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 週刊スモールトーク (第67話) モンゴル帝国T〜蒼き狼〜

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モンゴル帝国T〜蒼き狼〜

■オトラル事件
 1218年、小アジアの町オトラルで、ささいな事件が起こった。滞在中の隊商がスパイ容疑で逮捕されたのである。逮捕を命じたのは、この地方の知事イナルチュクで、ガイルハーンの称号をもつ気骨のある人物だった。イナルチュクは、隊商をスパイと断定し、直ちに処刑した。今なら外交問題にもなりかねないが、時代と場所を考えればありがちな話だった。ところが、この事件はユーラシア大陸の歴史を一変させる大事件に発展する。

 問題はイナルチュクではなく、殺された隊商側にあった。この隊商はいつもの町を通り過ぎる交易商人ではなかった。イスラム教サルト商人450名からなる国の正式な通商使節団だったのである。そして、その国の名は「モンゴル帝国」といった。

 地球の歴史にはカオスが潜んでいる。カオスは、初動のほんのわずかな差が、結果として巨大な差を生む。オトラルで起こったささいなスパイ事件が、やがてヨーロッパ全土を滅亡の縁に追い込むとは、当のイナルチュクも思わなかっただろう。そして、最も重い罰を受けたのはイナルチュクだった。彼が受けた責め苦は、後にモンゴル帝国の残忍さを表す象徴となった。

 いずれにせよ、この事件はありふれた「使節の殺害」でさえ、相手を間違えれば歴史を一変させるという事実を示唆している。歴史は人生同様、単調な繰り返しのように見えるが、実は千の顔をもっているのだ。

■モンゴル高原
 使節団を殺害されたモンゴル帝国は、この事件が起こる12年前に建国された新しい国だった。この頃、モンゴル帝国はまだ無名で、支配地もへんぴなモンゴル高原に限られていた。ここで、この歴史的大事件を理解するために、モンゴル高原から中央アジアの歴史を400年ほどさかのぼる。

 紀元7世紀、この地域は大混乱の中にあった。繁栄を極めた遊牧国家ウィグルが崩壊し、北アジアと中央アジアが諸国乱立していたのである。その後、12世紀になると、女真族が金王朝が建国した。一方、女真族に滅ぼされた遼朝の王族・耶律大石(やりつたいせき)は天山山脈西部に逃れ、西遼を建国した。西遼は仏教王国だったので、周辺のトルコ系イスラム教国ににらみをきかせることになった。この西遼の西方にあったのが、トルコ系イスラム教国・ホラズム王国で、先のオトラルはこの王国の領地だったのである。

■テムジン
 この頃、モンゴル部族はモンゴル高原の東部にあって、先の金王朝に隷属していた。このモンゴル部族の中に、ボルジギン氏族があって、その中に、イェスゲイという首領がいた。イェスゲイはそれなり人物だったが、敵対するタタール部族に、あっけなく毒殺される。つまり、イェスゲイの人生はたったの3行で終わり。これでは歴史に名は残せない。ところが、息子のおかげでイェスゲイは歴史に名を残すことができた。その息子の名は「テムジン(鉄木真)」といった。後の「チンギスハーン(成吉思汗)」である。

 「チンギスハーン」は、書籍、コミック、ゲーム、映画、あらゆる媒体でしゃぶりつくされている。歴史書では「元朝秘史」、歴史小説では井上靖の「蒼き狼」、ゲームならコーエーの「チンギスハーン 蒼き狼と白き牡鹿」、という具合。また、2007年には、角川春樹製作の映画「蒼き狼〜地果て海尽きるまで〜」が公開される。チンギスハーンは反町隆史、チンギスハーンの正妻ボルテ役は菊川怜と、配役が少し気になるが、日本とモンゴルの合作映画となっている。ロケ地もモンゴルで、気合いが入っている。

 また、グルメの世界ではチンギスカン鍋がある。エネルギーがギッシリ詰まった響きがあって、食べるのも”熱い”。また、番外編では「チンギスハーン=源義経伝説」というのもある。日本史にも登場するわけで、チンギスハーンの名はまさに全時代、全地球的である。

 話を父イェスゲイに戻そう。父親を殺されたテムジンの状況は最悪だった。首領のイェスゲイが殺されると、一族はテムジン一家を見放し、次々と離れていった。付き従うのは母と兄弟だけ。しかも、イェスゲイを暗殺したタタール族は、幼いテムジンの命を執拗に狙っていた。モンゴル高原は広大で見晴らしがいい。だから、逃げ隠れするには適さない。テムジンが成人するまで生きのびるとは、誰も思わなかっただろう。

■運命
 モンゴル帝国の創始者テムジンの生い立ちは、もう一人の大征服者アレクサンドロス大王と対極をなす。アレクサンドロス大王の父フィリッポス2世は、マケドニアの王で、すでに、古代ギリシャの諸都市を支配下においていた。このような繁栄を支えたのは、豊かな財力と強力な軍団である。マケドニア軍は「長槍の重装歩兵(ファランクス)」と騎馬兵を巧みに運用する戦法で、地中海世界では無敵だった。

 奇遇なことに、フィリッポス2世もテムジンの父同様、暗殺される運命にあった。とはいえ、アレクサンドロスはまだ運が良かった。父が暗殺されたとき、アレクサンドロスはすでに成人しており(20歳)、傑出した資質は知れわたっていたのである。アレクサンドロスは、満場一致で軍の支持を得てマケドニアの王となった。と同時に、地中海世界最強の軍団も受け継いだのである。母と兄弟だけのテムジンとは天地の差。ところが、テムジンは、スタートのハンディを見事に克服した。「英雄のゴールは初期値に依存しない」を証明したのである。

 テムジンの意志の力は尋常ではなかった。幼い頃からタタール族から命を狙われたが、味方は母一人。こんな状況でも、テムジンは自暴自棄になることはなかった。辛抱強く、シンパを増やし、離散した一家をよびもどそうとした。また、他力を取り込むことも怠らなかった。我を捨て、他の諸部族と積極的に連合し、持ち駒を増やしたのである。

 テムジンは風評とは裏腹に、生涯を通して、感情に身を任せ、猛進するところがなかった。絶望的な状況でも忍耐強く、怒り心頭でも冷静さを失うことはなかった。揺るぎない信念、激しい気性をもちながら、それを抑える理性も備えていたのである。ところが、どれだけ泥水をすすっても、状況が好転する気配はなかった。

 ところがやがて、テムジンに転機がやってくる。モンゴル高原最強のケレイト族のワンハーンとの同盟に成功したのである。この同盟は閉塞感ただようテムジンの人生を切り開くものだった。もし、この同盟がなかったら、テムジンはどこかの戦場でひっそりと命を落とし、モンゴル帝国の名は歴史から消えていただろう。

 ワンハーンの強大な軍事力を背景に、テムジンはモンゴルの有力部族タイチュートとジャダラン部族を撃破、さらに、父を毒殺したタタール族も滅した。一方、このような目覚ましい戦績は、同盟者ワンハーンのねたみを買うところとなった。テムジンは、ワンハーンとの対決は避けられないと判断、決戦を挑み、ついに勝利する。

 こうして、テムジンはモンゴル草原の覇者となった。その後も、テムジンの征服事業はつづく。ナイマン王国、オングト族を攻略し、1206年には、モンゴル族のクリルタイ(大会議)にて、チンギスハーンの称号をうけたのである。「モンゴル帝国」の誕生であった。生まれながらの王、アレクサンドロス大王とは違い、テムジンは泥水をすすりながら、自分の帝国をゼロから築き上げたのである。

■オトラル事件の謎
 オトラル事件に話をもどそう。この事件は一見単純に見える。モンゴル帝国のチンギスハーンが、ホラズム国王スルタン ムハンマドに、通商使節団を送った。表面上は友好であり、少なくとも敵意は見られない。ところが、その使節団がホラズム王国の領地オトラルで殺害される。それも、町を統治する知事によって。つまり、モンゴル帝国の友好の証が、ホラズム王国によって踏みにじられたのである。

 このオトラル事件がもとで、中央アジア、ロシア、東ヨーロッパがモンゴル軍によって徹底的に破壊または征服された。このときのモンゴル軍の破壊と殺戮の罪は、モンゴル使節団が殺害されたオトラル事件により、歴史的には相殺されている。ところが、そこに大きな謎がある。なぜ、ガイルハーンはモンゴルの使節を殺害したか?

 ホラズム王国は、東西交易路の仲介で栄えた国である。だから、富をもたらす隊商を理由もなく殺すはずがない。また、殺害を命じたイナルチュクが、自らの責務に忠実で、勇敢な人物であったことは、後の歴史が証明している。そのような人物が、私利私欲、あるいは感情のおもむくままに使節団を殺したとは思えない。

 おそらく、ホラズム国王スルタン ムハンマドがイナルチュクに「使節殺害」を命じたのだろう。根拠は、使節団のメンバー「サルト商人」にある。スルタン ムハンマドがサルト商人とモンゴル帝国に非常な敵意を抱いていたことは確かだ。問題は敵意の理由だが、それを確認するため、ホラズム王国の歴史を少しさかのぼる。

■ホラズム王国
 世界最大の湖、カスピ海の東方にアラル海がある。かつて、地球上で4番目の大きさを誇ったこの湖も、今では、水資源の危機で消滅しようとしている。ホラズム王国は、このアラル海の南方にあった。この王国の第7代目の王が、先のスルタン ムハンマドである。スルタン ムハンマドは、モンゴル帝国をみくびり、国を破滅させた無能な君主ということになっているが、虎と猫を間違えるようなマヌケな君主ではなかった。

 スルタン ムハンマドは、イランからアフガニスタンにおよぶ広大な地域を、巧みに自国に組み込んでいった。アムダリア河とシルダリア河をはさむ要地トランスオクシアナを支配し、西方世界ににらみを利かせていたのである。西方最強のイスラム教国アッバース朝の主都バグダッドに攻め込んだほどである。

 このような傑出した君主が、なぜ、モンゴル帝国とチンギスハーンの力を見誤ったのか?実際、スルタン ムハンマドが、モンゴル帝国をあなどっていた証拠もある。実は、チンギスハーンは、この事件が起こる3年前、金朝の主都「中都」に来たホラズム王国の商業使節団と会っている。チンギスハーンは、すぐにこの王国に興味を示し、使節団をホラズム王国に派遣した。ところが、謁見したホラズム国王スルタン ムハンマドは、チンギスハーンが自分の家臣になるよう要求したという。モンゴル帝国を軽く見ていたのは間違いない。

 スルタン ムハンマドには、さらに不可解な点がある。後に、チンギスハーン率いるモンゴル軍が、ムハンマドの領土に攻め行ったときのことである。我を忘れた無為無策は信じられないほどで、天下のアッバース朝を攻めたてた人物とは思えない。有能さと無能さが同じ人物に混在しているのだ。おそらく、スルタン ムハンマドはチンギスハーンの行動が読み切れなかったのだろう。どんな冷静な人間でも、想定外が頻発すればパニックになる。

■チンギスハーン
 そして、チンギスハーンにも謎がある。チンギスハーンはシルクロード(交易)を保護したことで知られる。残忍な征服者チンギスハーンも、じつは経済に明るかった、大帝国を築くには武力だけではダメ、というわけだ。だが、話はそんな単純ではない。そもそも、モンゴル帝国は自給自足経済で、いざとなれば略奪経済も辞さなかった。金品を手に入れるために、わざわざ交易を保護するわけがない。

 では、チンギスハーンは交易がもたらす珍品に執着した?それはないだろう。歴史年表を見る限り、チンギスハーンが生き甲斐を感じたのは”征服”だけである。もっとも、チンギスハーン一族すべてがそうだったわけではない。中世最大の旅行家イブン バトゥータが記した大旅行記「三大陸周遊記」には、それを示唆する記述がある。

 イブン バトゥータは、キプチャクハーン国の都サライを訪れた。この国は、チンギスハーンの末裔が西方大遠征の過程で築いた王国だった。イブン バトゥータは、その都で、中国やインドから届けられた莫大な宝物を目撃している。つまり、この頃のチンギスハーンの末裔たちは”征服欲”を失い、異国の珍品に囲まれ、豊かな暮らしを送っていたのである。

 では、なぜチンギスハーンは交易を保護したのか?

■サルト商人
 古代より、シルクロードには複数のルートがあった。その一つ、中央アジアルートを支配していたのがソグド商人で、それを継承したのが「サルト商人」だった。サルト商人は、長大なシルクロードを旅し、様々な情報を得ていた。それらの情報を分析し、早い時期から、チンギスハーンの将来性を見抜いていた。そして、チンギスハーンの取り巻きになったのである。

 商人が交易で儲けるには、交易ルートの安全が欠かせない。中継点が一つでも治安が悪ければ、交易ルートがつながらない。また、途中、山賊に商品を持って行かれてはたまらない。もちろん、長大な交易ルートの治安を維持するには、強大な軍事力が必要だ。これが、サルト商人がチンギスハーンに取り入った理由である。このような為政者と商人の関係は、日本の戦国時代にもあてはまる。堺の商人・今井宗久は、早くから織田信長の将来性を見抜き、彼に取り入り、堺一の豪商にのし上がったのである。

 さて、チンギスハーンに交易ルートを守ってもらうとして、問題はその見返りである。サルト商人はチンギスハーンに何を与えたのか?「スパイ」である。サルト商人は商人の立場を利用し、様々な地域に入り込み、情報を収集し、チンギスハーンに報告したのである。

 歴史上有名な「モンゴルの西方大遠征」は冒頭のオトラル事件が原因とされている。もちろん、直接原因には違いないが、この事件が起こらなくても、モンゴル帝国はヨーロッパに侵攻していただろう。歴史資料によれば、チンギスハーンが征服そのものに至福を感じていたのは確かである。征服し、泣き叫ぶ敗北者たちを見て、無上の快感を覚えたのである。

 一方、チンギスハーンの軍事作戦は緻密な計画にもとづいていた。現代戦に優るとも劣らない徹底した情報収集から始まり、敵を圧倒する戦力で攻め入る。つまり、残忍さと勇猛さで勝利していたわけではない。そして、その情報収集の手先になったのがサルト商人だった。サルト商人はチンギスハーンの目であり耳であり、モンゴル帝国の正真正銘のスパイだったのである。

 サルト商人は、もともと、ホラズム王国の庇護下で交易をいとなんでいた。しかも、同じイスラム教徒。ホラズム王国にしてみれば、サルト商人は裏切り者だったのである。おそらく、冒頭の450名は使節団には違いないが、チンギスハーンのスパイでもあったのだ。そして、ホラズム王国側はそれに気づいていた。だから、ホラズム王国に非があったわけではない。この事件が起ころうが起こるまいが、チンギスハーンは西の果てまで征くつもりだったのだから。

■西方大遠征
 オトラルの惨事は、すぐにチンギスハーンに伝えられた。ハーンの怒りはすさまじく、復讐のため天の助けを得るべく、三日三晩、祈祷をつづけたという。それでも、チンギスハーンは正規の外交手続きをふむことを忘れなかった。ホラズム王に使者をおくり、賠償金を要求したのである。この事実は、我々が知る「破壊と殺戮の化身」チンギスハーンのイメージを根底からくつがえす。彼の意識は冷酷と残虐で埋め尽くされていたが、その中に正義と道理が共存していたのである。このような多重人格は、日本の織田信長にもみられる。世界は違うが、ベンチャー企業の経営者にはこのタイプが多い。

 ところが ・・・

 ホラズム王ムハンマドは、再び、チンギスハーンの使者を殺してしまう。後に明らかになるモンゴル帝国の圧倒的軍事力を考えれば、狂気の沙汰としか思えない。だがそれは、後付の結果論。大業を為し遂げたムハンマドにしてみれば、モンゴル帝国など取るに足らぬ辺境の国にすぎなかったのである。

 いずれにせよ、最後の望みも断たれた。中央アジア、ロシア、そして東ヨーロッパの運命は決まったのである。1219年9月、チンギスハーン率いるモンゴルの大軍が西方に向け進軍を開始した。歴史上最大の殺戮と破壊が始まったのである。

《つづく》

参考文献:
佐口透「モンゴル帝国と西洋」平凡社
週刊朝日百科53

by R.B

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