BeneDict 地球歴史館

BeneDict 地球歴史館
menu

週刊スモールトーク (第127話) 大航海時代(12)~オランダ海上帝国~

カテゴリ : 歴史

2009.06.14

大航海時代(12)~オランダ海上帝国~

■メアリー・スチュアート事件

イングランド女王エリザベス1世は、海賊ドレイクがスペイン領を荒らし回るのを、見て見ぬふりをし、その後、おおっぴらに公認した。また、ネーデルラントがスペインに謀反すると、影でコソコソ援助した。これだけでも、スペイン国王フェリペの堪忍袋の緒は切れそうだった・・・1568年、エリザベス1世は、メガトン級の爆弾をかかえていた。いそうろうのメアリー・スチュアートである。メアリーは元スコットランド女王で、わけあって国を追われ、イングランドに逃げ込んでいた。

ところが、彼女は、3杯目をそっと出すような奥ゆかしい「いそうろう」ではなかった。エリザベス1世をさしおいて、自分こそがイングランドの王位継承者だと触れまわったのである。たしかに、メアリーはエリザベス1世より出が良かった。メアリーの母方はフランス貴族だし、父方はテューダー朝創始者の直系。一方のエリザベス1世は、父こそイングランド王だが、母方は4代前にさかのぼれば農民。血筋と人柄を考慮すれば、メアリーは油断のならない人物で、エリザベス1世にとって不倶戴天(ふぐたいてん)の敵だった。

一方、イングランドにとってもメアリーは爆弾だった。彼女が敬虔なカトリック教徒だったからである。この頃、イングランドの国教は英国国教会で、その首長を国王が兼任していた。つまり、政教一致。他の宗派の反発は必至で、実際、カトリック教徒の反乱は後を絶たなかった。こんな状況で、もし、反抗的なカトリック教徒がメアリーのもとに結集したら・・・宗教対立どころか、国を2分する内戦に発展する。

そんなこんなで、メアリーはエリザベス1世やイングランドにとって、生ける大量破壊兵器だったのである。そんな中、火に油を注ぐような事件が起こる。カトリック教徒のバビントンがエリザベス1世を暗殺しようとしたのである。ところが、計画は事前に発覚、メアリーが関与していたことが判明した。メアリーは有罪となり、1587年2月8日、巨大な斧で首を落とされた。じつは、メアリーは生前、スペイン国王フェリペに手紙を出していた。その内容は、たわいもないグチから、危険な陰謀まで、色々。もっとも、フェリペにとって手紙の内容はどうでもよかった。カトリックの王族メアリーが、カトリックの盟主たる自分を頼ってくれた、そのメアリーをエリザベス1世が処刑した・・・こうして、スペイン国王の堪忍袋の緒は本当に切れてしまった。

■アルマダの海戦

1588年5月28日、スペインの無敵艦隊がリスボン港を出港する。13隻の大型船に、3万人が乗り込んだ。その大半が陸兵である。後世、「アルマダの海戦」とよばれるこの戦いは、ほんとうは陸上戦だったのだ。スペイン側の計画によれば、イングランドに上陸し、イングランド軍をけちらし、エリザベス政権を倒す。ことがうまくはこべば、海賊ドレイク一派を一掃できるし、ネーデルラントはイングランドの支援を失い、独立も頓挫する。ところが、あれほど熱心に祈ったのに、神はスペインに味方しなかった。

1588年7月21日、歴史に名高いアルマダの海戦が始まった。スペイン側は、初戦でつまづき、そのままズルズル敗戦、9日後、すべてが終わった。無事帰還できたスペイン兵はおよそ半分。スペインの無敵艦隊は、イングランドに上陸する前に、その勇ましい名とともに、海のもくずと消えたのである。じつは、開戦前から、スペイン敗北の予兆はあった。出陣の3ヶ月前、スペインの偉大な提督サンタ・クルス公が死去し、海戦に不慣れなメディナシドニア公が総司令官に任命された。

一方のイングランド側は、総司令官はチャールズ・ハワード、実際の指揮官はフランシス・ドレイクである。ドレイクは、日がな海賊稼業に明け暮れる戦闘と略奪の達人だった。両軍の将兵の練度にはかなりの差があった。兵装もしかり。スペイン艦隊はカノン砲、イングランド艦隊はカルバリン砲である。カノン砲はいわゆる重砲で、砲弾が重く、破壊力はあるが、射程距離が短かい。一方のカルバリン砲はその逆。どんな破壊力があろうが、砲弾がとどかないと意味がない。また重いカノン砲を搭載すれば、船も大型化し、動きも鈍くなる。実際、鈍重なスペイン艦隊は高速なイングランド艦隊の「ヒット・アンド・アウェイ」にほんろうされた。

スペイン王国はこの海戦を境に、世界の覇権争いから脱落していった。この通説は、結果論的には当たっているが、国が衰退する原因は1つではない。国家の趨勢を決めるのは「ヒト×モノ×カネ×体制」で、この点で、スペインとポルトガルは、イングランドやオランダに遅れをとっていた。つまり、衰退期の入り口で、「アルマダの海戦」でトドメを刺されたのである。

■オランダ人気質

酷暑を想わせる南国の海岸に、ズングリとした帆船が接岸している。それを満足そうに眺める中年の男女。男は黒いハットに黒い上下服、女は黒いワンピース。真夏の炎天下、黒の冬服でトータルコーディネート?

謎はもう一つある。この中年の男女が手を握りあっていること。ところが、顔をみると、愛を語り合う齢でもない。これは、17世紀のオランダの画家コプが描いた絵画で、題名は「オランダ商船のバタヴィア帰還」。厚着の中年男女はオランダ商人の夫妻で、帆船は夫婦が所有する商船である。場所はジャワ島のバタヴィア、現在のジャカルタだ。

バタヴィアは、17世紀に胡椒の一大集散地となり、オランダ香料貿易の拠点として栄えた。このあまり有名でない絵画には、17世紀オランダの歴史が凝縮されている。17世紀初頭、ネーデルラントの北部7州はスペインから独立し、ネーデルラント連邦共和国を建国した。これが現在のオランダである。独立を成し遂げ、意気揚がるオランダ人たちは、ポルトガルに遅れること200年、植民地事業にのりだした。そんな彼らを精神面でささえたのが「キリスト教カルヴァン派」だった。

カルヴァン派は、ルターの宗教改革で生まれたプロテスタントの一派で、ジャン・カルヴァンが唱えたカルヴァン主義によっている。カルヴァン派は「金儲けは善」とされたので、商工業者に人気があった。もっとも、何でもありと言うわけではない。金儲けはいいが、贅沢や浪費は悪とされたのである。つまり、稼いでも、貯金するだけ・・・先の絵画には、こんなオランダ人気質が凝縮されている。商売繁盛のためなら命を惜しまず(ジャワ島まで進出)、貿易で財を築いても(商船を所有)、質素な習慣を守り(黒い冬服)、律儀に夫婦のきずなを確かめ合う(握り合う手)。このような生き方は、神の思し召しにかなうとされ、商人たちは率先して実践した。オランダ人は酷暑の中でも、神の教えと祖国の伝統を守り、スペイン・ポルトガル人は暑さの中でどっぷり土着化していった。

■オランダ人の航海

オランダ人の最初の航海は、1595年に行われた。コルネリス・デ・ハウトマンが、東回りでジャワ島に達したのである。ハウトマンの航路は、同じ東回りでもポルトガルとは違った。ポルトガルの東回り航路は、「喜望峰→アフリカ東岸を北上→インド洋→マラッカ→スパイスアイランド」

一方、ハウトマンの東回り航路は、「喜望峰→インド洋→ジャワ島→スパイスアイランド」つまり、「アフリカ東岸を北上」がスッポリ抜けている。その秘密は貿易風にある。

貿易風とは、一年中一定方向に吹く風で、北半球では北東の風、南半球では南東の風である。ハウトマンは、この貿易風にのって、一気にインド洋を横断したのである。ところで、北東の風も南東の風も、東進すると逆風になるのでは?

心配無用、帆船は縦帆(じゅうはん)さえあれば、逆風でも前進できる。風向きと垂直方向に推進力を得る魔法(ベルヌーイの法則)と、ジグザグ航法によって。もちろん、順風に比べれば航行速度は落ちる。

1596年、ハウトマンの船団はジャワ島のバンテン港に着岸した。当時、この地はバンテン王国の支配地で、胡椒の仲介貿易で栄えていた。ハウトマンはここで、半ば強引に香辛料を手に入れ、オランダに帰還する。ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見に遅れること100年。しかし、この航海には歴史的な意義があった。貿易風が初めて利用されたこと、オランダ海上帝国の始まりとなったことである。オランダの野望は西方にも向けられた。

1598年、ズングリとしたオランダ船がブラジル沿岸に現れ、ポルトガルの植民地を襲い始めた。1624年にはオランダ西インド会社が設立され、オランダ人たちは怒濤のごとくブラジルに押し寄せた。ブラジル北東部を占領すると、オランダは次にアフリカに侵出する。1637年に、ポルトガルの奴隷貿易の拠点エルミナを占領し、多数の黒人奴隷をブラジル植民地に送り込んだ。

結局、オランダは、南アメリカのサトウキビ栽培と労働力となる黒人奴隷の供給、つまり、ポルトガルの植民地事業を丸ごと乗っ取ったのである。ところが、1640年、状況は一変する。ポルトガルが、30年戦争のどさくさにまぎれ、スペインから独立したのである。このとき、オランダはポルトガルと休戦条約を締結したため、オランダ西インド会社はポルトガル領を攻撃できなくなった。

さらに、1644年、農園主たちに人気のあったオランダ総督マウリッツが、オランダ西インド会社と対立し、本国に送還されてしまう。ブラジルは不穏な空気につつまれ、翌年には反乱が起こった。結局、この混乱は10年も続き、1654年、オランダはブラジルから完全に撤退する。アジアで無敵だったオランダが、なぜ、南アメリカで敗退したのか?

スパイスアイランドでは、スペイン・ポルトガル・イングランドを一掃できたのに。南アメリカではポルトガル1国に敗退?原因は2つ考えられる。オランダの最大の関心事は香料で、サトウキビは二の次だったこと。さらに、ブラジルに入植したポルトガル人はやる気満々だったこと。アジアに入植したポルトガル人は、祖国を忘れ、土着化していった。アジアにはすでにインフラも文化もあったからである。

一方、ブラジルは未開の地で、すべて一から築くしかなかった。ある意味、ブラジルはポルトガル人にとって第2の祖国だったのである。これは決して誇張ではなく、証拠もある。1808年、ナポレオン戦争の時代、ポルトガルがフランス軍に占領されたとき、ポルトガル王室はリオ・デ・ジャネイロに遷都した。さらに現在、ポルトガル語を話す地球上最大の国はブラジル。19世紀に入っても、ブラジルのポルトガル人だけは、かつてポルトガル海上帝国を築いた覇気を忘れなかったのである。

■オランダ東インド会社

話をハウトマンの航海に戻そう。

ハウトマンの船団が持ち帰った香辛料はわずかだったが、オランダは歓喜に包まれた。香料貿易のメドが立ったからである。1602年、アジアの香料貿易を目的とするオランダ東インド会社が設立された。この会社は、現在の株式会社の原形で、先に設立されたイギリス東インド会社とは一線を画していた。投資した資本を1航海ごとに精算し、株主に返す必要がなかったのである。そのぶん、オランダ東インド会社のほうが長期的なビジョンに立つことができた。

オランダ東インド会社の当面の目標は2つあった。

1.ジャワ島に基地をつくること。

2.香料貿易を独占すること。

この大目標を達成すべく、オランダは、スパイスアイランドからイングランドとポルトガルを追い払った。このような「選択と集中」は、17世紀前半、オランダに目覚ましい成功をもたらしたが、17世紀後半には一転、没落へと導いていく。永遠に正しい戦略などありえないのだ。

1605年、オランダ東インド会社は、スパイスアイランド(香料諸島)に最初の船団を送り込んだ。戦果は上々、テルナテ島からポルトガル人を駆逐し、アンボイナ島(アンボン島)の占領に成功する。当時、テルナテ島はチョウジ(丁子)を、アンボイナ島はニクズクを独占的に産していた。この2つはスパイスとよばれ、香辛料の最高級品とされた。

次に、オランダが狙ったのはマラッカである。マラッカは、インド洋とスパイスアイランドをむすぶ要衝で、ポルトガルが支配していた。1606年、マテリーブデヨング率いる13隻のオランダ艦隊がマラッカを攻撃した。占領はできなかったものの、インドから救援にきたポルトガル艦隊に大打撃を与えた。こうして、ポルトガル海上帝国は事実上崩壊した。香料貿易の覇権争いはオランダとイングランドにしぼられたのである。

また、1609年、オランダは日本の平戸に商館を開設している。1619年、やり手のヤン・ピーテルスツーン・クーンが東インド会社の総督に就任した。クーンは、バンテン王国が支配するジャワ島西端をさけ、東方のバタヴィアに商館をおいた。それ以降、300年におよぶオランダ支配の礎を築くのである。クーンは、知力、決断力、行動力に富む優秀な指揮官だったが、コチコチの帝国主義者だった。彼の頭には、香料貿易の独占しかなかった。他国と妥協することも、国益をグロスで見ることもない。このような唯我独尊が、彼を不名誉な歴史的事件の主犯にしたてたのである。

■アンボイナ事件

スパイスアイランドの一角、アンボイナ島は、ニクズクの産地として知られた。大航海時代、ニクズクを産したのは、アンボイナ島とバンダ諸島のみ。当然、ヨーロッパ列強の争奪の的となった。

1512年、まずポルトガルがアンボイナ島に進出、その後、オランダがポルトガルを駆逐した。1615年には、新たにイングランドが進出し、オランダと激しく争った。本題に入る前に、あまり重要でない「イングランド」と「イギリス」の使い分けについて。「イギリス」の正式名称は「グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国」で、1801年に成立し、1927年に現在の国名になった。国土は、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つのブロックからなり、北アイルランドを除くすべてがグレート・ブリテン島にある。グレート・ブリテン島北部にあるのがスコットランド、西南部がウェールズ、残りがイングランドである。

イングランドは、13世紀末にウェールズ、1707年にスコットランドを併合し、グレートブリテン王国となった。この歴史をみれば、大航海時代が終わる1650年頃までは、「イギリス」ではなく「イングランド」と表記すべきである。ところが、一般的には、1600年代以降「イギリス」と表記されることが多い。ということで、以下、イングランドをイギリスと表記する。

話をアンボイナ島に戻そう。1600年代初頭、オランダとイギリスは、ニクズクをめぐり、激しく争っていた。そんな中、アンボイナ島で恐ろしい事件が起こる。1623年2月、オランダ商館をうろつく怪しい人物が、オランダ側に逮捕された。彼はイギリス商館員で、オランダ商館をスパイしていたのである。この男を拷問したところ、驚くべき事実が判明した。イギリス側がオランダ商館を襲撃するというのである。オランダ側は、先手をうってイギリス商館を襲撃、身の毛もよだつ拷問で、陰謀の裏を取った。そして、翌月には、商館員20名を処刑したのである。これが歴史に名高いアンボイナ事件である。

この頃、ヨーロッパ本国では、オランダとイギリスは、不毛の香料戦争を終わらせようとしていた。オランダ東インド会社とイギリス東インド会社の合併話まであがっていたほどである。ところが、アンボイナ事件が伝わると、交渉は決裂。オランダ東インド会社総督のクーンも管理責任を問われ、解任された。ところが、ここに謎がある。ヨーロッパ本国で、東インド会社の合併話まで出ているときに、イギリス商館がわざわざ、オランダ商館を襲撃するだろうか?

オランダ側はイギリス側の自白をとったというが、手足を切断するほどの拷問だった。これでは、自白を強要された?と疑われてもしかたがないだろう。とすれば、怪しいのはクーンである。オランダ政府の弱腰をののしり、イギリスとの徹底抗戦を叫び、頭のてっぺんから足のつま先まで帝国主義者だったクーン。そもそも、総督以外、誰がこんな大それたことを命じられるだろう。

■オランダ海上帝国

真相はともかく、この事件で一番得をしたのはクーンだった。イギリスは香料貿易から撤退するし、4年後にクーンは東インド会社総督に返り咲いたからである。しかし、長期的に見れば、この事件はオランダに衰退を、イギリスには繁栄をもたらした。香辛料価格の下落が始まると、香料貿易に特化したオランダは没落、一方、イギリスはインド経営で巨万の富を築くからである。アジアにおけるオランダの大攻勢は、1640年に始まった。

1641年、なんとか持ちこたえていたマラッカのポルトガル要塞が陥落。1652年には喜望峰に中継基地を建設し、「オランダ→喜望峰→ジャワ島」航路を確立した。1663年にはインド本土に侵攻し、ポルトガル商館を次々と占領した。その後は、台湾、マカオ、長崎にまで進出する。

こうして、17世紀半ばには、オランダ海上帝国が確立したのである。このような発展過程で、オランダは世界有数の金満国にのし上がっていた。とはいえ、どんな大金持ちでも、1日100食は食べれない。人間の消費には限界があるのだ。こうして、オランダで「カネ余り」が始まった。余ったカネの行き先は、今も昔も変わらない・・・投機。歴史上初の経済バブルはこうして起こった。この時、バブルを引き起こしたのは土地でも株でも、サブプライムローン証券でもなかった。見た目も麗しいチューリップ。そのため、この事件は歴史上「チューリップバブル」とよばれている。

チューリップバブルは、1634年に始まり、2年後にピークをうち、翌年には暴落した。後から思えば、虚しい騒動だが、初めはささやかなチューリップ栽培から始まった。美しいチューリップを咲かせて、人に自慢している間はよかった。そのうち、品薄の球根が珍重されるようになり、「買いたい人>>売りたい人」の結果、価格がジリジリ上がり始めた。人々は、花を咲かせることより、珍種を手に入れることに夢中になり、やがて、チューリップ投機が始まった。大量の資金がチューリップ市場になだれ込んだが、チューリップの球根はすぐには増えない。結果、球根の価格は暴騰した。

たとえば、「セムペル・アウグストゥス」なる珍種の球根は、最高値で1万3000フロリンの値がついた(※3)。この頃、オランダの水兵の月給が10フロリンだったので、球根1個が給与100年分!?それでも、資金が市場に流入し続ける限り、チューリップの価格は上がり続けた。つまり、この時点では、誰もが儲かったのである。

一方、素朴な疑問もわく。球根1個が100年分の給与に値するか?である。綺麗な花は他にもあるし、食べるにしてもタマネギのほうが美味い(たぶん)。一体、どこにそんな価値があるのか?と誰かが思ったら、おしまい。株、不動産、インチキ金融商品、チューリップ、何であれ、将来上がると思うから買うのであって、下がると思って買うバカはいない。つまり、誰かが不安にかられ、売りにまわれば、暴落が始まる。こうして、チューリップバブルは幕を閉じたのである。

■大英帝国

先のアンボイナ事件を機に、イギリスは香料貿易をあきらめ、インドの植民地経営に専念するようになった。もちろん、アンボイナ事件の恨みを忘れたわけではない。イギリスの商館員が、八つ裂きにされ、処刑されたのである。さらに、オランダが香料貿易を独占していることも、イギリスは気に入らなかった。

1651年、イギリスは、植民地貿易からオランダを締め出すため、航海条例を発布した。オランダはこれに反発し、1652年から3次にわたる英蘭戦争が始まった。この戦争は、互いに本国を突くことはなかったため、目に見える勝敗はつかなかった。それでも、オランダの損失は大きく、以後、2度と世界の1等国に名を連ねることはなかった。ちょうどこの頃、ヨーロッパ人の侵出は地球全域におよび、長かった大航海時代も終わりを告げようとしてた。

一方、イギリスは、大航海時代に続く、新しい植民地時代を築こうとしていた。植民地から収奪するだけでなく、植民地に自国の製品を売りつけるのである。最初、イギリスは自慢の毛織物を持ち込んだが、暑いインドでは需要がなかった(あたりまえ)。そのかわり、イギリスはインドで素晴らしい貿易品を見つけた。「キャラコ(木綿)」と「インディゴ(藍色の染料)」である。当時、ヨーロッパでは木綿は存在せず、夏服や下着はリンネル(麻)が使われていた。

ところが、インド綿は、肌触りが良く、吸湿性が高く、安価なので、たちまち、リンネルを駆逐した。また、インディゴは藍色の染料で、従来の染料にくらべ、色が鮮やかで、色あせしにくかった。また、ベンガル地方では、火薬の原料となる硝石も産した。こうして、インドはイギリスにとって最も重要な植民地になったのである。その後、イギリスは中国の紅茶も取り込み、植民地事業を拡大していった。そして、18世紀後半には産業革命が起こり、蒸気機関の勇ましい轟音とともに、イギリスは世界帝国へと駆け上がっていく。その後、新興国アメリカも加わり、欧米列強は世界中に支配地を拡大していった。長い歴史を持つ、多様な文明と民族を破壊しながら。これが、現在のグローバリゼーションの起源となった。

グローバリゼーションとは、多種多様な価値を、欧米式基準でふるい落とす弱肉強食エンジンのことである。この不気味な装置が地球に広がったのが、大航海時代だった。この間に、多くの民族や文明が破壊された。では、大航海時代は人類にとって災いだった?残念ながら、そうとも言い切れない。かつて、ほ乳類は地中で暮らしていた。地上に出れば、最強の恐竜に食われるからである。ところが、6500万年前、恐ろしい隕石衝突により、恐竜は絶滅した。衝突で吹き上げた粉塵が太陽光を遮断し、光合成が消滅し、植物が絶滅。続いて、植物を食べる小動物が死滅、地上に恐竜のエサはなくなった。

一方、ほ乳類は地中にあるわずかな食糧で生きのびることができた。この新しい環境で、弱肉強食エンジンは、小さなほ乳類を残し、巨大な恐竜をふるい落としたのである。その結果、ほ乳類は進化を続け、人類が誕生した。つまり、我々が存在しているのは弱肉強食のおかげなのである。もちろん、環境が変われば、新たな弱肉強食エンジンが始動し、人類は滅ぶだろうが。

《完》

参考文献:
(※1)増田義郎著「大航海時代」世界の歴史13講談社
(※2)長澤和俊著「世界探検史」白水社
(※3)斎藤精一郎著「大暴落」講談社

by R.B

関連情報