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週刊スモールトーク (第159話) 邪馬台国の九州説と畿内説

カテゴリ : 歴史

2011.08.15

邪馬台国の九州説と畿内説

■邪馬台国はどこ?

「魏志倭人伝」を素直に読んで、私心を捨てて、理詰めで迫れば、

邪馬台国の場所 = 九州中部から北部

に行く着く。魏志倭人伝の中に「朝鮮半島から邪馬台国にいたるルート」が克明に記されているからだ。もちろん、矛盾点もあるので、うのみにはできないが。

また、魏志倭人伝には「ルート」以外にも「邪馬台国の場所」をほのめかす記述がある。弥生時代末期におこったとされる「倭国大乱」だ。内容から推測するに、内乱というよりは、「内戦(Civil War)」に近い。もし史実なら、日本最古の内戦であった可能性もある。そして、この「倭国大乱」が「邪馬台国の場所」を解く重要な鍵になる。

魏志倭人伝によれば、西暦57年、日本の「奴国」が中国に使者を送り、金印を授かったという。この金印が福岡市「志賀島」から発見されているので、「奴国 = 九州北部」は間違いないだろう。ところが、「奴国」から「邪馬台国」に至る歴史が断絶している。もし、奴国と邪馬台国の歴史時空がつながれば、邪馬台国は奴国周辺(九州北部)にあったことになる。そして、その鍵となるのが「倭国大乱」なのだ。

ということで、今回は「倭国大乱」を中心に「邪馬台国の場所」を追っていく。この時代、日本にはまだ文字がなかったので、史料は中国の正史「二十四史」とする。その中から、倭(日本)のエピソードを抽出し、歴史時空のすき間を埋め、”連続した”倭の歴史年表を作成する。事がうまくはこべば、「邪馬台国の場所」も特定できるはずだ。

■最古の倭の記録

中国・二十四史で、最初に倭(日本)が登場するのは「漢書・地理志」である。「漢書」が成立したのは西暦80年頃で、班固、班昭の兄妹によって編纂された。内容は「前漢の歴史」だが、その中に倭(日本)の話がでてくる。

【訳文】
玄菟・楽浪郡(げんと・らくろうぐん)は、武帝の時に設置された ・・・ 楽浪郡の海の向こうに倭人(日本人)が住んでいて、100余りの国に分裂している。定期的に(中国の皇帝)に貢ぎ物を献上している。

【解説】
漢の武帝の時代に、玄菟・楽浪郡が設置された、という話のついでに、倭人(日本人)の話がでてくる。「楽浪郡」とは、漢から三国史の時代、中国が朝鮮半島を支配するために設置した拠点で、玄菟郡はその地方行政機関にあたる。第一玄菟郡は、紀元前107年に設置されているので、この情報は紀元前107年以前のものと考えていいだろう。

ここで、情報を整理すると、
・紀元前107年頃、日本は100余りの国からなり、中国に朝貢(ちょうこう)していた。

ここで、朝貢とは中国の皇帝が周辺国の王から貢物を受け取り、代わりに恩賜(官号・爵位など)を与えること。ところで、何のためにそんな面倒を?もし、朝貢国が他国から攻撃を受けたら、中国が助けてくれるかも、ぐらいのゆるい関係で、明確な取り決めがあったわけではない。

まぁ、中国にしてみれば、従属国が増えて鼻が高いし、朝貢国は大国・中国からお墨付きをもらうわけで、ステータスがアップする、という程度。中世ヨーロッパの封建制度のように、主君と家臣の間に明確な「契約」があるわけではない。

■奴国と帥升

つぎに、倭が登場するのは「魏志倭人伝」である。「魏志倭人伝」とは、正史「三国志・魏書・東夷伝」の中にある倭(日本)の記述の略称である。三国志は、陳寿(ちんじゅ)によって編纂され、成立したのは280年頃。中国二十四史の一つで、後漢末期から三国志(魏・蜀・呉)の歴史が記されている。その中に、こんな記述がある。

【訳文】
建武中元二年(西暦57年)、倭(日本)の奴国が使者を送り、貢ぎ物を献上した。使者は自分を大夫と称した。倭国の南の果てである。それに応えて、(後漢の)光武帝は金印を賜った。

安帝永初元年(西暦107年)、倭国王・帥升らは、生口(奴隷)160人を(後漢の皇帝に)献上し、謁見を願いでた。

【解説】
冒頭の魏志倭人伝(三国志・魏書)の「奴国」の話である。西暦57年、倭の「奴国」が後漢の光武帝に使者を送り、金印をもらった。さらに、江戸時代、現在の福岡市「志賀島」から「漢委奴国王印」と刻まれた金印が見つかっているので、
奴国 = 九州北部(福岡市近辺)
はほぼ間違いない。

さらに、その50年後の西暦107年、倭国王・帥升(すいしょう)は、160人の奴隷を後漢の皇帝に献上したという。

では、
「倭国王・帥升 = 奴国?」
であれば、分かりやすいのだが、魏志倭人伝にはそのような記述はない。つまり、「奴国」と「帥升の倭国」の間で、歴史時空は断絶しているのだ。

ところが、中国・二十四史の一つ「「隋書(ずいしょ)」に興味深い記述がある。

【訳文】
後漢の光武帝の時(25~57年)、遣使が入朝し、大夫を自称した。安帝の時(106~125年)、また遣使が朝貢、これを倭奴国という。

【解説】
先の魏志倭人伝と内容は同じだが、新しい情報もある。
「西暦106~125年、倭の『奴国』の遣使が朝貢した」
の部分。

ここで、先の魏志倭人伝の
「西暦107年、倭国王・帥升らは後漢の皇帝に奴隷を献上した」
と読み合わせると、
帥升の国 = 奴国
は間違いない。

というわけで、「奴国」と「倭国王・帥升」の歴史時空はつながった。ここで、西暦57年~107年の倭の歴史を整理すると、
・西暦57年、倭の奴国は後漢に朝貢した。
・西暦107年、倭の奴国の王・帥升は後漢に朝貢した。

つまり ・・・

西暦57~107年、「中国から見た倭国=奴国」で、場所は福岡市近辺。

■倭国大乱

さて、いよいよ「倭国大乱」。まずは魏志倭人伝(三国志・魏書)をみてみよう。

【訳文】
倭国(日本)は、元々、男を王としたが、70~80年で中断し、倭国は内乱におちいり、互い攻め合い、それが何年も続いたので、一人の女を王として共立した。名を卑弥呼という。(卑弥呼は)妖術を使い、人々を惑わした。

【解説】
要約すると、
・倭国は元々、男の王が支配していた。
・その支配は70~80年で終わり、以後、内乱が何年もつづいた。
・内乱を収めるため、皆で女王・卑弥呼を押し立てた。

興味深い内容だが、時期がわからない。ところが、その「時期」が記された書がある。「後漢書・東夷伝」だ。「後漢書(ごかんじょ)」は440年頃に成立した中国の二十四史の一つで、范曄(はんよう)によって編纂された。「後漢の歴史」が記されたものだが、その中にこんな記述がある。

【訳文】
桓帝・霊帝の治世のとき、倭国に大乱がおこり、互いに攻め合い、何年も王がいなかった。一人の女が現れた。名を卑弥呼と言う。年長になっても結婚せず、妖術を使って、人々を惑わした。そこで、皆で、(卑弥呼)を王にした。

【解説】
ここで、
・桓帝(かんてい):後漢の第11代皇帝。在位期間 146年~167年
・霊帝(れいてい):後漢の第12代皇帝。在位期間 168年~189年
なので、倭国大乱がおこった時期は「146年~189年」と特定できる。ところが、倭国大乱の時期をさらに絞り込んだ書もある。西暦629年頃に成立した「梁書(りょうじょ)」だ。それによると、

【訳文】
漢の霊帝の光和中(178~184年)、倭国は乱れ、何年も戦争が続いたので、卑弥呼という一人の女性を共立して王とした。卑弥呼には夫はなく、鬼道を身につけ、よく衆を惑わすので、国人はこれを立てた。

【解説】
倭国大乱が起こった時期は「178~184年」とさらに絞り込まれた。ここで、先の魏志倭人伝(三国志・魏書)の、
・倭国は元々、男の王が支配していた。
・その支配は70~80年で終わり、以後、内乱が何年もつづいた。
をつなぎあわせると、倭国は西暦100~180年頃、男の王が支配したことになる。

さらに前述の
「西暦107年、倭の奴国の王・帥升は後漢に朝貢した」
から、
70~80年支配した男の王 = 奴国・帥升の系統
と考えられる。

また、倭国大乱には物的証拠もある。「吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)」だ。吉野ヶ里遺跡とは、”九州北部”の佐賀県で発見された弥生時代の集落跡で、紀元前4世紀頃から形成された。

吉野ヶ里遺跡の一番の特徴は「環濠集落(かんごうしゅうらく)」だろう。環濠集落とは、周囲に堀をめぐらせ、防衛を強化した集落で、戦争を前提としている。実際、吉野ヶ里遺跡からは、矢じりが刺さった人骨や、首が無い人骨が発掘されている。つまり、西暦250年頃まで、倭(少なくとも九州北部)は「戦争社会」だったのだ。

ところが、環濠集落は西暦250年頃から廃棄され、集落は丘陵から平野に移っていく。つまり、「戦争社会」から「平和な社会」に移行したわけだ。これは九州北部に限らず全国区の現象なので、西暦250年以降、倭に強力な統一政権が形成されたことを示唆している。

また、平和が到来した250年頃から650年頃まで、日本では前方後円墳(古墳)がさかんに造られた。この時代を「古墳時代」とよんでいるが、その終着点が「大和朝廷(ヤマト王権)」なのである。

ここで、事実を抽出しよう。
西暦250年頃まで、倭は戦争社会だった
西暦250年以降、倭に強力な政権が形成されていく(大和朝廷)

この情報を頭の片隅におき、次に、邪馬台国(卑弥呼)を追う。

■倭の歴史年表

「魏志倭人伝(三国志・魏書)」、「後漢書」、「梁書」、「隋書」によれば ・・・

倭国は何年も内乱が続いたので、それを収めるために、卑弥呼という年増(としま)の妖術使いを王にした。

この4書の成立時期と内容から推測するに、原典は「魏志倭人伝(三国志)」で、残り3書はコピペ。では、卑弥呼の実在はあやしい?いや、それはないだろう。中国・二十四史に「卑弥呼」が他にも登場するからだ。複数の書で、異なったエピソードで、「卑弥呼」が記されている以上、実在したと考えるべきだろう。でないと、中国の正史「二十四史」を史料として認めないことになり、それはとりもなおさず、日本の古代史を否定することにもなる。

さてここで、倭の歴史年表を作成する。中国・二十四史の情報をベースに、歴史時空のすき間を埋めたものである。

時期
イベント
紀元前107年 倭は100余りの国からなり、中国王朝に定期的に朝貢した。
57年 倭の奴国は中国の後漢に朝貢し、皇帝から金印を賜った。
(※奴国は現在の福岡市近辺)
107年 倭の奴国の王・帥升は中国の後漢に朝貢した。
(※奴国は57年に後漢に朝貢した奴国と同じ)
107~178年 奴国王・帥升の系統の男の王が70~80年間、倭を支配した。
(※中国からみた倭の支配者は奴国)
178~184年 奴国王・帥升の系統の支配が終わり、内乱が何年も続いた(倭国大乱)。
184年~ 倭の内乱を収めるため、国人は女王・卑弥呼を共立した。

この歴史年表から見えてくるのは、
・西暦57年頃~184年、中国からみた「倭国(日本)」は「奴国」。
・「奴国」 = 九州北部(福岡市近辺)。
・西暦178年~184年、九州北部に内乱が続いた(倭国大乱)。
・内乱を収めるため、卑弥呼が倭の女王になった。

つまり、
「中国からみた『倭の歴史』は九州北部(奴国)を中心に連続している」
歴史時空がつながっている以上、
邪馬台国の場所 = 倭国大乱が起こった九州北部周辺
と考えるのが自然だ。移動手段が限られた時代に、九州北部の内乱の鎮圧を、はるか東方の畿内の”女王”にゆだねるわけがないから。

ということで、邪馬台国・畿内説にはかなりムリがある。

邪馬台国・畿内説にはもう一つ矛盾がある。じつは、発掘された古墳や集落から、この時代(弥生時代末期)、日本に複数の勢力が存在したことがわかっているのだ。

具体的には、
・九州(特に北部)
・吉備(広島・岡山・兵庫・瀬戸内海の島)
・出雲(島根・鳥取)
・畿内(奈良・大阪・京都)
・毛野(群馬・栃木)

もし、邪馬台国が畿内にあったのなら、なぜ、大国の「吉備国」や「出雲国」の話が出てこないのか?魏志倭人伝の「朝鮮半島から邪馬台国に至るルート」を読めば、九州北部に上陸し、「奴国」まで行ったことは確かだ。そこから畿内に向かえば、必ず吉備国や出雲国を通るはずである。九州北部の記述は充実しているのに、もっと大きな吉備国や出雲国の記述がないのはおかしい。

さらに、魏志倭人伝(三国志・魏書)に記された「邪馬台国の風習や生活」を読むと、邪馬台国は南国としか思えない。では、これほど多くの事実が「邪馬台国・九州説」を示しているのに、なぜ「邪馬台国・畿内説」なのか?そのよりどころとなるのが、「三角縁神獣鏡」と「九州以外の勢力」である。

■三角縁神獣鏡

三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)とは、卑弥呼が魏の皇帝から賜ったとされる銅鏡のことである。確かに、魏志倭人伝(三国志・魏書)には、
「西暦239年、魏の皇帝から卑弥呼に『銅鏡100枚』賜った」
とある。

一方、1953年以降、京都や奈良の古墳から銅鏡が多数発掘され、そこに中国の年号が記されていた。この銅鏡は周縁部が三角で、神獣の絵が鋳造されていたことから「三角縁神獣鏡」とよばれている。ところが、この三角縁神獣鏡は、この時代、九州から一枚も発見されていない。そこで、
三角縁神獣鏡=卑弥呼の銅鏡」→「邪馬台国 = 畿内」
というわけだ。

ところが、中国の学者は、
三角縁神獣鏡は中国で一枚も見つかっていない
と中国製であることを否定している。しかも、中国にはない年号も記されているという。そもそも、魏志倭人伝(三国志・魏書)には「銅鏡100枚」としか書いてないのに、なぜ、それが三角縁神獣鏡でなければならないのか?根拠としては弱すぎる。

邪馬台国・畿内説のもう一つの根拠が「九州以外の勢力」の存在である。これまでの発掘調査で、西暦200年頃、日本には九州北部より大きな勢力が存在したことが分かっている(前述)。さらに、西暦200年頃以降、「前方後円墳」が全国で造られるようになり、それが大和朝廷(ヤマト王権)に直結している。

そこで、

倭の最強国=畿内(大和朝廷の系統)

という事実をふまえ、
「倭の最強国=邪馬台国」という史料を考え合わせ、

「邪馬台国=畿内」

と推定したわけだ。だが、これは前提が間違っている。

我々の推理のよりどころは、魏志倭人伝(三国志・魏書)など中国の書で、「中国視点」であることを忘れてはならない。つまり、中国からみた倭とは、中国が”知っている”国、つまり、九州北部に限定されている。だから、邪馬台国が倭の最強国とは限らないのだ。とすれば、「倭の中心」の視点から、邪馬台国が畿内にあったとするのは早計だろう。

■結論

ということで、
「邪馬台国の場所=九州北部」

広がりを考慮すれば、
「邪馬台国の場所=九州北部~中部」

この結論は、前回の魏志倭人伝の「邪馬台国ルート」の結論と一致する。

つぎに、倭国大乱の規模について。戦乱がどこまで広がっていたか?「日本全域」は論外として、「西日本全域」とする説がある。だが、中国・二十四史にはそのような記述はない(気配も)。そこで、「倭国大乱の中心 = 九州北部」は間違いないとして、問題は狗奴国を含むかどうか?じつは、魏志倭人伝(三国志・魏書)には、狗奴国の記述が2カ所ある。

・邪馬台国の南に狗奴国があり、女王(卑弥呼)に従属していない。
・倭の女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼は”元々”仲が悪い。

「倭の女王・卑弥呼」、つまり、卑弥呼が倭の女王となった後も、狗奴国は邪馬台国と敵対している。もし、狗奴国が倭国大乱の当事国なら、倭国大乱を収めるために、卑弥呼を女王にかついだりはしないだろう。だから、狗奴国は倭国大乱とは関係なく、はじめから最後まで、邪馬台国と敵対していたと考えるほうが自然だ。つまり、倭国大乱の戦域は、九州北部、せいぜい九州中部までだろう。

ということで、結論。

「邪馬台国の場所」、「狗奴国の場所」、「倭国大乱の戦域」は下図のとおり ・・・ 当たらずとも遠からずと思うのですが、いかがでしょう?

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《つづく》

by R.B

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