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週刊スモールトーク (第124話) 大航海時代(9)~コロンブスのアメリカ大陸発見~

カテゴリ : 歴史

2009.04.12

大航海時代(9)~コロンブスのアメリカ大陸発見~

■サンタ・マリア号、来航す

今から20年前、金沢港にコロンブスの旗艦「サンタ・マリア号」が入港した。

近代的な港に、古色蒼然とした帆船が着岸している。乗船すると、15世紀風の船乗りが立っている。おー、タイムスリップしたようなカンカク。ところが、顔を見ると日本人・・・ここで我に返る。この船はレプリカ、つまり復元船だったのである。サンタ・マリア号の第一印象は「小さい」、乗船後の印象は「狭い」だった。全長32m、全幅8m。これが船として、どれほど心細いかは、乗ってみないとわからない。

学生時代、ヨロン島に行く途中、大しけにあったことがある。船底の大部屋にいたので、揺れるし、暑いし、とても寝ていられない。そこで、甲板にでたのだが、海を見るなり、凍りついた。波の高さが異様なのだ。さすが、外洋の大波、威圧感はハンパじゃない。ヨーロッパ人は、こんな恐ろしい外洋に、あんな小船で乗り出していったのである。海の果てにはボハドル岬があって、それを越えると、海が沸騰していると信じられていた時代に。

その400年後、ヨーロッパ人は世界を支配したが、その要因は帆船と大砲と言われている。しかし、これに「無鉄砲さ」もつけくわえねばならない。この特筆すべき遺伝子は、アジア人に少なく、白人に多いことが分かっている。欲に目がくらんだヨーロッパ人の無敵ぶりは、生物学的にも証明されているのである。

■コロンブス1回目の航海

1492年8月3日、クリストファー・コロンブスの船団は、パロス港をひっそりと出港した。船団の編成は、旗艦のサンタ・マリア号と、ピンタ号とニニャ号の3隻。サンタ・マリア号は大型のキャラック船で重量は120~180トン。あとの2隻は、小型のキャラベル船で、数十トン程度。船員は総勢100名。これが、歴史に残る「コロンブスのアメリカ大陸発見」の陣容である。

コロンブスは、まず、カナリア諸島に向かった。カナリア諸島は、大西洋上に浮かぶスペインの植民地である。ここで補給をすませ、9月6日には出航、まっすぐ西に向かった。順風がつづき、航海は順調。ところが、9月21日、突然、逆風に変わり、船足が落ちた。航海のスケジュールが狂い、船員たちが騒ぎ始めた。

10月6日には小さな暴動が起こり、コロンブスを海に投げ込んで引き返すという物騒な陰謀まで発覚する。時代はまだ15世紀、「海の果てのボハドル岬を超えると、白人も黒人に変わる」「地球は平面で、その果ては断崖絶壁の大滝」「船底一枚下は、海の底」等々、迷信と事実が混合した不安の中で、船員たちは恐怖におののいた。

10月9日、船員たちはコロンブスに詰め寄り、あと3日のうちに、陸地が見えなかったら引き返す、と約束させた。前人未踏の海域への旅であり、コロンブスもさぞかし不安だっただろう。だが、自分の不安にかまっているヒマはない。少しでもスキを見せたら最後、海に放り込まれる。コロンブスは船員の前で、「揺るぎない自信」をよそおった。コロンブスの航海が順風満帆でなかったことは、航海日誌からも見てとれる。

コロンブスは、カナリア諸島から、37日かけて大西洋を横断し、アメリカ海域に達している。距離にして約5700km。「平均速度=距離÷日数」で計算すると、平均速度は約3ノット(1ノット=1852m/h)。コロンブス船団で最も遅いキャラック船でも、順風なら10ノットは出るし、逆風でも船は前進できる。最悪の「無風状態」に遭遇した可能性がある。逆風か無風かは不明だが、スケジュールは遅れ、コロンブスは窮地に追い込まれた。残された時間は、あと3日。そして、まるでドラマのように、それは起こった。

日付が10月12日に変わってすぐに、ピンタ号が陸地を発見したのである。船員たちは狂喜した。コロンブスは賭けに勝ったのである。10月12日早朝に上陸し、さっそく、スペイン国旗と十字架をたてた。探検を援助してくれたスペイン王室と、王室に口をきいてくれたキリスト教会への感謝の印として。さらに、コロンブスは、「ここがスペインの領土である」と宣言し、サンサルバドル島と命名した。このとき、物珍しげに集まってきた住民たちにスペイン語が通じなくて良かった。もし、通じていたら、住民たちは仰天しただろう。自分たちははるか昔から住んでいるし、島の名前もすでにあっただろうから。

一方、コロンブスが命名したサンサルバドル島が、現在のサンサルバドル島かどうかはっきりしない。サンサルバドル島は、バハマ諸島の1つだが、コロンブスが最初に上陸したことにちなんで、1926年にワトリング島から改名された。ところが、コロンブスの日誌に記されたサンサルバドル島の風景と、現在のサンサルバドル島の風景が完全に一致しない。当時のヨーロッパでは、インド、南アジア、東アジアはひとくくりで「インディアス」とよばれていた。コロンブスは、ここがインディアスだと思い込み、周辺海域を6ヶ月も探検している。

10月28日には、キューバ島を発見し、それが大きな陸地だったので、中国だと勘違いした。とすれば、近くに「黄金の国ジパング」もあるはずだ。彼らは、ジパング探索に血眼になった。11月21日、何を思ったか、突然、ピンタ号が脱走する。コロンブスは探検だけでなく、乗組員の言動にも目を配らなければならなかった。彼らは、陸ではまともな職にありつけないゴロツキなのだ。

12月6日、コロンブスはイスパニョーラ島を発見した。上陸して、住民たちから話を聞くと、奥地に「シバオ」という国があるという。「シバオ→シバンゴ→ジパング」こんな都合のいい多段連想で、この国がジパングと断定された。もちろん、それらしい町は見つからなかった。本物のジパング(日本)は、1600kmかなたなのだから。

ちなみに、イスパニョーラ島は、この海域では、キューバ島につぐ大きな島で、現在、ハイチとドミニカ共和国が占めている。ここまでの航海を見ると、コロンブスの面白い性質に気づく。「自分の都合で思い込む」大きな陸地というだけで、キューバ島を中国本土と思い込んだり、読みが似ているだけで、シバオをジパングと確信したり、島が多いのを見て、インディアスの多島海と断定したり。そもそも、大西洋を西航して、はじめて遭遇した陸地をインディアスと断定すること自体がおかしいのだ。この頃すでに、大西洋には多数の島々が発見されていたのだから。このような「思い込み」が、晩年、コロンブスを惨めな境遇に追い込む。

話を探検にもどそう。コロンブスは、ここをインディアス(アジア)と思い込み、周辺海域を熱心に探検した。ところが、町らしい町も、金脈も見つからなかった。そんな矢先、大事件が起こる。12月24日、部下の不始末で、旗艦サンタ・マリア号が座礁したのである。船乗りにとって恥ずべき大失態で、船団にとっては最悪。身動きのとれない船はただの木塊で、木材以外の価値はない。コロンブスは部下に命じ、船を解体させ、その木材で、イスパニョーラ島に砦を築かせた。これがラ・ナビダ砦で、スペイン最初の植民地となった。

旗艦を失ったコロンブスは、一旦帰国し、出直すことにした。1493年1月4日、ラ・ナビダ砦に39名を残し、コロンブスはニニャ号で出港した。そして、その2日後、偶然、脱走したピンタ号と遭遇する。ピンタ号の船長によると、黄金を探索したが、何も見つからなかったという。本当に黄金を探していたのか、逃亡中に迷子になったのか、とうとう分からずじまいだった。

3月15日、ニニャ号とピンタ号は、無事スペインのパロス港に到着した。4月半ばには、イサベル女王とフェルナンド王の面前で、コロンブスが探検の報告をする。連れてきた6人のインディオ、わずかの黄金を含む品々を献上すると、両王は大いに喜んだ。コロンブス、この時が人生の絶頂、あとは、転げ落ちるだけ。

■コロンブス2回目の航海

新大陸(じつは島々)を発見したコロンブスは、いっぱしの名士となった。彼は、この航海に出発する前、スペイン王室と次のような契約をかわしていた。

1.コロンブスとその子孫に、スペイン提督の称号を与えること。

2.航海で発見した大陸と島の副王または総督に任命すること。

3.航海で発見した大陸と島の貿易の利益の1/10をコロンブスに与えること。

虫のいい話だが、スペイン王室はこんな条件をのんでいたのだ。とはいえ、この契約が実利を生むか、絵に描いたもちで終わるかは、植民地経営次第である。こうして、コロンブス第2回目の航海が計画された。大量の人員を送り込み、植民地経営を成功させるためである。

乗員の募集を始めると、欲に目のくらんだ連中が殺到した。王室の役人、宣教師、黄金目当てのゴロツキなど総勢1500名。コロンブスの名は、リクルートでは絶大な効果があったのである。

1493年9月、欲の大集団は、14隻キャラベル船と3隻のキャラック船に分乗した。前代未聞、空前絶後の大船団である。1493年9月25日、コロンブスの大船団は、カディス港を出港、11月22日には、イスパニョーラ島に着岸した。ところが、残してきたはずの植民者が一人もいない。じつは、全員が先住民に殺されていたのである。危険を察知したコロンブスは、ラ・ナビダ砦を捨て、新たに、イサベラ植民地を建設した。

年が明けて、1494年2月、不満で爆発寸前の連中を12隻の船につめこみ、帰国させた。コロンブスの敵は、前にも後ろにもいたのである。その後、近くの島々を探検したが、成果はあがらなかった。理由は2つ。第1に、ここがインディアス(アジア)ではなく、未開の地であったこと。第2に、コロンブスの探検の目的と、乗員たちの目的が違ったこと。コロンブスは、中国、インド、ジパングを求め、船員たちは黄金しか興味がなかった。目的が違えば、やり方も違う。船員たちは、実のない探検に不満をつのらせ、帰還するようコロンブスに迫った。コロンブスは心身ともに疲れ果て、意識不明の重体に陥る。探検は失敗したのである。

9月29日、コロンブスは休養するため、イサベラ植民地に引き返した。ところが、イサベラ植民地は大混乱に陥っていた。スペイン人が、砂金採集で先住民を酷使したため、反乱が頻発し、スペイン人同士の殺し合いまで起きていた。さらに、スペイン人・黒人奴隷が持ち込んだ疫病で、先住民が激減、人口は1/7にまで落ち込んだ。まさに、踏んだり蹴ったり。コロンブスの心中推して知るべし。結局のところ、植民地とは名ばかりで、強欲と殺し合いがはびこる無法地帯だったのである。

イサベラ植民地の混乱ぶりは、スペイン本国にも伝わった。当然、コロンブスに非難が集中した。行政官としての能力が疑われたのである。1495年5月、査問委員ファン・アグアドが、イサベラ植民地に派遣された。コロンブスは、詰問され、追い込まれた。1496年3月10日、コロンブスは釈明のため、ニニャ号でスペインに帰還した。悪意にみ誹謗中傷の中、イサベラ女王だけがコロンブスをかばってくれた。おかげで、コロンブスの首は皮一枚でつながったのである。

■コロンブス3回目の航海

1498年5月30日、コロンブスは、6隻の船で出航した。植民地総督としてのリターンマッチである。この航海で、コロンブスは初めて、南アメリカ大陸(ベネズエラ)に上陸している。その後、イスパニョーラ島に向かい、8月31日に着岸した。ところが、弟のバルトロメに任せた植民地が、大混乱に陥っていた。あろうことか、植民地の裁判官が、不満分子をそそのかし、反乱を起こしたのである。コロンブス兄弟は力を合わせ、なんとか反乱を鎮圧した。

しかし、この事件を契機に、コロンブスの信頼は地に落ちた。さらに、コロンブスがジェノヴァ人であることもハンディになった。スペインの植民地を、なぜ無能な外国人に任せておくのか?1500年7月、スペイン王室は、審査官フランシスコ・ダ・ボバディリャを植民地に送り込んだ。ところが、ボバディリャは何を思ったか、自ら総督を宣言し、コロンブス兄弟を逮捕。鎖につないだまま、本国に送り返す。それを聞いたイサベル女王は、またもや、コロンブスに助け船を出す。1500年12月17日、コロンブスはイサベル女王とフェルナンド王の前で釈明し、無罪となった。さらに、財産の権利まで保全されたのである。ただし、総督への復権はならなかった。勝手に総督を名のったボバディリャは解任されたが、新たに、ニコラス・デ・オヴァンドがエスパニョラ島総督に任じられた。

■コロンブス4回目の航海

この事件が起こる2年前、ヴァスコダガマはアフリカ南端を回るインド航路を発見していた。これに触発されたコロンブスは、最後の賭けにでる。大西洋を西航し、インドまで行き、そのまま世界を一周しようというのである。もし、成功していたら、歴史年表の「マゼランの世界周航」は「コロンブスの世界周航」に変わっていただろう。1502年5月9日、コロンブスはカディス港を出港する。船は、古びた小型のキャラベル船4隻で、大型のキャラック船はなし。乗員はわずか150名。これがコロンブス最後の航海となった。

6月末にイスパニョーラ島に着岸するが、新総督オヴァンドが入港を許してくれない。コロンブスがイスパニョーラ島に寄港することを、スペイン王室が禁じていたからである。同年7月14日、コロンブスはイスパニョーラ島を後にした。その後、インドへ通じる海峡を探し、パナマ沿岸を6カ月もさまよったが、徒労に終わった。パナマ運河が開通するのは、その400年後である。運河がなければ、南北アメリカ大陸を抜けることはできない。北極海をへてベーリング海峡を抜けるか、南アメリカ南端を周回するしかない。後のマゼランの世界周航は、後者のルートをたどるのだが、コロンブスは知るよしもない。

こうして、コロンブス最後の航海は失敗した。船を1隻失い、途中で難破したあげく、深刻な食糧難に陥った。恥も外聞もない。コロンブスはイスパニョーラ島に使者を送り、間一髪で救助されたのである。1504年11月7日、うちひしがれたコロンブスはスペインに帰還した。ところが、その20日後、さらなる不幸が襲う。11月26日、イサベル女王が死去したのである。コロンブスは唯一無二の支援者まで失った

■コロンブスの晩年

コロンブスは、自分の境遇が理不尽だと思い込んでいた。植民地が一時的に混乱したからといって、契約を破棄するの間違っている。契約は契約だ。植民地経営は長い目で見るべきだし、そもそも、自分が発見しなければ、植民地は存在しなかった、というわけだ。これが、コロンブス最後の「思い込み」となった。たとえ、どんな契約を交わそうが、植民地経営に失敗すれば、当事者責任はまぬがれない。最高責任者とはそういうものなのだ。コロンブスは、病に悩まされながらも、自分の無実と復権を訴えつづけた。フェルナンド王は、委員会をもうけ、コロンブスの問題を審議するよう命じたが、真剣に取りあう者はいなかった。コロンブスは、誰にも相手にされなかったのである。

1506年5月20日、コロンブスは、バリャドリードで一人寂しく死んだ。ここで、コロンブス最後の謎。コロンブスの最大の支援者カトリック教会とジェノヴァ商人は、なぜ最後に見捨てたか?答えは簡単、すでに用済みだったからである。新しい土地さえ見つかれば、誰が総督だろうが関係ない。もの哀しい人生だが、コロンブスに助かる手だてはなかったのだろうか?あったとすれば、カトリック教会とジェノヴァ商人への根回し?自分の利権を譲ってでも、彼らを味方につけておくべきだった。コロンブスの生殺与奪の権は、スペイン王室にあり、王室に口利きできるのはカトリック教会とジェノヴァ商人だけだからである。ところが、最初の航海が成功するや、思い込みの連鎖が始まり、コロンブスには真実が見えなくなったのである。

最大の危機は勝利の瞬間にある~ナポレオン・ボナパルド~

《つづく》

参考文献:(※1)増田義郎著「大航海時代」世界の歴史13講談社(※2)長澤和俊著「世界探検史」白水社

by R.B

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