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週刊スモールトーク (第158話) 邪馬台国の場所と魏志倭人伝

カテゴリ : 歴史

2011.07.31

邪馬台国の場所と魏志倭人伝

■邪馬台国論争

邪馬台国はどこにあったのか?こんな論争が200年以上も続いている。はた目でみると、利害がらみで初めに結論ありき、理由は後づけ、あるいは、考えることそのものが楽しい、等々、真実を追求する姿勢はあまり見られない。普通に考えれば、「邪馬台国の場所=九州中部から北部」なのに、なぜそんな難しく考えるのだろう。

邪馬台国の場所がいまだ特定できないのは、中国の書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」を真に受けるからである。「魏志倭人伝」とは「三国志」に出てくる倭人のエピソードで、三国志は言わずと知れた魏・蜀・呉の歴史物語。ところが、その三国志、著作権が切れたのをいいことに、小説、漫画、映画、ドラマ、ゲームと、骨の髄までしゃぶりつくされている。

もっとも、歴史好きに言わせると、「三国志」は正史だが、エンターの原作は「三国志演義(三国演義)」で、こっちはマンガ、ということらしい。とはいえ、内容が大きく変わるわけではない。正史「三国志」では、蜀が魏を滅ぼし、中国を統一するなんてことはないのだから。

正史「三国志」は魏書・蜀書・呉書の3書からなる。その魏書に「東夷伝」という巻があって、その中に倭人(日本人)の話がでてくる。その部分を「魏志倭人伝」とよんでいるわけだ。つまり、三国志の中に「魏志倭人伝」という巻があるわけではない。ちなみに、「東夷」とは「(中国からみて)東方の蛮族」という意味。もちろん、われらの祖先(倭人)も含む。

さて、肝心の内容だが、わずか2000文字ほどしかない。そこに、朝鮮半島から邪馬台国にいたるルートが克明に記されているのだ。

ところが・・・

それを真に受けると、

1.九州は南北の長さが1000km以上あった(実際は320km)。

2.九州の南方に全長1000km以上の大きな島が存在した。

のどちらか。

これは説明が難しい。邪馬台国はアトランティスのように海中に沈んだ?それとも「魏志倭人伝(三国志・魏書)」はトンデモ本?たぶん、どちらでもないだろう。そもそも、「三国志」は中国政府公認の正史で、中国・二十四史の一つ。しかも、「信用のおけない情報を極力排した公正で正確な書」として知られる。さらに、朝鮮半島から九州北部に至るルートに限れば記述は事実と一致する。では、何が問題なのか?後半の「陸行一月」という部分。「陸路を1ヶ月移動する」の意味だが、ここが大問題なのだ。

エヴェレストでも登らない限り、徒歩の移動は1日20kmぐらい。これは今も昔も変わらない。ここで、陸路1ヶ月なら、
20km×30日=600km
仮に旅程の1/3を温泉につかって、のんびりしたとしても、400kmは移動できるだろう。ところが、九州の北端から南端までは約320km。つまり、邪馬台国は海の中!?

そこで、この矛盾を回避するため、邪馬台国は九州ではなく畿内(奈良・大阪・京都)にあったという説もある。いわゆる「畿内説」だ。「陸行一月」の距離をかせぐため、向きを南から東に変えたわけだ。かなりのムチャ振りだが、歴史の連続性に注目すれば、畿内説はありえない(後述)。ということで、まずは「魏志倭人伝」を真に受けて、行けるところまで行ってみよう。

■魏志倭人伝

これから、「魏志倭人伝」を読み解くわけだが、次の3段階で話を進める。

【原文】魏志倭人伝の原典の書き下し(古文)。

【訳文】現代語訳。

【解説】事実の確認。

(古文が嫌いな人は、【訳文】と【解説】だけ読んでね)

まずは、朝鮮半島から九州に上陸するまでのルート(地図参照↓)。

Yamataikoku_Korea_Japan

《1.帯方→狗邪韓国》

【原文】

倭人、帯方の東南の大海の中に在り、山島に依り、國邑を為す。旧百余國。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十國。郡より倭に至るには、海岸にそって水行し、韓國を歴て、あるいは南、あるいは東、その北岸狗邪韓國に到る七千余里。

【訳文】

倭人(日本人)は、帯方の東南の大海の中にあって、山と島で国をなしている。もとは100国余りあった。漢の時代に、漢の王に使者を送った者がいる。今は使者や通訳の行き来するところは30国ある。帯方から倭(日本)に行くには、海岸にそって航海し、韓国をへて、南や東に方向を変えて、狗邪韓国の北岸に着く。その全行程は7000里余りである。

【解説】

出発点の「帯方」は「帯方郡」ともよばれ、後漢から三国史の時代、中国が朝鮮半島を支配するための拠点であった。「帯方」は、同じ中国の支配拠点「楽浪郡」の南方にあったとされ、楽浪郡は現在の平壌にあったので、現在の仁川(インチョン)あたりだろう。また、到着点の狗邪韓国(くやかんこく)は、朝鮮半島南部にあった倭の拠点「伽耶(かや)」と考えられるので、現在の釜山(プサン)あたりとする。これを前提に話を進め、もし、論理が破綻したら、この仮定を破棄する。

まず、「帯方(仁川)」から「狗邪韓国(釜山)」までの距離を地図で測る。この時代の古代船は脆弱で、位置の測定も怪しいので、大海を一気に抜けるのはムリ。陸地を見ながら沿岸航海するしかなかった(西洋も事情は同じ)。そこで、ルートは上図のように沿岸沿いとする。この場合、仁川から釜山の距離は「700km」。魏志倭人伝には「7000里」とあるので、
「700km÷7000里=0.1km/里」
が成り立つ。

さて、ここまでの仮定を整理すると、

1.帯方=現在の仁川(インチョン)

2.狗邪韓国=現在の釜山(プサン)

3.1里=0.1km

この仮定で魏志倭人伝を読み進め、論理が破綻しなければ、この仮定が正しいことになる。もし、一つでも間違いがあれば、つじつまが合わなくなるので。

《2.釜山→対馬》

【原文】

始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗と言い、副を卑奴母離と言う。居る所は絶島にして、方四百余里ある。土地は山が険しく、深林多く、道は禽鹿の道のごとし。千余戸有り。良田無く、海物を食し自活する。船に乗りて南北に市糴する。

【訳文】

はじめて海をわたって、1000里余りで対馬国(対馬)に着く。その地の大官を卑狗といい、副官を卑奴母離という。この地は絶島で、広さは400里余りある。山が険しく、林が深く、道は獣道(けものみち)のようだ。家は1000戸余りある。良い田がない。海産物を食べて自活している。船に乗って南北に出て米を買っている。

【解説】

朝鮮半島の釜山から対馬までの海上ルートである。釜山から対馬まで1000里とあるので、先の仮定「1里=0.1km」を適用すると「100km」。地図で、釜山から対馬までの距離を測ると「90km」。記述内容と事実が一致するので、ここまでは問題ナシ。

《3.対馬→壱岐》

【原文】
又南に一海を渡ること千余里。名をかん海という。一大國に至る。官は卑狗といい、副を卑奴母離という。方三百里ばかり。竹木、叢林多し。三千ばかり家有り。やや田地有り。田を耕せどなお食足らず、南北に市糴する。

【訳文】

南に海を渡って1000里余り行く。この海の名を「かん海」という。一大国(壱岐)に着く。官を卑狗といい、副官を卑奴母離という。広さは300里ほど。樹木が群がってはえている林が多い。家は3000戸ほどある。少し田がある。田を耕しても、食が不足するので、南北に出て米を買っている。

【解説】

対馬から壱岐までの海上ルート。距離は「1000里」とあるので、「1里=0.1km」を適用すると「100km」。地図で測ると100kmで、ドンピシャ。さて、ここまでは事実とみごとに一致している。もちろん、先の3つの仮定は間違っているのだが、相殺しあって結果として正しい・・・は考えられなくもないが、ここは確率の高い王道でいこう。

つまり、

1.帯方=仁川

2.狗邪韓国=釜山

3.1里=0.1km

は正しいと考えていいだろう。

《4.壱岐→末盧國→伊都国》

【原文】

又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚鰒(アワビ)を捕うるに、水深く無く、皆沈没して之を取る。東南に陸行五百里、伊都國に到る。官を爾支といい、副を泄謨觚・柄渠觚という。千余戸有り。王有るも皆女王國に統属す。郡の使い往来し、常に駐る所なり。

【訳文】

また、海を1000里余り渡ると、末盧国に着く。家は4000戸余りある。(住民は)山と海に沿って住んでいる。草木が生いしげり、前を行く人の姿が見えないほどである。(住民は)よく魚や鰒(あわび)を捕える。水が深かろうが浅かろうが、みんな素潜りでとっている。陸路を東南に500里行くと、伊都国に着く。官を爾支といい、副官を泄謨觚・柄渠觚という。家は1000戸余りある。王はいるが、みんな女王国(邪馬台国)に属している。この地は、帯方の使者が行き来する時、つねに滞在するところである。

【解説】

まずは、壱岐から末盧国までの海上ルート。ここで、末盧国(まつらこく)は、現在の長崎県の松浦(まつうら)と考えられている。壱岐から末盧国まで1000里(100km)とあるが、地図で測ると50km。50kmの誤差があるが、「魏志倭人伝」では水路は100kmが最小単位なので、「50km=100km」と考えてもいいだろう。また、末盧国(まつらこく)、松浦(まつうら)と読みも似ているし、その後の陸路の記述を考慮すれば、、「末盧国=松浦」でつじつまは合う。

さていよいよ、九州内部を移動する(地図参照↓)。

Yamataikoku_JapanRoot

末盧国から陸路を東南に500里(50km)行くと、伊都国に着く。伊都国(いとこく)は、福岡県の糸島市(いとしまし)と考えられている。末盧国(松浦)から伊都国(糸島市)の距離を地図で測ると60km。距離もあっているし、伊都国(いとこく)、糸島市(いとしまし)と読みも似ている。何より、その後の陸上移動も矛盾しない。ということで、「伊都国=糸島市」とする。

《5.伊都国→奴国→不弥国→投馬国》

【原文】

東南、奴國に「至る」こと百里。官を兇馬觚といい、副を卑奴母離という。二萬余戸有り。東行、不彌國に「至る」こと百里。官を多模といい、副を卑奴母離という。千余の家有り。南、投馬國に「至る」。水行二十日。官を彌彌といい、副を彌彌那利という。五萬余戸ばかり有り。

【訳文】

東南に向かい、100里(10km)で奴国に着く。官を兇馬觚といい、副官を卑奴母離という。家は2万戸余りある。東に100里(10km)行くと不弥国に着く。官を多模といい、副官を卑奴母離という。家は1000戸余りある。南に向かって水路20日行くと、投馬国に着く。官を彌彌といい、副官を彌彌那利という。家は5万戸余りある。

【解説】

まずは、「伊都国→奴国」。距離は10kmなので、奴国は現在の福岡市近辺になる。ではなぜ、地図であえて「奴国=志賀島」としたのか?

中国・二十四史の一つ「後漢書・東夷伝」によれば、西暦57年、倭奴国(日本の奴国)が後漢の光武帝に使者を送り、光武帝から金印を授かったという。じつは、これには物証がある。江戸時代、現在の福岡市の「志賀島」から金印が発見され、そこに、ズバリ「漢委奴国王印」と刻まれていたのだ。後漢の光武帝が「奴国」に授けた金印に間違いないだろう(江戸時代の農民が偽造できるシロモノではないので)。ということで、

「奴国=志賀島近辺=福岡市」

さてここで、一度整理しよう。魏志倭人伝の記述に従って、「帯方」から「奴国」まで移動したら、そこは「志賀島(福岡市)」だった。ところが、「後漢書・東夷伝」にも「奴国」が登場し、それを証明する金印が「志賀島」で発見されている。

つまり、

1.魏志倭人伝の「帯方」から「奴国」のルートの記述は正しい

2.魏志倭人伝の奴国=後漢書・東夷伝の奴国

つぎに、「奴国→不弥国」の移動。奴国から東に向かって10kmとあるので、「不弥国=福岡市近辺」と考えていいだろう。

ところが、次の「不弥国→投馬国」が問題だ。「水路、南に向かって20日」とあるが、そもそも、福岡市の南方に水路はない。百歩譲って、九州の北岸を沿岸沿いに東進し、その後南下したとしよう(地図参照)。古代船の1日の航行距離は10km~15kmなので、
移動距離は20日×10km=200km
そのまま当てはめると、投馬国は現在の大分市あたりになる。

しかし・・・

ここまで、旅程は「距離」だったのに、なぜ「日数」に変わったのか?じつは、中国・二十四史の一つ「隋書(ずいしょ)」と「北史(ほくし)」にはこんな記述がある。

「東夷の人は里数を知らない。ただ日を以って計っている」

意味するところは、
「東方の蛮族(日本を含む)は距離を知らないので、日で計っている

つまり、「距離を日数で計る」をさげすんでいるのだ。ではなぜ、魏志倭人伝(三国志)であえて「日数」を採用したのか?しかも、途中から。じつは、魏志倭人伝は距離で記された部分は正確なのに、日数で記された部分はメチャクチャなのだ。さては、「不弥国」以後は倭人の伝聞?

《6.投馬国→邪馬台国》

【原文】

南、邪馬壹国(邪馬台国)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り。次を彌馬升といい、次を彌馬獲支といい、次を奴佳テという。七萬余戸ばかり有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載できるも、その余の旁(かたがた)國は遠絶にして詳を得ることあたわず。

【訳文】

南に向かって、水路10日、陸路1ヶ月で邪馬台国に着く。女王(卑弥呼)の都である。官に伊支馬がある。その次に彌馬升、その次に彌馬獲支、その次に奴佳テという。家は7万戸余りある。この女王国の北方は、家の戸数や道や距離はおよそわかるが、そのわきの国々は遠く離れていて、詳しく知ることができない。

【解説】

邪馬台国への最後のルートである。そしてここが最大の難問。投馬国が大分市として、そこから「水路10日」なら、距離は、
10日×10km=100km
地図でみると、宮崎県の延岡あたりだ。
さらに、南に向かって陸路1ヶ月なので、
30日×20km=600km
九州の南端を突き抜けて沖縄まで南下することになる。邪馬台国はジュール・ヴェルヌの海底都市?

論理が破綻したので、ここでやめてもいいのだが、この後、興味深い記述があるので、もう少し続けよう。

《7.邪馬台国→奴国》

【原文】

次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

【訳文】

つぎに斯馬国がある。つぎに已百支国がある。つぎに伊邪国がある。つぎに都支国がある。つぎに弥奴国がある。つぎに好古都国がある。つぎに不呼国がある。つぎに姐奴国がある。つぎに対蘇国がある。つぎに蘇奴国がある。つぎに呼邑国がある。つぎに華奴蘇奴国がある。つぎに鬼国がある。つぎに為吾国がある。つぎに鬼奴国がある。つぎに邪馬国がある。つぎに躬臣国がある。つぎに巴利国がある。つぎに支惟国がある。つぎに烏奴国がある。つぎに奴国がある。ここが、女王の国の境界である。

【解説】

ここは、邪馬台国が支配する国をクドクド列挙しているだけ。だが、一つ重要な情報がある。邪馬台国に属する国が21ケ国あること。さらに、前の記述では、九州に上陸した後、陸を移動する国々は「みんな女王国(邪馬台国)に属している」とある。とすると、邪馬台国が支配する国は30ヶ国ぐらいはあっただろう。

これは冒頭の、
「今は使者や通訳の行き来するところは30国ある」
とも一致する。じつは、
邪馬台国の支配地は30国
は邪馬台国の場所を特定する重要な鍵になる。

《8.狗奴國》

【原文】

その南、狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡より女王國に「至る」こと萬二千余里。

【訳文】

その南に、狗奴国(くなこく)がある。男が王である。その官に狗古智卑狗がいる。女王(邪馬台国の卑弥呼)に属していない。帯方から女王国にいたるまで12000里余りある。

【解説】

さて、この部分は重要だ。ポイントは2つ。一つは「狗奴国」の存在。邪馬台国に従わないのだから、それなりの大国だったはずだ。

そこで、先の「邪馬台国の支配地は30国」を思い出し、2番目の地図【末盧国から邪馬台国まで】を眺めてみよう。国のバラツキ具合を見れば、「30国」の広さは少なくとも「九州の半分」と推定できる。ところが、その南方に大国「狗奴国」があるので、「狗奴国」を九州南部にすえると、邪馬台国の居場所は「九州中部以北」しかない。

さらに、先の記述
「末盧国・・・伊都国・・・王はいるが、みんな女王国(邪馬台国)に属している」
から、邪馬台国は九州北部(末盧国、伊都国)と九州南部(狗奴国)の間にあったはずだ。

もう一つのポイントは、「帯方から女王国まで1200km」。最後の最後に、「日数」ではなく、「距離」が復活している。ここで、「魏志倭人伝でつじつまが合うのは『旅程=距離』」を思い出し、全旅程を「距離」だけで再構築すると、

1.帯方→釜山:700km

2.釜山→対馬:100km

3.対馬→壱岐:100km

4.壱岐→末盧国:100km

5.末盧国→奴国:60km

以上を合計すると、

「帯方→奴国」=1060km

さらに、

「帯方→邪馬台国」=1200km

なので、

「奴国→邪馬台国」=1200km-1060km=140km

つまり、邪馬台国の場所は奴国(福岡市)から半径140km圏になる。ここで、道が曲がりくねっていることを考慮すると、東方なら大分市、南方なら熊本市、西方なら長崎市あたりになる。ということで、ここでも、

「邪馬台国の場所=九州中部から北部」

つまり・・・

「魏志倭人伝」で、論理が破綻しない部分だけをつなぎ合わせると、「邪馬台国の場所=九州中部から北部」
となる。

もちろん、これだけで「邪馬台国の場所」を結論付けるつもりはない。すべて状況証拠にすぎないので。では、邪馬台国論争はここでおしまい?いや、あきらめるのはまだ早い。精度の高い状況証拠は物的証拠に匹敵するのだから。

じつは、魏志倭人伝には、「邪馬台国へのルート」以外の記述もある。その一つが「倭国大乱」だ。倭国大乱は弥生時代後期におこった内乱と考えられているが、「邪馬台国の場所」を解く重要な鍵になる。もし、倭国大乱を境に前後の歴史がつながれば、邪馬台国の場所は簡単に特定できるだろう。

ところが、中国の書だけでは、情報が断片的で、歴史の時空がつながらない。とはいえ、日本の書に期待するのはムリ。日本に文字が登場するのは5世紀以降なので。というわけで、この手の問題の解決方法は一つしかない。つじつまの合っている断片をつなぎ合わせ、それ以外は切り捨て、あとは想像で補間する・・・考古学とは「時間と空間のジグゾーパズル」なのかもしれない。

《つづく》

by R.B

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