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 週刊スモールトーク (第112話) 大航海時代U〜イスラム文明とイスラム金融〜

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大航海時代U〜イスラム文明とイスラム金融〜

■イスラム文明
 ローマ人はゲルマン族に、ローマ人とゲルマン族はイスラム帝国に、そして13世紀には、すべての国がモンゴル帝国によって征服された。そのモンゴル帝国も、チンギス ハーンの子孫の骨肉の争いによって衰退し、ヨーロッパ人はようやく解放された、かのようにみえた。ところが、15世紀に入ると、イスラム史上最強のオスマン帝国が隆盛し、ヨーロッパは最後の試練に立たされた。西洋にかけられた東洋の呪縛は、結局、15世紀の大航海時代までつづくのである。

 ゲルマン族が西ローマ帝国を打ち倒し、西洋の覇者たらんとしたとき、その前に立ちはだかったのがイスラム帝国だった。無敵のアラブ軍は、ビザンティン帝国(東ローマ)の領土を席巻し、北アフリカにまで進出した。そして、勇猛なベルベル人までイスラム教に改宗したのである。ついで、711 年、イベリア半島(スペイン)に侵入、西ゴート王国に大打撃を与えた。生き残った西ゴートの王族たちは、イベリア半島北部に逃げ込み、神に祈るしかなかった。

 こうして、7世紀以降、政治・経済・宗教・文化を大統合したイスラム文明は、地球全域に広がっていく。イベリア半島から、アフリカ沿岸、アラビア半島、西アジアをへてインドへ。さらに、インド洋をこえ、遠く東南アジアまで。ユーラシア大陸をほぼ一巡したことになる。輸送手段が馬と小型帆船しかない時代に、一つの文明がこれほど広範囲に広がった例は他にない。理由はいくつか考えられるが、一番の要因はイスラム教だろう。後の大航海時代に広まったキリスト教もしかり。この2つの宗教は、世界宗教にまで発展したが、共通点は1つ、一神教。

 では、多神教はなぜ世界宗教になりえないのか?まず、多神教には神がたくさんいるので、名前と役回りを覚えるのに苦労する。それに、地域性が強く、普遍性に欠けるのも問題だ。たとえば、アステカ文明ではハチドリも神だが、この小鳥は南北アメリカにしか生息しない。つまり、他の地域では通用しない。だから、地域密着型の宗教は、世界宗教にはなれないのである。一方、一神教なら、全知全能の唯一神のみで、説明は簡単だし、説得力もある。また、一神教は普遍的な道徳的をとくので、人種や地域を越えて、受け容れられやすいのである。

 イスラム文明が世界に広まった理由は他にもある。イスラム文明は、イスラム教とアラビア語が両輪だが、異種の文明・文化に対して非常に寛容だった。良いものを積極的に取り入れ、自分たちの文明に融合させたのである。結果、科学、文芸、経済、政治、あらゆる分野で、イスラム文明は他の文明を圧倒した。この時代、イスラム文明が地球文明の頂点に立ったのはこのような理由によっている。

■ヘレニズム文明
 ヘレニズム文明は、紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の「東方への憧憬」を起源とする。ウソのように聞こえるかもしれないが、歴史をみれば明らかだ。アレクサンドロス大王は、宿敵ペルシャ帝国を滅ぼして、目的を達したはずなのに、取り憑かれたように東方に進軍する。食を求めて移動するイナゴの大群がごとく、まともな国家戦略があったわけではない。では、なんのために?アレクサンドロス大王の東方への憧れ、そして、冒険心。

 この東方びいきのギリシャ人アレクサンドロス大王(※1)が夢見たのが、ギリシャ文明(西洋)とオリエント文明(東洋)の融合で、その産物が「ヘレニズム文明」だった。ヘレニズム文明といえば、ストア派とエピクロス派(哲学)や、ヘレニズム美術が有名だが、歴史に一番影響を与えたのは自然科学である。平面幾何学を確立したユークリッド、太陽や月の距離を測定したヒッパルコス、解剖学の父ヘロフィロス。そしてアルキメデスの偉大な業績も、このヘレニズム科学に属する。さらに、17世紀「デカルトの西洋合理主義」にも大きな影響を与えている。

■イスラム科学
 このヘレニズム科学を継承したのが、イスラム文明だった。アラブ人は、古代ギリシャの文献をつぎつぎとアラビア語に翻訳し、帝都バグダッドの「知恵の館」に保存した。「知恵の舘」とは、アッバース朝時代につくられた巨大翻訳センターのことである。翻訳された文献は、物理学・数学・天文学・工学・医学と、あらゆる分野におよんだ。また翻訳だけでなく、新しい価値も生まれた。中でも特筆すべきは「アラビア数字」だ。

 アラビア数字はインド数字を起源とする10進数の数字記法である。「0、1、2、3、4、5、6、7、8、9」の10個の記号を用い、どんな大きな数字も表すことができる。その仕掛けは、「ゼロの概念」と「桁上がり」にある。ゼロがないと、桁上がりができず、大きな数字を表すのは大変だ。そのため、古代ギリシャの数学は、図形を扱う幾何学が中心だった。ところが、アラビア数字のおかげで、大きな数字も簡単に扱えるようになり、代数学が急速に発達した。初等数学のかなめは、代数と幾何。ということで、イスラム文明は数学の大功労者なのである。

 さて、イスラム文明が隆盛を極めた頃、ヨーロッパのキリスト文明はどういう状況だったのか?自由で躍動感あふれるギリシャ・ローマの古典文化は否定され、窮屈なキリスト教が支配する暗黒時代だった。ところが、その反動で、イタリアでルネサンスが花開いたことはよく知られている。ルネサンスの使命は、ギリシャ・ローマ時代の古典文化の再生にあり、目線を神から人間へ、信条をキリスト教教義から合理主義へと転換した。

 ところが、ギリシャ・ローマの古典文献は、ヨーロッパではすっかり廃れ、アラビア語の文献に求めるしかなかった。
ヨーロッパの近代文明はバグダッドに原点がある
という説があるほどで(※2)、暗黒の中世で、ギリシャ・ヘレニズム文明の守ったのは西洋文明ではなくイスラム文明だったのである。

■イスラム金融
 最近、ビジネス書で目につくのが「イスラム金融」。文字どおり、イスラム法にのっとった金融業で、アウトラインは、
1.金利の受け払いは禁止。(利息は時間で稼ぐが、時間は神のもの)
2.反道徳的な事業(豚肉、酒、賭博など)への投資や融資は禁止。
3.投機性の高いものへの投資や融資は禁止。
4.利益、損失については分かち合う。

 生き馬の目を抜くアングロサクソン流の金融に比べると「善良な金融」、かどうかは別として、なぜ、今、イスラム金融なのか?原油価格の高騰で、イスラム産油国でマネーがだぶついているから。ということで、原因は道徳ではなさそうだ。原油高騰で、苦しむ国にとって恨めしい話だが、このマネー過剰は2つの需要を生んでいる。マネーそのものを運用する需要(虚需)と、中東のインフラを整備するための資金需要(実需)である。ということで今、地球上のすべての国がイスラム金融(イスラム・マネー)をあてにしている。だが、イスラム金融は今に始まったわけではない。

 イスラム文明は、750年に興ったアッバース朝の時代に、大発展をとげた。その原動力となったのは自由と平等。前王朝のウマイヤ朝と違い、アッバース朝はアラブ人以外の改宗者にも門戸を開き、民族の差別をとりはらった。また、灌漑などの大規模な事業を推進し、一次産業と二次産業は飛躍的に発展した。これにくわえ、経済を加速したのが商業と交易だった。

 じつは、イスラム文明は典型的な「都市文明」で、商工業者が主役だった。この点で、14世紀に繁栄した商業都市ヴェネツィアやジェノヴァに酷似している。中でも、ジェノヴァは大航海時代初期に大きな貢献をした。というか、大航海時代はジェノヴァ商人抜きでは語れない。一般論だが、「都市+商工業者」文明は経済をハイパー加速する性質をもつ。農村中心の文明から生まれるのは、共産主義革命ぐらいだろう。

 交易では、他国の商人との取引や交渉が欠かせない。問題はそのやり方だ。大航海時代のヨーロッパ商人は、大砲を装備した大型船でおしかけ、都合が悪くなると、大砲をぶちかました。一方、イスラム商人は、クギを使わないしゃれた小型船でやってきて、互いの利益を考慮して取引をまとめた。現代のイスラム金融の原点は、この時代にあるのかもしれない。

 イスラム商人の共存共栄型交易は、世界中で受け入れられた。(時には、こそくな商行為におよんだこともあったが)。結果、イスラム商人の交易ネットワークは、
1.イベリア半島→アフリカ沿岸→アラビア半島→インド→東南アジア→中国(海路)
2.地中海東岸→中央アジア(陸路)
と、地球全域に広がった。

 この交易ネットーワークは、イスラム商人に莫大なマネーをもたらした。この巨額の資金と、資金需要を仲介するため、都市部では多くの銀行が設立された。イスラム商人は、金や銀にくわえ、ディナール金貨とディルハム銀貨を使用したが、純度はなんと96〜98%。このような高品位なコインは非常に珍しい。

 さらに、「手形」や「小切手」のように現金を使わない決済も使われた。手形や小切手は、信用を大前提とした証書だが、手間や危険を回避することができる。現在も使用される高度な信用システムが、1000年も前に使われていたのである。

 このような信用システムは、経済の効率を高め、経済活動を加速させ、巨万の富を生み出した。そして、そのすべてが、アッバース朝の帝都バグダッドに集結したのである。バグダッドは、東西通商の中心として繁栄し、世界の十字路と呼ばれた。推定人口は、およそ100万。当時のキリスト教世界では、1万人を超える都市は数えるほどしかなかった。この時代のイスラム文明圏は、ローマを中心とする古代地中海帝国をしのぐ規模と豊かさを誇ったのである。
すべての道はバグダッドに通ず

■イスラム文学
 イスラム文明の繁栄は、商工業にとどまらない。たとえば、「千夜一夜物語(アラビアンナイト)」、「アリババと40人の盗賊」、「船乗りシンドバットの冒険」、「アラジンと魔法のランプ」など。ただ、良い子には勧められない物語も多い。子供の頃、こっそり千夜一夜物語を読んでいたのがばれて、母親に口をきいてもらえなかった記憶がある。べつに、エロい話を期待したわけではないのだが。

 じつは、千夜一夜物語はアラブ文学のオリジナルではなく、ペルシャの「千物語」をアラビア語に翻訳したものである。それはさておき、この物語、最初からエロい ・・・

 ペルシャのシャーリヤル王は、王妃の不貞、弟の妃の不貞、偶然出くわした魔神の女の不貞から、すっかり、女性不信に陥っていた。それが祟って、新しい后を迎え、一夜を過ごし、朝には殺害する、そんな不毛な毎日を送っていた。王に仕える大臣は困り果て、それを知った娘のシャーラザッドが一計を案じた。みずからペルシャのシャーリヤル王に嫁ぎ、この悪しき習慣を断ち切ろうとしたのである。

 シャーラザッドは古今東西の書に通じ、聡明で、美しかった。シャーラザッドは、父の反対を押し切って、シャーリヤル王に嫁いだ。そして、妹ドゥニャザッドに別れを告げたいと懇願し、妹を王の元に呼んだ。ことがすんで、3人が眠りについた後、シャーラザッドは妹ドゥニャザッドに合図する。妹は身を起こして言った。

「ねえ、お姉さま、どうか楽しくて、おもしろい、これまでついぞ聞いたことがない、お話をしてください。お話をうかがっておれば、残った夜の、眠れぬ時間も早くたっていきますから」
「ええ、ようございます。喜んでお話ししましょう」
とシャーラザッドは答えた。
「情け深い、おやさしい王さまが許してくださるならば」
「話すがよいぞ」
王は言った。(※3)

 こうして、千夜一夜物語が始まった。毎夜、世にも珍しい話を語り聞かせ、明け方にはクライマックスがきて、そこで、話をうちきる。続きを翌日の夜にもちこすのである。妹ドゥニャザッドがうながし、シャーラザッドが物語るという巧みな演出が功を奏し、シャーリヤル王は毎夜話を聞きたがった。そして最後には、この悪しき習慣を断ち切り、王はシャーラザッドと幸福に暮らしたという。メデタシ、メデタシ。

 始まりからして興味津々だし、個々のエピソードも面白い。ところが、千夜一夜物語はどの翻訳を読むかで苦労する。入手しやすいのは、
・アラビア語から翻訳された東洋文庫「アラビアン・ナイト」
・フランス語から翻訳された岩波書店「千一夜物語 マルドリュス版」
・英語からの翻訳されたちくま文庫「バートン版 千夜一夜物語」
この3書は、大きな書店ならたいてい置いてある。

 もちろん、3書にはそれぞれ特徴がある。東洋文庫は忠実だが面白味に欠け、マルドリュス版はほどほどで、バートン版は必要以上にエロい、という定説がある。試しにバートン版を読んでみると、和訳が上品なのか全然エロくない。とはいえ、挿絵が官能的なので、秋の夜長、めくるめくアラブ文学の世界にひたるには、うってつけかもしれない。

 そして、イスラム文明の中心はやはり、イスラム教。神学はイスラム教そのものだが、法学もイスラム教(コーラン)と直結している、と言っていいだろう。また、イスラム教は偶像崇拝を禁止している。そのため、絵画や彫刻はほとんど発達しなかった。かわりに、書物には細密画(ミニアチュール)とよばれる美しい挿絵が使われた。植物や文字を図案化した模様「アラベスク」も発達し、モスクを始め、イスラム建築に多用された。近くで見ても、遠くから見ても、息をのむほど美しい。

■モンゴル帝国
 西暦800年代に、新しくトゥールーン朝やサーマーン朝が興り、西暦1000年に入ると、トルコ系のセルジューク朝が起こった。セルジューク朝は非常に強力な国家で、キリスト教ヨーロッパの盟主ビザンティン帝国をおびやかし、十字軍の原因にもなった。十字軍は、
「聖地エルサレムをイスラム勢力から奪回する」
という大目標を掲げたものの、イタリア商人の商売ネタにされたり、ヨーロッパ諸侯の領土拡大に利用されたりと、聖軍の私利私欲があらわになった。あげく、最終的には、エルサレム奪還に失敗した。

 それでも、キリスト教世界は、イスラム王朝の攻勢になんとか持ちこたえていた。ところが、13世紀初頭、東方に恐るべき強国が出現する。チンギスハーン率いるモンゴル帝国である。モンゴル帝国は、歴史上最も広大な土地を支配したが、その秘密は騎馬兵にあった。

 モンゴル軍は、すべて騎兵で編成される。軍団の進軍速度は、最も遅いユニットで決まるので、モンゴル軍の進軍速度は騎兵。当然、歩兵が主力の他国の軍を圧倒した。また、戦場での騎兵の機動力(スピード)と打撃力は、歩兵を圧倒する。その上、モンゴル騎兵の矢の数は半端ではなかった。さらに、モンゴル兵は旧日本軍同様、わずかな睡眠と食糧で戦うことができた。つまり、モンゴル軍は、進軍速度だけでなく、戦闘力、持久力においても他を圧倒したのである。

 1219年9月、チンギス ハーン率いる20万の大軍は、中央アジアから西アジアのイスラム諸国を攻略し、現在のブルガリアまで侵攻した。つづく第2回目の西征では、中央アジア、ロシア、ハンガリーまで征服。第3回目の西征では、イランを征服した。イスラム文明とキリスト教文明が、互いに宿命のライバルだと信じ、相争っていたのに、突如現れたモンゴル帝国に丸呑みされたのである。歴史は何が起こるかわからない。

 ところが、チンギスハーンの子孫の間に骨肉の争いが起こり、帝国は衰退していった。1260年9月3日、モンゴル軍がマムルーク朝軍に敗れたアイン ジャルートの戦いがその転換点となった。敗れたモンゴル軍は一守備隊で、戦いも局地戦に過ぎなかったが、ヨーロッパが初めてモンゴル軍に勝利したのである。これで、やっと春が来る ・・・ ところが、ヨーロッパの受難はこれで終わらなかった。

■オスマン帝国
 13世紀末、モンゴル帝室が内紛で明け暮れていた頃、アナトリア高原で、トルコ系のイスラム王朝が興った。オスマン トルコ帝国である。オスマン帝国は、イスラム史上もっとも成功した王朝で、やがて、世界最強国にのしあがる。その栄華は、かつてスルタン(王)が過ごしたトプカプ宮殿で確認できる。現存するこの宮殿には、日本にもない素晴らしい有田焼、世界一大きい真珠、世にも珍しい宝石・財宝がうなっている。

 黒海と地中海をむすぶボスポラス海峡が、西洋と東洋を分かち、西がビザンティン帝国、東がオスマン帝国。これが、「西洋Vs東洋」を形成する。さらに、キリスト教の盟主がビザンティン帝国、イスラム教の盟主がオスマン帝国で、これが「キリスト教Vsイスラム教」を形成する。この2つの合わせ技で、「ビザンティン帝国Vsオスマン帝国」が生まれたのである。この二重の対立は、地底のマグマのように、今まさに放たれようとしていた。オスマン帝国の若きスルタン「メフメット2世」によって。

 メフメット2世は、オスマン帝国史上最も有能なスルタンで、頭脳明晰で大胆不敵、威厳に満ちた風貌で知られていた。政治面では、官僚機構を整備し、強力な専制体制を確立していた。また、軍事面では、スルタン直属の精鋭部隊イェニチェリを強化し、世界最強の軍事力を誇った。イェニチェリとは、キリスト教徒の子弟をイスラム教に改宗させ、幼少より訓練したエリート兵である。とはいえ、敵の帝都コンスタンティノープルは堅牢な城壁に囲まれ、歩兵が突撃してもどうにもならない。

 ハンガリーに、ウルバンという大砲技師がいた。途方もない巨砲を夢見て、ビザンティン帝国に売り込んだが失敗。あろうことか、今度は敵のオスマン帝国に売り込んだのである。ウルバンはメフメット2世の面前で、こう吹いた。
どんな城壁も打ち抜く大砲を作れる
もちろん、同席した重鎮たちは誰も信じなかった、メフメット2世をのぞいて。

 メフメット2世の後ろ盾を得たウルバンは、恐ろしい巨砲をつくりあげる。砲身長は6mもあり、移動するときは、砲身を2つに分けて運び、現地で接合する必要があった。結局、「ウルバンの大砲」はコンスタンティノープルの鉄壁を打ち抜いた。崩れた城壁から、精鋭イェニチェリが突撃し、ビザンティン帝国はオスマン帝国に滅ぼされた。キリスト教ヨーロッパの防衛ラインが突破されたのである。

 1538年、今度は、海賊あがりのオスマン海軍提督バルバロスが、イオニア海で、キリスト教徒の連合艦隊を破った。以後、オスマン海軍は北アフリカの港を拠点として、イタリア、フランス、スペインの港を荒らし回った。財宝を奪い、住民を連れ去り、奴隷にしたのである。こうして、地中海はイスラムの海になった。

■ヨーロッパの逆襲
 陸海で圧倒したオスマン帝国はもはや敵無し、ヨーロッパは風前の灯火だった。そして、オスマン帝国がヨーロッパに最後の一撃を加えようとした瞬間、奇跡が起こった。ヨーロッパが手塩にかけて育てた小型大砲と大型帆船が完成したのである。ヨーロッパの大砲は発射間隔が短く、オスマンの大砲より、たくさんの砲弾を撃つことができた。また、ヨーロッパのガレオン船は、堅牢で、あらゆる風を利用できたので、大洋航海も可能だった。西洋は、帆船と大砲で初めて東洋を出し抜いたのである。

 じつは、ヨーロッパが帆船に精を出したのは、戦いのためではなく、交易のためだった。この頃のヨーロッパは、スパイスの大きな需要があり、原産地のアジアからヨーロッパまでの交易ルートは生命線だった。ところが、ライバルのイスラム商人が、その中継点をおさえていたのである。ヨーロッパは、中東を経由しない新航路の開拓に迫られていた。

 こうして、ヨーロッパ人たちは、海の果てにはボハドル岬があり、それを超えると、白人も黒人に変わり、海は沸騰していると信じられていた時代に、命を省みず、海に乗り出していった。大航海時代が始まったのである。

《つづく》

参考文献:
(※1)アレクサンドロス大王は正確にはマケドニア人だが、古代マケドニア人はギリシャ人の一派。
(※2)「図説アラビアンナイト」 西尾哲夫 河出書房新社
(※3)「バートン版 千夜一夜物語」 大場正史訳 筑摩書房

by R.B

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