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 週刊スモールトーク (第91話) 奴隷貿易U〜奴隷市場と黒い奴隷船〜

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奴隷貿易U〜奴隷市場と黒い奴隷船〜

■奴隷貿易船
 1人分のスペースが、80センチ×18センチ。こんな棺桶(かんおけ)みたいな空間に閉じこめられ、3ヶ月から9ヶ月も航海するのである。しかも、航海中の死亡率は8〜34パーセント。つまり、3人に1人は死ぬ。これが、アフリカとアメリカを結ぶ奴隷貿易の実態であった。

 この時代、大西洋を横断するのは命がけで、コストも高くついた。儲けを増やすには、1回の航海で、できるだけ多くの奴隷を運ぶしかない。奴隷たちは、身動きできないほど詰め込まれ、一寸のムダもなく、整然と並べられた。まるで食器棚の食器のように。こうして、奴隷貿易船は生き地獄と化した。しかも、その先に待っているのは、さらなる地獄 ・・・ 奴隷市場。

 たった100トンの船に414人の奴隷を載せたという記録もある。当時、奴隷貿易に使われたのはガレオン船で、100トンクラスなら、全長30mほど。運動場で長さ30mの直線を引き、そこに400人を詰め込んだ様子を想像してほしい。しかも、航海中、黒人奴隷はロープにつながれたままだった。こんな劣悪な環境で、ろくな食事も水も与えられず、9ヶ月間も過ごす ・・・ 身も心もおかしくなって当然だ。実際、多くの黒人奴隷が、熱病やチフスで死んでいった。

 たとえ、この過酷な航海を生き残っても、行き先が奴隷市場では救われない。悲嘆にくれ、船から飛び降り自殺する者もいた。1回の航海で、150人中100人が死亡した記録もある。生き残るのは3人に1人。

 もっとも、監視役の船員も命がけだった。たびたび、奴隷の反乱が起こったからである。たくさん詰め込んだ分、数では奴隷が優る。しかも、航海中の奴隷貿易船は孤立無援、助けは望めない。資料によると、奴隷貿易船の反乱は、かなりの頻度で起こったらしい。フランスのナントを出航した奴隷貿易船のうち、15隻に1隻で反乱が起きたという記録もある(※1)。

 やがて、奴隷商人も事の重大さに気づいた。奴隷をどれだけ詰め込んでみても、奴隷市場に到着しない限り、儲けにはならないのだ。ところが、奴隷商人がとった方策は、奴隷貿易船の環境を改善することではなかった。もっと手っ取り早いリスクヘッジ、積み荷の黒人奴隷に保険をかけたのである。

■奴隷貿易
 アフリカと南北アメリカを結ぶ奴隷貿易は、歴史上存在した3つの奴隷制度の中では最も規模が大きい。この時の奴隷貿易と奴隷市場は、15世紀末から19世紀末まで存続したが、この400年間で、アフリカから南北アメリカに送り込まれた黒人奴隷の数は1000万人超。単純計算で年間2万5000人にもなる。この数字がいかに大きいかは、同時代の海軍と比較するとわかりやすい。

 1588年7月21日、アルマダの海戦。スペイン艦隊とイングランド艦隊が、グレートブリテン島の周海域で、9日間戦った歴史的な海戦である。敗れはしたものの、当時のスペイン艦隊は「無敵艦隊」としてヨーロッパで恐れられていた。ところで、その陣容だが、艦船数130隻、総兵数3万人。1年間で運ばれた奴隷の数2万5000人にほぼ等しい。

 ここで、簡単な計算をしてみよう。奴隷船は1回の航海で、片道3ヶ月から9ヶ月、往復1年を要したので、奴隷船1隻が1年に運べる奴隷の数は、1航海分。とすれば、毎年2万5000人を運ぶには、2万5000人分の船が常時必要になる。つまり、この時代、スペイン無敵艦隊に匹敵する船が奴隷貿易に従事していたことになる。もちろん、奴隷貿易船のほうが人口密度が高いので、その分、船数は減るが、当時の奴隷市場と奴隷貿易の規模の大きさがうかがえる。

■帆船の歴史
 この時代、奴隷貿易や海戦で使われたガレオン船は、キャラック船から進化している。キャラック船が登場する前の船は、船体が脆弱で、外洋を航海することはできなかった。陸地が見える海岸沿いに航海するしかなく、海路というよりは陸路に近かった。

 ところが、15世紀中頃に登場したキャラック船は、頑丈な船体、3本のマスト、横帆や三角帆をそなえ、どんな風向きでも航行することができた。キャラック船の登場で、初めて外洋航海が可能になったのである。コロンブス第1回目の航海で使われたサンタ マリア号もキャラック船である。地球のグローバリセーションはキャラック船から始まったと言っても過言ではない。もっとも、その前に、バイキング船が外洋航海していたという説もある。バイキング船は強靱な竜骨をもつ堅牢な船で、可能性は十分ある。

 そのキャラック船を改良したのがガレオン船である。ガレオン船は、キャラック船より一回り大きく、居住性も良く、たくさんの荷が積めた。また、喫水が浅く、船幅に比べ全長が長いため水の抵抗が小さく、スピードも出た。一方、喫水が浅いため、転覆しやすいという欠点もあった。マストは4本に増え、船腹には、大砲が1列ないし2列並んだ。この砲列の破壊力は絶大で、16世紀から18世紀までの200年間、ガレオン船は海で無敵を誇った。

 19世紀、初めて人力や風力に頼らない汽船が登場した。汽船の動力は蒸気機関で、パドル(外輪)を船体の両側で回転させ、バシャバシャ水をかいて進んだ。ところが、このパドル方式は、現在のスクリュー方式より、はるかに推力が小さかった。しかも、石炭を大量に消費する、燃費が安定しない、いつ燃料切れになるか予測不能だった。さらに、蒸気機関はしょっちゅう壊れた。大海の真ん中で燃料切れ、エンジン停止、ではしゃれにならない。

 というわけで、汽船は一応ハイテクなのだが、経済性、安定性、速度、どれをとっても、帆船にかなわなかった。そこで、汽船は蒸気機関にくわえ、帆も立てられた。つまり、ハイブリッド船。その不格好なこと、地球の歴史に登場する船の中では群を抜く。戦艦大和に帆を立てたら?で分かっていただけると思う。船にしろ、車にしろ、半導体にしろ、ハイブリッドは性能に劣り、商品寿命も短い。

 19世紀半ばになると、帆船最後を飾るクリッパー船が登場する。帆船模型で絶大な人気を誇る「カティーサーク」もクリッパー。クリッパー船は、ガレオン船にくらべ、全長/船幅の比率がさらに大きく、スマートで水の抵抗が小さかった。また、船をかすめるあらゆる風をつかまえられるよう、船上のあちこちに帆が張られていた。つまり、クリッパー船はスピードに特化した高速帆船だったのである。ガレオン船は時速10km、汽船は時速20km、ところが、クリッパー船は時速40km。群を抜く速さである。

 クリッパー船は、航路と積荷によって名前がつけられていた。ヨーロッパからアメリカ太平洋岸に移民を運ぶ「ホーン クリッパー」、中国の茶をイギリスに運ぶ「ティー クリッパー」、オーストラリアの羊毛をイギリスに運ぶ「ウール クリッパー」など。船会社は、1日でも速く荷を運ぶため、速度を競いあった。ところが、1880年以降、汽船の性能が向上するにつれ、帆船は姿を消していった。また、奴隷貿易でクリッパー船が使われることはなかった。奴隷貿易の時代が終わろうとしていたのである。

■三角貿易
 話を奴隷貿易にもどそう。まずは奴隷貿易の仕組み

 ヨーロッパの奴隷商人たちは、ヨーロッパの港で、
1.鉄砲、ガラス製品、鉄の塊、綿織物、ジン(強い酒)を船に積み込む。
2.このヨーロッパ品を西アフリカまで運ぶ。
3.先のヨーロッパ品を奴隷と交換する。
4.奴隷を南北アメリカまで運ぶ。
5.奴隷をアメリカの砂糖、コーヒー、綿花と交換する。
6.このアメリカ品をヨーロッパまで運ぶ。

 整理すると、
@ヨーロッパ → Aアフリカ → Bアメリカ → @ヨーロッパ
つまり、奴隷貿易はヨーロッパ、アフリカ、アメリカの三角貿易だったのである。

 港でみると、イギリスはロンドン、ブリストル、リバプール、フランスはボルドー、ルアーブル。西アフリカは、ギニア湾北部からアンゴラにいたる海岸で、奴隷海岸とよばれた。奴隷貿易と奴隷市場は、3つの地域、複数の商品から成り立っていたことがわかる。

■奴隷市場
 16世紀から17世紀にかけて、ポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、イギリスは、アフリカの奴隷海岸に次々と城塞を築いた。アフリカの黒人奴隷を買い取り、保管し、積み出すためである。では、どうやって、黒人奴隷を調達したのか?

 先ず、アフリカの有力部族が、近隣の弱小部族を襲い、住民を生け捕りにして、奴隷としてアフリカ商人に売り飛ばす。次に、アフリカ商人は、奴隷が高値で売れるよう、身体を念入りに油で塗った後、キャラバン隊を編成し、奴隷海岸にあるヨーロッパの城塞まで運ぶ。そして、できるだけ高値で奴隷を売りつけたのである。

 ヨーロッパの奴隷要塞では、係員が奴隷を検査し、腕や胸に会社の商標を焼印し、倉庫に閉じこめた。さらに、倉庫の天井にのぞき穴をあけ、奴隷が反乱を起こしたり、自殺したりしないように監視した。一方、ヨーロッパの奴隷要塞はお互いに鋭く対立していた。奴隷の数が限られるので、奴隷の取り合いになったのである。実際、奴隷要塞間で、襲撃や奴隷の強奪が横行し、戦場さながらであった。

 奴隷を捕獲するアフリカ部族、それを運ぶアフリカ商人、それを買い取る奴隷商人、さらに、奴隷を消費地まで運ぶ奴隷貿易船、くわえて、経営を安定させるための三角貿易。この時代の奴隷貿易と奴隷市場は、地球規模でネットワーク化された複雑なシステムであった。裏を返せば、それほど投資をしても元が取れたことになる。では、奴隷貿易はどれくらい儲かったのだろう?

■奴隷貿易の収支
 1725年、イギリスのブリストル港を出航した100トンのガレオン船の記録(※1)から奴隷貿易の収支を計算してみよう。鉄砲、綿織物、鉄の塊、銅の鍋、帽子など1330ポンド分の積み荷をのせ、西アフリカ海岸まで運ぶ。そこで、240人の黒人奴隷と交換。次に、奴隷をカリブ海沿岸の砂糖プランテーションまで運ぶ。そこで、奴隷1人あたり13ポンド半で売却。

 この収支を計算すると ・・・
売上高  = 人数×単価    = 240人×13.5 = 3240(ポンド)
粗利益  = 売上−売上原価 = 3240−1330  = 1910(ポンド)
粗利益率= 粗利益÷売上高 = 1910÷3240  = 59%
粗利益率は商売のうまみをあらわす指標だが、粗利益率59%は驚異的な数値である。業種にもよるが、有体物(形や重さのある商品)なら目標30%、15%でOK、中には5%で泣く泣く商売しているところもある。やはり、奴隷貿易は儲かったのである。それも、とてつもなく。

 ところが、18世紀のはじめ、1人13ポンド半で売られていた黒人奴隷は、18世紀末には、1人50ポンドにまではね上がった。奴隷価格暴騰の理由は2つある。1つは、奴隷の死亡率が高かったこと。西アフリカからカリブ海までは中間航路と呼ばれたが、この航海での奴隷の死亡率は非常に高かった。しかも、プランテーションでの死亡率も高かったのである。仮に、奴隷を生産財に見立てれば、耐用年数が短い、当然、絶え間ない補充が必要になる。しかも、この頃の奴隷市場は
「需要>>供給」
だったので、奴隷価格が上がるのは当たり前だった。

 2つ目の理由として、奴隷の調達コストが高騰したこと。奴隷貿易が始まった頃、奴隷は海岸近辺で捕獲されたため、そのまま、奴隷貿易船で運び出すことができた。ところが、奴隷を乱獲したため、海岸線に奴隷はいなくなってしまった。そこで、海岸に暮らす有力部族を使い、内陸部の部族を襲わせたのである。当然、その分手間がかかり、奴隷の調達コストが上がった

 奴隷の調達コストをいかにして下げるか?ヨーロッパの奴隷商人たちは、悪魔のような方法を思いつく。奴隷狩りの効率を上げるため、狩る側のアフリカ人部族に、鉄砲を売りつけたのである。弱小部族にしてみれば、鉄砲は魔法、手も足も出なかった。戦争の歴史を変えた鉄砲は、奴隷貿易にも加担したのである。こうして、奴隷市場はアフリカ内陸部まで浸透していった。

《つづく》

参考文献:
(※1)朝日百科 世界の歴史 89 朝日新聞社

by R.B

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