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週刊スモールトーク (第122話) 大航海時代(7)~インド航路発見~

カテゴリ : 歴史

2009.03.01

大航海時代(7)~インド航路発見~

■暗黒大陸

アフリカは人類発祥の地。ところが、ヨーロッパ人はこの祝福の土地を「暗黒大陸」とよんだ。命を削るような厳しい自然、殺伐とした不毛の大地、文明の気配すらない。スコットランドの宣教師、リヴィングストンが自らの命と引き替えに、この地を探検をするまでは、アフリカは秘境であった。

アフリカが、長い間、地図に印されなかったのは、この土地の特異な気候と地形による。大地に立った瞬間、力が奪われていく恐ろしい気候。人間の移動をはばむ異形の地形。四大文明の河川は人間に水路をもたらしたが、アフリカは違う。巨大な陸の段差が河川を寸断し、長尺の交通が成立しないのだ。

■コンゴ王国

1460年11月13日、エンリケ航海王子が死ぬと、ポルトガルの探検は、20年間、停滞した。ポルトガル王アフォンソ5世が探検に興味を示さなかったからである。ところが、1482年、ジョアン2世が即位すると、探検は再開された。アフリカ黄金海岸のエルミナに要塞が築かれ、奴隷貿易の一大拠点となった。

この頃、黒人奴隷は、まだ南北アメリカのプランテーションに投入されていなかった。ほとんどの奴隷はポルトガル本国に送られ、家内労働や農作業に使役されたのである。1482年、探検家ディオゴ・カウンはリスボンを出航した。ジョアン2世の命を受け、アフリカを探検するためである。カウンの船団は、アフリカ西岸を南下中、偶然、コンゴ川河口を発見する。そのまま上流まですすむと、未知の王国があった。コンゴ王国である。カウンは、その後もこの地を訪れ、コンゴ王室との友好を深めた。そして、1489年に、コンゴ王室はポルトガルに使節団を派遣し、1490年、今度はポルトガルがコンゴに使節を派遣した。

こうして、ポルトガルとコンゴ王国の蜜月時代が始まる。コンゴ王はキリスト教に改宗し、王侯貴族の子弟をポルトガルに留学させた。ヨーロッパ流の教養を身につけさせるためである。特に、皇太子はポルトガルに心酔し、アフォンソというポルトガル風の名に改名したほどである。アフォンソは、コンゴ王に即位すると、キリスト教の布教に尽力し、ポルトガルとの関係は深まった。ところが、ポルトガルの奴隷商人がすべてを台無しにした。なりふり構わぬ奴隷狩りで、コンゴ王国を大混乱に陥れたのである。

■ベニン王国

ポルトガルが、官民一体でアフリカに進出した理由は3つあった。奴隷貿易で儲けること、アフリカを周回するインド航路を発見し、スパイスを独占すること、キリスト教国「プレスター・ジョン王国」と同盟し、イスラム勢力を挟み撃ちにすること。1485年、ポルトガルの探検家ジョアン・アフォンソ・アヴェイロは、アフリカのベニン王国を発見した。ベニン王国は現在のナイジェリア南部にあって、12世紀から19世紀末まで栄えた。アヴェイロは、先のカウン同様、王室と接触したが、そこで驚くべき情報を入手する。アフリカ奥地に、オガネーという十字のシンボルを崇める異教徒の王国があるというのだ。この情報は、ただちに、ジョアン2世のもとに伝えられた。これこそプレスター・ジョンの王国!とジョアン2世は狂喜した(に違いない)。

じつは、「オガネー=エチオピア帝国」という説がある。エチオピア帝国の国教がキリスト教だったからである。正確には、コプト派キリスト教。エチオピア帝国は現在のエチオピア連邦民主共和国だが、一風変わった歴史をもっている。建国者は土着のアフリカ人ではないし、歴史は古く旧約聖書までさかのぼる。旧約聖書「ソロモン王とシバの女王」に登場するシバ(サバ)は、紀元前10世紀から、アラビア半島南部で大いに栄えた。国内で産する「乳香」と香料貿易の仲介が巨万の富をもたらしたのである。また、ダムを備えた灌漑設備まであり、農産物も豊富だった。8世紀頃、全盛期をむかえ、首都マーリブは「幸福のアラビア」とよばれるほどだった。このシバ人たちが、紅海を渡って、エチオピアの地に建てたのがアクスム王国で、これがエチオピア帝国の起源となった。4世紀には、コプト派キリスト教が伝来し、国教になった。キリスト教がローマ帝国の国教になったのもこの頃で、ひょっとすると、エチオピアは歴史上最古のキリスト教国かもしれない。

ところで、コプト派キリスト教とは?

■コプト派キリスト教

コプトは「エジプト人」を意味するので、コプト派キリスト教とは「エジプト人のキリスト教」。では、どういう経緯で、キリスト教がアフリカまで伝わったのか?事の発端は、イエス・キリストの神性をめぐる大論争「イエスは完全な神か否か?」までさかのぼる。325年、この大論争に決着をつけるため、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は、ニカエア公会議を開催した。教科書にも載っているビッグイベントだ。この会議で、アレクサンドリアの司祭アリウスはこう主張した。

「神は絶対の存在であるがゆえに、始まりはなく、生まれることもない。しかし、キリストは生まれた者であるゆえ、神と同一ではない

さすが、ニュートンが信奉しただけのことはある。完全無欠の論理だが、会議で承諾されたのは、アレクサンドリアの主教アタナシウスの説だった。曰く、「イエスは、父である神と同じ神性をもつ」以後、アリウス主義は異端とされ、アリウス自身もシリアに追放された。ところが、異端騒ぎはこれで終わらなかった。その後、エジプトのキリスト教徒の間で、「イエスには神性のみが存在し、人性は存在しない」という「単性論」が生まれた。ところが、これを認めれば、イエスの「生まれた者=生身」の説明が難しい。そこで、451年、キリスト教の主流派(カルケドン派教会)は、単性論を異端と断罪した。それに反発した「単性論」派は、分離独立して、アレクサンドリア主教を創設した。これが「コプト派キリスト教(コプト教会)」である。

■アフリカ探検

アヴェイロの「オガネー」情報に触発されたジョアン2世は、アフリカ探検に本腰を入れる。なんと、陸路と海路から同時探検を命じたのである。陸路を任されたのは、ペロ デ・コヴィリャンとアフォンソ・デ・パイヴァ。海路は「喜望峰発見」で有名なバルトロメウ・ディアス。

ところで、王たる者が、ウワサのキリスト教国をもとめて、そこまでやる?「キリスト教王プレスター・ジョンと同盟し、イスラム勢力を挟撃する」というヨーロッパの希望的戦略は、じつは、12世紀から存在した。ちょうど、十字軍遠征で、ヨーロッパがイスラム軍に苦戦していた頃である。とはいえ、ジョアン2世が陸海同時探検を命じた1487年は、すでにイスラム勢力の脅威は弱まっていた。ポルトガルのレコンキスタは、1249年には終了していたし、イスラム最強のオスマン帝国の支配が及ぶのも地中海まで。そもそも、ポルトガルの関心は地中海ではなく、大西洋やインド洋に向いていたはず。ということで、プレスター・ジョン探索の動機としては弱すぎる?

しかし、別の見方もある。この時代、ヨーロッパでは、食肉の防腐剤や調味料としての香辛料の需要は大きかった。ところが、香辛料はアジアにしか産しなかった。特に、スパイスとよばれるチョウジ(丁子)とニクズクは、黄金に匹敵する価値があった。マルク諸島にしか産せず、効用がずば抜けていたからである。

香辛料は、産地のアジアからヨーロッパまで、2つのルートを経て運ばれた。まず、アラブ系イスラム商人がアジアから、エジプトのアレクサンドリアまで運ぶ。それを、イタリア商人が買い付け、地中海で売りさばく。ここで、イタリア商人とは、ジェノヴァとヴェネツィアの商人である。彼らが地中海貿易を独占できたのは、十字軍の時代、敵味方かえりみない無節操な輸送と貿易で大儲けしたからである。

じつは、ジェノヴァとヴェネツィアは地中海貿易の覇権を巡る宿命のライバルだった。十字軍遠征では仲良く儲けたが、それが終わると、すぐに戦争を始めた。やがて、劣勢になったジェノヴァは新たな道を模索する。ポルトガルとスペインと組んで、地中海を経ない新しい航路を求めたのである。大航海時代の功労者(黒幕?)はジェノヴァ商人だったのだ。

1453年、ヨーロッパを揺るがす大事件が起こる。イスラム教オスマン帝国が、キリスト教ビザンティン帝国を滅ぼしたのである。ビザンティン帝国の帝都コンスタンティノープルは、ダーダネルス海峡を介し、地中海とつながっている。陸の大国、オスマン帝国が、地中海に進出するのは時間の問題だった。

やがて、ヨーロッパの不安は的中する。エーゲ海を荒らし回っていた大海賊バルバロッサがオスマン帝国に帰順したのである。1538年9月28日、イスラム教勢力とキリスト教勢力が、地中海の覇権をかけて戦った。プレヴェザの海戦である。この海戦で、バルバロッサ率いるオスマン艦隊は、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇連合艦隊を撃破する。地中海の制海権はイスラム教徒の手中に落ちたのである。結果、ジェノヴァとヴェネツィアの商人は地中海で香辛料を売ることができなくなった。しかも、この「オスマンのくびき」は、1700年頃までつづく。とすれば、ジェノヴァの商人がポルトガルをそそのかし、イスラム勢力駆逐に精を出したとしても不思議ではない。

つまり、キリスト教徒が香料貿易にありつくには、「アジア→紅海→エジプト→地中海→ヨーロッパ」に代わる新しい航路を見つけるしかなかった。ということで、ポルトガルの陸海同時探検の動機は定説どおり、「プレスター・ジョンの発見」と「インド航路の開拓」。

■エチオピアの発見

ここで、ジョアン2世の陸海同時探検に話を戻そう。まずは陸路から。ペロ デ・コヴィリャンとアフォンソ・デ・パイヴァの探検は、小説のようにドラマチックだ。彼らが目指したアフリカとインドは、アラブ系イスラム商人が支配する土地で、言葉も文化も宗教も違った。ということで、この2人が選ばれたのはアラビア語が堪能だったから。コヴィリャンとパイヴァは、1487年5月にポルトガルを出発して、エジプトのカイロに入った。

その後、アラブ人に変装して、アラビア半島を南下、アデンに行き、そこで、二手に別れた。パイヴァは紅海を渡り、エチオピアへ。コヴィリャンはインドへ。ところが、パイヴァは、エチオピアで病死してしまう。一方のコヴィリャンは、インドのカリカットまで行き、使命を果たす。当時のカリカットは世界一の胡椒の集散地で、大量の香辛料が取引されていた。「香辛料=黄金」の世界で育ったコヴィリャンにとって、目を疑う光景だっただろう。

1490年、コヴィリャンはカイロに戻ったが、そこで、ポルトガル王の使者に会う。王からの命令を確認したコヴィリャンは、パイヴァの後を継いでエチオピアに行くことを決意する。これまでの探検の報告書を使者に渡し、コヴィリャンは、一路エチオピアに向かった。コヴィリャンの報告書には、「インドへはアフリカのギニアから海岸をつたって航海できる」と記されていたという(※2)。また、その2年前には、バーソロミュー・ディアスが喜望峰を発見し、アフリカ南端を周回するインド航路があることを予見している。つまり、その後の、ヴァスコ・ダ・ガマの歴史的大航海は、探検というよりは、事実確認のための航海だったのかもしれない。

ところで、エチオピアに向かったコヴィリャンだが、その後、音信が途絶えてしまう。それから30年経った1525年、ポルトガルの探検家ロドリゴ・デ・リマは、エチオピアを訪れ、偶然、コヴィリャンを発見する。コヴィリャンは、エチオピア王に厚遇され、女性まで与えられ、平和に暮らしていたのである。コヴィリャンは帰国を願ったが、叶わなかった。エチオピアの地で死んだのである。

■喜望峰の発見

つぎに、ジョアン2世の陸海同時探検の海のコース。海路アフリカに向かったバーソロミュー・ディアスのミッションは明確に、プレスター・ジョンとインド航路の発見。1487年8月、コヴィリャンとパイヴァの出発に後れること3ヶ月、ディアスはリスボンを出港した。ディアスの船団は、アフリカ西岸に沿って、ひたすら南下した。

ところが、途中で嵐に遭遇し、陸地を見失ってしまった。当然、ディアスは、船が西方に流されたと考えた。そこで、陸地に近づくため東に進んだ。ところが、行けども行けども、陸地は見えない。ひょっとすると、南に流されたのかもしれない。ディアスは、今度は北上を試みた。すると、そこにはあり得ない光景が・・・東に見えるはずの陸地が、西方に見えたのである。しかも、海岸は、北東にのびている。考えられる答えは一つしかない。アフリカ南端を西から東へ抜けたのである。アフリカ周回航路発見の瞬間だった。

1488年2月3日、ディアスは、アフリカ南端のアガラス岬から東方200kmにあるモセル湾上陸した。そのまま、インドに達していれば、後の「ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見」は歴史年表から消えていた。ところが、ディアスはインドには向かわず、そのままリスボンに帰港した。その途中に発見したのが、「喜望峰」である。結局、バーソロミュー・ディアスの功績は、「喜望峰の発見」にとどまったのである。

■インド航路の発見

1495年10月、ジョアン2世が死去し、マヌエル1世が後を継いだ。マヌエル1世が統治した1495から1521年は、ポルトガルの絶頂期だった。行政改革を断行し、絶対王政を確立する一方、航海事業にも力を注いだ。ディアスの報告によれば、アフリカ南端を回るインド航路があることは確かだった。1497年、マヌエル1世は、ヴァスコ・ダ・ガマにインド遠征を命じる。ヴァスコ・ダ・ガマの船団は、4隻の船と170名の乗員で編成された。主力船は、ディアスの探検で使われたキャラベル船から、キャラック船に変更された。

キャラック船は、キャラベル船にくらべ、大量の荷が積め、多数の大砲を備える。また、乗員には死刑囚もくわえられた。危険な土地に先兵として上陸させるためである。隊長には、冷静さを買われ、ヴァスコ・ダ・ガマが任命された。そして、ミッションは明確に、アフリカ周回インド航路の発見。

ヴァスコ・ダ・ガマの船団は、1497年7月8日、リスボンを出航した。ところが、深い霧に入り込み、船は離れ離れになってしまった。なんとも縁起の悪い門出だった。ところが、一週間後、4隻が奇跡的に合流する。1497年11月22日、喜望峰を回り、モセル湾に上陸、記念にポルトガルの石柱を立てた。ここまでは、ディアスの航海と同じ。そして、いよいよ、インドへ・・・ガマの船団は、モセル湾を出航し、アフリカ東岸のケリマネに向かった。そこで、インド航路に関する情報を集めるためである。ケリマネはイスラム教徒の土地であり、インド貿易に精通したイスラム商人がいるはずだった。ところが、情報が全く手に入らない。そこで、アフリカ東岸沿いに北上し、モザンビークに向かう。

ところが、モザンビークに着くやいなや、イスラム商人が攻撃をしかけてきた。自慢の大砲をぶちかまし、難を逃れたものの、イスラム商人がポルトガル人を敵対視していることは明らかだった。とても、情報は得られそうもない。そこで、モンバサまで行ってみたが、状況は同じ。それでも、ガマはあきらめず、マリンディに向かった。

1498年4月初旬、ガマの船団はマリンディに着く。この時代、地図もなし、水先案内人もなしでは、遭難はみえている。なにはともあれ、インドに行くには水先案内人が必要だ。ところが、偶然、水先案内人を見つけることができた。1498年4月27日、ガマの船団は、マリンディを出航し、意気揚々、インドに向かった。

1498年5月20日、ついに、インドのカリカットに到着。このとき、一人の現地人が、ガマにこう尋ねた。「ポルトガル人はアジアで何を探しているのか?」ガマ答えて曰く、「香辛料とキリスト教徒」ひょっとして、ガマのミッションにも「プレスター・ジョン探索」が含まれていたのかもしれない。その後、ガマはサモリン王に謁見した。ガマが持参した贈り物を献上すると、サモリン王は一瞥して、不機嫌そうに言った。「メッカのどんな貧しい商人でも、もっとましなものをくれる」交渉は決裂したかと思われた。ところが、サモリン王は、しぶしぶではあったが、ガマに貿易許可状を与えた。当時のカリカットはイスラム商人が西方貿易を独占していたので、イスラム商人とポルトガル商人を競争させる意図があったのかもしれない。結局、ガマは、3ヶ月間カリカットに滞在し、香辛料も購入し、無事帰途についた。

ところが、帰りの航海は悲惨だった。悪風に悩まされ、アラビア海を横断するだけで、3ヶ月もかかったのである。新鮮な野菜は底を突き、壊血病で乗員の半数が死んだ。その中には、ガマの兄(弟?)も含まれていた。とはいえ、苦労した甲斐はあった。帰国後、ガマはポルトガル王に厚く遇され、インド総督にまで上りつめたのである。じつは、大航海時代の功労者は、たいてい、あとがよくなかった。おとしめられるか、破産するか、殺されるか・・・ガマのような人生はまれだったのである。

■ブラジルの発見

ヴァスコ・ダ・ガマの成功で、気をよくしたマヌエル1世は、2回目のインド遠征をもくろむ。遠征隊の隊長は、ペドロ・アルヴァレス・カブラル。1500年3月8日、13隻からなるカブラルの大船団は、リスボンを出航した。ところが、大西洋を南下中、嵐に遭遇、西方に流されてしまう。そのとき、偶然発見したのが「ブラジル」だった。その後、ブラジルへの植民が始まった。ポルトガル人は、大西洋諸島の植民地にならい、サトウキビ栽培から始めた。ところが、すぐに労働力が不足した。奴隷として使役していた現地のインディオが、労働を拒否したり、逃亡したからである。

そこで、植民者が目をつけたのがアフリカの黒人奴隷だった。熱帯気候に適応力があり、すでに奴隷貿易の実績もあったからである。ブラジルに投入された黒人奴隷は、一旦、アフリカから大西洋諸島の植民地に送られ、その後、ブラジルに送られた。ところが、1550年に入ると、アフリカから大西洋を横断して、直接、ブラジルに送られるようになった。黒人奴隷の需要が急増したからである。そのため、コンゴ王国では、奴隷狩りがエスカレートし、ポルトガル王室も制御不能になっていた。コンゴ王国は衰退し、黒人奴隷も枯渇した。そこで、奴隷商人たちは、狩り場をコンゴからアンゴラに移した。以後、毎年1万人もの黒人奴隷が、アンゴラからブラジルに送られたのである。

■ポルトガルその後

ヴァスコ・ダ・ガマが開拓したインド航路は、ヨーロッパのパワーバランスを変えた。ポルトガルは、首都リスボンとインドを結ぶアフリカ東岸の港、ペルシャ湾や紅海からインド洋に出る港を制圧した。航海の安全と補給地を確保するためである。さらに、インドのゴアに総督府を置き、香辛料の一大集散地カリカットとコーチンも支配下におさめた。こうして、ポルトガルはインド洋の制海権を握り、壮大な貿易ネットワークを完成させたのである。

一方で、繁栄を極めたイスラム勢力とヴェネツィアは衰退した。イスラム商人は、インドからエジプトに至る貿易ルートを失い、ヴェネツィア商人はイスラム商人からの買い付けができなくなったからである。世界の中心は地中海国家から大洋国家へと移ろうとしていた。そして、大洋国家の覇権も、ポルトガル・スペインからオランダへ、さらにイギリスへと移っていった。ポルトガルは、インドを越えて、遠くインドネシアまで進出した。

1511年、東西交易の要衝マラッカを攻略し、1512年には地球上でスパイスを唯一産するマルク諸島も占領した。さらに、中国や日本にまで進出した。中国船が種子島に漂着し、乗船していたポルトガル人から火縄銃が伝えられたのも、この時期である。ところが、1500年代後半、ポルトガルの衰退がはじまった。1580年にスペインに併合され、1640年に独立を回復したものの、国力は回復しなかった。イングランドとの貿易に望みをかけ、ワインを輸出し、毛織物を輸入したが、貿易赤字はふくらむ一方だった。さらに、1600年に入ると、インドやアジアまで、オランダとイングランドに奪われてしまう。

1693年、ポルトガルに起死回生のチャンスがおとずれる。植民地ブラジルのミナスジェライスで、金鉱が発見されたのである。ゴールドラッシュが始まり、ポルトガルに大量の金が流入した。ところが、そのほとんどがイギリスとの貿易赤字で相殺された。さらに、1822年、ブラジルはポルトガルから独立する。栄華を極めたポルトガル海上帝国も、400年前の小国に戻ったのである

《つづく》

参考文献:
(※1)増田義郎著「大航海時代」世界の歴史13講談社
(※2)長澤和俊著「世界探検史」白水社

by R.B

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