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週刊スモールトーク (第190話) 中国共産党の歴史(2)~中華帝国の三ヶ月天下~

カテゴリ : 戦争歴史

2013.01.06

中国共産党の歴史(2)~中華帝国の三ヶ月天下~

■春秋戦国時代

中国史といえば三国志・・・というのは知ったかぶりの偏見で、他にも面白い歴史はいっぱいある。ただ、現代に近づくほど、つまらなくなる傾向にはあるが。とはいえ、時代があまり古いと、歴史というより伝説になる。だから、やっぱり、つまらない。ところが、不思議なことに、どの文明にも共通する伝説がある。洪水伝説もその一つだろう。

旧約聖書のノアの方舟伝説、ギルガメシュ叙事詩のウトナピシュティムの洪水伝説は有名だが、中国、東南アジア、中南米など、世界のいたる所で確認されている。もっとも、必ず神様が登場するので、伝説というより神話なのだが。中国史は、古い順から、創世伝説、三皇伝説、五帝伝説とつづく。ただし、この時代は他の文明の「天地創造」に相当し、「半神半人」が天と地を行き来するので、やはり、歴史というよりは神話。では、中国で実史といえるのは、いつの時代から?考古学上、中国最古の王朝は「殷」とされる。

ところが、司馬遷の「史記」をはじめ、信頼できる史書によると、さらに古い「夏」王朝があったという。まだ明確な考古学的証拠が見つかっていないが、「実在」は間違いないだろう。ここで、中国の実史を年代順に並べると、

①夏(紀元前20世紀)→②殷(紀元前17世紀)→③周(紀元前11世紀)

ところが、この3つの王朝は、中国全土を支配したわけではない。支配地は「中原」、つまり、黄河中下流域に限られていた。では、最初に中国全土を統一した王朝は?紀元前221年の「秦」。ただし、

①夏→②殷→③周→④秦

と、スンナリ王朝が推移したわけではない。「③周」と「④秦」の間に巨大なギャップ「春秋戦国時代」があるのだ。具体的には、周が異民族の侵入をうけ、遷都してから、秦が中国全土を統一するまでをいう。この間、周は有名無実の小国に転落し、大小20余国が覇権を争った。その後、戦国の七雄(韓、趙、魏、楚、燕、斉、秦)に絞られ、それが互いにつぶし合い、最後に秦が残った。その間、じつに、550年。つまり・・・日本の25倍の広大な国土で、550年間もサバイバルゲームが続いたのである。しかも、最後に残った秦は、すべての国を解体し、呑み込み、中国を「秦」一国に変えてしまった。究極のバトルロイヤルと言っていいだろう。この間、一体、どんな歴史があったのか?好奇心が沸き立つのを抑えられない。

まず、個々のイベントが面白い。三国志のように、「なんだかんだいっても、結局は城の取り合い」的な不毛感はない。「事実は小説よりも奇なり」を地でいくイベントが満載だ。しかも、イベントのからみが複雑で、脳に一撃で描けない。一方、呉越戦争のように、短くもはかない、しかも濃密で、多くの故事を生んだ歴史もある。だから、春秋戦国時代は面白いのである。それに、歴史ネタにも困らないし・・・そこをうまく取り込んだのが原泰久の漫画「キングダム」だろう。

春秋戦国時代を舞台に、大将軍を目指す少年「信」と、後の始皇帝となる秦王「政」の活躍を描く。創作部分が多いが、絵もセリフも覇気があるので、「戦国の息吹」を感じる。歴史コンテンツの王道を行く秀作だ。同じ歴史漫画の、古代ギリシャの「ヒストリエ」、ヴァイキングの「ヴィンランド・サガ」に優るとも劣らない。でも、どんなに面白くても、しょせん、王朝の交代劇では?たしかに。そんな人におススメなのが、「清朝末期~台湾成立」の歴史である。なんか、ジミそう・・・言葉の響きに惑わされてはいけません。

この時代の中国史は、スケールも複雑さもハンパじゃないので。じつは、この時代、欧米、ロシア、日本は中国を分割して、植民地にしようと目論んでいた。つまり、ローカルな中国史ではなく、中国を舞台にした「世界史」なのである。さらに、登場する勢力と人物が多く、からみも複雑で、完全に理解するにはノートが必要だ。そもそも、出発点の「清朝」からして普通ではない。清朝は漢民族の王朝ではなく、満州を故地とする女真族の王朝である。

つまり、90%を超える漢民族を、1%にも満たない女真族(約1000万人)が支配していたわけだ。何も起こらない方が不思議である。実際、清朝末期では、多数派の漢民族が少数派の女真族に反発していた。さらに、欧米が中国を植民地にしようともくろみ、日本がそれに追随する。そこへ、ロシアが毛沢東の中国共産党を支援しながら、じつは、毛沢東のライバルの蒋介石を担ごうとしたり、まさに、一寸先は闇。しかも、中国5000年の歴史上初の「共和制」革命を目指すわけで、登場人物の心意気もハンパじゃない・・・ということで、中国で一番”熱い”時代にタイムスリップしよう。

■中国最後の王朝「清」

15世紀、ポルトガルの航海者たちは頑丈な大型帆船に大砲を詰め込み、大海に乗り出した。まず、アフリカ貿易で一儲けし、次に、アフリカ南端を周回し、基地を築きながら、アジアに達した。この長大な航路ネットワークで、ポルトガル海洋帝国はヨーロッパ最強の貿易立国にのしあがったのである。

ところが、その栄光も長くは続かなかった。オランダ、フランス、イギリスが、ポルトガルに追いつき追い越し、アジアを我が物にしたのある。特に、イギリスの侵出はめざましかった。1840年のアヘン戦争で清朝をやぶり、多額の賠償金と香港をせしめ、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認めさせた。

つづく、1856年のアロー戦争では、イギリスはフランスと連合し、再び清朝をやぶり、天津を開港させ、九竜半島を割譲する。調停に入ったロシアも、ドサクサに紛れ、沿海州を獲得した。沿海州とは、日本海に面した大陸側の沿岸部で、樺太(サハリン)とほぼ隣接する。つまり、日本の目と鼻の先。

これに、危機感をもったのが日本だった。ロシアが沿海州のウラジオストックに軍港を建設し、ロシア太平洋艦隊を配備すれば、日本海はロシアの海になる。さらに、ウラジオストックまでシベリア鉄道を引き込めば、極東に大兵力を短期間で送り込める。つまり、日本は日本海をはさんで、ロシアの陸海軍の大兵力と対峙するわけだ。日本の安全保障を脅かす一大事である。さらに、ロシアが満州と朝鮮半島に覇権を確立しようとしたため、1904年、日露戦争が勃発した。

つまり・・・19世紀末の清朝(中国)は、欧・米・露・日に翻弄され、半分植民地のような状態だったのである。中国人の不満が爆発するのは時間の問題だった。やがて、それは現実になる。1900年、中国で義和団事件が勃発したのである。義和団は、「扶清滅洋(清朝を助け西洋を滅ぼす)」を標語に掲げ、国内の欧米人を殺して回った。

そこで、清朝内部は2つに分裂した。義和団を支持して、欧米を追い出そうとする主戦派、もう一つは、欧米との衝突を避け、義和団を討とうとする和平派である。やがて、義和団の勢力が大きくなると、主戦派が優勢になった。今の中国が「反日」を利用して、日本を排斥するのと同じである。

ところが・・・一石二鳥にみえたこの策は裏目にでる。中国在住の公使が殺されたため、欧・米・露・日は居留民保護を口実に、連合軍を派遣したのである。連合軍は連戦連勝し、北京へ迫ると、西太后を中心とする清朝王室は、北京を脱出し、西安に逃げのびた。その後、交渉が行われ、清朝が連合国に多額の賠償金を払い、北京の外国軍隊駐留を認める代わりに、西太后の責任は回避された。こうして、清朝は首の皮一枚でつながったのである。贅沢三昧で、安穏を好み、改革を嫌った西太后も、ここに至り、富国強兵にのりだした。

ところが、1908年、光緒帝が崩御し、その翌日、西太后も死んだ。西太后は死の直前に、後に満州国の皇帝になる「溥儀」を宣統帝として擁立し、溥儀の父「醇親王」を摂政王に任命していた。

■光緒帝の暗殺

しかし・・・光緒帝の死には不審な点がある。

21世紀初頭に行われた遺体の分析の結果、遺体の頭髪から致死量を上回るヒ素が検出されたのである。つまり、毒殺。では、誰が犯人なのか?西太后という説がある。光緒帝は清朝第11代皇帝として、3歳で即位した。そのため、実権は伯母の西太后が握っていた。それと西太后の動機と、どんな関係が?死期を悟った西太后が、自分より光緒帝を長生きさせたくなかったというのである。

ところが、西太后の実子(清の第10代皇帝「同治帝」)はすでに死んでいる。だから、死んだ後のことまで心配する必要はない(たぶん)。ただ、西太后が死ぬ前日に光緒帝が毒殺されているので、西太后が関わっていた可能性はある。しかし、一番怪しいのは袁世凱だろう。袁世凱は清朝の重臣で、32人の子供をもつ怪人で、その人生は陰謀と裏切りで血塗られている。これだけで、犯人の資格十分なのだが、動機もある。しかも、かなり強固な。

毒殺された光緒帝は、1898年に「戊戌の変法」という政治改革を推進した。実務の中心は、秀才の誉れ高い康有為(こうゆうい)である。この改革は日本の明治維新を模範とした富国強兵策だったが、保守派の反対にあい、西太后と袁世凱のクーデターによって粉砕された(戊戌の政変)。ところが、袁世凱は、初めは「戊戌の変法」を支持していた。つまり、光緒帝派だったのである。ところが、西太后が反対派にまわり、光緒帝派の旗色が悪くなるや、一転して、反対派に寝返った。しかも、やり方がえげつない。光緒帝派が袁世凱にクーデター計画をもちかけると、それを西太后にちくり、その功績で大出世したのである。光緒帝にしてみれば、袁世凱は煮殺しても飽き足らない敵(かたき)だったのである(実際恨んでいたらしい)。

というわけで、西太后が死んで、光緒帝に実権が移れば、袁世凱の命はない。だから、西太后が死ぬ前に、光緒帝を殺害したというのである。これ以上の動機は見あたらないし、袁世凱ほどの実力者なら、侍医を巻き込んで、毒殺することなど造作もなかっただろう。

■辛亥革命

とはいえ、犯人が誰かは大した問題ではない。皇帝が毒殺され、実力者の西太后が死に、後を継いだのが2歳の皇帝・・・国が乱れるのは目に見えている。かつて、清朝は、「康熙帝(こうきてい)→雍正帝(ようせいてい)→乾隆帝(けんりゅうてい)」と名君が続き、繁栄を極めた。領土は現代の中国領にくわえ、ロシアのアムール、ハバロフスク、モンゴル、チベット、さらに、カザフスタンの一部を含む広大なものだった。まさに、古代ローマ帝国に比肩する大帝国である。

ところが、アジアで無敵がゆえに、競争原理が失せ、技術の進歩が停滞し、ハイテク装備の欧米列強に対抗できなかったのである。中国の知識人たちは、そんな国情を憂いだ。そして、清朝を打ち倒し、漢民族による新たな政権を樹立しようとしたのである。倒幕して立憲君主制をうち立てた明治維新のように。その中心となったのが、1905年8月20日、東京で結成された中国同盟会である。ところが、中国同盟会は複数の政治団体の寄せ集め結社で、求心力に欠いた。また、リーダーの孫文は私心のない人物で、「力ずく」が苦手だった。そのため、最終的に中国を統一することはできなかった。

ところで、先の袁世凱、私利私欲に走ったわりには、あっさりと失脚する。西太后が死んだ翌年、摂政の醇親王によって解任されたのである。理由はいたって簡単。袁世凱にはめられ、毒殺された光緒帝は、醇親王の兄だったのである。まぁ、普通に考えれば、恨み骨髄。さらに、袁世凱は命まで狙われたが、からくも北京を脱出し、河南省に逃げのびた。そこで、清朝に残った部下から情報をかき集め、コソコソ陰謀を巡らせた。

1911年10月10日、武昌で兵士の反乱が起こった。清朝に対する不満がついに爆発したのである。この反乱は規模こそ小さかったが、清朝を倒す「辛亥革命」の引き金となった。その後、戦局は、北京を含む中国北部を除いて、革命派が優勢であった。つまり、清朝が圧倒的に不利。そこで、清朝は一番の実力者を登用することにした。袁世凱である。溺れる者ワラをもつかむ、とはこのことだろう。1911年11月1日、清朝は袁世凱を内閣総理大臣に任命し、反乱軍の鎮圧を命じた。

このとき、中国の知識人や、海外にいる中国人は、袁世凱が民主的に大統領として選出されることを望んだ。辛亥革命の中心人物の孫文でさえ、袁世凱に期待したのである。ところが、袁世凱は「民主化」など頭になかった。もちろん、清朝に命じられた反乱軍鎮圧もやる気ナシ。清朝と革命派を天秤にかけていたのである。これほど、あからさまな「私利私欲」も珍しい。これが総理大臣なのだから、清朝の末路も察しがつくというものだ。

■中華民国

年があけて、1912年1月1日、南京で中華民国が成立した。臨時大総統は孫文である。ジミにみえるが、中国史上、画期的な出来事だった。君主制が廃止されて、中国で初めて共和国が樹立されたのである(たぶん、アジアでも初めて)。ところが、孫文は袁世凱と真逆で、私欲のない人物だった。自分の利より、革命の成功を優先したのである。

そして、1912年1月22日、孫文は袁世凱に驚くべき提案をする。清朝の皇帝を退位させてくれたら、大総統の地位を袁世凱に譲ると申し出たのである。中国で理想の政権交代とされる「禅譲」である。皇帝が退位すれば、当然、清朝も滅ぶ。そうなれば、反乱軍を鎮圧する必要もなくなる。しかも、自分が新政権の頂点に立てるのだ。「棚からぼた餅」どころの話ではない。さっそく、袁世凱は喜びを悟られないよう、慎重に、清朝の重臣たちを説得した。

「もはや、清朝に勝ち目はない。もし、革命軍が北京を占領すれば、皇帝の生命も保障できない。しかし、今、皇帝が退位すれば、優待条件を受けられる」

おいおい、革命軍を殲滅するのはお前の役目だろ!清朝にしてみれば、唯一の頼みの袁世凱がこれでは、なす術がない。こうして、1912年2月12日、宣統帝は退位し、清朝は滅亡した。そして、袁世凱は中華民国の臨時大総統に就任したのである。天下の逆臣、ここにあり。それにしても、袁世凱はなぜ、こんなやりたい放題ができたのだろう?子供が32人で精力絶倫だから、は部分的にはあっているが、完全な説明とはいえない。混乱の時代で、モノを言うのは「精力」ではなく「軍事力」だから。

じつは、袁世凱にはそれがあった。「北洋軍閥」である。軍閥・・・国の正規軍ではなく、地方軍(私軍)。じつは、この「北洋軍閥」の成立には日本が大きく関わっている。40年前の1862年、清朝の重臣だった李鴻章(りこうしょう)が「淮軍」という地方軍を編成した。淮軍は、1894年の日清戦争では清軍の主力として戦ったが、大敗する。結果、淮軍は解体され、李鴻章も失脚した。その後、清朝は淮軍の残党を集め、新たな軍を編成した。これが後の「北洋軍閥」である。そして、その監督者が李鴻章の跡を継いだ袁世凱だった。

ただ、北洋軍閥は国家の正規軍ではなく、土着の地方軍なので、国家に対する忠誠心が薄い。しかも、地元優先で、私利私欲に走る傾向にあった。もちろん、袁世凱に命を賭ける忠義もない。後に、袁世凱が皇帝になろうとしたとき、北洋軍閥は猛反対するのだから。話を袁世凱にもどそう。宣統帝が退位し、清朝は滅亡し、袁世凱は念願の中華民国・大総統にのぼりつめた。結局、孫文と中国同盟会が起こした辛亥革命を、袁世凱が横取りしたのである。大総統となった袁世凱は、まず、中華民国の首都を南京から北京にうつした。袁世凱と北洋軍閥の基盤が北京だったからである。そのため、「北京政府」とよばれた。また、北洋軍閥がささえたので「北洋軍閥政府」ともいわれる。

以後、北京政府は、1928年に蒋介石が南京で「南京国民政府」を樹立するまで、中華民国の正統な政府として存続した。ところが、袁世凱は孫文の「禅譲」を踏みにじる。民主化に逆行したのである。まず、議会制民主主義を訴える宋教仁を暗殺し、北洋軍閥の力を背景に中央集権化を強行した。しかし、当時中国がおかれた状況を考えれば、止むを得ない部分もある。欧米列強は、地方勢力にてこ入れし、中国を分裂させようとしたのだから。だから、為政者が「中央集権&富国強兵」を目指すのは間違いではない。むしろ、愛国者といっていいだろう。ところが、袁世凱は「愛国者」として尊敬されることはなかった。私利私欲が過ぎたのである。

■中華帝国

1915年12月12日、袁世凱は大勝負に出る。国号を「中華帝国」と改め、自ら帝位に就いたのである(洪憲帝)。中国を一つにまとめ、欧米列強に立ち向かうため、そして、私利私欲のために。ところが・・・北京では学生デモが荒れ狂い、地方の軍閥は反旗を翻し、袁世凱を支持する北洋軍閥までが反対を表明した。国民、軍隊、子飼いの私兵、中国のすべてが離反・・・手のうちようがなかった。1916年3月、袁世凱は失意のうちに退位する。その間、わずか三ヶ月。明智光秀の三日天下ならぬ、三ヶ月天下だった。独裁者の野心は、時として国難を救うが、私利私欲はすべてを台無しにする。それを証明したのが袁世凱の人生だった。

3ヶ月後、袁世凱は死んだ。支柱を失った北洋軍閥は大分裂しし、地方の軍閥も巻き込み、激しい内戦が始まった。中華民国は「統一政府」が存在しない無政府状態に陥ったのである。2500年前の春秋戦国時代のように。

《つづく》

by R.B

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