。というか、国内が大変で、他人のことなどかまっていられなかったのである。ところが、1917年2月、ドイツがUボートによる無差別潜水艦攻撃を再開すると、アメリカはドイツと国交を断絶した。この時、中華民国も連合国側についての参戦すべし、と主張したのが段祺瑞で、それに反対したのが大総統の黎元洪だった。

業を煮やした段祺瑞は、内閣総辞職して、黎元洪に圧力をかける。そこで、黎元洪は妥協して、1917年3月14日、ドイツとの国交を断絶した。ところが、中途半端が嫌いな段祺瑞は、何としてでも参戦にこぎつけたい。そうこうしているうちに、1917年4月6日、アメリカはドイツに宣戦布告した。

焦った段祺瑞は最終手段に打って出る。北洋軍閥内で息のかかった軍を使い、国会に圧力をかけたのである。もちろん、民主主義を逸脱するトンデモ行為で、議員たちは猛反対した。そこで、1917年5月23日、黎元洪は段祺瑞を罷免する。これで、議員たちはおさまるだろうし、中立も守れるし、憎たらしい段祺瑞の顔を見なくてすむ。一石二鳥、災い転じて福となす、というわけだ。

ところが・・・

段祺瑞が下野するやいなや、北洋軍閥の督軍(省に属する地方軍)が続々と中華民国からの独立を宣言した。慌てた黎元洪は、北洋軍閥の中で参戦に反対する張勲(ちょうくん)に事態の収拾を依頼する。1917年6月7日、張勲は軍を率いて、北京を制圧した。そこで、一件落着と思いきや・・・

翌日の6月8日、張勲は黎元洪に対して国会の解散を要求したのである。体のいいクーデターだが、力の背景のない黎元洪は呑むしかなかった。ところが、これがきっかけで、政局は想定外の方向に転がり出す。

1917年7月1日、極保守派の張勲は、立憲君主制を目指す康有為を呼び寄せて、なんと、清朝「宣統帝」を復位させたのである。仰天した黎元洪は、罷免したばかりの段祺瑞と馮国璋に泣きつき、張勲の軍を追っ払うよう頼んだ。そして、7月5日、段祺瑞を国務総理に戻し、7日には馮国璋を大総統代理に任命したのである。

実権を取り戻した段祺瑞は、北洋軍閥の軍団を率い、張勲の軍を打ち破り、7月14日、悠々と北京に入城した。

行き当たりばったり、スッタモンダのあげく、なんとか事態を収拾できた。とはいえ、段祺瑞との圧倒的な実力差を見せつけられた黎元洪は、意気消沈し、大総統を辞任する。そして、政治の第一線から退いたのである。この時代の中国は、生き馬の目を抜く修羅の世界、調整型の黎元洪には荷が重すぎた。

ところが、事はそれでおさまらなかった。北洋軍閥が3つに大分裂したのである。その後、3大派閥は凄まじい合従連衡(くっついたり離れたり)を繰り返し、自滅の道を歩むことになる。

《つづく》

by R.B

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