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週刊スモールトーク (第123話) 大航海時代Ⅷ~コロンブスとテンプル騎士団〜

カテゴリ : 歴史

2009.03.21

大航海時代Ⅷ~コロンブスとテンプル騎士団〜

■コロンブスの但し書き

コロンブスの歴史的偉業は、いくつも但し書きがついている。昔の教科書によれば、
「コロンブスは、歴史上初めてアメリカ大陸を発見した」
その後、
「但し、発見したのはアメリカ大陸ではなく、アメリカ海域の島々だった」
今では、
「但し、歴史上初めてではなく、ヨーロッパ人として初めて ・・・」

じつは、クリストファー コロンブスの前に、バイキングが北アメリカに達していた証拠が見つかっている。彼らの物語にそう書いてあるし、カナダに住居跡も確認されたからだ。ということで、大陸であれ、島々であれ、アメリカ発見の手柄がコロンブスに転がり込むことはない。

コロンブスの偉業は、さらにケチがついている。彼は、自分が上陸したのは東アジアだと主張したが、じつは、アメリカ海域の小島にすぎなかった。これに最初に気づいたのが、イタリアの航海者アメリゴ・ベスプッチで、
「ヨーロッパ人で初めて北アメリカに到達したのはこの私だ」
と言って譲らなかった。その後、ベスプッチは南アメリカも探検し、ささいな偶然も重なって、「”アメリカ”大陸」の名前を独り占めにした。「”コロンビア”大陸」とはならなかったのである。

コロンブスの探検はスケールもこぢんまりしている。2ヶ月かけてカリブ海まで行き、島々を荒らし回っただけ?イスラム商人と悪戦苦闘し、2年もかけて、インドに到達したバスコ ダ ガマ。ギリシャ神話「オデュッセイア」を彷彿させる波瀾万丈の世界周航をなしとげたマゼラン隊。奇跡と偶然と苦難の末、アステカ王国を滅ぼしたコルテス。わずか80人の手勢で、南米最大の帝国インカを滅ぼしたピサロ。どうみても、コロンブスは分が悪い

ところが、知名度となると一転、コロンブスは他を圧倒する。歴史上、コロンブスほど、名声と実績のギャップが大きい人物も珍しい。一方、絶頂とどん底の落差が大きいのもコロンブスの特徴だ。マゼランのように、大石に直撃されて死んだほうがマシ、と思えるほど、コロンブスの晩年は悲惨だった。コロンブスは揺るぎない信念の持ち主で、先見の明、リーダーシップ、航海術、そして運にも恵まれていた。一体何が足りなかったか?おそらく、根回し?だが、それだけではなさそうだ。

■テンプル騎士団

コロンブスは謎の多い人物である。たとえば、コロンブスの旗艦「サンタ マリア号」の帆に描かれた謎の十字。コロンブスのスポンサーはスペイン王室、つまり、ガチガチのカトリックなので、十字架と考えれば、別に不思議はない。ところが、あれはただのキリスト教ではなく、テンプル騎士団を表している、という説もある。白地に赤の十字架はテンプル騎士団のシンボルだからだ。そして、テンプル騎士団といえば、最強の騎士、秘密の儀式、フリーメーソン、莫大な資産、異端で抹殺された謎の騎士団 ・・・ 神秘と陰謀の定番である。

テンプル騎士団の本部は、最初はエルサレム神殿におかれた。この神殿は、ソロモン王が建設したユダヤ教の聖殿で、イエス キリストがユダヤ教徒と有名な論争をした場所である。そのためか、謎めいたウワサが絶えない。たとえば、神殿には聖杯や聖櫃(せいひつ)が隠されていた。

聖杯とは、イエス最後の晩餐で使われた杯、聖櫃とは、モーセが神から授かった十戒の石板が納められた箱である。さらには、フリーメーソンとテンプル騎士団の関係、テンプル騎士団が隠したとされる莫大な財宝等々、小説や映画のネタにはこと欠かない。

ところが、史実にしぼっても、テンプル騎士団は謎だらけだ。まずは、そのルーツ。1096年、エルサレムをイスラム教徒から奪還すべく、十字軍の遠征が始まった。このとき、設立されたのが騎士修道会である。修道会とは、キリスト教の修道士が共同生活をするための組織で、神への祈り、自給自足の労働、写本の制作も行われた。騎士修道会は、これに「戦闘」の任務も加わる。この騎士修道会の一つがテンプル騎士団で、世界最古のベネディクト修道会の配下にあった。

本来、テンプル騎士団の使命は、イスラム軍と戦うこと、エルサレムへの巡礼者を守ることだった。ところが、13世紀、十字軍の戦いに決着がつく。イスラム教徒が勝利したのである。ここで、テンプル騎士団の使命も終わったかにみえた。ところが、まだ仕事が残っていた。銀行業である。

十字軍の時代、テンプル騎士団は、各国の王侯貴族や巡礼者のお金を預かる世界有数の国際銀行だった。神の御加護と騎士団の武力があれば恐いものなし、というわけだ。テンプル騎士団は、その資金でヨーロッパ各地に領地や教会を所有していた。

テンプル騎士団は、自前の軍隊、通貨、法律、領土を持っていたが、国家とは言えなかった。一見奇異に見えるが、このような組織は歴史上珍しくない。たとえば、17世紀のカリブ海の港町ポートロイヤル。一応、国籍はイングランドなのだが、町中は、賭博場、売春宿、居酒屋が建ち並び、海賊や人殺し、悪徳官吏でにぎわっていた。驚くなかれ、海賊専用の町だったのである。

ところが、海賊の町と侮るなかれ、ポートロイヤルは500隻の船舶が停泊できる港をそなえ、貨幣鋳造所まであった。ポートロイヤルもテンプル騎士団同様、自前の海軍(海賊)、通貨、法律、領土を持っていたが、国とは言えなかった。

そして、このような組織は現代でも存在する。国際犯罪組織。たとえば、0011ナポレオン・ソロの「スラッシュ」、007の「スペクター」。彼らは、自前で、軍事力、資金、法律、領土をもつが、国として認められたわけではない。もちろん、テンプル騎士団をスラッシュやスペクターといっしょにするつもりはない(断じて)。そう、少なくとも、テンプル騎士団は世界から真っ当な組織として認められていた(はずだった)。

13世紀末、フランス王フィリップ4世は、甘いマスクをゆがませながら、恐るべき陰謀をめぐらせていた。空っぽの国庫を、呪文一つで満杯にする方法である。1306年、フィリップは、フランスに住むユダヤ人の財産を没収し、国外に追放した。絶句するような荒技だが、効果は絶大だった。それにしても、ユダヤ人の迫害はこんな時代にもあったのだ。

フィリップ4世の陰謀は、つぎにテンプル騎士団に向けられた。テンプル騎士団は莫大な資産を保有する大銀行であり、フランスも多額の借金をしていた。ということで、狙いは見え見え。テンプル騎士団を亡き者にすれば、財産を丸取りできるし、借金もチャラ。フィリップ4世にとっていいことずくめ、というわけだ。

1307年10月13日、フィリップ4世は、突然行動に出る。フランス全土で、テンプル騎士団の団員を片っ端から逮捕し、異端審問にかけたのである。異端審問とは、異端の信仰を持つキリスト教徒を裁く制度である。ただし、キリスト教異端といっても、悪魔信仰のように分かりやすいものから、ややこしい神学論争まである。まぁ、しかし、この場合、中味はどうでもよかった。有罪と決まっているのだから ・・・

異端審問は、きちんとした証拠がなくても、有罪に持ち込める恐ろしい制度だ。国法から独立した司法制度なので、歯止めが必要だろう。金持ちだからギロチン、ではたまらない(ギロチンはまだ発明されていないが)。ということで、異端審問にはローマ教皇の許可が必要だった。ところが、ローマ教皇も審問官も、フィリップ4世の意のままだった。コワイコワイ。

結局、多くの団員が有罪にされ、テンプル騎士団の財産も没収された。さらに、1312年、ローマ教皇はテンプル騎士団を正式に禁止する。こうして、テンプル騎士団は完全に抹殺されたのである。

ところが、この禁止令は、フランス以外では徹底されなかった。たとえば、ポルトガルでは、団員は逮捕されず、テンプル騎士団は「キリスト騎士団」と名を変えて存続した。じつは、この「キリスト騎士団」の元団長の娘がコロンブスの妻だったのだ。王室から援助を引き出すにはコネが必要だが、キリスト教会のコネは最強である。コロンブスは義父のコネを利用し、その見返りがサンタマリア号の帆の印?

もっとも、「赤い十字=テンプル騎士団」は短絡的かもしれない。たとえば、今回の舞台となったスペインの北部に、バスクという地域がある。ここには、地球上のどの言語とも結びつかないバスク語を話す人々が住んでいる。彼らは、3世紀にキリスト教が伝わる前から、「バスク十字(ラウブル)」を墓石に彫っていた。十字を円で囲んだシンボルだが、太古の太陽神信仰を具象化したものらしい。話を面白くするなら、ありふれたテンプル騎士団より、バスクをからめた方が良いのでは?話が長くなった ・・・

■東洋への夢

コロンブスの謎はまだある。なぜ、コロンブスは探検の資金を工面できたか?バーソロミュー ディアスの喜望峰発見、ヴァスコ ダ ガマのインド航路発見、成功した探検のほとんどは国家事業だった。コロンブスのような”持ち込み”は意外に少ないのだ。いや、持ち込みは多いのだが、採用されなかったというべきだろう。とすればなおさら、出自の怪しい実績もないコロンブスの企画がなぜ採用されたのか?

この時代、スペイン王室やポルトガル王室に航海の援助を申し出る探検家が後を絶たなかった。理由はただ一つ、時代の空気である。マルコ ポーロの「東方見聞録」は、エキゾチックな東洋の夢をかきたてたし、「プトレマイオスの地図」によれば、インド洋は狭い内海で、探検の危険を忘れさせた。そしてなにより、人々を惹きつけてやまない「黄金とスパイス」、そして手つかずの土地。人生の先が見えた山師にとって、海の向こうは夢の国だったのである。

こんな熱気に満ちていたのが、ポルトガルの首都リスボンだった。この頃、スペインはレコンキスタで忙しかったし、後にライバルとなるオランダはまだ半独立状態。最後の勝者となるイングランドも、戦争の荒廃から立ち直るのがやっとだった。1400年代、大航海に打って出る余力があったのはポルトガル海上帝国だけだったのである。

■ポルトガルへ

1467年、コロンブスはリスボンに移住する。航海で一山あてるためである。1479年、キリスト騎士団の元団長の娘と結婚、その後、マデイラ諸島で暮らした。コロンブスの義父は、裕福な地主だったので、マデイラ島でマデイラ ワインでも造っていたかもしれない。しかし、この頃のコロンブスの情報は少ない。

コロンブスの
「大西洋を西航しアジアに行く」
トスカネリの説によるらしい。1474年、イタリアの著名な科学者トスカネリは、
「大西洋を西に向かえばインドに達する」
という仮説を立てた。その内容を記した手紙と自作の海図を、ポルトガル国王の顧問官と、コロンブスに送ったという。良くできた話だが、一応、物的証拠らしきものも残っている。

もっとも、その話が本当であろうがなかろうが、コロンブスは西に向かっただろう。すでに、地球が球体であることは知られていたし、先のプトレマイオスの地図もそれを示していたからだ。コロンブスは、一時期、地図や海図の制作に従事していた。それに、航海で得た経験をリンクさせれば、独自の世界観を構築できる。そこから導き出されたのが
大西洋を西に向かいアジアに至る
だったのだろう。

もっとも、成功を確信したとしても、探検にはヒトもカネもいる。1484年、コロンブスは、ポルトガル王ジョアン2世に探検の援助を請うた。ところが、一考されたものの、結局は却下。ポルトガルの目は東に向いていたからである。東方のキリスト教王プレスター ジョンを見つけ出すこと、アフリカを周回し東航してインドに到ること。いずれも、東進であって、コロンブスの西進とは真逆。コロンブスはポルトガルに見切りをつけた。

■スペインへ

ポルトガル王室に却下された1年後、コロンブスはスペインのパロス港に降り立った。さらに、その1年後に、スペイン女王イサベルに謁見する。とんとん拍子に行くかにみえたが、このときは却下。スペインはレコンキスタで忙しく、それどころではなかったのだ。それから6年後の1492年、イスラム勢力最後の砦グラナダが陥落、770年続いたレコンキスタが終わった。その直後に、イサベル女王の許可がおりている。まるで、この時を待っていたかのように。ポルトガルから流れ着いた出自の怪しい航海者の”持ち込み”企画がなぜ?

定説によれば、コロンブスはキリスト教修道会から破格の待遇を得ていたという。イサベル女王との謁見をセットしたのも、許認可を握る諮問委員会に口添えしたのも、キリスト教修道会だった。そして、スペイン王室の同意をえるには、これが一番だったのである。

ところで、キリスト教修道会は、なぜコロンブスにてこ入れしたのか?答えは、コロンブスの探検ルートにある。
「大西洋を西航してアジアに到る」
もしそれが可能になれば、キリスト教の宣教師たちは、イスラム教徒に煩わされることなく、アジアに直行できる。それまでの東回り航路では、イスラム教徒が支配するアフリカや中東を通らねばならなかったのである。

コロンブスの探検が、キリスト教修道会とスペイン王室の気を引いたのは、やはり、対イスラムだろう。ところで、他の航海者たちの企画は?すべてとはいわないが、壮大でロマンチックで、実利がなく、リアリティに欠いていた。

たとえば、「聖者の約束の島」の探索。6世紀、アイルランドの修道士聖ブレンダヌスは、大洋を7年間も航海し、「聖者の約束の島」を発見したという。これが「聖ブレンダヌスの航海」の伝説。この物語は、ギリシャ神話「アリアドネの糸」のように複数のバージョンがあり、話としては面白い。で、見つけて何になる?

イスラム帝国の聖戦(ジハード)が、イベリア半島に及んだ8世紀、キリスト教会の大司教が大西洋の黄金の島にのがれ、7つの都を建設したという。これが「シボラの7つの都の島」。こんな「伝説の島」探しの航海が、王室からいくつも許可され、その記録も残っている(※1)。もちろん、成功したという話はない。こんな詐欺まがいの企画に比べれば、コロンブスの企画は至極立派に見える。

コロンブスの企画は明快だった。
1.大西洋を西に向かい、アジアに達すること。
2.金・銀・スパイスを手に入れること。
3.住民をキリスト教に改宗させること。

どれもこれも、スペイン王室とキリスト教会の「利」にかなっている。その分、コロンブスは、彼らに大きな借りを作ることになった。ところが、まだ機嫌を取る相手がいた。ジェノヴァの商人である。スペイン王室は探検の許可は出せても、カネは出せない。770年におよぶレコンキスタで、スペインの国庫は空っぽだったのである。ということで、コロンブスのスポンサーはジェノヴァの商人

当時のスペイン王国は、イサベル1世が治めるカスティリャ王国と、フェルナンド2世のアラゴン王国の連合国家だった。イサベル1世とフェルナンド2世が結婚することで、統一王国に見せかけていたのである。そして、アラゴン王国の国家警察組織のカネを握っていたのがジェノヴァの商人だった。彼らは計理官と示し合わせ、警察の税収から探検資金を抜き取ったのである(※1)。ジェノヴァの商人、恐るべし。それにしても、一体どうやったのか?

じつは、ジェノヴァの商人は、スペイン王室や貴族に多額の資金を貸し付けていた。その見返りとして、さまざまな特権を得ていたのである。その中には、免税、徴税権、領地の課税権まで含まれていた。まさに領主なみの権限である。たかが商人、されど商人。古今東西、大商人は歴史を変える力をもっている。裏を返せば、コロンブスは、それほどの実力者から、期待され、信頼されていたのである。

ということで、机上の歴史からはうかがえない、特別な何かがコロンブスにはあったのだ。1492年4月、コロンブスはスペイン王室と正式に契約した。コロンブスの人生、ここまでは順風満帆だった。

《つづく》

参考文献:
(※1)増田義郎 著 「大航海時代」世界の歴史13 講談社
(※2)長澤和俊 著「世界探検史」 白水社

by R.B

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