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週刊スモールトーク (第168話) 2012年人類滅亡説(3)~アステカ・マヤ・インカ~

カテゴリ : 歴史終末

2012.03.18

2012年人類滅亡説(3)~アステカ・マヤ・インカ~

■滅びの土地

メソアメリカの歴史は「滅びの歴史」・・・その最後を飾るのがアステカ帝国とマヤ文明だ。ところが、何の因果か、南アメリカのインカ帝国まで道連れにされてしまった。

Azteca_Maya_Inkaこの地図は、アステカ帝国、マヤ文明、インカ帝国の支配地を表す。アステカとマヤは、南北アメリカの結点「メソアメリカ」に、インカは、南米アンデスにあった。なので、アステカ・マヤは「メソアメリカ文明」、インカは「アンデス文明」と呼ばれている。だから、元を正せば別の文明である。
ところが、ヘンに尖ったところで、共通点がある。
1.複雑な暦
2.滅亡の予言
3.生贄(いけにえ)の儀式

この不吉な3点セットが他の文明に見あたらないこと、アステカ・マヤとインカが交易していたことから、この2つの文明圏に交流があったことは間違いない。

ところが・・・

マップを見るとわかるが、アステカ・マヤとインカは、ヒモ1本でつながっているようなもの。しかも、この「ヒモ」地域はジャガーや大蛇がうろつく大ジャングル。なので、陸路の移動は難しい。また、彼らの船は見た目もスペックもほぼ「イカダ」なので、大量の海上輸送もムリ。というわけで、メソアメリカ文明とアンデス文明が統一されることはなかった。そして、それがアメリカ先住文明の「永遠の滅亡」の一因にもなったのである。

16世紀、アステカ帝国、マヤ文明、インカ帝国はスペイン人によって滅ぼされた。初めに、コンキスタドール(征服者)が文明を破壊し、その上に、スペイン王室が植民地を建設した。結果、メソアメリカと南アメリカの全域がスペインに併合されたのである(ブラジルだけはポルトガル領)。

19世紀に入ると、メソアメリカ、南アメリカの植民地で独立運動が始まった。そして、20世紀にはすべての植民地が独立する。500年の年月を経て、メソアメリカと南アメリカはスペインから解放されたのである。ところが、独立したのは先住民(インディオ)ではなかった。クリオーリョとよばれる植民地生まれのスペイン人である。なんのことはない、同じスペイン人が、故国から分離独立しただけの話。そして、その状況は、21世紀になった今も変わっていない。

15世紀から17世紀の大航海時代、それに続く帝国主義の時代、ヨーロッパ諸国は大挙して、アジアにおしかけた。初めはスパイスを求めて、その後、植民地獲得に血なまこになった。かろうじて、主権を維持できたのは日本だけという有様。ところが、第二次世界大戦が終わると、アジア諸国は次々と独立を果たした。先住民が主権を取り戻したのである。

ところが・・・

南北アメリカとオーストラリアはそうならなかった。独立したのは、先住民ではなく、よそ者(移住者)だったのである。

たとえば、

1.アメリカ合衆国→イギリスからの移住者

2.カナダ→フランスからの移住者

3.メキシコ→スペインからの移住者

4.ブラジル→ポルトガルからの移住者

5.ブラジルを除く南米諸国→スペインからの移住者

6.オーストラリア→イギリスからの移住者

つまり・・・

アメリカ大陸とオーストラリア大陸の先住文明は完全に破壊されたのである。未開といわれたアフリカ大陸でさえ、今は先住文明が継承しているのに。

話をマヤ・アステカ&インカにもどそう。この2つの文明圏に共通するのは、「暦」に執着し、精緻で複雑な暦を作りあげたこと。その暦から「世界滅亡の日」を予測し、その日を来るのを1日延ばしにしたこと。

どうやって?

生贄の儀式で!

マヤ・アステカ&インカには、「滅亡を畏れる(願望かも)」潜在意識があり、それが現実になった、という歴史的事実がある。地球でオンリーワンというわけではないが、珍しい文明であることは確か。興味深いモチーフなので、もう少し掘り下げてみよう。まずは、アステカ・マヤ&インカの歴史から。

■アステカ帝国【1325年~1521年】

アステカ帝国は、メソアメリカ最初で最後の帝国である。アステカの首都テノチティトランは、歴史上、最も壮麗な都市として知られている。破壊されて、跡形もないのに、どうしてわかる?破壊したスペイン人が、
訪れた都市の中ではテノチティトランが一番素晴らしい
と証言しているから。中には、ヴェネツィアやコンスタンティノポリスを訪れた者もいたというから、ただのホラでもないだろう。

また、再現された模型やCGを見ると、この世のものとは思えないほど美しい。帝都テノチティトランは、テスココ湖の孤島に築かれ、島と陸地は3本の道路で結ばれていた。町中には無数の水路がはりめぐらされ、町のどこへでもカヌーで行くことができたという。全盛期の人口は20万~30万人で、この時代、世界有数のメトロポリスである。

アステカの大人口を支えたのは「チナンパ農法」だ。農地が湖上に浮かぶ奇抜な見てくれで、まるで、ひょっこりひょうたん島。ところが、生産性は現代の化学肥料農法に匹敵する。養分豊富な湖底の土をもるので、土地が枯れることもない。この浮かぶ農地で、主食のトウモロコシをはじめ、イモ、豆が大量に生産され、アステカ人の胃袋をささえた。商取引は物々交換だったが、一部、カカオ豆が貨幣代わりに使われたという。

こうして、アステカの繁栄は永遠に続くかのようにみえたが、栄枯盛衰は人の常、世の習い、100年しかもたなかった。一般に、アメリカの文明は短命だが、それしても短命すぎる。では、どういう経緯で滅んだのか?

14世紀初め、アステカ人はテスココ湖周辺にやってきた。1325年には後の帝都テノチティトランを建設し、本格的な征服事業に乗り出した。1428年、テスココとトラコパンと同盟し、強敵アスカポツァルコを滅ぼす。この勝利が帝国への足がかりとなったので、以降、「アステカ帝国」と呼んでいる。

アステカ帝国は、オルメカやテオティワカンにくらべ、軍事色の強い国家だった。道路網を整備し、軍団を各地に派遣し、戦争をふっかけたのである。かつてのローマ帝国のように。結果、16世紀初頭にはメキシコ中央高原最大の勢力にのしあがった。支配地は大平洋沿岸にまでおよんだという。もっとも、アステカの戦争の動機は、領地拡大というより、「捕虜」の確保にあった。なぜか?生け贄にするため。

1519年、モクテスマ2世の治下、アステカ帝国の人口は2000万人に達した。おそらく、この時代、世界屈指の大帝国である。また、帝都テノチティトランは政治だけでなく、宗教と商業の中心でもあった。階段が114段もあるピラミッドの元で、市場(いちば)が開かれ、毎日数千人が集まったという。

ところが、1521年8月、アステカ帝国は突然歴史から消える。スペインの征服者エルナン・コルテスに征服されたのである。通説によれば、スペイン軍は、兵士600人、馬16頭、大砲10門、火縄銃13丁で、2万のアステカ軍を殲滅した・・・だが、これは半分真実で、半分はウソ。たしかに、コルテスが出発したときは600人だったが、帝都テノチティトランの最終決戦では、先住部族数万を味方につけていたからだ。

アステカのラストエンペラー・クアウテモク王が捕らえられ、帝国が滅ぶと、凄惨な破壊が始まった。スペイン人は、金銀財宝を略奪しつくすと、つぎに、帝都テノチティトランを徹底的に破壊した。あげく、テスココ湖もろとも埋め立てたのである。じつは、その上に建設されたのが、現在のメキシコシティ。だから、メキシコシティの一番の地下資源は、考古学遺跡。

さらに・・・

スペイン人は、旧大陸からささいな疫病を持ち込んだが、先住民には致命的だった。アメリカ大陸は、旧大陸からみれば、ガラパゴス。旧大陸の疫病は、先住民に全く免疫がなかったのだ。免疫がなければ、たとえ「はしか」でも致命傷になる。実際、先住民の人口は1100万人から100万人に激減した。ほぼ壊滅である。こうして、アステカ帝国は地上から跡形もなく消え去った。

■マヤ文明【紀元前300年~16世紀】

ロンドン大学のアンドレスリナレスは、モンゴロイドとアメリカ先住民の「Y染色体」に注目した。Y染色体は男性がもつ染色体で、変異を調べれば、生物学的に同族かどうかがわかる。調査によれば、アメリカ先住民の先祖はシベリアからの移住者だという。

リナレスの説によれば・・・

1万4000年前、シベリアの中南部を出発した一団がいた。彼らは、まだ陸続きだったベーリング海峡を経て、北アメリカにわたり、南アメリカまで広がった。それが、メソアメリカと南アメリカの先住民の先祖だという。興味深いのは、彼らは何千年も部族間の交流を絶ち、繁殖したこと。たとえば、アマゾン川上流のティクナ族とコロンビア北岸のユワ族は、7000~8000年もの間、遺伝学的に隔離されていたという。ユーラシア大陸では、まずありえない。

一方、別の説によれば、マヤ人の祖先は、紀元前2万~8000年に、シベリアの狩猟採集民がベーリング海峡をへて、ユカタン半島にたどり着いた。そして、紀元前8000年~紀元前2000年には、ユカタン半島で定住がはじまったという。また、この頃、野生のトウモロコシが栽培化されている。これは、リナレスの説と一致する。

紀元前1500年頃、ユカタン半島で焼畑農業がはじまった。その後、紀元前300年頃に、都市が建設され、2世紀には、文字や暦が作られた。そして、250年~900年の古典期には、大規模な建造物がつくられ、マヤ文明は絶頂期をむかえる。ところが、900年頃、突然、南部の諸都市が放棄される(北部は16世紀まで存続)。「理由が今も不明」を含め、メソアメリカ文明のスタンダードな最期ではあるが。

マヤ文明は、複数の都市からなる「都市国家」だった。ところが、古代シュメール文明のように、互いに反目し、最後までまとまることはなかった。そして、1500年頃、スペイン人の侵攻がはじまった。マヤ北部の諸都市は頑強に抵抗したが、16~17世紀には完全に併合される。もし、統一王朝であったとしても、結末は同じだっただろうが。

マヤ文明の最大の功績は、メソアメリカ独特の「暦」を集大成したことだろう。有名な「マヤ暦」だ。惑星の運行までからめた複雑な暦で、しかも、複数の暦があり、それぞれ、独立して運用される。仕掛けも運用も複雑なのだ。そもそも、暦の目的からして違う。本来、「暦」の目的は季節を知るため、つまり、農耕のためにある。古代の太陽暦や太陰暦をみればわかるように。

ところが・・・

マヤ暦は「宗教儀式=生贄」のためにあった!

なんと不吉な・・・

■インカ帝国

最後に、アンデス最後の先住文明「インカ帝国」について。紀元前1500年頃、アンデス山脈で農耕が始まり、紀元前1000年頃には、アンデス文明の祖「チャビン文化」がおこった。チャビン文化は、ジャガー崇拝をはじめ、メソアメリカの祖「オルメカ」と共通点がある。

紀元前300年頃、チャビン文化はおとろえ、文化の求心力が失われた。結果、アンデス全域で、文化の離散が進んだ。太平洋側の河川流域、あるいは、アンデス山脈の盆地に、独自の文化が形成されたのである。

そして、9世紀、アンデスはティアワナコによって再統一される。ティアワナコは、標高3810mのチチカカ湖周辺にあった都市国家だ。アステカ同様、軍事的色彩が強く、ワリを第2の首都とし、アンデスを支配した。

ところが、1200年頃、アンデスは再び分裂する。南部のインカ帝国、北部のチムー王国が相争ったのである。チムー王国は、首都をチャンチャンにおき、太平洋沿岸部を支配した。領土は南北1200kmにおよび、アンデスの2/3の人口を包含したという。ところが、15世紀半ば、宿敵インカ帝国によって征服される。

さて、いよいよ、インカ帝国。1200年頃、クスコ地方で、ケチュア族がクスコ王国を建国した。初めは、王国とは名ばかりの、半農半兵の村にすぎなかった。ところが、1438年、第9代皇帝パチャクテクが即位すると、状況は一変する。

1440年、パチャクテクが宿敵チャンカ族を破ると、クスコ王国は急拡大する。支配地はアンデス山脈を中心に、総面積90万平方キロ、海岸線の長さ4000kmにおよんだ。80の民族と1600万人の人口を擁する大帝国に成長したのである。そこで、パチャクテクは、首都をクスコにおき、インカを中央政府とし、4つの州からなる連邦国家に再編成した。これがインカ帝国である。

パチャクテクは、有能な軍人だったが、優れた政治家でもあった。たとえば、文化も習慣も違う異民族をいかに束ねるか?パチャクテクは、なかなかうまい方法を思いついた。征服地の一部の住民を、他の征服地に強制移住させたのである。すると、住民は互いに牽制し合い、団結して反乱を起こすこともない。

とはいえ、いがみあってばかりでは、秩序も治安も保てない。そこで、土着の宗教を認めつつ、第一宗教としてインカの国教「太陽信仰」を強制したのである。バラバラの意識も、太陽信仰のもとでは団結する、というわけだ。小憎らしいほどの巧妙さだが、そこまでやっても、帝国は長続きしなかった。1533年、スペインの征服者フランシスコ・ピサロに征服されたのである。

アステカを征服したコルテスよろしく、大砲・鉄剣・騎馬の3点セットで、数十倍のインカ軍をカンタンに粉砕した、という風聞とは違い、ピサロは死ぬほど苦労した。並みの軍人なら、サジを投げてしまうような苦難の連続を克服したのである。ピサロは、コルテスのように学はなかったが、正真正銘の傑物だった。とくに、問題解決力と精神力は驚嘆に値する

それを示す歴史的事実もある。じつは、インカ帝国に最初にリーチをかけたのはピサロではなかった。ポルトガルのアレージョ・ガルシアという探検家である。ガルシアは、ある探検隊に加わりブラジル南岸まで来たが、そこで船が難破した。ガルシアが凄いのはここから。生き残った仲間といっしょに、土着のチリグワノ族の部落にもぐりこんだのである。

その後、どういう経緯でそうなったか分からないが、ガルシアは部族のリーダー的存在にのしあがる。言葉のハンディをおしてのことだから、並外れたリーダーシップの持ち主だったのだろう。ある日、ガルシアは部族のインディオから、不思議が話を聞いた。平原を西に行くと、大きな山脈があって、そこに黄金の国があるという。じつは、それがインカ帝国だった。

ガルシアは、チリグワノ族の兵士2000人を引きつれ、(パラグアイの)平原を横断し、インカ帝国の領地(現在のボリビア共和国の首都スクレ)に侵入した。ところが、そこで、インカ軍の猛烈な抵抗をうけて、撤退する。あげく、その途中、白人は皆殺しにされてしまう。幸い、ガルシアは息子を先発させていたので、この事実はディアス・デ・グスマンというアルゼンチンの記録者によって記された。

何が言いたいのか?

第一に、インカ軍は腰抜けではなかった。第二に、ヨーロッパ人であっても、欲の皮が突っ張っただけのゴロツキでは、アステカ帝国やインカ帝国の征服はおぼつかない。こんな偉業?を成し遂げるのは、頭脳明晰、沈着冷静、強力なリーダーシップ、揺るぎない信念・・・おっと、それに、強運も・・・そんなスーパーマンいる?

それが2人もいたのである。

《つづく》

参考文献:
「古代マヤ・アステカ不可思議大全」芝崎みゆき著草思社
ビジュアル版世界の歴史「大航海時代」増田義郎著講談社
「5万年前」ニコラスウェイド著、安田喜憲監修、沼尻由起子訳イースト・プレス
「インカ帝国探検記」増田義郎著中央公論新社

by R.B

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