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週刊スモールトーク (第126話) 大航海時代XI~エリザベス女王~

カテゴリ : 歴史

2009.05.23

大航海時代XI~エリザベス女王~

■地球2分割

1494年6月7日、スペインのトルデシリャスで驚くべき条約がむすばれた。スペインとポルトガルが、カネと女に目がなく、カトリック教会の権威を失墜させ、史上最悪の教皇とうたわれたアレクサンデル6世をそそのかし、地球を2分したのである。

この傲慢不遜(ごうまんふそん)な取り決めは、歴史上、「トルデシリャス条約」とよばれている。具体的には、
「1494年以降に発見されるキリスト教徒以外の土地を、西経46度37分の経線を境に、西側はスペイン、東側はポルトガルものとする」
もちろん、土地の住人は知るよしもない。

15世紀末、こんなノー天気な条約を結ぶほど、ポルトガルとスペインは有頂天だった。そして、その100年後、大航海時代はスペインとポルトガルの最終決戦へ。大航海時代の本質は香料貿易であり、香料を産するアジアへのルートを制した者が勝つ。16世紀末、この条件を満たすのはポルトガルとスペインだけであった。ポルトガルは喜望峰経由の東回り航路を、スペインは太平洋を横断する西回り航路をおさえていたからである。

■大イベリア帝国

ところが、大航海時代を制したのはスペイン、ポルトガルではなかった。大航海時代につづく、近代の植民地戦争をみれば、明らかだ。19世紀以降、世界中に植民地帝国を築いたのは「欧米列強」、つまり、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアだった。では、300年の間に、スペインとポルトガルに何が起こったのか?

「欧米列強」は、スペイン・ポルトガルにくらべ、自力で優っていた。スペイン・ポルトガルは、保守的なカトリック王国で、探検も貿易も王室の管理下で行われた。一方、イギリス、ドイツ、オランダ、アメリカはプロテスタントの国である。プロテスタントの教えでは、金儲けはたとえ神の前でも、恥じる必要はない。それどころが、プロテスタントの一派、カルヴァン派にいたっては、商売そのものが奨励されたのである。

スペイン・ポルトガルを直接おとしめたのは、オランダとイングランド(のちのイギリス)で、この2国には共通点があった。第1に、植民地事業が民営化されたこと。第2に、宗教が金儲けに寛大なプロテスタントだったこと。本来、私物化できない植民地を、国から譲りうけ、本来、責められるべき金儲けを、教会から正当化される。やる気が出てあたりまえ。オランダとイングランドの商人たちは、自分の命を顧みず、大海に乗り出していった。

この頃、スペインは南アメリカの銀山を独り占めにし、目もくらむ大金を手にしていた。16世紀から17世紀中頃までに、スペインに持ち込まれた銀は約1万6000トン。2008年の銀の平均価格(53円/g)を適用すれば、8500億円にもなる。ところが、その40%がスペイン王室の金庫に収められた。こんな、やらずぼったくりでは、やる気は失せる。入植者にできることといえば、こそくな方法で、小金をくすねることぐらい。彼らは現地の女と結婚し、土着化し、国への忠誠心も失せていった。1400年代、ポルトガル海上帝国を築いた勇敢な先祖たちの物語は、遠い昔話になっていたのである。

ではなぜ、自力に優る欧米列強は出遅れたのか?この時代、アメリカ合衆国はまだ存在せず、他のヨーロッパ諸国も自分のことで手一杯だったのである。たとえば、ドイツはまだ国が統一されておらず、イングランドとフランスは「百年戦争」をダラダラと戦っていた。

1453年、百年戦争が終わると、今度は、イングランドで「薔薇(ばら)戦争」がはじまった。王位をめぐり、イングランドの貴族がランカスター家派とヨーク家派に分かれ、戦ったのである。この内戦は、1455年から1485年まで続くが、この間に、ポルトガルはアフリカ西岸を支配し、黒人奴隷貿易を軌道に乗せた。

一方のフランスは、百年戦争が終わると、一息ついて「イタリア戦争」に突入した。1494年、フランス王シャルル8世が大軍を率い、イタリアに攻め込んだのである。目的はナポリ王国の王位で、
「血筋では自分に王位継承権がある」
がシャルルの言い分だった。当たらずとも遠からずだが、分裂中のイタリアも、このときは助け合いの精神を発揮した。結局、フランス軍は何も得ないまま、イタリアから撤退する。ということで、フランスもイタリアも、大航海時代どころではなかったのである。

また、17世紀前半、大航海時代を制するオランダも、この頃は、ブルゴーニュ公国の一地方にすぎなかった。この地方は、ネーデルラントとよばれ、豊かな経済力と、洗練された文化をもっていたが、政治的には自立していなかった。ということで、16世紀末のヨーロッパで、スペイン・ポルトガルに対抗できる国はなかったのである。

1581年、大航海時代の決勝戦が始まった。スペイン軍がポルトガルに侵攻したのである。1581年4月、ポルトガル議会はスペイン王をポルトガル国王として受け入れた。大航海時代を制した2つの王国が1つになり、地球上で最強の世界帝国が出現したのである。無敵の大艦隊を有し、アジアへの東回り航路と西回り航路を独占する「太陽が沈まぬ大イベリア帝国」。ところが、この時を境に、スペインの凋落がはじまる。

■エリザベス女王(1世)

1485年、イングランド王位をめぐる薔薇(ばら)戦争が終わり、ヘンリー7世が即位した。これがチューダー朝である。有能で勤勉なヘンリー7世のもと、戦争で荒廃したイングランドは回復にむかった。1509年、跡を継いだヘンリー8世は、父王の遺言にしたがい、兄の未亡人キャサリンと結婚した ・・・ 死んだ兄の妻を弟がめとる

道義的に問題がありそうだし、この頃、イングランドはカトリック教国で、この結婚を実現するには、ローマ教皇の許可が必要だ。なぜ、そこまでして、キャサリンにこだわったのか?一も二もなく、スペイン王室への気兼ね。キャサリンは、スペイン王国を共同統治するカスティーリャ女王イサベル1世と、アラゴン王フェルナンド2世の娘だったのである。

ところが、父王が死んでしばらくすると、ヘンリー8世はたががはずれてしまった。思いどおりにならないと、すぐに伝家の「王権」を抜く。つまり、やりたい放題。キャサリンとの間に男子ができないと、お気に入りの侍女アン ブーリンと結婚し、男子を産ませようとした。もちろん、カトリックは離婚は認めない。

そこで、ヘンリー8世はローマ教皇に対し、
キャサリンとの婚姻は本当は無効だった
と主張した。根拠がないわけではないが、見え見えの屁理屈で、まず、神聖ローマ皇帝カール5世が反対した。カール5世はスペイン王でもあり、キャサリンの甥(おい)だったからである。しかも、ローマ教皇クレメンス7世は、カトリックの守護者スペインには頭が上がらない。こうして、ヘンリー8世の屁理屈は却下された。

ところが、それであきらめるヘンリー8世ではなかった。なんと、自分で宗教団体を創設し、カトリック教会と離別したのである。これが、現代までつづく「英国国教会(イングランド国教会)」だ。政治的にはプロテスタント、教義的にはカトリック、とよくわからないが、仏教徒からみれば、まぁ、キリスト教。ただ、
「国王が教会の首長もかねる政教一致
という点でユニーク。

こうして、ヘンリ-8世は、キャサリンと離婚、念願のアンとの結婚をはたした。ところが、そのアンが産んだのも女の子。その後、ヘンリー8世は5人の妻をとっかえひっかえ、離婚と処刑を繰り返したあげく、この世を去った。文化以外に大した功績を残さなかったヘンリー8世だが、1つだけイングランドに財産を残した。アンが産んだ女の子、後のエリザベス女王(1世)である。

1558年、紆余曲折をへて、エリザベス1世が即位した。実母アン ブーリンは、エリザベスを産んだ後、実父ヘンリー8世により、国家反逆罪、姦通罪、近親相姦の罪で斬首されていた。男子を産まなかったからである(ヒドイ話だ)。そのため、若き日のエリザベスは、私生児として扱われ、父王の死後、ロンドン塔に幽閉されたこともあった。そして、陰謀が渦巻く中、慎重に生きのび、イングランド王までのぼりつめたのである。このような過酷な体験が、彼女を強く、聡明にした。こうして、エリザベス1世は、18世紀以降の大英帝国の礎を築いたのである。

■幻の北極海航路

エリザベス1世が即位する10年前、ジョンブル魂にとんだイングランド人たちは、新しい土地を求めていた。ポルトガル人やスペイン人が、植民地で濡れ手に粟をつかむの見たからである。とはいえ、ヨーロッパからアジアに到るルートは、すでにスペインとポルトガルが支配していた。イングランドの選択肢は2つしかない。既存のルートを奪うか、新しいルートを見つけるか。さすがのイングランド人も、超大国スペインと争うのは気後れした。ということで、東回りでも、西回りでもない、第3の航路(あるかどうかもわからないが)。

初めに、イングランド人が思いついた航路は、大胆不敵だった。ロンドンから、氷河におおわれた北極海を抜けて、アジア(中国)に達する「北極海航路」。現代でさえ、北極海を航行できるのは原子力潜水艦ぐらい(魚をのぞく)。もっとも、最近は地球温暖化が進み、北極海の氷がとけだし、船でも航行可能になるという。イングランド人のアイデアは、500年早かったのである。

1553年、北極海航路の最初の探検が行われた。計画によれば、ロンドンから北東に向かい、北極海経由で中国に達する。このコースを地球儀で確認しよう。まず、イングランドから北海に入り、北極海を通過し、ベーリング海峡を抜け、南下して中国へ到る。21世紀でも不可能なこの航海に、16世紀イングランドのヒュー ウィロビーが挑戦した。案の定、出港早々に遭難する。北海のノルウェー沖、つまり、北極海に入る前に。

ところが、さすがはジョンブル魂。ウィロビーはロシアの港になんとか着岸し、それから、陸路を進んでモスクワへ。そこで、ロシア皇帝イヴァン4世に拝謁し、ロシアとの通商をとりつけた。しかし、ウィロビーの探検もそこまで。モスクワからユーラシア大陸を横断して中国まで行くにはムリがあった。馬の背中に小荷物をのせて、片道1年では商売にならない。それが可能になるのは、シベリア鉄道が開通した後である。

イングランド人が、次に目をつけたのが北西航路だった。ロンドンから北西にむかい、アメリカ大陸の北の海を通過し、ベーリング海峡を抜けて、アジアに到る。だが、アメリカ大陸の北の海は、小島や入り江が入りくんだ大迷路で、入ったが最後、生きては帰れない。正確なマップかGPS、もしくは、熟練したイヌイットの旅先案内人が必要だ。こうして、イングランドの北極海航路は幻に終わった

■ドレイク船長

こんな八方ふさがりの状況で、エリザベス1世(エリザベス女王)が即位した。エリザベス女王は、それまでの方針を大転換し、スペインと敵対する。まずは、イングランド人がスペインの植民地をうろつき、略奪することを黙認した。イングランドの海賊や商人にとって、エリザベス1世は幸運の女神だった。古いことわざに、こういうのがある。
「幸運の女神に後ろ髪はない」
幸運の女神が現れたら、間髪を入れず前髪をつかめ!通り過ぎたら、つかむ髪がない、つまり、チャンスは1度きり。

海賊、探検家、奴隷商人の肩書きをもつイングランド人ジョン ホーキンスは、この教訓に忠実だった。さっそく、アフリカ西岸に行き、黒人奴隷を買いつけ、カリブ海の農園主に売りつけたのである。カリブの農園は奴隷が不足していたのに、スペイン役人の不手際で、奴隷の供給が滞っていた。ホーキンスは、そこに目をつけたのである。ところが、まずいことに、アフリカ西岸もカリブ海もスペインの支配地だった。スペイン王室はイングランドに厳重に抗議した。

そんな緊迫した中、大事件がおこる。ホーキンスの船団が嵐に遭い、メキシコのスペイン領に寄港したところ、スペイン側に砲撃されたのである。船団はなんとか脱出したものの、イングランドに帰還できたのはわずか1隻だった。ところが、スペインが取り逃がしたこの1隻が歴史を変える。この船に若き日のフランシス ドレイクが乗っていたからである。

生還したドレイクは、その後、スペインの植民地を荒らし回り、スペイン船を沈め、最後にはスペインの無敵艦隊を壊滅させた。それが契機となり、スペインの凋落が始まった。ささいな撃ちもらしが、歴史を変えたのである。

この砲撃事件は、イングランドに衝撃を与えた。ホーキンスがスペイン領に寄港したのは、嵐を避けるためであり、それを攻撃するとは何ごとか!国力をかえりみず、スペインと一戦交えるべしという主戦論まで出た。しかし、エリザベス1世は冷静だった。好戦論を黙殺した上で、イングランドの海賊が、報復のため、私利私欲のために、スペイン領を荒らし回ることを黙認したのである。

スペイン植民地の略奪に最も貢献したのは、先のフランシス ドレイクだった。ホーキンス同様、海賊、探検家、奴隷商人、のちに海軍提督も兼任する。似たもの同士、お仲間、ところがこの2人、本当の親戚だったというウワサもある。ドレイクは、先の砲撃事件以来、スペインへの復讐に燃えたが、頭が切れ、冷静で、大胆だった。そんなドレイクが目をつけたのがスペインの銀塊輸送である。

前述したように、この頃、スペインは南アメリカの銀山を独占していた。問題は、産出した銀をスペイン本国までどうやって運ぶかだ。まず、ペルーのヤオ港まで運び出し、船に積み、北上してパナマまで運ぶ。そこで、キャラバンを編成し、パナマ地峡をとおり、カリブ海沿岸の港まで運ぶ。そこから、船でスペインまで運ぶのである。ドレイク一味は、カリブ海の港の近くで待ち伏せし、銀を強奪した。それも、1度や2度でなかった。スペインはイングランドに厳重に抗議したが、エリザベス1世は黙殺した。

ドレイク船長は海の男だった。1577年12月13日、5隻のガレオン船を率い、プリマス港を出港し、アジアに向かった。彼がとったコースはスペインの西回り航路である。ドレイク船団は、マゼラン海峡を回り、北上し、南アメリカ西岸のスペイン植民地を荒らし回った。その後、太平洋を横断し、スパイス アイランド(香料諸島)、インドをへて、プリマス港に帰還した。3年にもおよぶこの大航海は、「ドレイクの世界周航」とよばれている。

マゼランの世界周航、それに続くスペインの苦難の航海をみれば、太平洋を横断する航海が、いかに危険かがわかる。それをドレイクは難なくやってのけたのだ。並外れた航海術の持ち主だったのだろう。コロンブスやマゼランに匹敵するほどの。さらに、ドレイクは海戦では無敵だった。このようなドレイクの優れた資質が、8年後のアルマダの海戦で、スペインの無敵艦隊を壊滅させたのである。

イングランドに帰還したドレイクは、今度は、スペイン本国の港を略奪する。海賊にやらせることで、国の責任を回避しつつ、スペインの体力をそぎ落とす。イングランドのこんなやり口に、スペイン王室は爆発寸前だった。そんな折、導火線に火をつけるような事件が起こる。

■ネーデルラント

ネーデルラントは、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクを含む地域である。中世以降、毛織物のフランドルを中心に、ヨーロッパで最も進んだ地域に発展した。一方、政治的には自立せず、15世紀に入っても、ハプスブルク家の支配下にあった。ハプスブルク家とは、中世から20世紀にかけ、ヨーロッパの王を輩出した大名家である。1549年、ハプスブルク家のカール5世がスペイン王を、弟のフェルディナント1世が神聖ローマ帝国を継承したが、この時、ネーデルラントはスペインの支配下に入る。

スペイン王室は、カトリック世界の盟主を自認し、周囲もそれを認めることを望んでいた。カール5世が隠居し、跡を継いだフェリペ2世は、そんな意識が過剰な人物だった。1517年に始まった宗教改革で、プロテスタントが勢力をのばすと、フェリペ2世はこれをとことん弾圧した。とくに、プロテスタントが多数を占めるネーデルラント北部に対して ・・・

1559年、ネーデルラント総督に就任したマルゲリータは、プロテスタントを徹底弾圧した。「異端審問」という超法規的な手法までもちだして。異端審問とは、キリスト教の異端者を裁く制度で、ろくな証拠がなくても、有罪に持ち込める。そのため、ローマ教皇の許可が必要だったが、教皇もカトリックの盟主スペイン王にはさからえない。

一方、プロテスタントを異端と断じるには問題があった。彼らが、悪魔信仰や、怪しい異端の聖書を信奉していたわけではないからだ。彼らの信仰の原点は、カトリックと同じキリスト教の正典である。ネーデルラントの有力者たちは、理不尽な異端審問を中止するようマルゲリータ総督に要求し、彼もしぶしぶそれを認めた。ところが、その間、プロテスタント勢力はさらに増大する。

1567年、業を煮やしたフェリペ2世は、ネーデルラントに大軍を派遣する。これで片がつくはずだったが、スペインにとって最悪の結果となった。八十年も戦争を強いられたあげく、ネーデルラントが独立(オランダ)したのである。

この「八十年戦争」は、1568年、亡命中のオラニエ公が祖国ネーデルラントに侵攻したことに始まる。初めは、スペインに対する単なるレジスタンス運動だったが、やがて、独立戦争へと拡大していく。1579年には、ネーデルラントでユトレヒト同盟が結成され、翌年までにネーデルラント北部7州が加盟した。南部諸州が加わらなかったのは、カトリックが多数を占めたからである。

オラニエ公のなりふり構わぬ奮戦で、多くの都市がユトレヒト同盟になびいていく。スペインは軍事力で圧倒するのに、なぜ、反乱軍ごときに苦戦するのか?ひょっとして、協力者がいるのでは?フェリペ2世は、海賊を野放しにしているあの憎たらしいエリザベス1世をおもった。イングランドに鉄槌を下さねば ・・・ フェリペ2世はイングランドとの戦争を本気で考えはじめる。

スペイン国王たる者が、思い込みで戦争をふっかける?ところが、フェリペ2世の疑念は事実だったのだ。オラニエ公は、「海乞食」といわれる寄せ集め船団で、スペインの通商破壊を繰り返したが、その基地の一つがイングランドのドーバーにあった。つまり、イングランドは本当にネーデルラントを支援していたのだ。ドレイクの件といい、ネーデルラントの件といい、スペインにとってイングランドは我慢ならない「ならず者国家」だった。そんな中、火に油を注ぐような事件が起こる。

《つづく》

参考文献:
(※1)増田義郎 著「大航海時代」世界の歴史13 講談社
(※2)長澤和俊 著「世界探検史」白水社

by R.B

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