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週刊スモールトーク (第160話) 邪馬台国の卑弥呼と倭の五王

カテゴリ : 歴史

2011.09.11

邪馬台国の卑弥呼と倭の五王

■卑弥呼の歴史

魏志倭人伝の「邪馬台国ルート」倭国大乱を素直に読めば、
「邪馬台国の場所 = 九州中部から北部」
は間違いない(と思う)。

また、中国の正史「二十四史」から倭の歴史年表を作ると、
・西暦57年~190年、中国から見た倭は「奴国」で、場所は福岡市近辺。
・西暦178年~184年、九州北部を中心に倭国大乱が起こった。
・西暦184年~、倭国大乱をおさめるため、国人は卑弥呼を女王に共立した。

というわけで、女王・卑弥呼が誕生したきっかけは倭国大乱ということになる。ところが、注意深く読むと、
「倭国大乱をおさめるために、卑弥呼を女王にした」
とあるだけで、
「卑弥呼が大乱をおさめた」
とは書いてない。ではその後、どうなったのだろう?

じつは、魏志倭人伝(三国志・魏書)に、その後の倭が記されている ・・・

景初二年(238年)6月、倭の女王が大夫を派遣して帯方郡(朝鮮半島の魏の拠点)にもうで、魏の皇帝に朝貢することを求めた。その年(238年)の12月、卑弥呼は使者を遣わし、男の奴隷4人、女の奴隷6人、布2匹2丈を献上した。魏の王はそれにこたえ、卑弥呼を「倭王」と認めた。

また、「梁書」では ・・・

魏の景初三年(239年)、公孫淵が誅殺された後、卑弥呼は初めて朝貢し、魏から「倭王」と認められ、仮の金印紫綬をさずかった。(同じ記述が中国・二十四史「北史)」にもある)

どうやら、卑弥呼は倭の内乱を平定したようだ。魏志倭人伝では238年、梁書では239年、卑弥呼が中国の魏王に使者を派遣し、倭王として認められたとあるからだ。ところで、倭国大乱が始まったのは180年頃なので、乱がおさまるまで60年もかかった?それとも、その前に乱は平定されていた?それを解く鍵は、
「公孫淵が誅殺された後、卑弥呼は初めて朝貢した」
にある。

「公孫淵(こうそんえん)」は、三国志の時代、「遼東」を支配した独立勢力である。遼東は中国と朝鮮半島の中間にあり、倭人が中国に行く際、必ず通る地域であった。その遼東を牛耳っていた公孫淵が死んだので、中国への遣使を再開できた、というわけだ。

遼東は中国の春秋時代、戦国七雄の一つ「燕」の領地だった。紀元前108年、中国の漢王朝は朝鮮半島を支配するため、楽浪郡(現在の平壌)を設置したが、その時、遼東も支配下に入った。ところが、238年、突然、公孫氏が遼東を占領する。そのため、倭人が中国(魏)に行けなくなったのである。その後、卑弥呼が遣使を再会する239年まで、中国の書から倭の記述が消えるので、つじつまは合っている。

公孫淵は油断のならない人物だった。魏と呉の両方に愛嬌を振りまきながら、突然、呉を裏切って、魏に帰順。その後、魏が支配する帯方郡と楽浪郡を占領し、燕王を称したのである。怒った魏王は公孫淵を滅ぼすことにした。魏軍の総司令官は、司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)である。蜀の諸葛孔明の宿命のライバルにして、魏随一の名将。

ということで、”寝技”が専門の公孫淵に勝ち目はなかった。238年8月、ロクな戦いもなく、燕軍は壊滅、公孫淵父子はじめ一族郎党、首をはねられた。こうして、帯方郡、楽浪郡、遼東は魏にもどり、「倭 → 朝鮮半島 → 中国」ルートが復活したのである。

さて、これらの史料の行間を読めば、卑弥呼が初めて朝貢した239年まで、倭国大乱が続いたとは思えない。それ以前に、倭国大乱は平定されたが、公孫淵の謀反で中国(魏)に行けなかったのだろう。この公孫淵事件は、中国・二十四史の一つ「晋書(しんじょ)」にもあり、次のように記されている ・・・

宣帝(司馬懿仲達)が公孫氏を平定すると、その女王(卑弥呼)は遣使を帯方郡に送って朝見し、その後も朝貢が続いた。文帝が相となると、また数回やって来た。前泰の初め、遣使が重ねて入貢した。

さて、ここに新しい情報がある。公孫氏が司馬懿仲達に討たれてから、前泰の初めまで、倭が積極的に朝貢したというのだ。「前秦」は五胡十六国時代、中国の長江(揚子江)以北全域を支配した大国である。前秦の存続期間は「351年~394年」なので、「前泰の初め」は351年以降。つまり、倭は、238年~351年、熱心に中国に使者を送っていたことになる。

ただ、
「公孫氏を平定した後、朝貢したのは卑弥呼」
とあるが、
「前泰の初めに朝貢したのは卑弥呼」
とは書いてない。そもそも、「前泰の初め」は西暦351年~で、卑弥呼が生きているはずがない。というのも、梁書によれば ・・・

正始中(240-249年)、卑弥呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに殺しあったので、再び卑弥呼の宗女「臺與(とよ)」を王として立てた。その後、また男の王が立った、いずれも中国の爵命を拝受した

つまり、卑弥呼は240~249年に死んでいる。とすると、「前泰の初め(西暦351年)」の朝貢は、卑弥呼も臺與もありえない。

ここで、一度整理しよう。
・180年~、倭国大乱が勃発した。
・~189年、倭国大乱をおさめるため国人は卑弥呼を共立した。
・239年、倭王・卑弥呼が初めて朝貢した。
・240~249年、卑弥呼は死んだ。
・~351年、倭は頻繁に朝貢した。

ということで、351年の朝貢は、少なくとも卑弥呼ではない。

ところが ・・・

この間に倭に「政変」が起こった気配はない。うっかりすると、351年の朝貢も卑弥呼に思えるほどだ。つまり、351年までは、倭の政権は卑弥呼、あるいは卑弥呼を継承した王統であった可能性が高い。つまり、「九州政権」。さて、ここで新たな問題が発生する。いつ、九州政権からヤマト王権(大和朝廷)に移ったか

■倭の五王

梁書によれば ・・・

魏の景初三年(239年)、公孫淵が誅殺された後、卑弥呼は初めて遣使を以て朝貢し、魏は親魏王と為し、仮の金印紫綬を授けた。正始中(240-249年)、卑弥呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあったので、再び卑弥呼の宗女「臺與」を王として立てた。その後、また男の王が立った、いずれも中国の爵命を拝受した

晋の安帝時(396-418年)、倭王・讃(さん)がいた。讃が死に、弟の珍(ちん)が立った。珍が死に、子の済(せい)が立った。済が死に、子の興(こう)が立った。興が死に、弟の武(ぶ)が立った。斉の建元中(479-482年)、武を持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に除した。高祖が即位すると、武の号を征東大将軍に進めた。

いわゆる、「倭の五王」の記述である。ざっくり言うと、
「西暦396年~482年、倭に、讃、珍、済、興、武の五王が立った」

「倭の五王」は、中国・二十四史の「南史(なんし)」、「宋書」にも出てくる。内容は梁書にくらべ、かなり詳細だが、五王の名前は同じ。では、この倭の五王とは一体誰をさすのか?

「日本書紀」から、
・讃 → 履中天皇
・珍 → 反正天皇
・済 → 允恭天皇
・興 → 安康天皇
・武 → 雄略天皇
とする説がある。この説に従えば、396年には九州政権からヤマト王権(大和朝廷)に移っていたことになる。

ところが、中国・二十四史によれば、西暦600年以降、「倭」と「日本」が明確に区別されている

それを素直に読めば、

1.【倭】:邪馬台国・卑弥呼を継承する王統(九州政権)

2.【日本】:ヤマト王権(大和朝廷)

もし、これが事実なら、九州政権からヤマト王権に移った時期は、600年以降になる。さて、真実はどこに?この謎は、邪馬台国の場所より、さらに深い。

《つづく》

by R.B

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