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週刊スモールトーク (第10話) 原子爆弾投下の理由~広島・長崎~

カテゴリ : 戦争

2005.08.21

原子爆弾投下の理由~広島・長崎~

■原子の灯

1938年クリスマスも近いある日、ドイツの小さな実験室で原子物理学の実験が行われた。

この実験は後世、地球と人類を破滅の縁にまで追い込むことになる。化学者オットーハーンは、ウランの原子核に中性子を衝突させ、割れるはずのない原子核を分裂させたのである。これが「核分裂」だと最初に気づいたのは女流物理学者リーゼ・マイトナーだった。著名な物理学者フェルミは、この核分裂を連続的におこせば、莫大なエネルギーが取り出せるかもしれないと考えた。核分裂のさいに、2、3個の中性子が放出され、それが隣のウラン原子核に衝突し、次々と核分裂を起こす。核分裂の回数が多いほど放出するエネルギーも大きいので、「核分裂の連鎖→莫大なエネルギーが放出」と考えたのである。

1942年12月2日、フェルミらは、シカゴ大学の粗末な原子炉で、核分裂を連鎖的におこすことに成功する。歴史上初めて、原子の灯がともったのである。このささやかな実験が、広島と長崎に投下された原子爆弾の起源となった。地球人類の忌まわしい未来が、歴史年表に刻まれた日である。一方、ハンガリー人の学者レオシラードも、オットーハーンの実験から、核分裂が原子爆弾につながることを予見した。もし、ドイツが原子爆弾の製造に成功すれば、世界は破滅する。そこで、世界的な科学者アインシュタイン博士の名をかりて、アメリカ合衆国大統領ルーズベルトに、原子爆弾の開発を進言したのである。しかし、ルーズベルトはすぐに行動をおこさなかった。話があまりにも突飛で、信じられなかったのである。しかし、原子爆弾は徐々に現実味をおびてくる。

■マンハッタン計画

1942年6月、ルーズベルト大統領はある国家プロジェクトを発足させる。目的は原子爆弾の製造で、コードネームはマンハッタン計画と命名された。原子爆弾の標的は、当初ドイツだったが、完成する前にドイツが降伏したので、原子爆弾は広島と長崎に投下されることになる。マンハッタン計画の総責任者には、レズリーグローヴス准将が任命された。また、研究施設はニューメキシコ州のロスアラモスにおかれ、第一級の研究者が集められた。マンハッタン計画は、おそらく、歴史上最大の科学プロジェクトの一つである。わずか、数年間でこれだけのヒトモノカネを投下したプロジェクトは前例がない。これに匹敵するのは、第二次世界大戦中のドイツのV2ロケット計画ぐらいだろう。

マンハッタン計画は、3年間で、5万人の科学者と技術者が投入され、20億ドルの資金を使い切った。20億ドルは、現在の貨幣価値で2兆円、当時の日本の一般会計の約35倍である。結果論にすぎないが、日本はアメリカに勝つ見込みなどなかったのである。マンハッタン計画で製造された原子爆弾は、広島と長崎に投下された2つ。つまり、1発1兆円の爆弾だった。さらに、広島と長崎が受けた損害、失われた35万名の人命を考えると、人類が被った被害は計り知れない。やられる前にやる、味方の損害を減らすため・・・どれほど正当化しようが、やったことはやったこと。原子爆弾を広島と長崎に投下した行為は歴史上まれにみる悪なのだ。

一方、このプロジェクトは量のみならず質も破格だった。ノーベル賞受賞者のフェルミをはじめ、のちにノイマン型コンピュータを提唱するジョンフォンノイマン、天才とうたわれた若き日のリチャードファインマンもいた。ファインマンは後に、日本の朝永振一郎博士とともに、ノーベル物理学賞を受賞している。また優れた教育者でもあり、量子力学の素晴らしい教科書を残している。このようにきら星のごとき科学者集団の頂点に立ったのがオッペンハイマーだった。彼は原子爆弾の父として輝かしい栄光の後、奈落の果てに落ちていく。じつに数奇な運命である。

■われは死神なり、世界の破壊者なり

オッペンハイマーはユダヤ人であった。移民の子としてニューヨークに生まれ、幼年期より特別の才能を現した。飛び級でハーバード大学に入学、25才でカルフォルニア大学の物理学の助教授、32才で教授になっている。専門は化学と物理だったが、語学の才能も並はずれており、様々な文学を原書で読んだといわれる。のちに、原子爆弾の開発者である自分自身を、「われは死神なり、世界の破壊者なり」となぞらえたが、これはヒンズー教の教典「バガヴァッドギーター(神の歌)」から引用されている。

バガヴァッドギーターは、世界最大の叙事詩「マハーバーラタ」の中で、クリシュナ神が武人のとるべき態度を説いた部分で、ヒンズー教の最高の教典とされている。また、「マハーバーラタ」には古代核戦争と思われるリアルな描写があり、オッペンハイマーのこの引用は、おろらく、ここから来ている。いずれにせよ、オッペンハイマーが天才の世界の住人であったことは間違いない。

オッペンハイマーは元々、宇宙のブラックホールの研究者だった。恒星は燃え尽きると、重い中性子の塊になる。その結果、1辺1cmのサイコロサイズで10億トンという想像を絶する密度になる。そのような状況で、質量が太陽の3倍を超える恒星は、中性子星という形態も維持できず、ブラックホールと化す。オッペンハイマーはこのブラックホールの先駆者であった。原子爆弾製造のマンハッタン計画さえなければ、オッペンハイマーは天文学や物理学で大きな功績を上げ、幸福な学者人生を歩んでいたかもしれない。だが、歴史の神は彼をプロメテウスに仕立てたのである。プロメテウスは人間に火を与えたため、永遠にハゲタカに内蔵をついばまれる罰をうけた。

そして、オッペンハイマーも同じような運命が待っていた。1945年7月17日、オッペンハイマーは、ついに核爆発の実験に成功する。さらにその後、原子爆弾を2個完成させたが、その1つは広島に投下されたリトルボーイ、もう1つは長崎に投下されたファットマンであった。原子爆弾の実験結果に対し、彼は非常に満足そうだったという。ところが、原子爆弾が広島と長崎に投下され、その惨状を知った後は、心境が微妙に変化していく。やがて、原子爆弾開発に否定的になり、ロスアラモス研究所を追い出され、一切の公職を追われたのである。原子爆弾が投下された広島と長崎の映像を見れば、オッペンハイマーの心境もよく理解できる。

昔、物理の世界にいる先輩からオッペンハイマーにまつわる話を聞いたことがある。オッペンハイマーは戦後、湯川秀樹博士をはじめ、日本の学者がアメリカで研究できるよう尽力したという。そして、実年齢より、はるかに老けて見えたという。日本への、何かしらの思いがあったのだろうか。急速に老け込むほどの苦悩があったのだろうか。オッペンハイマーは自らが開発した原子爆弾の廃絶を訴えながら、この世を去った。オッペンハイマーはプロメテウスになることを望んだわけでなかった。天から与えられたのである。だが結局、それを受けた自分を呪うことになる。「われは死神なり、世界の破壊者なり」

■日本の原子爆弾製造計画

戦争に兵器開発はつきものだし、実際、第二次世界大戦中には、様々な兵器が開発された。だが、マンハッタン計画は本当に必要だったのだろうか?この計画は当初、大義名分があった。ドイツが先んじて原子爆弾を開発すれば、連合国側が受ける損害は計り知れない。地球規模の破壊をもたらす可能性もあった。結局、被害を受けたのは広島、長崎だけだったのだが。マンハッタン計画がいかに特殊なプロジェクトであったか?それを証明する事実もある。技術の開発の現場では、方法がいくつか考えられると、それぞれの方法を吟味し、見込みのある方法に、ヒト・モノ・カネを集中投下する。

ところが、マンハッタン計画では、見込みのなさそうな方法も、並行して実行された。ヒト・モノ・カネに糸目をつけなかったのである。だが、結論からいくと、アメリカはあわてる必要はなかった。連合国軍がドイツに進軍し、原子爆弾開発の状況を調査をしたところ、ドイツは原子爆弾を完成させる見込みなどなかったのだ。当時、原子爆弾の製造はそれほど難しかった。原料のウラン鉱石を入手することも大変だが、爆発に必要な量のウランを抽出し、濃縮することはさらに困難であった。莫大な電力を必要とし、そのための発電所も必要だったからである。

実際、日本でも原子爆弾の製造計画はあったが、早々に断念されている。その時、日本の科学者たちはこう説明した。「原子爆弾の製造は極めて困難で、したがって米国でも製造は無理である」ところが、その無理が現実となったのである。

■原子爆弾投下

1945年8月6日、広島上空で原子爆弾が投下された。人類は、ついに原子兵器を使用したのである。瞬時に6万6000人が死亡し、市の60%が崩壊、最終的に、20万人が死亡した。そしてつづく8月9日、長崎にも原子爆弾が投下され、市の人口の3分の2が死傷した。大学時代、同じ下宿に広島出身の後輩がいた。彼は、毎年この日が近づくと同じ夢をみるのだと言う。8月6日早朝、彼は広島の町に立っている。もうすぐ、原子爆弾が投下されることを知っている彼は、町中を大声で叫びながら走り回る。

原子爆弾が落ちる、逃げろ、逃げろ

必死で叫ぶのに、不思議と声が出ず、誰も気づいてくれない。やがて、真っ白な閃光が天空をおおい、夢は終わる。彼はこの原子爆弾でほとんどの親戚を失っている。毎年、8月6日が来るたびに、この後輩を思い出すのである。

by R.B

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