■クレタ島■
『迷宮に死者は住む』・・・読むほどに、考えるほどに、背筋が寒くなる本だった。この書は、30年ほど前、ヴンダリーヒというドイツの地質学者が書いたものだが、すでに絶版となっている。しかも、紛失して手元にはない。そのため、30年前のうろ覚えの記憶をたどりつつ話を進めるので、多少の記憶違いがあるかもしれない。
著者は地質学者だが、内容は歴史、具体的にはエーゲ海のクレタ島にあったクノッソス宮殿に関するものである。クレタ島はエーゲ海のほぼ中央に位置する大きな島で、四国の半分ほどの面積をもつ。クレタ島と聞いて、あの個性的な三角帆の風車を思い浮かべる人がいるかもしれないが、その北部にクノッソス宮殿はあった。この辺りは、歴史上有名な古代ミノス文明の都クノッソスが栄えた場所で、今でも遺跡がのこっている。つまり、クノッソス宮殿はミノス文明の王宮だったのである。
ミノス文明は、歴史的にみても謎が多い。まず、彼らが使用した線文字Aは、いまだ解読されていない(2005年7月現在)。さらに、エーゲ海といえば誰でも思い出す『ギリシャ文明』とは、民族も文化も異なる。それでも、かなりのことは分かっている。この文明のシンボルであるクノッソス宮殿が、それなりに原型をとどめているからだ。
ミノス文明は、紀元前2000年〜紀元前1400年に全盛期をむかえるが、この時代、世界有数の高い文化を築いていた。歴史の分類上、青銅器文明に属するが、開放的な海洋文明を特徴としている。花鳥、イルカなどの海洋動物が描かれた壁画は、明るく平和的な世界を連想させる。大きな壷(つぼ)があって、紋様にしては奇妙だと思ったら、タコの足と吸盤だったりして、なかなかユニークだ。全体として、自由でのびのびとした印象をうける。
このクノッソス宮殿は、ギリシャ観光の地中海クルーズに参加すれば、誰でも訪れることができる。ところが、一般的な観光コースに、クレタ島が入ることはまれだ。地中海リゾートのイメージで出かけると、ガッカリするからかもしれない。それでも、建造物の彩色は独特だし、埃(ほこり)っぽいわりに不潔感がなく、こぢんまりしているが解放的だ。クレタ島は不思議な島である。
ところが、ヴンダリーヒは、クノッソス宮殿のこの開放的で明るいイメージを根底からくつがえした。クレタ島のクノッソス宮殿は、『宮殿』ではなく『死者の霊廟(れいびょう)』だというのだ。霊廟とは、死者の魂を祀(まつ)る建物のことである。もし、それが真実なら、われわれは学校で間違った歴史を教え込まれたことになる。それにしても、この言葉の響きは不吉で陰鬱だ。
ヴンダリーヒの大胆な仮説は次のようなものだった。まず、王が住む宮殿なのに、外敵を防ぐ城壁がない。また、王宮の入口が凶とされる西の方角にあるのもおかしい。日が昇る東の方角は、誕生と再生をあらわし、日が沈む西の方角は、死と黄泉の世界をあらわすからだ。しかし、もし王宮が霊廟、つまり死者の世界だったとしたら、先の謎はおのずと解ける。死者が住む世界に防衛壁など不要だし、入口は死と黄泉の世界を指す西の方角にあるのが自然だからだ。さらに、この王宮にはもう一つの謎があった。建物が石こうで固められていたことだ。石こうは、軟らかく傷つきやすいため、人間が住むには何かと都合が悪い。だが、『生きて動き回る者』がいない世界では、壁が傷つくこともない。
説明は、さらに暗く、陰鬱になっていく。浴槽らしきものがあるが、異様に小さい。しかし、死者をポッキリ折って入れる棺(ひつぎ)と考えれば、説明がつく。このあたりになると、夜読むのが苦痛になった。さらに、浴室に排水溝がない、厨房もない・・・やはり、クノッソス宮殿は死者の世界だったのだ。だが、その後、この説が歴史の主流になったという話は聞かない。
■クレタのパラドックス■
クレタ島といえば、歴史で習う『クレタ文明』より、『ウソつきのパラドックス』のほうが有名かもしれない。聖書に登場する有名なパラドックスで、「クレタ人はウソつきである、とクレタ人が言った」というものだ。
もし、この発言が真実なら、『クレタ人はウソつき』が確定する。ところが、『クレタ人はウソつき』なら、その発言はウソ、つまり『クレタ人は正直者』となり、矛盾する。逆に、この発言がウソなら、『クレタ人は正直者』が確定する。ところが、正直者のクレタ人がウソをついたことになり、こちらもまた矛盾する。つまり、どっちにころんでも矛盾、というわけだ。
まあ、どっちでもいいような気もするが、クレタといえば、よく引き合いに出されるエピソードだ。ところが、クレタ島には、もっと面白くて、魅力的なエピソードもたくさんある。出所は、世界三大神話のひとつギリシャ神話。
■アリアドネの糸■
クレタ島が舞台となるギリシャ神話の代表が、伝説『アリアドネの糸』だ。伝説=歴史的事実というのはよくある話だが、この場合も少しは期待できるかもしれない。物語の舞台となったクノッソスの町は実在した証拠があり、クノッソス宮殿も遺跡ではあるが、一応存在するからだ。
また、物語に登場する迷宮は、現存するクノッソス宮殿そのものだとする説もある。宮殿は、けっこう迷路がかっていて、方向音痴なら迷子になる可能性がある。一方、迷宮は別の場所で地下深く埋もれているという怪しい説もある。とにかく、荒唐無稽のトンデモ説、というわけではなさそうだ。また、この伝説には、細かな部分で、さまざまなバージョンが存在する。それをいちいち説明していると、混乱する上、退屈になるで、面白そうな筋だけかいつまんでいく。
クレタ島のミノス王は、クノッソスに都をおき、エーゲ海世界を支配していた。あるとき、ミノス王は、海神ポセイドンに牡牛(おうし)を捧げるという約束を破ったため、恐ろしい罰をうける。ミノス王の王妃が、あろうことか牡牛に恋をしたのだ。王妃は、この恋を成就させようと、知恵者ダイダロスに相談することにした。
ダイダロスは歴史と神話の世界で有名な名工である。ダイダロスは、アテネで暮らしていたが、弟子殺しの罪でクレタ島に逃れていた。王妃に泣きつかれたダイダロスは、その特技を活かし、牝牛(めうし)に似せた人形ならぬ『牛形』を造り、王妃をその中に入れる。牡牛はそれを本物の牝牛と思いこみ、交わってしまう。その結果生まれたのが、恐ろしい牛頭人身の獣人ミノタウロスだった。ここで、人と牛の染色体の数にからむ生物学の話はスキップすることにする。
■獣人ミノタウロス■
獣人ミノタウロスは、そのインパクトのあるキャラクタを活かし、映画やテレビドラマでも活躍した。有名どころでは、ハリーハウゼンの特撮映画『シンドバッド虎の目大冒険』。ハリーハウゼンは、ミニチュア人形を使った特撮の世界で、歴史に名を刻んだ人物だ。人形のポーズを少しづつ変えながら、1シーンごとフィルムに収め、あとで連結するという気の遠くなる手法を駆使し、独自の世界を創り出した。CGがなかった頃の作品で、ありえない生き物が登場すれば、大抵これである。
ミノタウロスは、この映画で『ミナトン』という名で登場している。いちおう、牛頭人身なのだが、憎めない風貌で、全然怖くない。その上、魔女に呼び捨てにされ、奴隷のようにこき使われていた。無双の怪力という設定なのに、出番の大半は船漕ぎで、黙々とオールを漕ぐ後ろ姿は哀れであった。あげく、落下物の下敷きになってあえなく頓死。歴史と伝説をおよそ無視した脚本だった。
一方、神話『アリアドネの糸』に登場する本家ミノタウロスは、寸分のスキもない完全無欠の獣人であった。島民を追い回し、喰らい、クレタ島を恐怖のどん底につき落としたのである。困りはてたミノス王は、名工ダイダロスに相談する。ダイダロスは、巨大な迷宮世界をつくり、獣人ミノタウロスを閉じこめることにした。こうして造られたのが、迷宮ラビリンスだった。映画、ドラマ、小説、あらゆる世界で謎の代名詞として登場する迷宮ラビリンスはここからきている。そして、毎年アテネからクレタ島に送られてくる7人の若者と、7人の乙女を、迷宮ラビリンスに閉じこめ、獣人ミノタウロスのエサとして与えたのである。
あるとき、アテネ王の子テセウスが、7人の若者の中にまぎれ込んでクレタ島にやってきた。目的は獣人ミノタウロスの退治である。ところが、ミノス王の娘アリアドネが、このテセウスに一目惚れしてしまう。そして、自分をクレタ島から連れ出すことを条件に、テセウスを助ける約束をとりつける。
アリアドネは、つぎにテセウスを助ける策をダイダロスに相談するが、ダイダロスは、またもや名案を思いつく。テセウスは糸玉をもって迷宮ラビリンスに入り、これをほどきながらすすみ、獣人ミノタウロスを退治する。その後、糸をたどり、帰還するという作戦だ。恋人同士を結びつける運命のきずな『アリアドネの糸』はここからきている。
作戦はみごと成功し、テセウスは迷宮ラビリンスから無事帰還する。その後、テセウスは約束を守り、アリアドネをつれてクレタ島を脱出した。ここでハッピーエンドかと思いきや、ギリシャ神話はそう簡単には終わらない。
■イカロスの翼■
これを知ったミノス王は激怒し、首謀者ダイダロスとその息子イカロスを迷宮ラビリンスに閉じこめてしまう。しかし、知恵者ダイダロスは、再びこの問題を解決する。羽を蝋(ろう)で固めて翼をつくり、息子イカロスにさずけたのである。イカロスはその翼を羽ばたかせ、迷宮ラビリンスを飛び超え、脱出に成功する。しかし、あまりに太陽に近づきすぎたため、蝋(ろう)がとけ、墜落してしまう。有名な『イカロスの翼』だ。
話はそれるが、このエピソードからすると、迷宮ラビリンスには天井がなかったことになる。地下深く埋もれているのに、空高く羽ばたいて脱出というのはありえないからだ。とすれば、仮説『迷宮は別の場所で地下深く埋もれている』は、やはり怪しい。それはともかく、父のダイダロスのほうは、首尾よくクレタ島を脱出する。とにかく、頭も要領も良い人だったようだ。
ところで、クレタ島を脱出したもう1組、テセウスとアリアドネは、ナクソス島にたどりつく。その後の経緯は、さまざまなバージョンが存在するが、結果として、テセウスはアリアドネと別れ、テセウスだけがアテネに帰還する。ところが、最後に悲劇が待っていた。テセウスはアテネからクレタ島に旅立つ際に、怪物退治に成功したら白旗を、失敗したら黒旗をかかげて帰還すると父王に約束していたのだ。しかし、テセウスはその約束を忘れ、黒旗をかかげたまま帰還する。父王は、それを見て悲しみ、海に身を投げてしまう。それ以後、この海はアテネ王エゲウスの名を取り、エーゲ海とよばれるようになったという。これはいい話だ。
この伝説は、先に述べたように複数のバージョンが存在し、ハッピーエンドもあれば、そうでないのもある。いずれにせよ、ギリシャ神話は運命的なものが多く、登場する神々も人間臭く、ストーリーも複雑で面白い。
■ミノス文明の滅亡■
このように数々のエピソードに彩られたミノス文明も、紀元前1400頃、突然、歴史から消滅する。その原因は、2つ考えられている。1つはギリシャ本土から南下してきたミュケナイ 人に滅ぼされたという説。もう1つは、サントリーニ島で地球規模の火山爆発が起こり、その地震と津波で滅んだという説である。
前者のほうが優勢だが、紀元前1500年と紀元前1450年ごろに、サントリーニ島で大爆発が起こったことは確かなようだ。爆発の凄まじい痕跡が、今でも確認できるからだ。おそらく、間接的な被害も含めれば、世界的な大災害だったに違いない。いずれにせよ、クレタ島は、ミュケナイ人が築いたミュケナイ文明に吸収されていく。
参考文献:H G ヴンダリーヒ「迷宮に死者は住む」新潮社
by R.B |