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週刊スモールトーク (第111話) 大航海時代Ⅰ~ローマとゲルマンとゴート~

カテゴリ : 歴史

2008.08.10

大航海時代Ⅰ~ローマとゲルマンとゴート~

■西洋の憂鬱

大航海時代とは、大海を越えて、地球をわがものにしようとしたヨーロッパ人たちの破壊と殺戮の歴史と、鉄砲と聖書をかかえ、未知の世界に飛び込んでいった勇敢なヨーロッパ人たちの物語である。この2つは不可分なのだが、それぞれ別の思いを込めて語り継がれるべきものである。

地球の歴史が、西洋中心になったのは、大航海時代以後のことである。光り輝くギリシャ文明からローマ帝国への系譜をのぞけば、西洋が優勢だったことはほとんどない。476年の秋、西ローマ帝国は、煮え切らない謀反人オドアケルの手によって、あっけなく滅んだ。広大なガリアを征服し、歴史に燦然と輝く名将ハンニバルを撃退し、地中海世界に君臨した大帝国にしては、あっけない最期であった。

以後、大航海時代が始まるまでの1000年間、西洋の歴史は憂鬱なものだった。次々と現れる東方の新興国に、土足で踏み込まれ、略奪され、残されたのは土だけ、という国さえあった。大航海時代のヨーロッパの大攻勢をささえたのは、火砲とガレオン船だが、東方世界(オリエント)へのコンプレックスも一因だったかもしれない。

■ゲルマン族

大航海時代を深掘りするために、まず、西ローマ帝国滅亡までをみていこう。大航海時代は、東洋と西洋の文明の衝突だが、その原点がこの時代にあるからである。ローマ帝国の威信が揺らぎはじめた3世紀、ゲルマンの一部族ゴート族は、ポーランドからウクライナにかけて住んでいた。この地は、長大なドニエストル川で2分され、その西方が西ゴート、東方が東ゴートである。

その後、歴史に名を残すゴート(族)は、じつは、ゲルマン族だったのである。ところで、ゲルマン族とはどんな種族だったのだろう?アカデミー作品賞を受賞した映画「グラディエータ」によれば「蛮族」。監督のリドリー・スコットはストイックでリアリティに執着するので、もっともらしく見える。

映画「グラディエータ」の冒頭シーンはまるで絵画だ。うっそうとしたゲルマンの森、平地をはさんで、対峙するローマ軍とゲルマン族。ローマ軍は、赤と銀の甲冑に身を固め、整然と陣形をなし、命令を待っている。一方、ゲルマン族は陣形もまばらで、装備もバラバラ、罵声、怒声で気勢を上げている。戦闘が始まると、ゲルマン族は勝手気ままに突進し、長大な斧をひたすら振り回す。なるほど、これなら蛮族だ。戦いに勝利したローマ軍の司令官がつぶやく。
「われわれは、未開の蛮族に光を与えているのだ」

光とは知であり、文明である。無知な人間に知識を授けることを意味する「啓蒙(けいもう)」は、英語で「enlightenment」。つまり、光をさすこと。旧約聖書 創世記 第1章 第1節にも、こう書かれている。
「神はこういわれた。光あれ」

ところで、ゲルマン族は本当に蛮族だった?

ただの報告書なのに、読み出したら止まらない本がある。ローマ皇帝カエサルが書いた「ガリア戦記」だ。無駄な言葉、修飾がなく、まさに「オッカムのカミソリ(※1)」。ところが、どういうわけか、この”報告書”、なかなか面白い。カエサルは、歴史的に大成した政治家、軍人だが、文才もあったようだ。ただ、ここで注目するのは、カエサルの多才ではなく、ゲルマン族の真の姿。

以下、ガリア戦記からの引用(※2) ・・・

ゲルマニー人(ゲルマン人)が訓練していた戦法というのは、次の通り。まず、騎兵の数が六千騎。これに同数の歩兵がつく。歩兵は全軍から選ばれた勇敢、俊敏な者たちであり、騎兵一騎に各一名がついて、これを護(まも)る。かれらは騎兵とともに戦闘にのぞみ、騎兵が深傷(ふかで)をおって落馬するなど、危うい場面をみとめると、皆がそこに駆けつけ、これを囲む。長距離の前進や迅速な退却のときには、馬につかまりながら疾走する。このように訓練されていた」

リドリー・スコットの「グラディエータ」とはゼンゼン違うではないか?ゲルマン族の戦法は攻守のバランスがとれ、合理的でよく練られている。ローマ帝国の「知=光」など必要ないのでは?少なくとも、軍事作戦では。そもそも、グラディエータでは、ゲルマン族に騎兵がいない!まぁ、時代も違うことだし、リドリー・スコットが熱心なのは映像のリアリティで、歴史のリアリティではない、ということにしておこう。とはいえ、「グラディエータ」は魂の芯をゆさぶる素晴らしい映画である。

■東ゴート王国

話をゴートにもどそう。ゲルマン族の一派ゴート族は、3世紀、ヨーロッパを荒らしまわった。こうして、ゴート族は「蛮族」の地位を揺るぎないものにしたが、370年、東方からもっと恐ろしい蛮族が押し寄せる。アッティラ大王率いるフン族である。フン族は騎馬民族で、中国の漢王朝を苦しめた匈奴の一派といわれるが、はっきりしない。ただ、紀元前6世紀に栄えた騎馬民族スキタイ同様、かなり高度な文化をもっていたらしい。

西進したフン族は、通り道の東ゴートに壊滅的な打撃を与え、フランス内部にまで侵入した。たまりかねた西ローマ帝国は、451年6月、西ゴート族をはじめ、ゲルマン族と連合し、フン族に立ち向かった。これが、歴史上有名な「カタラウヌムの戦い」だ。ところで、こんな局地戦がなぜ有名なのか?歴史上初めて、東西文明が激突した事件だから。ということで、この地味な西洋史が大航海時代につながっている、とこじつけているわけだ。それはさておき、この戦いの勝者は、一応、西ローマ連合軍であった。

ところが、敗れたフン族は、撤退したものの、勢力が衰えたわけではなかった。それどころか、イタリア北部を荒らしまわり、帝都ローマに王手をかけたのである。貢ぎ物をちらつかせたローマ教皇レオ1世のとりなしで、やっとフン族は帰国した。ところが、453年、アッティラは深酒で急死する。

じつは、騎馬民族のリーダーは「深酒で急死」が意外に多い。町を築かず、殺伐とした草原で暮らすので、他に楽しみがない?たとえば13世紀、ヨーロッパに遠征したモンゴル軍は、ヨーロッパを滅亡寸前にまで追い込んだが、本国でオゴタイ ハーンが深酒で急死、モンゴル軍は撤退せざるをえなかった。指導者の深酒のおかげで、ヨーロッパは救われたのである。

アッティラが死んだおかげで、東ゴートはふたたび独立をとりもどした。彼らはローマ帝国の許可をえて、パンノニア(現在のハンガリー)に移住し、平和に暮らしはじめた。ところが、474年、テオドリックが東ゴートの王になると、ローマ帝国との関係は一変する。488年、東ゴートはイタリアに攻めこみ、先のオドアケルをやぶり、東ゴート王国を建国したのである。テオドリックは有能な王だったので、イタリアはひさびさの平和をとりもどした。ところが、テオドリックが死去すると、東方のビザンティン帝国の圧迫を受け、555年、東ゴート王国はあっけなく滅ぶ。

■西ゴート王国

ところで、もう一つのゴート、西ゴート族はどうなったのか?フン族の襲来により、同族の東ゴートが滅ぶの目の当たりにした西ゴートは、376年、ローマ帝国に救いを求めた。結果、西ゴート族はモエシア(現在のブルガリアからルーマニア)に移住することを許されたのである。この移住が有名なゲルマン民族大移動だが、両国に思わぬトラブルを引き起こす。移動中、ローマ軍と西ゴート族の間に戦争がおこり、最終的に西ゴートが勝利したのである。

ローマ帝国と西ゴートは一旦和解したが、395年、アラリックが西ゴートの王位に就くと、関係は再び悪化する。アラリックはイタリアに攻め込み、帝都ローマを占領し、略奪の限りを尽くした。さらに、アラリックを継いだアタウルフは、軍団を率いてピレネー山脈をこえて、イベリア半島を征服、現在のスペインの始祖となった。

その後も、西ゴート王国は有能な王を輩出した。エウリック王の時代には、ローマ帝国から完全に独立し、「エウリック王法典」を編纂している。エウリック王法典はローマ法をベースにしながら、ゲルマン族特有の慣習もくわえられた。こうして、西ゴート王国の支配地はイベリア半島(スペイン)からフランス南西部にまで達した。

ところが、同時代、フランス北部で、ゲルマン族の一派、フランク族が台頭する。後にメロビング朝を開くクロービスは、507年、西ゴートのフランス南西部の領地を占領、フランク王国の礎を築いた。このフランク王国が、現代のフランスやドイツなど西ヨーロッパの母体となった。

領土がイベリア半島だけになった西ゴート王国に、さらに災難がふりかかる。今度の敵はフランク王国よりずっと手強かった。イスラム帝国である。713年、北アフリカから侵入したイスラム軍は、イベリア半島を占領し、西ゴートの敗残兵はスペイン北部に逃げ込んだ。そこで、小さなキリスト教国に分かれ、国土回復戦争(レコンキスタ)が始まるまで、ひっそりと暮らしたのである。

西ゴート族は、ゲルマン族の中にあって、いち早くキリスト教を受け容れた部族である。はじめアリウス派、後にカトリック派に改宗している。後の「カトリックの盟主スペイン」の原点はここにある。スペイン北部に封じ込められた西ゴートの諸王国は、やがてイスラム勢力を駆逐し、太陽の沈まぬ帝国「スペイン」を成立させ、大航海時代のさきがけとなるのである。

■ビザンティン帝国

西ローマ帝国の滅亡後、ヨーロッパはゲルマン族や東方の蛮族に蹂躙された。生粋のヨーロッパ人を自認するローマ人してみれば、辛い時代であった。彼らは、辺境の蛮族におびえながら、古き良きローマをなつかしんだ。生活も習慣も、窮屈なキリスト教義にしばられて ・・・。こうして、暗黒の中世が始まったのである。この間、ヨーロッパの人口は1億を超えることはなく、小さな国が乱立し、互いに争い、一つにまとまることはなかった。このような不用心さが、後にヨーロッパ全土を、破滅のふちに追い込むのである。

黒海と地中海をむすぶボスポラス海峡を境に、西が西洋、東が東洋である。西洋と東洋を区別する基準は、地理以外にもある。西洋はキリスト教が支配するヨーロッパ、東洋は異教徒が支配するアジア。いずれにせよ、西洋と東洋を分かつのがボスポラス海峡で、そこに位置したのが、ビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルだった。ビザンティン帝国は、395年にローマ帝国が東西に分裂した時の、東方の帝国である(東ローマ帝国)。

このような地政学的理由から、ビザンティン帝国は西洋(キリスト教世界)の防衛ラインとなっていた。そして、その東方にあったのがササン朝ペルシャだった。ササン朝ペルシャは、一神教の元祖、ゾロアスター教を国教とする神権国家であった。強力な中央集権体制を確立し、兵も精強で、一時、ビザンティン帝国のシリアとエジプトを占領したほどである。ところが、ヘラクレイオスがビザンティン帝国の皇帝に即位すると攻勢に転じ、627年、ササン朝の大軍を敵地ニネヴェで討ちやぶった。

■東高西低

八方ふさがりのキリスト教世界にとって、久々の朗報だった。気をよくした皇帝ヘラクリウスは、首都コンスタンティノーブルで盛大な祝宴をもよおした。ところが、その頃、さらに強力な勢力が台頭していた。予言者マホメット(ムハンマド)率いるイスラム教国である。祭政一致の強力な政権、優れた指導者、無敵の騎兵を率いるこの新興国は、ビザンティン帝国のメソポタミア、シリア、エジプトを瞬く間に占領した。

創始者マホメットは、632年にこの世を去ったが、後継者たちはイベリア半島から遠くアジアにいたるまで、広大なイスラム帝国をつくりあげた。この間、多くのイスラム王朝が興亡し、科学、文化、経済、あらゆる面で西洋を圧倒したのである。東高西低のはじまりであった。

《つづく》

参考文献:
(※1)「オッカムのカミソリ」不要なものは、すべてカミソリで切り落とせ(Simple is best)。
(※2)「新訳 ガリア戦記」 ユリウス・カエサル著 中倉玄喜 翻訳・解説 PHP

by R.B

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